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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一五

 魏堂の勝手な一げん/\、靜なる庭の景色に響きて余が耳には物凄く聞え來る、魏堂は宛も那稻の返事せぬさへ嫉ましさの種と爲る如く益々荒く那稻の身を〆附るに、那稻は其の荒々しさに恐れしか、「コレおはなしよ、お前は本統に亂暴だよ、アレサ痛いと云ふのに」と云ひながら、立上る。
 此時までも那稻の胸に挾みありし彼の薔薇の花は、魏堂の手にて〆潰されし物なるか地面に落て幾片いくひらに碎け散りたり、那稻は之を拾はんともせず、最と冷き眼にて魏堂を尻目に掛け「最うお前に用は無い」と云ふ如くいやし見る。余は能く知れり那稻が斯る身振を爲すは必ずしも他を賤むが爲に非ず、唯男を惱殺する其手練てくだの一なるを。魏堂は此手練に忽ち醉ひ今までの立腹は跡も無く消失せて却て我罪を打詫る如き意苦地いくぢなき顏附と爲り、あわただしく那稻の手を取りて引留め、
「コレ、コレ、腹立ては了ないよ、言過たのは己が惡い、許して呉れ、許して呉れ、何もお前を責る氣で言たぢや無い、お前が餘り美し過ぎる者だから、何に附けに附け心配なんだ、お前を是ほど美しく拵へたは本統に造化の過ちだ、イヤ造化では無い、惡魔が幾等か手傳て男を惱殺なやます樣に造ツたのだ、お前に少しでも餘所よそ々々しくせられると、己は本統に氣が違ふ、コレサ是れ、お前の爲に氣が違ツて知らず知らず忌味いやみを云ひ、腹もたてる親切一方の此己を何故其樣に自烈じらすのだ、波漂と云ふ邪魔物が無く成て、お互に今まで秘し隱しに隱して居た愛情を、是から天下晴れて樂まうと云ふ今に成り、仲を違へては仕方が無いよ、ササ、機嫌を直してお呉れ」と夫れは/\余の筆で書く樣な者では無く、蜜よりも猶ほ甘き口前くちまへにて或は詫び或はすかすに[#「賺すに」は底本では「慊すに」]、那稻も心折れしと見え、宛も若き女皇ぢよわうが罪ある臣下を大赦する時の如き笑顏にて、ジツと魏堂の顏を眺め、其の引くがまゝに引かれ來り、最と靜に且ついと愛らしく、魏堂が抱く手の間に凭れ掛りつ、初々うぶ/\しき唇を少し尖らせて上に向け、魏堂の接吻を迎へんとす。アヽ讀者、此の時、余の腹の中、餘りの事に誠とは思はれぬ程なれど、悲しや是れ夢にあらず、全くの實事まことなり、夢ならば先づ魘さるゝ惡夢の心地、彼等が吸ひ交す接吻の鼠鳴ねずみなきは、一せい、一聲、余のはらわたを刺すつるぎなりだ。
 やゝありて那稻は穩かに顏を舉げ、前額ひたひに懸る髮の毛をば婀娜あどけなく掻上ながら、舌たるき口調にて。
「魏堂、魏堂、お前は馬鹿だよ、本統に腹立ツぽくてサ、嫉妬燒やきもちやきでサ、少しの事を疑ツてさ、私の心が未分まだわからないの、何度も私しが云たじや無いか、浮世の義理で波漂の妻に成て居るけれど、心は毎もお前の傍を離れぬと、ヱ魏堂、お前忘れたの、何時かも波漂は縁側で何かの書物を讀で居て、私しとお前は次の間に提琴ヴイオリンの調子を合せながら、ソレ其時私しが何と云つて?」
「世界中に魏堂、お前ほど可愛い男は無いと云たサ。」
「ソレ御覽な、其言葉を覺えて居れば、何も其上に不足を云ふ事は無いじや無いか」茲に到りて魏堂は柔らかなること綿の如く、
「夫は爾だ、其時も今もお前の心さへ變ら無きや、何も不足を云ふ事は無い。」
「何で心が變る者か、其時私しは波漂が少しも疑はないから構はないが、彼れが若し疑ツて二人の間へ目を附ける樣に成れば、私しは波漂に毒を呑せるとまで云たじや無いか、心の變る程ならば是ほどの深いたくみまで話しはせぬ。」
「己だツて爾サ、其時はナニお前に手數てすうを掛けぬ、己がひとり密乎こつそりと波漂を片附て仕舞ふと云たじや無いか。」
「斯まで明し合た間で、何も今更ら疑ひ合ふ事は有るまい。」
「夫は爾だ、本統に爾だよ、だけれどネ、嫉妬の無いのは眞の愛情では無いと云ふ事さ、己は最う少しの事にも氣を廻すよ、お前が地を踏めば、足へ障る其土がにくい、お前が扇を使へば頬に障る其風が嫉ましい、是でこそ實が有ると云ふ者サ、波漂などは少しも嫉妬が無つたじや無いか、彼奴はお前よりも自分の身を大切に思つて居た、お前の顏を見て居るより本を讀むのを面白がり、夫も好けれど時に寄るとお前と己を家に殘し、何時間も散歩に出て歸ら無い事も有た、己などは爾で無い、お前ほど大事な者は無いと思つて居るから此後誰でも己に向ひ、お前の愛を爭ふ樣な奴が有れば其奴そいつの身體を鞘の樣に、己の刀を根まで刺通さねば勘辨せぬ」斯く云ふ中にも彼れ其の嫉妬深き本性を現して、又も眼を光らすに那稻は彼れの肩に手を置き「オヤ又腹を立てるのかヱ。」
「爾じや無いよ、ナニお前の心さへ變ら無きや己は何時までもいひなりに成て居るよ、ドレ斯云ふ中にもこの小徑はお前の身體には少ししめりツ氣が深過ぎ、夜露に打れては能く無いから、サア内に入らうじや無いか。」
 那稻は此言葉に從ひて又も魏堂と手を組合せ、靜に茲を立上り、夫婦よりも猶親しげに持ちつ持たれつ後も見ず、少しも心に咎むる所無き人の如く、悠々と内に入去んとす、余は瞬溌またゝきもせず二人の立去る樣を見詰め、頓てしげりより首を出だし二人の白き着物の影、彼方の木影に遮られ全く見えずなるまで其背姿うしろすがたを見送りたり、讀者讀者、彼等は全く見えずなれり、今夜は最早や此所へ又と出來いできたる事なからん、余は是より如何にすべきや讀者。


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