白髮鬼
黒岩涙香
六
爾は云へ既に出口の戸の鎖されたるを如何にして逃る可き、何う考へても此の黒暗々の裏に餓死る外は無し、余は之を思ひて身も世も有られず、石段の下に立たる儘ヱヽ悔して、情無い誰か來て助けて呉れと我知らず泣聲立て、呼べど叫べど答ふるは唯だ墓窖の壁に響く我聲の反響のみ、物凄き事云ふばかり無し、駄目々々逃れやうと思ふだけ駄目、到底逃れぬと極りたる此場合に男らしく諦めて死ぬ外あらんやと、我心に意見すれども、死る氣には何うしても成られず、アヽ我が物心覺えてより人に塵一筋の迷惑も掛し事なく弱きを助け貧きを恤みて及ぶ丈の功徳をも施せしに、何の酬で斯く無慘なる死樣をする事ぞ、情け無いとも口惜とも云樣なく心の中は逆捲く浪の如く騷ぎ立ち、高く打つ動悸の音、自ら我が耳に聞ゆ。外に如何とも詮方の無き場合なれば唯だ火の燃る如き息を吹ながら幾時か其所に立すくむのみなりしに、心ウツとりと遠くなり、悲さも、悲むを知ず、悔さも悔しと思はず、殆ど此儘に又絶入るかと思はるゝ迄に至りしが、此時は心全く疲れ果てゝ唯だ皮膚の神經のみ働ける時なる可し、何事も總て夢の如く其中に、身體の孰れにか宛も氷を當られたる如き最冷痛き所あるを覺ゆ、夫も初は唯だひややかに思ふ丈なりしが次第々々に募り來り殆ど千切るばかりの痛みと爲りたれば、ふと心を附くるに、個は是れ足の裏にぞある、夏とても露出にせし事無き足なるに、今は何百何千年と日に觸れし事の無き氷の如き土を踏み長く立居たる爲、次第に冷來りし者と知らる。
扨は履きたる靴を脱がせ、跣足にして棺の中に入られし者なる可し、爾すれば纒居し着物まで亡者の着る白き帷子と着替たる者にやと斯る怪みの自から浮み來たれば、冷たき兩足を交る交る踏鳴して温めながら身體中を探り見るに、否々被物は死際に纒ひ居し儘にして、唯だコートだけ脱ぎたる者なり、定めし傳染病毒の恐しさに靴と外被を脱しのみにて其外の手當を盡す事が能はず※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々に棺に入れ此の墓窖へ送り入れたる者ならん。斯く思ひて更に胸より上を探るに、首に掛りてぶら下る細き鎖の如き者あり、是は何ぞと怪みて手に取るにアヽ合點行きたり、余が絶えず首に掛て守本尊の如くに持ち居たる冩眞入なり、中には余と妻那稻、娘星子と三人の冩眞あり、余は之を手に取りて宛も妻子に廻り逢し心地にて暫し我が恐ろしき境遇を打忘れ「オヽ那稻、那稻」と云ひ其冩眞入に接吻を施したり。
那稻/\、他は今如何にせるや、余が墓窖にて生返りしとも知らずして、定めし歎き悲める事なる可し、可愛星子を涙ながらに抱上て、余の遺物と思ひ星子が頑是も無く阿父は何故歸らぬ、何所へ行たと泣きながら尋ぬるを何と云ひて賺すべきや、アヽ親友の魏堂とても定めし那稻を慰め兼ね顏を傍向けて泣けるならん、彼等に余が斯く生返りし墓場の底に徘徊へるを知しめば、彼等如何ほどか驚ろきて奔り來らん、余若し何とかして茲を拔出で彼の許に歸り行かば彼等右より左より余に抱き附き嬉れし涙に堪へ得ずして夢かとばかり歡ぶならん、波漂々々と妻は第一に余の首に※[#「夕/寅」、第4水準2-5-29]はりて如何ほど熱く又如何ほどに柔らかなる唇を余の頬に當るならん。斯く思ひて余は暫しがほど茫然とし、想像の深霧界に迷ひ居たるが、忽ちにして心附けば悲しや讀者よ、此歡びは余の再び見る能はざる所なり、斯くまでの歡びを目の前に控へながら、余は邪慳なる鐵の戸に鎖込められ此儘に死ねばならず、妻の顏、娘の顏、魏堂の顏總て一昔の夢に同じく、亦と見る事が出來ざるに極りたり。
余は是を考へて全くは發狂せしならん、先ほどまでは千切るほどに覺えたる足の裏の冷たさも今は覺えず、「忌々しい」と打叫びて神を罵り天地を罵り、當度も無く暗の中を走り初め、狂ひに狂ひて留まらず、壁に頭を打附けて死なば死ね、蹶き倒れて怪我すれば怪我をせよ、又と世に出る見込無き身が、何をか恐れ何をか厭はんや右に左に走り廻ること幾分時に及ぶうち、余は忽ちに方角を失ひたり、彼の戸口は孰れの方なりしぞ、生返りし棺の場所は何の邊なりしぞ、我身は今孰れの方に向へるぞ、探れども/\手に當る物も無し、茲に至りて余は初めて、何よりも彼によりも「暗」と云へる事の一番恐しきを悟りたり。
今までは逃出す所は無きやと夫を求むるに一心にて、暗さは心に掛らざりしも既に逃出す事は叶はずと極りては、黒白も分かぬ暗さほど恐しき者は無し、余が母、余の父、余の先祖、幾人の死骸の外に少しも恐しき物はなき所とは分りて有れど、夫にしても燈明が欲しゝ、何うせ再び死る迄も四邊を一目眺めたし、光明の有る所にて死たし、此暗き所に死しては、天國に行く道も分らず、地獄に落入る外無からんと、何やら此樣な氣もせられ、氣味惡きこと云はん方なし。讀者よ凡人間の世の中に余が此時程の苦しみが又と有らうか。