四
讀者よ、余は全く惡疫に感染したり。今と爲りては
復何をか云はん、
死るも運、
生るも運、歎き悲むだけ無益なれど、余が
死際の一つの願ひは、妻那稻と娘星子に此病を傳染させ度く無し。余が傳染せしと聞くだけにて妻は如何ほどか悲しまん、悲さに我を忘れ馳せ來りて余に抱附き、死なば一緒と命掛に看病する事ともならば、余が病は必ず妻の病と爲る、アヽ
添遂てより四年にして早や若後家の
墓無き生涯を送らせるさへ
不便なるに、
況てや余と共に此世を去つて波漂の一
分が立つ可きや、妻が來りて介抱する親切あらば余も其儘親切を受ずして獨り死ぬ男氣無くて叶はず、何うぞ妻には余が死するまで、此傳染を知らさずに濟せ度し、是れ余が
唯一つの願ひなれば、余は無理に何氣なき
體を示し、彼れ宣教師に向ひ、早く菓物賣る童の許へ行かれよと云ひ、猶ほ妻には内聞にせん事を頼み入るに、宣教師は余の意を察し「ナニ貴方ほど氣の確な方は決して死る氣遣ひは有ません、激しい病は直るのも亦早いから無益に令夫人を驚かすには及びますまい」斯く云て何やらん
呑藥を余に與へ、一時間を經ぬうちに歸り來ると云ひて宣教師は立去りたり。
去れど余は内心にて到底助る見込無きを知れり。目も耳も鮮かなる平生に似ず、見る者は霞に
隔られし如く曇り見え、
我聲は他人の聲の如く遠く聞え、他人の聲は地獄の底から來るが如くに聞ゆ。斯る中にも猶ほ妻の身をのみ氣遣ひて、只管に聲を上げ、余が死すとも其死骸を決して家に持行くな、決して妻の目に觸れしめなト、叫び續けて打叫ぶ。何と讀者よ、余は親切此上無き所天ならずや、
頓て幾時をか經て彼の宣教師は歸り來たり、何うやら菓物賣る童が既に
縡切と爲り居たりと云ふ如き事を余の耳に
細語きたれど、是が此世の聲の聞納めなり。其後は總て知らず、唯だ時々は那稻の顏、星子の顏、魏堂の顏など稻妻の如く目に映るを覺えたり、是れが死際の妄想ならん。
讀者よ、世に死るほど辛き事やある、罪を犯して最早や此世に生て
居られぬと極りたる罪人すら、猶ほ死るを免がれんとて樣々の工夫をするに、余は年廿
有七歳、家は富み妻子朋友に愛せられ、世間よりは敬はれ何一つの不足の無き身、浮世の面白さ
眞盛とも云ふ可きに、
出拔の疫病に引立られて地獄の底へ引込るゝ余が悔さを察せられよ、エヽ今死で成る者かと、我が力の續く丈は奮發したれど、奮發盡きて段々と消て行き、己れと叫ぶ聲も出ず、拳を握れど握られず、
其中に何も彼も知らずなり、深く深く、底へ底へと沈み込む氣持のせしも少しの間、後は唯だ漠たる無、無、無、無の字さへ無き世界となりぬ。是が若し死と云ふ者ならば、讀者よ余は確に死にたる者なり。千八百八十四年八月の十五日、ネープル府の酒店に
於て、余伯爵波漂は哀れ廿七歳を一
期として死したるなり。
死か、死か、知らず、知らず、總て知らず、知ると云ふ事既に無ければ、知らぬと云ふ事も亦知らず。幾時ぞ、
幾許の間ぞ、無々たる無、
空々たる空の中に、唯だ一
物、何やらん有る如く覺え
初しは、死したる余が生返りたる時なるべし。
初は
身體無くして唯だ心地のみ有る如き心地したり、次には物なくして重さのみ有る樣に思はれり、重きは何ぞ、心地は誰の心地ぞ、我れか他人か、考へることも能はず、考へぬ事も能はず、是より又暫くして、心地は少しづつ明くなり、重き物は又益々重くなり、漸く我が身體のうち
咽喉だけは有る事を覺えたり、心地も咽喉に在り重さも咽喉に在り、何物か余の息を
遏めんとて余の咽喉を
縊るに似たり。
放せ放せ、余の咽喉を放して呉れ、誰だ、
己の手を取り、拂ひ
退けて呉れ、斯る事を呟くうち、
譬へば「○○○○」斯くの如き微々たる分子、四方八方より集り來り、
徐り/\と位置を得て余の「心」を作り
復せり。
莟の花の初てパツト
發きたる心地も斯くや。
扨はと心附きたれど猶ほ委細の事は分らず、唯だ
※[#「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-1-10]に、唯だ靜なる所に、
存する一物は是れ余の身體、縱か横か、上は
孰れ、下は孰れ、是も考へるに從ひて、背中に固き物ある
柄は
仰向に
寐し儘と分り、開きても目の見えぬからは
黒暗々の
裡と分りたり。
終に、終に余は全く目覺めたり、
嗚呼是れ茲は
何處、何等の濃深なる暗闇ぞ、何等の稀薄なる空氣ぞ、
呼吸せんにも充分の呼吸を許さず、扨は咽喉の重く苦しく思ひたるも呼吸の自在に出來ざりし爲なるか、思ふに從ひ、傳染病の事も思ひ出せり。宣教師の事も酒店の事も、餘りに
明過ぎて恐ろしきほど
有有と
思出せり。去るにても誰も余の枕を奪ひたるや、何時の間に
夜に
入りたるや射る矢の如く胸に一筋の恐ろしき突入りて、余は初めて身を動かし、先ず兩の手を探り見るに、手には猶ほ
温暖みあり、胸を探れば張り裂くばかりに動悸高し、益々苦しきは
息遣のみ。
讀者よ。斯く分析して書記せば味も趣きも無き事なれども以上に記したる所は唯だ一束と爲り、殆ど前後の
差別も無く、余の身に
簇り來たる所なれば、此時の騷がしき余の心持は、唯だ察するを得て記すを得ず。誰が空氣を妨げて余の口に
入しめぬや、空氣、空氣、之無くば
蒸死ん、如何にしても空氣を
握み取りて
食はずば余は一刻も存する能はず、
揉掻ながら手を
差延て余は「キヤツ」と叫びたり。
手に觸しは痛き堅板なり、余の四方は堅き板にて圍みし者なり、斯く思ふより猶ほ早く余は何も彼も覺り盡せり。悟りても悟りたりと我身に知せるさえ恐しき無慘な誠を覺りしなり。讀者よ余は埋められたり、生ながら死人として―。四方より圍める板は是れ棺なり讀者、讀者、助けて呉れ!
(小史氏曰く波漂が生返りたる記事は、鐵假面の帶里谷が生返りたる記事と甚だ相似たる所あり、是れも事實、彼れも事實、同じからざるを得ず、唯だ後に至りて大に異るの本となる故、原書の通りに譯出す、趣向重複と速斷し給ふ勿)