凾中の密書
三津木春影
九 艶書を握つた間諜………脅嚇して密書と交換
机へ飛びつけた夫人は、その葢を押し披けて、一封の長い青味掛つた封筒を取出した。
「密書はこれでございます、先生、私は盟つて申上げますが、内容は少しも見ませんでございました。」
「偖てどうして戻したものだらう。」と保村君は獨語のやうに呟いたが「早く、早く、何とかしなけりやなりません! 書類凾はどこにありますか。」
「夫の寢室にございます。」
「そりや願ふてもない幸福ぢや! 夫人、早くそれをばこゝへ御持ち下さい!」
一分間後には夫人は手に一個の赤色の平な凾を持つて現はれた
「前にはどうして御開きになりました。合鍵でも御持ちですな。さうでせう、それに違ひない。さア早く御明けなさい!」
夫人は胸の懷中から一個の小さき鍵を取出して凾を明けた。中には書類が一パイ詰まつてゐる。保村君は青封筒の密書を凾の奧深く他の文書と文書との間に挿し入れる。夫人が葢を閉ぢる、錠をするそして寢室へ持つて行つて置いて來る。
「先づかうしておけば、御主人の御歸宅を御待ち受けするのみですまだ十分間の猶豫があります。そこで夫人、私は尚ほこれから御主人の前で貴女を庇ふて差上げるつもりですが、その代り貴女も此十分間を利用して、貴女の今度の驚くべき御仕事の眞意を一つ卒直に御打明け下さいませぬか、如何です。」
と保村君は椅子を進めて要求する。
「えゝ/\、もう何もかもお話致して了ひますわ。保村先生、私は自分の腕一本ぐらゐは切られましても、夫に悲哀といふものを與へたくないのでございますよ! 全く倫敦中を尋ねましても私くらゐの夫想ひはございませぬ。けれども今度私が致しました――いえ。致さねばならぬやうになつた行爲を聞きましたらば、夫は決して私を宥してはくれませんでございませう。何故ならば、夫の名譽上。他人の不心得を忘れたり宥すわけには參らぬのでございますから、ねえ、先生、どう致したらば宜しうございませう! 私の幸福も、夫の幸福も、いえ私共の眞の生活が目前危急に瀕して居るのでございますもの!」
「夫人、お早く、時間が切迫します!」
「今度の基と申しますれば、全くは私の書きました僅た一本の手紙から起きたことなのでございます――まだ寺根との結婚前、無分別な處女の頃、ツイ或者を想ひまして、情に驅られて書きました手紙でございますが、私の考へでは格別自分の耻となりまするやうなひどいことは書かなかつたつもりでございますけれども、若しも夫の眼に觸れましたならば、夫は必ず罪惡と思ふに相違ございません、そして私への信用はもう永久に失くなつて了ふに定まつて居りまする。けれどもゝう幾年か昔のことで厶いまするし、其後こゝへ嫁ぐやうになりまして何もかも忘れて了つて居りましたところ、此頃になりまして意外にも江藤と申す男が訪ねて參り、其手紙が其男の手に入つて殘つて居ることを初めて承知いたしました。江藤は手紙をば寺根の前へ突き出すと脅迫いたしますゆゑ、私は一生懸命嘆願いたしましたところ、それでは手紙を返す代り、夫の書類凾の中に青封筒のこれ/\の書簡がある筈ゆゑ、それをば密と取り出して渡せとかう申すのでございます。密書のあることは役所の中に日頃入り込ませてある間諜から探り知つたのださうで、たとへそれが紛失致しましても夫には何の責任もないと斷言致すのでございます。保村先生、まア假りに其時の私の位置にお成り遊ばして御考へ下さいまし! 私どう致したらよかつたで厶いませう。」
「私ならば御主人に赤心を打明けて了ふでせう。」
「私にはとても/\出來ませんでした! 古い其樣な手紙を持出されたら身の破滅、さりとて如何に政治外交上のことには暗い女の身で厶いましても、夫の大切にする書類を竊み出すといふのは空恐しく、それはもう迷ひ迷ひ悶えに悶えたので厶いますけれども、夫の愛と信用とを繋ぐ上には後の手段をとるよりほか仕方がないと決心致しまして、先生、私はとう/\實行致して了ひました! 私が凾の鍵の形を蝋で取つてやりますと、江藤が直ぐ合鍵を製つて參りました。で、凾をば明けて密書を取出し、月曜日の夜神戸街へ自分から持つて參つたので厶います。」
「そこで、どうなすつた。」
「かねて打合せて置きました通り、扉をホト/\と叩きますと、江藤が自身で明けてくれまして、それから彼に隨いて其居間に參りましたが、夜分男なぞと一所に居るのが怖さに、私、廣間の扉はわざと閉めずに參りました。江藤の家へ入ります時に、一人の夫人が往來に徘徊ふて居るのを見ましたが格別氣にも留めませんでした。で居間へ入りまして約束のことは苦もなく運びました。彼は机の抽出から私の古い手紙を出して私に戻してくれましたので、私も密書を手渡し致す、其時でございます、玄關の方に怪しい物音が聞え、ついで廊下を進み來る跫音が聞え初めました、すると江藤は急いで床の絨氈を剥くり、其下に搆へてあつた隱し穴に密書を隱して何喰はぬ顏をして居りました。ところが、それから後で起つた出來事、まアまるで恐しい夢のやうでございますよ。一つの淺黒い狂人のやうな顏が幻影のやうに眼に映りましたの、そして佛蘭西語で叫ぶ女の聲が聞えました。「あゝ、見張つてゐた甲斐があつた、とう/\情婦とゐるところを突きとめた!」と斯う申すのでございますよ、間もなく其女と激しい取組合が始まりました。何でも江藤が椅子の片脚を持つてそれを振上げる光景や、女の手に何時の間にか短劔が閃いてゐた光景なぞが眼に入りましたけれど、私はもう餘りの恐しさにそのまゝ飛び出して逃げ歸りましたが、翌朝新聞で見ますると、江藤があのやうなわけになつていると申すことではございませんか。兎も角も逃げ歸つた其晩は、心配の種の手紙が我手に戻りました嬉しさに、大變幸福なやうな氣が致しまして、後にいかなる騷動が起るかも知らず安眠致したのでございます。そのやうな國家のために大切な密書を、一片の自分の古手紙と換へて了つたと氣付いたのは翌朝のことでございますよ密書の紛失のために夫が煩悶に暮れて居りますのを見ますと、もう身も世もあられぬ思ひが致しまして、これは寧そ事實を打明けて了はふかと餘程まで思ひ込みましたれどもさう致せば自然古い手紙のことも白状せねばならず、決心がまた鈍り、ツイ先生を御訪ね致したので厶います。それは自分の致した所爲がどのくらゐ惡いことであつたか、それを餘所ながら御訊ね致したいためで厶いました。すると先生から容易ならぬお話を承はりまして、それから以後はもう密書の取り戻し策にばかり苦心致すやうになりました。密書はあの狂人の婦人が室へ浸入致すすぐ前に江藤が床の穴に隱したのゆゑ、いまだに其處に在るには違ひないと思ひました。ほんとに考へて見ますれば、その婦人が來たお蔭に隱し穴が私に知れましたので、さも厶いませんでしたらば永久に知れないところで厶いました。併し巡査の見張の嚴しいあの室へどうして入り込んだものかと、二日の間と申すものは絶えずあの家を注意しましたけれども、扉の明いてゐた例が厶いませぬゆゑ、昨晩は思ひ切つてあのやうな大膽な計畫を致したので厶います。私がどうして密書を手に入れたかはもう御存知の事と存じます。さて密書を首尾よく取り戻したことは戻しましたけれど、自分の罪を白状せずしてどうしてそれを夫の手に返しましたものか、其手段でまた吐胸を突きましたゆゑ。寧ろ破り捨てゝ了はうかとさへ思ふて居つたので厶います………あゝ、夫の跫音が階段に聞えます!」
言ふ間もなく寺根秘書官は啻ならぬ顏色をして、室内に躍り込んで來た。