五 驚く可き
巴里電報………殺人犯人の正體
其日終日と、次の日と、また次の日と、保村大探偵は不機嫌な顏をして
むツつりと物も言はずに過ごした。急いで
驅け出るかと思ふと、また急いで驅け込んで來る、
絶時なしに煙草をふかす、ヴイオリンをガチヤ/\と掻き鳴らす、さうかと思ふとぢツと思案に暮れる、暮れてゐるかと思ふと、時ならぬ時分だのにサンドウヰツチなぞをムシヤ/\と
平らげる、そして予が時々する質問も上の空に聞き流してロクに返事もせぬ。
的きり先生あてことが外れてゐるのだ
穿鑿がうまく
行かぬのだらう。かういふ譯で保村君からは何一つ聞かれなかつたが、予は新聞で事件の
其後の調査を知つた、被害者江藤律裁の書生三谷は嫌疑を受けて其筋に拘引されたが、間もなく
釋されたさうだ、裁判官は
謀殺犯と斷定したさうだが、さて犯人は依然として擧がらぬ。兇行の動機さへ解らぬ。被害者の
室には
貴重品が滿ちてゐたけれども、何一つ紛失した物はない。書類、手紙の如きもいぢくられた形跡がない。かういふ物を裁判官が調べるに從つて、江藤が
※[#「執/れんが」、U+24360、55-3]心なる外交問題の研究者であることが解つた。
倦まざる
饒舌家[#ルビの「げうぜつか」はママ]で、達者な語學者で、疲れざる手紙書きであることが解つた。諸國の大政治家連とは懇意の間柄であつたらしい。併し彼の
抽出を滿たした書類の中にはこれぞといふ直接の手懸になるべき物は一もなかつた。若しそれ婦人との交際に至つては滅茶苦茶に多くあつたやうだけれども、多くは
表面だけで、親友といふものは少く
况して情婦なぞは一人もなかつた樣子である。彼の習慣は規則的にして、その
行爲は
圓滿であつた。彼の兇變は全然不可思議である※
[#判読不能、56-1]不可思議のまゝに解決されずに終るらしい。
書生三谷を拘引したなぞは、たま/\警察が民衆から無爲の
譏りを受けざらんための一手段である。拘引したところで
何の役にも立ちはせぬ。彼は
其夜は
半部街の友人の
家に遊びに行つてゐた。彼が兇行の現塲に居合せなかつたといふ證據は歴然たるものである。友人の
家を辭した時間を考へると、優に犯罪の發見された時間の以前に
主家に歸つてゐて
好い筈であるが、彼の
辯明によれば、夜景色の麗しさに浮かれて、
可成の間には徒歩で歸つたさうである。そ※※
[#判読不能、56-9]めに思はず道草を喰つて歸り着いたのが
夜半の十二時、するとあの意外なる兇變に
眞から仰天しました、その
僞りならぬ驚きの表情は警官も認めたさうである。日頃
主從の間は親密であつた。三谷の
室を
檢めると、主人の持物がいろ/\と出て來たが、
何れも生前主人から貰つたのださうで、それは女中のお倫も間違ひないと證言した此書生はもう三年間主人に
事へてゐれど、江藤が一度も彼を大陸旅行に同伴しなかつたことは注意すべき事實である。時によると三ヶ月の長い間も
巴里に滯在する、が、三谷は依然神戸街の留守居番に置かれてゐたとのこと。また女中のお倫婆さんに至つては、兇行の
夜は
家にゐたけれども何の物音も聞かなんださうだ。來客があつたとすれば、主人自身で案内したに相違ない。
斯の如くにして、少くも予が新聞紙にて知る限りでは、事件の眞相は
三朝に
渉つて相變らず
昏屯たるものであつた。保村君は
或は
より以上知るならんも
秘して語らず、たゞ
警視廳の夏秋警部が本事件に關して彼を味方に引き入れたさうであるから、先生
拔目なく其筋とは
接觸を保つてはゐるらしい。然るに第四日目の朝に至り、全疑問を解決するに足るべき次の如き
巴里特派員發の電報が某新聞紙上に現はれた。――
去る月曜日の夜、倫敦神戸街にて無慘の兇刄に斃れたる江藤律裁氏の[#「江藤律裁氏の」は底本では「江藤律哉氏の」]悲むべき運命の周圍には、爾來暗雲密蒸して霽れざりしが、今端なくもその秘密に一道の光明を與ふべき一發見が、巴里市の警察によりて遂げられたり、讀者の記憶する如く被害者江藤氏はその自室に於て短劔にて刺されて即死し居り、氏の書生三谷なる者嫌疑者として警察に擧げられしも、兇行現塲に居合さゞりし證跡《》明白となりて釋《》されたり。こゝに昨日《》の事なりき、巴里市阿須戸街《》の小《》やかなる別莊に住《》する諸那《》堀江《》と名乘る夫人發狂したりとて召使の者より其筋に届け出《》でたる事件あり。警察醫《》の診斷によれば眞《》に危險にして慢性の發狂の由《》、尚ほ取調《》の結果、諸那堀江子は此頃倫敦に出向き去る火曜日に歸宅せしこと分明《》したるがそれと共に彼女が江藤殺しの犯罪と大關係を有する事發見せられたり。彼女は「諸那《》律雄《》」と裏書《》せる一葉の紳士の寫眞を有し居れるが、苟《》ぞ知らん、こは江藤律裁其人の[#「江藤律裁其人の」は底本では「江藤律哉其人の」]肖像ならんとは。即ち彼は何等かの理由《》ありて、巴里と倫敦にて姓名の使ひ分けをなし居たるものと思はる。元來堀江子は非常に感情的の女にて、從來も屡々《》狂氣と思はるゝまでに烈《》しき嫉妬に襲はれしことありとぞ按《》ずるに彼女は偶々《》例の發作に際して江藤氏を刺したるものには非《》るか。兇行のありし月曜日の夜《》の倫敦に於ける彼女の行動は未《》だ詳細に追及するを得ざれども翌火曜日の朝、同市佐黒《》停車塲に彼女と思はるゝ一婦人の出現を見たり。その容貌の深刻なりし事その動作の暴《》かなりし事などにて異樣に眼《》を欹《》しめられし驛員の彼女に關する説明を聞くに、正に堀江子の容貌風采と符節《》を合すが如し、兎《》にも角《》にも彼女が下手人ならんとの推測《》は大《》なる誤謬《》[#ルビの「ごびゆう」は底本では「ごびよう」]にてはなかるべし。目下のところ彼女は過去の行動につき、一も筋路《》の立ちたる説明をなし能《》はざるのみならず醫師の言《》によれば正氣に立ち復《》ることは先《》づ永久に難しかるべしとの事なり。尚ほ聞く所によれば、堀江子に似通へる一婦人、月曜日の夜《》數時間神戸街の江藤氏宅附近を徘徊し居《》るを見掛けしものありとぞ。
此記事を予が
聲高《》に讀んで聞かせる間に、保村君は朝飯を喰べ終る。
「此記事について君の意見はどうだね、保村君。」
友は
卓子《》を離れて室内をあちこちに歩きながら
「須賀原君、君も隨分
焦《》れツたかつたらうなア。併し
私《》が過去三日間に君に一
言《》も事件について洩らさなかつたのは、實際洩らすべき事柄がなかつたのぢや。現在に於てもぢや、この巴里電報すら餘り參考にならうとは思はれぬよ。」
「けれども、あの男の横死に關してはこれが一番新しい
報導《》ではないかね。」
「あの男の横死なぞはごく
些細《》な事件さ――我々の
眞《》に目指してゐる仕事なぞに比較したら、ほんの
序《》での事件に過ぎぬのさ。我々の
眞目的《》は例の密書を取り戻して歐洲の大渦亂を未然に防止せんとするにあるのぢやからねえ。過去三日の間にたゞ一つの緊急なる事が起つた………それか、それは何事も
[#「何事も」は底本では「仕事も」]起らなんだといふ事さ、はヽヽ! いや併し實際ぢやよ。
私《》は殆ど一時間毎に政府から報告を得て居つたが、歐洲の
何處《》にも何等の騷動が起らなかつたのは事實だ。そこで問題が起きるのぢや。若し密書が飛んだとしたら――いや、決して飛ぶ筈はないな――飛ぶ筈はない、そしたら果して
何處《》に
停滯《》まつて居るだらう。何者が握つて居るだらう。
何故《》發表されぬのだらう。ねえ、須賀原君、
夫等《》の疑問がまるで
鐵槌《》の如く私の頭を
撲《》つよ、彼江藤律裁が
[#「江藤律裁が」は底本では「江藤律哉が」]、密書紛失の
夜《》に丁度殺されたといふのは、ニクやほんとに暗合であらうかね、どうかねえ。それとも密書は彼の手に届いたらうか。届いたとすれば何故彼の
手凾《》の中に入つて居らぬだらう。その
狂人《》の堀江子といふ細君が密書を持ち出したらうか。さうとすれば、巴里の彼女の宅にそれが在るだらうか。さア、そこまで私が搜索の手を伸ばすには是非とも
佛國《》警察の力を
籍《》りねばならぬのだが、その
曉《》には密書事件が疑はれるのを
奈何《》せんやぢや。かうなつて見ると、法律といふものは我々にとつて罪惡よりも危險なのだから妙ではないか。各人の手が我々に反對して
居《》る。
併《》もかゝる危急の際の利害得失は莫大なものぢや。萬一私が此事件を
美事《》に解決し
完《》せたならば、その
偉勳《》やまさに
榮冠《》に値すべしぢやさう/\、こゝに戰地からの最近の報導があつたつけ………。」
と先程受取つた一封の手紙を讀むと
「ほオ、夏秋警部が何か面白い新事實を見付けたと見ゆる。須賀原君、さア帽子を
冠《》れ。一
所《》に神戸街の犯罪地へ行つて見やう。」