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 凾中の密書
 三津木春影
 

    三 奇怪なる殺人事件………目指す間諜の横死

 目醒ましい二人の珍客が辭し去ると、保村君は沈默おしだまつたまゝ卷煙草をけ、しばらくは沈思溟想ちんしめいさうふけり出した。其間今朝こんてうの新聞紙をひろげて、昨夜倫敦に起つた一つの驚くべき大事件の記事に夢中になつてゐた。と、保村君は突然だしぬけに、「さうだ!」と叫んで跳ね上り、パイプを爐棚ろだなの上に置き
「さうだ、此途このみちをとるのが一番手取り早いぞ。隨分難問題ではあるが絶望ぢやない。彼奴等きやつらうち何奴どいつが犯人か、兎に角まだ書簡は他人の手には渡つてゐまい。つまるところ彼奴等は金錢かねで吊ればいゝのだ、ところでおれは莫大もない金主きんしゆ背負しよつてるから安心ぢや。競賣せりうりに出るなら買ひ占めるばかりぢや。彼奴きやつ何方どつちがいゝか天秤にかけて居る最中さいちうだらう。まづさういふ大膽な勝負をしさうな奴は今倫敦に三人居るぞ。――尾蛭おひる捨三すてざう朗田らうだ整路せいろ江藤えとう律裁りつさい、此三人ぢや。これを一人々々さぐつて見やう。」
 予は新聞紙を横目に見ながら
「いま最後に言つた江藤律裁といふのは神戸街かうどまちすんでゐる男かね。」
「さうだよ。」
「ぢや、其男だけはもう見る事が出來ない。」
「なぜだね、君。」
昨夜ゆふべ自分のうちで殺されたから。」
 今迄幾多の探偵を共にして來たうちには、保村君は時々此方こつち魂消たまげるほど仰天する事があつた、魂消げるけれども、またそんなに迄吃驚びつくりさせたと思ふと痛快でもあるが、今も今とてさういつた驚き方をして予の方を見詰めたが、矢庭やにはに予の手から新聞紙をとつた。それには實に次の如き記事が掲載されてあつたのである――。

   奇怪なる殺人事件
昨夜神戸街十六番地に於いて不思議なる大犯罪行はれたり。この街は河と西ウエスト寺院との間によこたはり、殆ど國會議事堂の高塔かうたふ陰影かげうづくまる十八世紀時代の古風なる淋しき町なるが、今回の犯罪地たる十六番地は狹苦しけれど比較的小綺麗なるいへにて數年以前より江藤律裁氏が住居すまゐし居たり。江藤氏はその人物の愛嬌あると、素人聲樂家としての大家たいかなるとよりして交際社會に盛名せいめいある紳士にして[#「紳士にして」は底本では「紳土にして」]、年齡三十四才、いまだ夫人無く、たゞおりんといへる年寄の女中と三谷みたにといへる書生とを召使へるのみ。お倫は毎夜まいや早く勤めを濟まし一番頂上うへの部屋に退しりぞきてぬるを常とし、書生三谷は昨夜は半部町はんべまちの友人をたづぬるとて外出して居たり。兎に角十時以降江藤氏は一人眼醒めて屋内にありしが、其間に如何いかなる事の起りしかは未だつまびらかならざれども、あたかも十二時十五分前の事なりき、所轄署の春田はるだ警部は管内見廻りの際神戸街を通り掛りしに、偶々たま/\十六番舘のの少しく明きるを認めしかば、不用心なりとて扉を叩きて注意せしも答ふる者なし。よりて表のより洩るゝ燈火あかりを頼りに廊下に進みり、再び叩きたれども依然げき[#「門<貝」、第4水準2-91-57]せきたり。こゝに於てか警部は少しく不審をいだき扉を押し開きて闖入し見たるに、室内は大混亂の状を呈し居り、調度器具は皆一方に拂ひ退けられ、一脚の椅子は中央にさかしま轉覆てんぷくし居りしが、驚くべきは此椅子のかたはらに尚ほその四本の脚の一本を固く握りしまゝにて、主人江藤氏のたふれ居たることなり。死因は胸部を心臟に達するまで深く刺されて即死せしものゝ如く、兇器は變曲へんきよくしたる印度製いんどせい短劔たんけんにしてこは一方の壁を飾れる東洋武器の戰勝紀念標中へうちうより[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎたる物と思はる。兇行の原因に至りては、室内の貴重品何一つ紛失したるものなきところよりすゐするに強盜の目的にてはあるまじく、とにかく被害者は前述の如く交際社會の名士なれば、今回の殘忍不可思議なる兇變は、忽ち幾多のいたましき好奇心と痛切なる同情心とを知己朋友の間に喚起することなるべし。
「フン、成程ねえ………ところで須賀原君、君は一體この事件をどう考へるね。」
と、長い間默つてゐてから保村君が訊いた。
「實に驚くべき暗合あんがふだね。」
「暗合だといふのかね! まあ考へて見給へ、こゝに今度の密書紛失事件に關して有力なる嫌疑人と目指めざされた者が三人ある。ところが其中そのうちのまた最もあやしい一にんが、その紛失事件が行はれてゐるしん最中さいちうに於て無慘の兇刄きようじんたふれてしまふたのだ。これをしも單に暗合といふには、餘りに其優差いうさはなはだし過ぎるではないか。ねえ、須賀原君、此兩事件の間には關係があるよ――いや、たしかに關係がなくてはならないとわしは斷言する 即ち我々はその連鎖を發見しなくてはならないのだ。」
「併しもう警察では探偵に着手してゐるだらう。」
「その心配はないよ、君。警察には神戸街の事件は殘らず知れて居らうさ。けれども白宮街の寺根秘書官邸の事件は夢にも御存知ないよ――これからだつて知れる氣遣ひはないよ。たゞ我々が兩事件をあはせ知るのみさ。したがつて我々のみが兩事件の間の關係をも突きとめることが出來ると申すものぢや。わしが江藤に嫌疑をかけたについてはういふ明白な一點がある。それは彼の住む神戸町は秘書官の住む白宮街からたつた五六分間も歩けばき着かれる近所にあるといふことである。それに反して私が指名したほかの二にんの奴等は遙か離れた西のはづれに住んでる。だから江藤にとつては他の二人よりも、寺根秘書官の家族と關係をつけ、若しくは其家そのいへから密使を受けるといふことも容易く出來る。――これはあるひ些細いさゝかな問題であらう、が、斯く幾つもの事件が僅少わづかの時間内に壓縮されておこ塲合ばあひにはこれまた必要條件として見ねばならぬ。オヤ、誰か來たやうだね。」
 小間使こまづかひのお津多つたが、盆の上に一人の貴婦人の名刺を乘せて持つて來た。保村君はチラリとその表を讀むと、異樣に眉をげて名刺を予に渡しながら
「寺根秘書官夫人に何卒どうぞ御通り下さいと申上げろ。」
と小間使に命ずるのであつた。


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