凾中の密書
三津木春影
二 歐州大渦亂の基………密書漏洩の一大事
保村君の無遠慮な御斷はりに遇ふて田丸首相は飛び上つた。内閣を畏縮せしめた例の奧深い眼に鋭く烈しい光りを見せて、
「私はまだそのやうな――。」
と言ひかけたが、直ぐに憤怒を鎭めて再び長椅子に腰をおろす。一二秒間は何れも言葉がない。やがて首相は肩を聳がして、
「いや、保村さん、貴君の條件はお請けしなけりやなりません。全く御もつともぢや。貴君に心からの信用をおかずして働いて頂かうと思ふのは我々の飛んだ間違でごわした。」
「ほんとに仰有る通りですな。」
と秘書官が合槌を打つ。
「では全然貴君と、御同僚なる須賀原直人君との名譽を信頼してお話することに致さう。なほ御兩君の愛國人に切に訴へておくといふのはです、私は此秘密が世間に洩るゝくらゐ國家にとつての大不幸は他にあるまいと思ふからで。」
「其點は御安心して我々を御信頼が願ひたいです。」
「さてと……實は其密書と申すのは、我國の近頃の或植民地擴張問題に關し、ムシヤクシヤと噴悶して居らるゝ某外國君主があらせらるゝが、其方から遣はされたものなのでごわす。何でも君主御一存で性急々々と書かれたものであつて、その照會の御文面によりて推測すれば、其國の内閣員は少しも存ぜんであつた事らしい。同時に其書簡の表白法が少しく不穩なる方法でありことに、その中の二三の文句に至つては實に挑戰的であつて、それを發表致したが最後たしかに、我國民一般の感情を興奮させて、最も危險なる状態に陷らしむるに足りるのである。私は斷言しますが、その敵慨心の沸騰の勢ひたるや、書簡公表後一週間ならずして必ず一大戰爭が破裂するに相違ないのです。」
保村君は此時一ひらの紙片の上に、一人の姓名を書いて首相に手渡しゝた。
「正にこれ、この御方である。この御方の一片の御書簡が實に千萬の軍費、十萬の生靈にも關係のあるものであつた――それが奇怪にも忽然紛失して了ふたのでごわす。」
「書簡を御書きになつた方に、紛失の件を御報告なさいましたか。」
「しました、暗號電報を打ちましたよ。」
「彼方では多分その發表を御望みではないのですか。」
「いや、我々は充分の理由があつてかういふことを確信します、それは御先方が既に御自分の頭が※[#「執/れんが」、U+24360、20-2]し過ぎて居つた、無分別のことを致したと御悟りあつて居らるゝに違ひないといふ事である。事實またその密書が發表さるゝと申すことは、我々よりも寧ろ御先方のため、その國家のために大打撃であるですからな。」
「すると、密書の發表は果して誰れのために利益となるのでせう。曲者がそれを竊み、それを發表せんとの希望は何處から來たものでせう。」
「さア、保村さん、そこですテ、問題がそこまで進むと商業外交術の範圍に飛び込むのです。併し試みに現時の歐洲の國際關係を一考なされたら、その動搖は自ら釋然御了解になるぢやらうと思ふ。實に刻下の歐洲全體は宛然これ武裝したる陣營と等しいですぞ。たゞ僅に二個の同盟があつて、陸軍の勢力が巧く均衡を保つてゐる形勢でごわす。この秤を支持して居るものは即ち我が英國であるが、その英國がです、一旦甲の同盟諸國と戰端を啓かんか、歐洲の均勢は破れて乙の同盟國は忽ち優勢を掌握する事となる、といふ次第であるから大抵は御推察が御出來ぢやらう。」
「いや能く解りました。つまり我が英國と、一方の同盟諸國とを絶交させんとする他の一方の同盟國の仕業ですな、その密書を竊み取つて發表し、戰爭に乘じて巧々と漁夫の利を占めんとする………。」
「さうです、/\。」
「そこで、密書が敵の手に落ちたとしまして、しれから何者に向けて發送せられるのでせう。」
「歐洲の某大國の大臣に向けてゞすわい。かうして御協議を願ふて居る間も、恐らくもう汽車汽船の凡有る急行を利用してドン/\其地に向け飛んで居ることでごわせう。」
寺根秘書官は斯くと聞くと今さらに頭を旨に埋めて高く唸くばかりである。田丸首相はその手を親切に秘書官の肩に載せて、
「寺根君、これは貴君の不運といふものぢや。誰一人貴君を非難するわけにはゆかぬのぢや。ところで保村さん、以上のお話で今回の事件の内容は殘らずお解りになつた筈であるが、さて何のやうな方法を御取りにならうといふ御意見であらう。」
保村大探偵は物憂げに頭を振つて
「閣下、その密書がいよ/\取戻されぬ塲合には、是非共戰爭になるので厶いませうか。」
「まづさう考へて頂くよりほかはない。」
「では、閣下、戰爭の御用意をなされませ。」
「えツ、戰爭の用意をせい!………それはまた餘り情ない御言葉ではごわせぬか。」
「併し事實を御熟考遊ばせ。密書が昨夜の十一時三十分以後に竊まれたとはどうしても考へられません。それは寺根さん御夫婦が、十一時三十分から今朝密書の紛失を初めて御發見になつた迄は、寢室内にいらしつたからであります。して見ると矢張り御夫婦とも寢室に御ゐでがなかつた昨夕の七時三十分から十一時三十分までの間に紛失したものと思はねばなりませぬ。且つその犯人は明かに密書がそこに在る事を熟知の者ゆゑ、竊むにしましても晩くは竊まない、なるべく早く竊み出したに相違がありませぬ。さて、其樣な重要なる書簡が宵のうちに竊まれたとしましたならば、一夜を越えたる今日只今は果して那邊に飛んでゐるで厶いませう。何者もそれを組む者のない限り、その密書入用の主謀者の方へ向つて全速力で飛んで了ふたものと見ねばなりませぬ。事こゝに至つて我々にそれを追ひ越す機會が厶いませうか、いや、その行衞を突き跡めるだけの機會もあるで厶いませうか。もう到底我々の力の及び難いことゝして斷念めねばならぬと私は思ひます。」
首相は椅子から立ち上つた。
「保村さん、貴君の仰有ることは一から十迄道理に叶ふて居る。私が考へても此事件はもう我々の手の及ばぬことぢや。」
「併し研究上、いま一應かういふ問題に立ち戻つて見ませう。密書を竊んだものは若しや小間使もしくは從者なぞでは――。」
「いや、二人とも古參の慥な人物です。」
と秘書官が打消した。
「貴君の御室は二階にありますか、そして戸外からの入口はない、また戸内からそこへ行くのに人目に觸れずして行かれるわけもない………はア、すると犯人はどうしても家内の誰方かですな。家内の方として、さて竊んだ書簡をば何者に渡して了ふたでせう。私の考へでは、この倫敦に潜伏して居る外國の間諜――私は彼等の姓名を可成知つて居ります――夫等の一人へ渡したのではありますまいか間諜ならば巨魁と目せらるゝものが三人厶います。で、かう致しませう、私は其三人の動靜を一々探つて、彼等が果して平日の如く潜伏して居るや否やを突きとめませう。若し一人でも倫敦に居なかつたならば――わけても昨夜以來消え失たとしましたならば――密書の行衞についても自然幾分の手懸を得るといふものではありますまいか。」
「間諜が消えて失くなるものですか。」と秘書官が言ふた。「書簡は倫敦駐剳の大使の手に渡して了ふに定まつて居るのです。」
「私はさうは思ひませんな、兎角間諜共といふ奴は獨立して我が功を建てたがりましてな、時によると大使との關係を蹂躙してまでも活動するのです。」
首相は首肯いて
「これは保村さんの御意見がもつともぢや。左樣な貴重な獲物は必ず間諜自身本營へ届けたがるに相違あるまい。何しろ貴君の今仰有つた手段は非常に面白い。ところで寺根君、今回の一災難のために他の用事をゆるがせにはしておけない。で、なほ今日中にも他に何等かの手懸があれば御知らせ致すゆゑ、保村さん貴君の方からも無論御搜索の結果を報告して頂きたいものぢや。」
斯くて二人の政治家は辭儀をして、例の物々しい姿態をして出て行つた。