禿頭組合
三津木春影
五 博士の質入
質屋の主人を送り出した上泉博士は中尾學士に向ひ
「一體君は此事件を何う思ふか。」
「何の意見もまだ持ちませぬ。只不思議といふの他は有りません。」
「えて奇怪な話といふものは事實が存外平凡で、尋常一樣の罪惡が、恰ど特長のない人間の顏は覺え惡いと同樣、却て混亂して居るものぢやから、何れが何れと一樣には申されんが喃………兎も角も此事件を一つ至急に解決せねばならぬ。」
「此からどういふ方法を御採りですか。」
「まづ一服さ。卷煙草の三本も吸ふ間には片が附くぢやらう。些と十五分間ばかりは話し掛けずにゐて貰ひたいものぢや。」
斯う言つて博士は椅子の上に膝を抱いて脊を圓々と丸め、眼を閉ぢ、鳥の嘴のやうにパイプを咬へて默想すること五分――十分――中尾學士は終ひには退屈して生欠伸の爲續け、こりや先生は座睡をなすつたわいと思ふうちに、自分は眞實にコクリ/\と船を漕ぎ出した。途端に博士がスツクと椅子を離れて立上つたので吃驚して眼が醒める。博士の顏を見ると何やら斷乎たる決心の色が浮んでゐる。が、其言ふことは呑氣至極なもの――
「中尾君、睡氣醒ましに帝劇へでも行かうではないか。二時から彼處に英國の歌劇團のオペラがあると云ふから。」
と促し立てゝ身支度をしてサツサと先きに校舍を出る。
二人は電車に乘つて本石町まで來ると、博士は
「些と質屋へ廻つて行かう。」
と言つて電車を降りた。本通りの西洋雜貨店の門を西に折れると御濠端の帝國銀行の裏手に添ふた街、それを進んで北側だけの片側町になつた所へ出ると、質屋の大津屋は直ぐ解つた。
成程、木造の西洋建てを改築したといふ不調和な體裁、さゝやかな植込を距てゝ通りとは一間ばかり引込んでゐるが、二階には青塗りの硝子窓があつて、其下には日本風の質屋の暖簾が風に飜いてゐると言つた有樣、博士は熟と此家の外觀を眺めてゐたが、軈て意を決して學士を從へズツと暖簾を潜つた。
上框にはお定まりの細長い格子が仕切つてあつて、中に帳場、小さな金庫、火鉢、其火鉢の傍に一人の十八九の娘が編物をしてゐる所。服裝も相應で、似た容貌が一見して主人の妹と解るが、縹緻が如何にも惡い。色が黒くて凸額で唇も厚い。先づは十人並み以下の代物であらう。娘は博士等の姿を見ると慌てゝ立上つて
「仙吉さん、お客樣ですよ。」
と呼んで奧へ入つて行つて了つた。
代つて現はれたのは角帶に前垂掛の一人の若い番頭である博士の睨む眼が人知れず屹と光つたのが中尾學士には能く解る。見るとそれは小柄の敏捷さうな男、顏はツル/\と綺麗であるが、窪んだ眼が鋭い。それに小鼻の黒子、右耳の下の燒傷痕は確きり主人の話の中に出て來た番頭に違ひない。
「此時計を五十圓に取つて貰ひたい。」
と博士は無造作に金時計を外して出す。
番頭は手に取つて調べながら
「大層結構な御品ですな。雖然精々勉強しまして三十圓に願ひ度いもので。」
「いや、それでは困る。」
と押問答しながら、博士は洋杖の端で何故か土間をコツコツと、何氣なき状に彼方此方叩いて見て居る。
結局値段が折合はない。と、博士はそれを機會に質屋の店を出て了つた。歩きながら
「仲々機敏な奴ぢや。機敏にかけては此東京中でも四番目位な男ぢやらう。が大膽さに於ては或は三番目より下らぬかも知れぬ。彼奴の事は前から私も少し承知して居る。」
「全く今度の事件には彼の男が餘程關係して居りますね。先生はあれを御覽になるために御寄りになつたのでせう。」
「彼男を見るばかりではない。」
「主人の妹ですか。」
「そればかりでもない。」
「では何でせう。」
「番頭の前垂を觀察したのさ。」
「ヘエ、前垂を! してそれや何うなつて居ましたか。」
「私の想像した通りになつてゐた。」
「洋杖で土間を御叩きになつたのは?」
「中尾君、今は無駄話の時ぢやない、研究の時なんぢや。我我は謂はゞ敵地に侵入して偵察を行うて居る樣なものぢやからねえ………それはさうと街の工合も一應調べておかう。」
人、俥、自轉車、自動車の絡繹たる騷ぎを兎ある街角に避けながら、博士は大津屋の建築工合、位置、廣さ、そこの町幅、近所に軒を連ねる商家の種類などを仔細に觀察する風であつた。
間もなく博士は外濠の電車で帝劇へと向つた。
元來博士は音樂好き、されば美々しい帝劇の豊くりと柔い椅子に埋れて外人の歌劇を見て居る間は、もう夢中になつて日頃の博士とは別人のやう、穩かに微笑んだ顏、暢々とした※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]の筋肉、恍とりとした眼付、誰かこれが敏速、果斷、罪惡に對して嗅感の鋭敏なる事獵犬の如き博士と思はうぞ。然し怎ら日頃博士に親近してゐる中尾醫學士の眼には、博士の此平常悠閑の態度が却て恐しく映る。休眠火山のやうに斯うして表面の着落いてゐるのが薄氣味が惡い。胸の奧の奧では何の樣な爆發的火焔が渦卷いて居らうも知れぬ。
果然、夜の七時頃になると、未だ歌劇の閉ねない中に、博士は助手を促して帝劇を出た。
「君は家へ歸るだらう。」
「ハイ、御用が厶いませんければ。」
「こゝ二三時間は私が單獨で働かねばならぬ。若禿組合の事件は意外に大問題らしい。」
「何う大問題ですか。」
「其裏面には或は重大な犯罪が含まれて居るかも知れぬ。我々は今やそれを防遏すべき時期に臨んでゐるとも思はれるのぢや。で、一日も忽にす可らざるほど問題が切迫して居るらしいので今夜尚一度君の手を藉ねばなるまいかと思ふ。」
「何時頃にですか。」
「十時を期して警視廳に私を訪ねて貰い度い。それから念の爲めに言ふておくが、多少の危險を豫想して短銃か仕込杖を用意して來るが好いな。」
斯う言つて博士は何處ともなく別れて行つた。
中尾助手は混亂した胸を抱いて本郷の家路に向つた。博士は既製の事實を洞察すると共に、將に起らんとする犯罪迄をも豫想した如く見える。博士と同じ話を聽き、同じ現場、人物を觀察した身でありながら、事件の一端をも未だ推察し得ないとはよく/\愛相のつきた頭である。あゝ、不思議とも不思議なる若禿組合、そして今夜々中の冐險とは何處へ押掛けるのだらう。武裝して來いとは何の謂れか。彼の質屋の番頭仙吉が曲者なる事は博士の口振りで解つたがさて如何なる關係を彼奴が本事件に有してゐるのか。
考へても/\、彼には合點の行かぬ事だらけだ。