禿頭組合
三津木春影
四 突然の解散
質屋の主人、お人好の顏を變に撫で廻しながら、
「通ふ事になりました。其晩家へ歸つて寢床へ入つて見ますると、有頂天の心も少し鎭まり、落着いて考へれば考へる程餘り話が甘すぎる。一日に僅た四時間の勤めで、仕事は淨寫物で、それで日給が一圓五十錢! こりや偶とすると詐欺ぢやないかとも考へましたが、別段此方が資本金をおろすのではなし、兎も角も行つてみやうと斯う思ひ返して、翌朝は昨日言はれた通り、筆、墨、硯、紙などを此方持ちで買い整へ、電車に乘つて五軒町へ行つて見ました。すると詐欺ではないらしく、卓子から何から萬端用意してありまして、門原理事が機嫌よく出向へてくれ、淨寫物の臺本として古い日本綴の皺苦茶になつた或本の一の卷を先づ取出してくれました。見ると漢文混りの難しい文章ですけれども子供の時に少しばかり親が學問をさせてくれたのが役に立ちまして、それに筆記するだけですから兎も角も喜び勇んで仕事に取り掛りますと、理事は時々見廻りに參りましたが、午後の二時になると淨寫物を一應調べ、却々ハカが行くと言つて賞めてくれて暇をくれました。これを最初の日として毎日々々同樣の仕事を續けましたが、一週間目になるとチヤンと十圓五十錢の給料を渡されましたから、私も大安心で、相變らず十時に出ては二時に退け、一週間、二週間と重つて行きました。すると門原理事は初めは二三度づゝ見廻りに參つたのが段々少くなり、終には朝些と顏を見せるだけで一日會はぬ事もありましたが、併し私は正直に規定を守つて決して時間中は事務室を離れませんでした。何しろ迂かりした事で又と掛け換へのないこんな好い仕事を取り逃すのは殘念で厶いますからねえ。」
「道理、々々。」
「で、此樣な有樣で八週間といふもの續きました。淨寫物も一卷々々と片が附いて五卷まで終へ、筆記した原稿は一つの棚一パイになる位に積もりました。ところが何でせう、此甘い仕事が突然にパタリと終局になつてしまひました。」
「終局に?」
「さうです、それが而も今朝の事なんです。今朝毎時の通り十時に行つて見ますと、事務所の戸がピタリと閉まつてゐて表に此樣な貼札がしてあるでは厶いませんか。まア御覽下さいまし――。」
と墨黒々と字の認めてある一枚の半紙を披げて勸進帳のやうに差出すのを、二人が讀んで見れば
都合により若禿組合を解散す。
とあるばかり。
上泉博士と中尾學士とは、其貼紙と貼紙の背後に見えてゐる不安さうなキヨト/\した質屋の主人の顏とを見較べてゐる中に、事件の滑稽な方面ばかりが何とも可笑しく胸を擽りだして堪まらず、思はずハヽヽと聲を合せて笑ひ潰れると
「何も可笑しい事は毛頭無いと心得ますが。」
と客は禿げた頭の先きまで眞紅にして
「どうも只お笑ひ下さるだけぢや情ない。宜しう厶います、それでは他へ御願ひ致します。」
「いや/\、御立腹では困るナ。決して惡意の有つたつもりではないから、まア御掛けなさい。」
と博士は半分腰を浮かした客を強いて又椅子に押戻して
「何も貴君の事件を茶にした譯ではない。確に貴君のお話は類のない奇談であるが、正直に申せばどうも少し變妙な所があります。で、其貼紙を御覽になつてから何うなすつた。」
「私は吃驚して了ひまして、一時は茫然と空家を眺めて突立つてゐましたが、已むを得ませぬから近所の人達に樣子を訊ねましたが誰も知らない。念の爲め大屋へ尋ねて行つて質して見ましたが、若禿組合なんてそんな名さへ聞いた事がない况して門原賢道なんて一向覺えもない名だと申すのです。併し東五軒町七番地の貴君の借屋にゐた人ですよ。あゝ、あの禿頭の、さうです、あゝ彼の人なら門原賢道なぞと言ひはせん。森下謙裁と言ふて辯護士さんであつたが、自分で家を建てたのが彌々落成したといふので昨日其方に移られたと申しますから、移轉先を訊くと麻布霞町との事。先生、私は態々其方まで尋ねて參いりましたよ。そして大屋さんから聞いた番地を散々探しましたけれども、門原と申す人物も、森下と申す人物も皆目住んで居りませんのです。」
「それで何うなすつたか。」
「仕方が厶いませんから、此上は番頭の意見を聞いて又分別しやうと悄々と家へ戻りました。けれども仙吉にも格別名案も厶いませず、何れ先方から手紙でゞも挨拶がありませうからお待ちなさいと申すばかりで厶います。併し私には辛抱が出來ません。先生、あの樣な結構な働き口をこのまゝ無慘無慘失くして了ひますのは何うも未練が殘つて斷念められませぬ。叶はぬ迄ももう一度突き留めやうと思ひまして、それには智惠者の先生樣が御力になる方と承り、苦しい時の神頼み御縋り申しに罷り出ましたやうな次第で厶います。」
「それは能う來なすつた、私も性分柄でな、此樣な珍事件に關係するのは至極好きぢやから、まア出來るだけは御骨を折りませう。お話の模樣では、最初に考へたよりも重大な問題が含まれて居らうも知れぬ。貴君は併し好い働き口を失くされたといふ樣なものゝ、今迄八週間の給料八十餘圓は丸儲けをなされた樣なものぢやからなア、ハヽヽヽ。」
「いえ/\、給料の事もそれは惜しう厶いますが、第一に不審でなりませんのは、そんなにまで資本を掛けて惡戯をする――惡戯でないかも知れませぬが――その心持が解りませぬので。」
「それも研究すれば追々解りませう。所で一二點お訊ねするが、その初めて貴君に廣告を見せた仙吉といふ番頭ぢやね、其男は貴君の店に何時頃から奉公したのかね。」
「なに、其頃やツと一月ばかり經ちました位なもので。」
「何ういふ關係で雇ひ入れました。」
「新聞へ廣告致しました。前にもお話致しました通り一時は皆奉公人を出しましたので厶いますが、如何にも不便で厶いますから極く廉い給料で望手があつたらと廣告致しました所、質屋に經驗のある若者が十人ほど參りました其中から彼の男を選びましたので厶います。」
「何の樣な人相の男ぢやらう。」
「小柄で、嚴然した體格で、クル/\と敏捷く働く男で厶います。三十は越して居りませうが、顏はツル/\と致して髭なぞは一本もなく、眼が少し落ち窪んで、小鼻の上に黒子が厶います。」
博士は何故か※[#「執/れんが」、U+24360、246-10]心に眼を輝かせ
「ハヽア、黒子がある。して右※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]の耳の下に微な燒傷がありはせぬかな。」
「有ります/\。子供の頃母親に洋燈を落とされた痕だとか申して居りまする。
「ふーン!」
と博士は深い瞑想の淵に沈みながら
「其男はまだ奉公して居るのぢやね。」
「居る段では厶いませぬ。只今も店で話をして參つたばかりで厶います。」
「御商賣は貴君の御不在中も差支へがなかつたのですな。」
「何の障も厶いませんでした。」
「宜しい。多分は一兩日中に此事件に對して何か私の意見を申上げられませう。今日は土曜日ですな、では明後日の月曜日迄には屹度解決する事にして上げませう。今日はもう御引取りなすつて宜しい。」
「では何分ともに御願ひ仕りまする。」
客はなほ懇々と博士に頼み込んだ上、慇懃に二人に辭儀をして出て行つた。