一三、身毛もよだつ昨夜の出來事
……緒方さん私は遂に命まで狙はれて居ます……
其夜私は早く寢て、翌朝
朝餐を共にする迄は、緒方氏が
何時歸つたかも
何にも知らなかつた。「例の廣告の返事は」と訊くと、「
未だ何の反響も無い」と云ふ。そして未だ新しい何の手係りも見當らぬと云ふ。兎に角
兩人は仕度をして大森の三輪氏方へ
行く事にして、
家を出た。一體緒方氏が探偵事件に氣乘りがして來たとなると、其容貌は
痛く
引緊つて、物凄い程に見えて來るのだが、今朝の氏の顏付きを見た處では、氏が果して此事件の經過に就て滿足してゐるのか、それとも不滿を感じてゐるのか、
孰方とも更に見當が付かぬ。
氏が例の通り
稻々と化學研究談を話すのを聽いてゐると、やがて汽車は大森へ着いた。
行つて見ると哀れな友、三輪敏雄は依然寢椅子に
横はり、春子孃に看護されたまゝ、
兩人を迎えた。それえも昨日よりは
稍快いと見えて、別段苦しさうにも無く、椅子の上に起上り、挨拶を濟ませると、直ぐ、
「何か新しい手掛りでも有りましたか?」
と
焦付くやうに訊いた。
緒「
豫期した通り、今日は
未だ餘り愉快な報告は出來ませんのです。富樫探偵にも又貴下の
伯父樣の侯爵にも逢ひました。そして手掛りになりさうな事を五六件お訊ねいたしましたがね。」
「もにの成りさうでも有りませんか。」
と三輪氏が直ぐ心配さうに訊く。
「イヤ、決してそんな事は有りません。」
と、緒方氏が答へると、
「あゝ、有難い、」
と
傍の春子孃はさも嬉しげに叫んで、
「勇氣を失はずに、じつと辛抱してさへ
居れば、
最後には
眞實の事が分かりましやう
[#「分かりましやう」は底本では「分がりましやう」]。」
と眼に涙を浮かべて云つた。
此時、三輪はずつと寢椅子の上に身を乘出して、穩かならぬ眼付をして、
「緒方さん、それよりか實は私の方に大變な事が持上りました。」
と云つた。私は三輪氏の言葉にギクツとして、思はずその顏を見詰めたが、緒方氏は「待つて居ました。」と云はん
許りの、平氣な顏付で、
「さては
愈々始まりましたかな、僕は
今日はキツト貴下の方に何か變つたお話が有るだらうと心構へて居りました。」
三「えゝ、有りましたよ、有りましたよ、
昨夜實に恐ろしい事が有りました。あれは確かに事件に關係が有るに違ひ有りません。」
三輪氏はかう語り出すにつれ、ひどく眞面目な顏付になり、其時の恐ろしさをマザ/\と眼に浮べるかのやうに色
蒼白め、ガタ/\と身を
顫はせた。
「緒方さん、お話をするにも身の毛が
悚つ、私は何時の間にか、何か怖ろしい陰謀の的となつたのだらうと思はれます、今は私の名譽ばかりで無い、私のこの
生命までが狙はれて
居るのだと氣が付きました。」
緒「エツ!」
流石の緒方氏もこれには驚いたか、鋭い
眼光で三輪氏の顏を
瞶めた。
三「實際自分でもこんな事がよも有らうとは信じられません。私は今迄に敵と云ふ者は一人も遭つた事が無いと思つてゐるのですから。けれども
昨夜の出來事が有つてから、私は自分が恐ろしい者に狙はれてゐるのだとしか、思はれなくなりました。」
「
何卒、その顛末を殘らずお話し下さい。」
と緒方氏が
※[#「執/れんが」、U+24360、100-5]心に云ふ。三輪は物怖ぢした眼で、
「私は
昨夜始めて看護婦無しに一人で
室に寢て見ました。一人で寢ても大丈夫だと思はれる程、
昨夜は非常に氣分がよかつたのです。だが
洋燈だけは
徹宵點けて置きました。さうすると、
曉方の二時頃でしたらうか、私がトロ/\とすると間も無く、突然、何かの物音でハツとして眼を覺まされました。コト/\と何か鼠でも羽目板を
噛つてゐるやうな物音、それが恰度枕元でします。私は寢たなり、
凝乎としてしばらく其音を聽いてゐましたが、やはり鼠の
惡戯だらうと思つてゐるうち、其音が
だん/\大きくなつたかと見る間に、突然ギラ/\した鋭い刄物の
尖端が窓からヌツと出たぢやありませんか! 私は吃驚して飛起きました。見ると今聽いた音の原因は疑ひも無くその刄物に在るのです。小さい音がしたのは、其刄物を窓枠の隙に突込んだ音で、大きい音はそれが
※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]に當つた音
[#「※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]に當つた音」は底本では「饌に當つた音」]なんです。
私は起上ると、物音は約十分間ほど止まつてゐました。それが恰度何者かが、私の眼が醒めたか
如何かを窺つてゐるやうな風です。暫くすると、今度は窓を靜かに靜かに明けるやうな、
軋る音が
[#「軋る音が」は底本では「軌る音が」]微かにしました。神經質な私は最早我慢がし切れません、
突然寢臺から飛下りて窓を明けました。その時一人の怪しい男が窓の下に
蹲んで居ましたが、それと見る間に
電光のやうに飛で行つて終ひました。夜目ではあるし
判然は見えませんでしたが、何でも何か外套のやうな物を頭からスツポリ冠つてゐました。私が確かに見たのは、其男が手に恐ろしい刄物を持て居た事です。何でも長い短刀の樣に見えました。曲者が賭出した時にも確にその
閃々光つた物を見たのです。」