一二、流石は侯爵、なか/\の人物だ
……緒方學士の胸中には何が潛むか……
緒方氏は侯爵の言葉裏から、なほ三輪氏を
窮境より救ひ出す餘地有るを知つて、心中
竊かに
悦ぶ體で、
緒「成程、で、實は
今日私は閣下に少々お尋ね申し度い義が御座いまして、參上いたした譯ですが、二三點、伺はれましやうか?」
侯「
出來得る限りは喜んで何事でも御答へ致しますぢや。」
緒「有難う存じます。では早速伺ひますが、閣下が書類の
謄冩を御命じになつたのは
此室で御座いますか。」
侯「いかにも。」
緒「其時誰かに
偸聽されたやうな事は御座いますまいか?」
侯「いや決して聽かれる譯はありませぬ。」
緒「で、閣下は三輪君にあの秘密條約を
謄冩させる
御所存で有ると云ふ事を、誰にもお話にはなりませんでしたか?」
侯「いや、決して誰にも」
緒「確かでございますな、決して閣下は
何方にもお
明しになりませんな?」
侯「一言も云ひませぬ。」
緒「なるほど、閣下がそれに就て一言も仰有らず、三輪さんも一切他言されぬとすると、では曲者はその時あの
室に偶然居合はせたものと見受けられます。そして機を見て書類を盜んだものと想はれます。」
侯「さあ其邊の見當はさつぱり
私には
分明らんぢや。」
と侯爵は微笑した。緒方氏は
暫時凝と考へてゐたが、再び侯爵に向つて、
「もう一つ重要な事をお訊ね申上げ度いのです。それは他でも有りません、侯爵、失禮ながら閣下は此條約の内容が、若し外國に洩れたら容易ならぬ結果を生じやうと、おそれてお
出でゞ御座いましやうな。
侯爵の明るい額に、一抹の暗い曇りが懸つた。そして、
侯「ウム、實に容易ならぬ結果が生ずる。」
と答へた。緒方氏は靜かに、
緒「して、其結果は既に起りましたらうか?」
侯「いや
未だぢやが……。」
緒「では若し條約文が
米國か、
佛蘭西か、
獨逸の外務省にでも屆いたとしたら
如何でしやう、閣下のお耳には
即刻にそれが入りますでしやうか?」
侯「
左樣なりましやう。」
と苦い顏をして侯爵が答へた。
緒「ところが、あれから既に十週間も經つてゐる
今日まで、外交界に何等の
風波の起らぬ處を見ると、條約書類はまだ何等かの原因で彼等の手に屆かぬと見えますが、
如何で御座いましやう、其邊は?」
と疊み掛けて、緒方氏が訊くと、侯爵は
苦笑をして、
「と云つて
眞逆私には其犯人が、あの重要な秘密書類を額に仕立て、壁に掲げて呑氣に眺めて居るとは思はれぬが……。」
緒「何かもつと
善い報酬を
目的にして
賣り
惜みをして
居るのでしやう。」
侯「ところが
最少し時が經つと、御氣の毒ぢやが、あれは
全然何の役にも立たぬ物になるのぢや。こゝ二三週間過ぎれば條約も
何にも秘密にすべき必要が無くなる。」
「アツ其處が何よりも重要な處です。」
と、緒方氏は叫んで、
「勿論、かう云ふ事が想像出來ぬでも無い、例へば其犯人が突然病氣になつたなどと――。」
と云ひ掛けると、侯爵はそれに續いて、
「まづ
腦ソ衝とでも云つた樣な?」
と思はずに口走つて、ヂロリ底深い眼で緒方氏の方を眺めた。あゝ冷たきは政治家の心! 侯爵は此事件の中心となつて懊惱してゐる現在の甥、三輪敏雄を疑つてゐるらしいのである!
緒「イヤ、今のは決してそんな意味で申上げたのでは有りませぬ。」
早くも侯爵の心を悟つて、緒方氏は慌てゝ
恁う打消した。さうして、
「いや、御多用中長く御邪魔を致しまして、まことに失禮いたしました。最早や
暇を戴く事にいたしましやう。」
と立上つた。
「犯人が誰であらうとも、どうぞ是非この探偵には御成功下さるやうに、
私は期待して居りますぞ。」
扉口まで送り出られて、侯爵は
恁う言葉を掛けられた。
「なか/\の人物だ。」
と外務省の門を出ると、緒方氏は呟いた。そして、
「だがあれで侯爵は御自分の體面を保つ事に、隨分苦心をされてゐるぜ。一體收入の少ない割に、交際費だの何だのつて支出が莫迦に多いのだからそれも無理は無いのサ、何故そんな事を云ふのかつえ? 君は今侯爵の長靴の底が二重にも
繕ひがして在つたのを見なかつたかい、ハヽヽヽヽヽ。それは
左樣として和田君、今日は實に君に
御骨折を掛けてしまつたね。僕ももう今日はこれ丈けで、あの俥の數の廣告の返事が來る迄は
何いもしない
心算だ。これから神田の青年會館へザルコリイの音樂を聽きに行つて來る、君は早く歸つて休みたまへ。いづれ明朝はまた
一所に大森へ
行く事にしやう。では
左樣なら。」