一一、緒方學士と外務大臣の會見
……侯爵は眉をしかめて語り出す……
富樫探偵は、現金にも打つて變つた
柔順な態度になつて話し出した。
「私はまづ第一に小使に嫌疑を掛けて、嚴重に取調べて見ましたが、更にそれらしい形跡が見えません。で、次にあの女房のお竹と云ふ奴を
責いて見ました。
あの女は大酒飮みでがあるし、
以來あまり性質のよくない奴と聞いて居ますからね、審査にも充分注意を拂ひ、警察の女刑事をやつてそれとなく小料理屋へつれ込ませ、散々醉はした處で
證跡を擧げやうとしましたが、どうもサツパリなんの手掛りも
得る事が出來ませんでした。」
緒「高利を借りて居たと云ふ話だが、あれは事實でしたか
[#「事實でしたか」は底本では「事實でしたかた」]?」
富「ハイ、事實です、併しそれは亭主の給料で既に支拂つたやうです。」
緒「三輪君があの晩、役所で
珈琲を呼んだ時に、あの晩に限り何故女房が自分で出掛けたか、それに就て彼は
如何辯解をしましたか?」
富「女房の云ふには亭主があんまり
疲勞てゐたので、手助けをしたのだとの事です。」
緒「なるほど、それは其後少しく經つてから三輪君が
階下へ下りて行つた時、亭主が正體も無く寢こけてゐたと云ふ點から考へてまづ無理のない
辯解だね、してあの晩に限り女房が莫迦に急いで歸つて行つたことに就ての言譯は?」
富「單に
平常より
歸宅が遲れたので、精々急いで歸つたのだと云つて居ました。」
緒「君と三輪君とが外務省を二十分も遲れて出たに關らず、小使の
家へ行つて見ても、まだ女房が歸つて居なかつた譯を突込んで訊いて見ましたか?」
富
[#「富」は底本では「緒」]「自働車と電車とは速さが違ふからだと云つて居ました。」
緒「小娘が戸を明けて「見慣れない人が來てゐますよ」と云つた時、女房がイキナリ茶の間へ飛込んだといふ
理由は
如何言ひましたか?」
富「それは茶の間の
小抽斗に高利貸に拂ふ金が置いてあつたからだと云ひます。」
緒「なるほど、一通りの理屈はつける女ですな、それから君は女房に、外務省を出てから、あの裏通りを何か
彷徨てゐる怪しい人物でも見掛けなかつたかとお訊きになりましたか?」
富「訊きましたが、巡査の他には誰も見なかつたと云ひました。」
以上聞き終はつて、緒方氏は、
緒「イヤ、實に君は精細にお調べでしたな。其女房に就ての調べは之れで最早
餘薀がありません。其外どんな方面をお調べでしたか?」
富「書記の柏村と云ふ男に少々怪しい點が有つたので、此二月ほど
種々と調べて見ましたが、どうも一向それらしい所も無いので失望してゐる次第です。」
緒「なるほど、してあの呼鈴が鳴つた事に就いては何か御意見がありますか?」
富「イヤ其事ですがな、どうも
彼ればかりは奇中の奇とも云ふべきもので、意見どころか皆目合點が
行かないで居ます。」
緒「さうです、實にあれは奇々怪々と云ふより外は無い、ヤ、
種々有難う、御話を承つて大分
得る所が有りました。不肖ながら犯人の
確とした手掛りさへ付けば、必ず君の手に引渡すことをお約束します。では和田君、ボツ/\出掛けるとしやう」
緒方氏は富樫探偵と握手し、私を促してソコ/\に警視廳を立出で、直樣電車へ乘りかける。
「これから何處へ?」
と私が尋ねると、
緒「僕等はこれから現在の外務大臣、
而して未來の内閣總理大臣たるべき松原侯爵へ面會に
行くのサ。」と笑つた。
外務省へ行つて、
刺を通ずると、
僥倖にも松原侯爵は
未だ御歸邸前とあつて、早速面會することが出來た。侯爵は極めて慇懃に私等を迎へられ手づから二個の椅子を進められた。その
瀟洒たる風采、思慮ありげな
容貌、早や
白髮を交へた
頭顱、流石に未來の宰相と
肯かれる立派な人品骨柄である。
侯爵はまづ
徐ろに口を開いて、
「緒方さん、御高名は
夙から
拝承して
居るで、今日の御用も大方は推測して居りますぢや。貴下の御手を煩はすやうな事件は外務省創始以來初めてぢやが、誰に頼まれて御從事なさるのかな?」
緒「三輪敏雄氏の御依頼でございます。」
と緒方氏が答へると、侯爵は眉を
顰めて、
侯「おう、あの甥がお願ひに上りましたか、どうも
如何にもあれは
不幸な奴で、その私とあれとは
恁う云つた血筋の關係が有るものぢやから、官職として益々私があれを
庇護ふ事が難しくなりますのぢや、可哀相なことに、この災難がやがて
彼が今迄に克ち得た一切の地位と名譽との破滅となりはすまいかと、實は
私も心中
尠からず憂へとりますぢや。」
緒「でもその奪われた書類が手に
入りました節は?」
侯「イヤ、若し幸ひにして
左樣なれば、話は又戻つて來ると云ふものぢや。」