八、先づ何よりも私自身が疑はしい
……エツ、な、なんと仰有います……
緒方氏は手を差伸べて窓下に、紅白に咲き亂れてゐる薔薇の一輪を摘取り、窓に寄り掛かりながら、いと神秘な物を見るかのやうに、
凝乎とそれに眺め入つた。さうして獨り呟くやうに、
「あらゆる總ての物、吾々の權力でも、慾望でも、また
食物でも皆第一に吾々の生存と云ふ事に必要なものとして存在してゐる。だがこの薔薇のみは
左樣ではない。これはただ
吾人の生存と云ふ點から見ればまことに餘分な、不必要な物である。その匂と云ひ色と云ひ、これらは決して人生の條件では無くて裝飾である。僕はこの餘分な物を神が
賜ふたことを心から尊く思ふ。」
と
泌々云つた。氏の容貌には限りない敬虔な感謝の色があらはれてゐた。
三輪氏とその戀人春子君は呆れたように、
ぽかんと緒方氏の此樣子を見てゐたが、何となく失望の色が見る/\兩人の顏にあらはれた。春子くんは
耐り兼ねたやうに、聲を掛けて、
「緒方さん、それで此の不思議な事件には、
幾何か解決の御見込みが着きましたでせうか?」
と訊ねた。そのイラ/\
迫立てるやうな調子に、緒方氏は始めて
翻然われに返つたらしく、
「ナニ、不思議な事件ですとな、
左樣さ、まつたく黒幕に包まれてゐて、
加之に
大分混雜がつてゐますから、まあ不思議と云つてもいゝでせうな。まあこれから
篤と考へて見た上、どの點とどの點が主に不思議であるかお話する事にしましやう。」
三「さうしますと、兎に角何か良い手懸りに付いてお考になつたのですな。」
三輪氏が思はず乘出して緒方氏の顏を
瞶める。緒方氏は靜かに
「まづ貴下のお話の模樣で、七通りほどの手懸りが見付かりました。併しその見付かつた一々の手係りが、どの位の
價値を持つものであるかは、一應吟味した上で無くては、
ウカと申し上げられません。」
三「して誰か嫌疑者がありますか?」
緒「
左樣です、まづ何よりも私自身が疑はしいです。」
三「エツ、何と仰有る?」
緒「ナニ、私が果して迅速にこの秘密を
撥くことが出來るか
如何か、それが疑はしいと云ふ事ですよ。」
と、緒方氏は冷やかに笑つた。
春子君はなほ心配さうに
側から口を入れて、
春「では、貴下はこれから早速東京へ
被居つてその秘密とやらをお探り下さるのでしやうか?」
緒「いかにも、其通りです。では和田君、そろ/\お
暇する事にしましやうか。」
緒方氏が私を
顧みながら立上ると、寢椅子の上の三輪氏はいかにも哀れに、絶え入るやうな聲音で、
「今度お眼に掛るまで、私はまだ此の
※[#「執/れんが」、U+24360、60-9]病に取付かれてゐるのでせうか。」
と縋るやうに云ふ。
緒「御安心なさい、
善かれ
惡しかれ
明朝は、また
今日とおなじ汽車で伺ひますから。」
三輪は嬉しさうに、
「えゝ、
何卒是非さうなすつて下さい、アヽ
此丈でも、何かこの事件に就いて努力がなされてゐると云ふ事だけでも、私は
蘇生つたやうな心持が致します。それから
序ですが、伯父の松原侯爵から
今日書面が參りましてね。」
緒「ハヽア、何と書いてありました?」
三「其手紙には別段これと云つて過酷な事は書いて有りませんですが、いかにも冷淡な手紙でした。思ふに私が
假りにも大病だと知つて居るので、さう
酷い事も書け無かつたのでせう。あの事件は
和郎として容易ならぬ失態ではあるが、別段それに對して處分はしない、と書いてありました。伯父の心持では和郎の病氣が恢復するまでは處分をしないと云ふ意味なのでしやう。併し兎に角それまでに犯人を捉へるか、書類を取り戻すか、
孰方かゞ出來さへすれば、
未だ私の不幸を
回復す
途は有ると云ふものです。」
緒「なるほど、それは結構でした。まづ氣を安靜にして充分御自愛なさい、では和田君、お
暇致しやう、これから
未だ東京へ行つてする仕事が澤山有るからね。」
私等が暇を告げて
立出ると、例の權藤駿策君が停車場まで
態々自働車で送つて呉れた。私等は間も無く新橋
行の列車に投じたのである。