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 外交の危機
 高等探偵協會
 

   四、貴重なる外交文書の紛失
……人なきに鳴つた呼鈴ベル何故なにゆゑ?……

 三輪氏は更にことばを繼いで、
「一通りザツと目を通したのち、私は早速その謄寫うつしに掛りました。條約は全部佛文ふつぶんで書かれ、廿六章に別れたすこぶる長いものでした。私は精々せい/″\努力した心算つもりでしたが、時計が九時を報じた時にはいまだやつと九章しか出來上つて居なかつたので、これでは到底汽車のには合はぬわいと斷念あきらめてしまひました。
 汽車の方はまづ斷念あきらめを付けたものゝ、困つたのは時が移るにつれ次第に身體からだ懈怠だるく、ウト/\睡氣ねむけが差して來ることでした。これは一つは晩餐ばんめしで滿腹したのと、それに終日働いた疲勞つかれが出て來たのでしたらう。ソコデ珈琲コーヒーでも一杯飮んだら少しは頭腦あたま清爽さつぱりするだらうと思つて呼鈴よびりんの紐を曳いて小使こづかひを呼びました。小使は終夜よじう階段はしごだんの下のへやつてゐて、遲くまで仕事をする官吏やくにんの爲めに、何時いつ何時なんどきでも酒精アルコールランプで珈琲を沸かして持て來るやうになつて居ました。
 處が呼鈴に應じて這入はいつて來た人間を見ると私は吃驚しましたそれは何時も來る小使では無くて、ガサ/\な皮膚をした、顏の大きな、前垂エペロンを掛けた四十恰好の女でした。變に思つて尋ねると、自分は小使の女房によぼうだと云つて[#「女房だと云つて」は底本では「女房だと云つで」]挨拶をしました、ソコデ私は其女房に珈琲を持つて來るやうに命令しました。
 それから更にペンを執つて二章ほどうつしてくと、益々懈怠だる睡氣ねむけがさして來ましたので、私は睡氣ざましに其處そこらを彼方此方あちこちと歩き始めました、併し先刻命令した珈琲をまだ持つて來ませんので、一體如何どうしたんだらうと思つてドアひらいて廊下に出ました。廊下には燈火あかり朦朧ぼんやりついてゐました。一體此廊下は私のへやだけにしか通じてゐないので、途中に他の室は一個ひとつも無いのです、また私の室から何處へくにも必ず此廊下を通つてかなければならない樣になつてゐます。さうしてこの廊下は先端さき螺旋まはり階段はしごだんになつてゐて、其降り立つた所に小使室こづかいべやが有るのですが、その螺旋階段の中段ちうだんには一寸足溜あしだまりがあつて、其處から又別に階段はしごだんがあつて、建物の側面、即ち裏の通りへ出られる樣になつて居ります。これは主に小使などが出入する通用口ですが、まづ一寸こんな工合ぐあひです……。」



 と云ひながら三輪氏は鉛筆で手早く概略あらましの見取圖をゑがいて緒方氏に示した。
「ヤ、有難う、よく了解わかりました、何卒どうぞお先を。」
 緒方氏は一寸其圖面に眼を呉れた丈けで、直ぐから三輪氏を促した。
三「さて、此處が最も御注意を願ひい重要な箇所ところです、それから私は階段はしごだんを下りて小使室へ來て見ますと、小使は生體しやうたいなくグツスリ寢込んで、酒精洋燈アルコールらんぷに懸けてある鐵瓶は煮えくり返つてとこに噴きこぼれて居ます。私はツカ/\小使のそばへ寄りその肩に手を掛けて搖り動かさうとする途端、頭の上に附いてゐるりん突然いきなり消魂けたゝましく鳴り出したので、小使は吃驚して目をまし、
「オヤ、三輪さん!」
 と怪訝さうに私をみつめるので、私が、
「珈琲の催促に來たんだ。」
 と云ひますと、小使は頭を掻き掻き、
「お湯をわかしてゐるについ寢込みまして、」
 と云ひながら私を見上げる拍子、つた今鳴つたばかりでだブル/\震へてゐるべるに目を付けると、更にひどく驚いた顏付きで、
「オヤ、貴下樣が此室こゝに居らつしやるのなら、此鈴このべるは誰が鳴らしたんでしやう?」
 と訊きます。
べる?」
 私は思はず問返して、
「このべるは何處からのだい?」
 と訊くと、
「貴下樣がいま仕事をして被居いらつしやつたおへやからです。」
 と云ふではありませんか。として私は總身そうしん水を浴せられたやうになりました。さてはの條約書の一大事と、私は狂氣きちがひのやうに階段を駈け登つて廊下へ來ましたが、緒方さん、其處には人の影さへ有りません。急いでへやに入つて見たが誰も居ない、すべては今しがた私が居た時の儘ですが、奇怪、奇怪、確かに卓子テーブルの上に今置いた筈の大切な條約書類が見え無い、謄本は在るが原本が影も形も無い。」
 緒方氏は椅子から見を乘り出してしきりと手の甲をつてゐる。
私は「ハヽア、先生の例の癖が出たな」と思つて、如何に氏が今此事件に興味を感じつゝあるかが分つた。
緒「それから如何どうしました?」
 緒方氏は呟くやうに云つて、後を促す。


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