灯火ともしび
 ― Alice Arisugawa FanFiction ―
 
神崎 真


 今晩は珍しく筆が乗っていた。
 書いているのは、ここしばらく月刊誌に連載しているノンシリーズものだ。キャラクターがうまく掴めなかったせいか、毎回かなりの難産だったのだが、今回は妙に書きやすい。こんな時はいけるところまで進めておくに限った。締切りまではまだ大分余裕があったが、私は徹夜を覚悟でワープロのキーを叩いていた。
 ドアチャイムが音を立てたのは、もうずいぶんと夜も更けてからだった。
 顔を上げて窓の外を見れば、墨を流したような一面の闇だ。光がないのは曇り空のせいばかりではない。遙かに見下ろせる町の明かりも、すっかり消えてしまっている時刻だった。
 再びチャイムが鳴る。今頃誰だ? と思いかけて、こんな時間に訪ねてくる人間などひとりしかいないことに気付く。とりあえずできあがった十枚分を保存して立ち上がった。
 誰何すいかもせずドアを開けた私に、三度目を鳴らすべく片手を上げていた友人は片方の眉を上げて見下ろしてきた。
「不用心だな。俺が凶器を構えた押し込み強盗だったらどうする気だ?」
 開口一番、そんなくだらないことをほざく。
 私は肩をすくめて返答に代え、火村を招き入れた。
「こんな時間にどうしたんや? またなんぞ事件でもあったんか」
 コーヒーメーカーをセットしながら尋ねる。この男がフィールドワークなどでこの近辺に来た場合、私の部屋を無料のホテル代わりにするのはいつものことであった。リビングの隅のソファに身を沈めた火村は、灰皿を引き寄せながら目の間を揉む。
「ああ、夕方船曳警部から連絡があってな。さっき片付いた」
「ほぅ、スピード解決やないか」
「くだらない事件さ」
 自慢する様子もなく、あっさりと断じる。どうもあまり愉快な話ではなかったらしい。 ―― もっとも犯罪を愉快に感じるようになったら問題があるかもしれないが。
 詳しく話を聞こうかとも思ったが、いまはそれより、自身で創作しつつある事件の方が気にかかった。落ち終わったコーヒーを二つのカップに注ぐと、書斎に戻ることにする。
「その話は明日ゆっくり聞かせてくれ。俺はもうしばらく仕事しとるから、お前はそこらで適当に転がっとき」
「今夜はまたずいぶんと宵っ張りじゃねぇか。締切り前は大変だな」
 失礼な。少なくとも今回だけは火村の勘繰りすぎである。
 言い返そうかとも思ったが、やぶ蛇になりそうだったのでやめておいた。

*  *  *

 しばらくは薄いドア越しにリビングでごそごそしている気配が感じられたが、それもすぐに気にならなくなった。幸い調子がいいのは錯覚でなかったようで、中断にも関わらず、私は再び作業に集中することができた。ほとんどとり憑かれたようにキーを打ち続け、気が付いた時にはさらに数時間が過ぎていた。
「あたたた……」
 年寄りじみた声を上げながら伸びをする。肩と腰のあたりで恐ろしい音がした。壁の時計を見ると夜明けまでさほどもない。一番夜の闇が濃い時間帯だ。
 最後に【続く】と打ち込まれた画面を満足して見下ろす。一眠りしたらプリントアウトして片桐にFAXするとしよう。
 ワープロを切って、机のまわりをざっと片付けた。それから空になったカップを手にダイニングへと向かう。
 リビングは明かりが消えて真っ暗だった。開けたままの書斎から、四角い形の光が差し込んでいる。火村はソファの上で眠っていた。勝手知ったるとばかりに寝室から出してきた毛布に、肩までくるまっている。薄暗い中でその寝顔を見た私は、しばらく足を止めて考え込んだ。持っていたカップをそばのテーブルに置く。
 そして毛布の端を思い切り引っ張った。
「……っ」
 なかなか景気のいい音をたてて、火村は床へと転がり落ちた。どうやら目は覚めたようだったが、どこかをぶつけるかどうかしたらしく、そのままその場にうずくまってしまう。
「締切り前の小説家んトコで熟睡するとは、ずいぶんいい度胸やな」
 なるたけ不機嫌そうに言ってやる。
「……アリス、てめぇ……」
 顔面を押さえて呻く火村に、鼻を鳴らして答え、私はさっさときびすを返した。出てきたばかりの仕事部屋に戻り、ワープロの電源を入れる。
 資料を広げ、文書を呼び出したあたりでわざとらしいノックが響いた。
「んー?」
 画面を見たままで返事をすると、さっとドアが開いた。淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。さっき置いてきたカップが中身と共に帰ってきた。
「さて、大作を執筆中の大先生におかれましては、他にどのようなことをご所望ですかな」
「別に」
 無意味に画面をスクロールさせながら、素っ気なく答える。
「気が散るから、あんまりうろうろ動かんといてくれ」
「へーへー、判りました」
 呆れたような声が降ってくる。ちらりと見上げると、流しで洗ったらしい顔には濡れた前髪が張り付いている他に、普段と変わったところは見受けられなかった。
「借りるぜ」
 そう断って、火村は本棚から『ゴルゴ13』をまとめて引っぱり出した。リビングに持っていくのかと思ったら、その場で壁に寄りかかって座り込む。私は背中でそれを意識しながら、しばらく仕事を続けるふりをした。そう待つ必要はなく、やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……火村?」
 椅子を回してそっと呼びかけてみた。反応はない。そばに近付いてのぞき込んでみても同じだ。軽くうつむいて目を閉じた寝顔には、先程のような悪夢の兆候も見られない。
 私は音を立てないよう注意して立ち上がった。リビングから落ちていた毛布をとってくる。
 着替えて寝室のベッドに入る時も、書斎の明かりは消さずにおいた。
  ―― 彼が何故、そしてどんな夢にうなされているのか、私は知らなかった。火村が身の内に抱える暗い闇。それがどんなものであるのか、私の方から問いかけることすらもできずにいる。ただ、いつか火村が話してくれたなら、と願うだけで。
 私ができること、火村にしてやれることはひとつしかなかった。
 それは、ここを彼にとってわずかでも明るい場所にすること。

 私は祈る。
 眠りの中でさえ安息を約束されないこの男が、せめて私の部屋にいる時ぐらいは、光の中で安らげるように ――


 


……うちの火村、眠ってばっかですね。


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