ナイトメア
 ― Alice Arisugawa FanFiction ―
 
神崎 真


 その日も、始まりはいつもと変わらなかった。
 徹夜明けの正午過ぎ。ろくでもない夢を見て、ろくでもない目覚めだった。シャワーを浴びて眠りの残滓を洗い流し、濡れた頭を拭きながらぬるいコーヒーを飲む。
 山盛りになった灰皿を持って流しに向かったところで電話が鳴った。
「もしもし」
『火村先生ですか?』
 相手は大阪府警の船曳警部だった。ならば用件は決まっている。
「事件ですか」
 ひとまず畳に置いた灰皿を見る。一本くらいなら、まだなんとか乗りそうだった。あたりを見まわしてキャメルの箱を探す。
『……いえ、その何というか……』
 電話の向こうの声はやけに歯切れが悪かった。警部にしては珍しい。
『実はですな、その……有栖川さんのことなんですけど』
「アリス? あぁ、また何か関係者になっているんですね」
 あの推理作家は、妙なところで事件に関わりを持つことが少なからずあった。まだ会社勤めをしていた頃の友人だの、作家仲間だの旅行先で知り合った相手だの、よくぞそこまでと思うほどいろいろな人間に思い入れては、様々な事件に巻き込まれていくのだ。今度はいったいどんなことになっているのやら。
『それが、ですね ―― 』
 話を聞く内に、俺は徐々に表情が消えていくのを自覚した。火をつける前だった煙草が、唇から離れて膝の上に落ちる。


 病院の待合室には、多くの人間がひしめいて治療の順番を待ちかまえていた。そんな中、森下刑事が先に立って病室の前まで案内してくれる。
「 ―― 治療と簡単な聴取を終わらせて、今は眠っておられます。頭をひどくぶつけてるんで、精密検査などでしばらく入院することになるそうです」
 説明する声が遠くから聞こえてくる。
「状況を詳しく教えてもらえますか」
 問いかける声もひどく遠いものだった。森下刑事は一瞬ためらってから手帳を開く。
「通報があったのは今朝の5時26分。夜が明けて間もなくです。通報者は死体が発見された展望台の管理人で、怪我をした男が現れて『人を死なせてしまった。警察を呼んでほしい』と言われ慌てて一一○番したと言うことです」
「そんな突拍子もない言葉をすぐに信じたんですか」
「ええ。何しろ言った当人も怪我をして血まみれだったんで、これはただ事ではないと思ったと」
「なるほど。管理人自身は死体を確認しなかったんですね」
「恐ろしくてとても見には行けなかったそうです。それで……その、有栖川さん自身が船曳警部を名指しされて……あの、自首という、形に……」
 どんどん言葉が曖昧になり、視線が下へと落とされる。
「アリスの方はどんな風に供述してるんです」
 なおも続く問いには一瞬の停滞もなかった。まるで他人がしゃべっているかのような、いつもとまるで変わらない、乾いた平坦な物言い。
「えっと、展望台に行ったのは昨夜の十時頃。小説に使う夜景を見たくて、急に思い立ったそうです。展望台の施設は閉まってましたが、景色を見る分には問題なかったので一人で散策していると、建物の向こうから酔っ払いがやってきてしつこく絡んできた」
 いったん言葉を切って手帳のページをめくる。
「この酔っ払いの名は平田信昭。四十八才、無職です。家は高台を降りてすぐの所なんですが、なぜそんな時間に展望台なんかに居たのかはまだ判ってません。で、絡んでくる平田を有栖川さんは最初無視してたんですが、そのうちなんだか相手が激高し始め掴みかかってきた。そして仕方なく抵抗している内に、二人とも柵を乗り越えて崖下に転落してしまったらしいということです」
「らしい?」
「暗かった上に有栖川さん自身、怪我をして夜明けまで意識を失っていたそうですから、記憶がはっきりしないのも仕方ないでしょう。明るくなってから目を覚まして、隣に倒れている平田が死んでいることに気が付いた。それで崖をまわって展望台の管理人室まで行ったそうです」
「それなら事故になるんじゃないですか。過失致死にはなるかもしれませんが」
「……ええ。それだけならそうだったんですが」
「目撃者でも?」
「直接の目撃者はいません。ただ、有栖川さんと平田が言い争っていたという証言があるんです」
 夜中の展望台で? 証言した人間は一体何をしていたのだ。
「有栖川さんは先々日 ―― 十二日の昼にも展望台に取材に行ってます。その時にもやはり平田に絡まれていて、有栖川さんの方は顔面を殴られるなど、かなり険悪な様子だったと。これは管理人の話ですが、有栖川さんにも確認しました」
「それでアリスは夕べの段階で、相手が平田だと気付いていたんですか」
「そう言っておられます」
「そうですか。では現場を見せてもらえますか」
「え、あの、会わなくて良いんですか」
 森下刑事はどこか慌てたように、閉じたままの扉とこちらを交互に見た。
「寝顔を見ても仕方ないでしょう。目が覚めたら話を聞きに来ます」
「はぁ……でも……」
「案内して下さい」
 まだ逡巡している森下刑事を置いて、出口へと歩き始めた。

*  *  *

 夜になっても、アリスは目を覚まさなかった。
 泊まる所を手配するという船曳警部に断りを言って、アリスのマンションで休むことにする。エレベーターで七階に上がり、ドアの錠を開けた。鍵は病院に保管された持ち物から借りてきている。
 部屋は暗かったが、ものの位置は覚えている。まっすぐダイニングに向かい、冷蔵庫からビールを取り出した。あるだけ持って来てダイニングのソファに腰を下ろす。
 真っ暗な中で口をつけながら、昼間得た情報を整理した。
  ―― 現場の崖とやらは思ったほど急ではなかった。落差は十メートル程で、岩盤がむき出しになった急な斜面というところだ。下に立って見上げれば腰丈の手すりが目に入る。
 足元には石がごろごろしていた。ほとんど砂利に近いものから人間の頭ぐらいあるものまで様々だ。地面の数カ所にテープで囲って番号をつけた血痕。一際大きな石がべっとりと赤黒く染まっていた。
 二人で崖を転がり落ちて、たまたま平田の頭がそいつにぶちあたったのだ。一緒に落ちたアリスは怪我ですみ、平田は命を失った。その差は一体どこから出てきたのだろう。日頃の行いか? まさか。
 ポケットから黒い手袋を出してはめ、地面の様子を確認していった。しかし、見るべきものはなかった。何もかもがアリスの供述通りで、不明に思えることは何一つない。
 あいつは夜明けの光で目を覚まし、最初に平田の死体を見たのだろう。その死体は警察で見せてもらった。既に息がないことは一目で判ったはずだ。にもかかわらず傷ついた身体で道を探し、管理人室へと向かった。救急車を呼ぶ為ではなく、警察を呼ぶ為に。
 一体何を考えた?
 平田との間にわずかとはいえ、諍いがあったことを認めたアリス。
 殺意があったのかなかったのか。決めるのは本人ではない。本人にしか判らぬはずの心の内を、探り、暴き、火のない所にさえ煙を立てるのが組織のやり方だ。良心的に見られたとしても『未必の故意』と解釈されれば、もう責任を逃れるすべはない。
 それに……たとえ事故となって何の罪にも問われなかったとしても、これでアリスの作家としての生命は終わりを告げることになる。過失とはいえ人を死なせた作家の書く創作殺人ミステリなど、フィクションではすまされない。ことが公になってしまえば、もはやどうにもなりはしないのだ。
 時刻は早朝。事故が起きたのは目撃者もいない夜中。管理人を呼びに行く余力があったのなら、そのまま車に乗って逃げてしまうことも出来たはずだ。残された状況だけ見れば、泥酔した平田が一人で転落したという解釈が充分に成り立つ。なにも自ら進んで罪を被らなくてもすんだのに ――
 そこまで考えて、いつだかの事件を思い出した。冬の裏磐梯。意図せず手を汚してしまった愛する妻の為に、全てを隠し通そうとした男のことを。
 そう、もしも叶うものならば、俺とても同じことをするだろう。
 見知らぬ他人に一方的に因縁をつけるような男。酒など飲んで暴力を振るうような理不尽な人間の為に、どうしてアリスが罪を背負わなければならない。仮にそいつの死が避けられないものだったとしたのなら、何故よりにもよってアリスが巻き込まれなければならなかったのか。
 それとも……今ならばまだ間に合うだろうか。
 そんな想いが心の底から湧き上がってきた。
 簡単なことかもしれない。この頭の中には犯罪史上発見されたありとあらゆるトリックが詰まっているのだ。犯罪者の心理も、どんなミスを犯したせいで捕まることになったのかも、全て心得ている。証拠を捏造し、証言をひるがえさせ、捜査を誤った方向に誘導するのはそう難しくもない。
 少なくとも自分は、それが可能な程度には警察の信頼を得てきている。
 ビールを飲み干してソファから立ち上がった。アリスの仕事部屋へと向かう。
 電灯をつけると、主のいない書斎はがらんとした寂しさがあった。机の上には、いま取りかかっている小説の資料らしきものが散乱している。それらを掻き分けて書くものを探した。しかしなかなか見つからない。机の中を見ようと引き出しに手をかけたが、鍵がかかっていた。しばらく躍起になってあちこちを探しまわったが、どうしても見つけられない。
 やがて俺は、乱暴に壁を叩いてしゃがみ込んだ。
「くそ……っ」


 歯を食いしばって、床に拳を叩きつける。握り締めた指の関節が白かった。
 今更あいつが証言を翻しなどするものか。
 それぐらいは判っていた。そんなことが出来るくらいなら、最初から警察を呼んだりしはしない。あいつがどれだけお人好しで善良で……誠実な人間か、誰よりもよく知っているではないか。
「アリス ―― 」
 足を絨毯に投げ出して壁に背中を預ける。
 お前のデータをファイルに綴じたりしたくはない。それぐらいなら、自分が犯罪者の仲間入りをした方がずっと良かった。もしも時間を戻すことが出来たなら、どんな手段を使ってでも別の結末を導いてやるのに。
 見上げた電灯の明かりが、眩しく瞳に突き刺さる。空々しい光は、ただ闇をより濃くするだけで、けして未来を照らしてくれはしない。
 やがて、俺はそのまま寝入ってしまったらしい。
 夢はいつもとおもむきたがえていた。
 暗い、月だけが見下ろす崖の下。意識を失い横たわるアリスの傍らで、平田が弱々しくもがいていた。まだ息があるその男の頭を俺は掴む。そうして力一杯地面に叩き付けるのだ。鈍い音と共にあたりに血飛沫と脳漿が散り、致命傷を与えられた男は、真の殺害者である俺を呪って死んでゆく。

  ―― 飛び起きた時に上げたのが悲鳴だったのか、笑い声だったのか、俺は覚えていなかった。

*  *  *

 口の端に泡を溜めて喚く男は、半ば錯乱していた。誰にともなく自分の正当性を訴えて、必死に保身をはかっている。フィールドワークの終わりにはよく出会う、犯罪者の見慣れた姿だ。
「話は署でゆっくりと聞かせてもらおう。おい」
 船曳警部に言われ、名前を知らない若い刑事が男を連れてゆく。
「いやぁ良かった。これで一安心てとこですねぇ」
 森下刑事が嬉しそうに笑っていた。船曳警部がたしなめる。
「不謹慎やぞ」
「あ、すいません」
 頭を掻いて謝る。それでも笑顔は隠しきれないようだ。
「けど火村先生、よく犯人は別にいるって判りましたね。そりゃ被害者の頭部の傷はいくつか重なってましたけど、それだって不自然なほどのものじゃなかったし。平田が展望台に出入りしてた理由が、まさか管理人を脅迫する為だったなんて考えもしませんでしたよ」
 しきりに感心する。
「それでは、これで」
 いとまを告げると、船曳警部は携帯電話を取り出した。
「病院ですね。いま車を呼びますわ」
「……お願いします」
 頭を下げる。森下刑事がぱっと顔を輝かせた。
「有栖川さんに会われるんですか。良かった、気になってたんですよ。センセイってば妙にクールで、ちっとも有栖川さんの心配とかしてないみたいで……」
「森下!」
「あ、いえ、あくまで『みたい』ってだけですけど……」
 慌てて口ごもる森下刑事に、口元が皮肉に緩むのを感じた。
 彼も善良な男だ。
 俺が昨晩、彼等を裏切ることを考えていたと知ったら、この刑事は一体どんな顔をするだろう。


 病室のドアを開けると、アリスはベッドに横たわったままでこちらを見た。俺と入れ替わりに刑事らしき男が廊下に出てゆく。どうやら真犯人逮捕の話はもう伝わっているようだった。
「気分はどうだ」
 パイプ椅子を引き寄せて枕元に座る。
「獄中記を書き損ねて残念や」
 いつもと変わらぬ減らず口が返ってきた。
「言うじゃねぇか」
 ポケットから煙草を出しかけて、灰皿がないことに気付く。仕方なくしまおうとすると、アリスがサイドテーブルにある空き缶を示した。手の甲に大きな絆創膏が貼られている。頭は包帯でぐるぐる巻きだし、聞いた話ではパジャマの下も相当なものらしい。
「犯人は管理人やってな」
「ああ」
 頷く。実際に平田を殺したのは、通報してきた管理人の男だった。
 高校時代に平田と同級生だった管理人は、当時無免許運転で轢き逃げをしていた。被害者は命こそ取り留めたが重度の障害が残ったらしい。結局ばれることはなく、彼は罪を逃れていたのだが、どこからか平田がそれを嗅ぎつけたのだ。そして強請が始まった。
 限度を知らぬ平田の要求に男は徐々に追いつめられ、事件当夜、ついに要求の金を用意できなかった。憤慨した平田はいらだちをたまたま居合わせたアリスにぶつけ、そして事故が起きた。
 管理人が悲鳴を聞いて崖下に駆けつけた時、平田はまだ生きていたのだ。解剖の結果からしても、致命傷となった頭の傷をのぞけばほぼ無傷だったらしい。転落のショックで朦朧としている平田の頭を石に打ち付けたのは、管理人の仕業だった。折良く起きた事故に便乗し、やっかいな脅迫者を片付ける為に。
 馬鹿な男だ。結局のところやつは過失を隠そうとするあまり、自ら殺人の罪を負ったのだ。交通事故を起こした時点で潔く裁きを受けていれば、今になって全てを失わずにすんだというのに。
 もっとも ―― それを愚かと評せるのは、目の前に横たわるこいつだけかもしれなかった。人間誰しも大切なのは自身だ。見知らぬ、好印象すら持ち得ない相手の為に、どうして自らリスクを犯せるだろう。
「なぁ、アリス」
「んー?」
 昨日の今日ではまだかなり辛いのだろう。ぎこちない動きで首を巡らせる。
「何故逃げようとしなかったんだ?」
 問いかける。アリスはしばらく驚いたようにこちらを見返していたが、やがて顔を歪めて吹き出した。
「そ、それ、お前の言っていいセリフとちゃうで……ッ」
 痛みに全身を強張らせながら、くすくすと笑い続ける。
「笑い事じゃねぇぞ。管理人が真犯人だという確かな証拠はなかったんだ。もうちょっとで無実の罪を着せられる所だったんだぜ。判ってるのか」
 ヤツがうまくはったりに引っかかってくれたから、かろうじて助かったのだ。
「アリス!」
「っ……すまん、すまん」
 どうにか笑いを押さえ込んだアリスは、しばらく黙りこんで天井を見上げた。視線がふらふらとあたりをさまよっている。
 口を 開いたのは、だいぶ経ってからだった。

「あんなぁ、火村」
「ああ」
「俺な……お前に顔向けできへんことはしたないって、そう思ったんや」
 視線を上に向けたままで呟く。
「ここで嘘ついて逃げたら、もうお前と友達やってられん。臨床犯罪学者の助手だなんてよう言えん、って ―― 」
 馬鹿かこいつは。
 脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。
 そんな程度の動機で自分の人生を台無しにするつもりだったのか。どうやらこの友人は想像以上の間抜けだったらしい。
 言葉を尽くしてたしなめてやろうと思ったが、実際の声にはならなかった。呆れて声も出ないというのはこういう状態を指すのだろう。まったくもって馬鹿馬鹿しい。
「火村?」
 沈黙が気になったのか、アリスがこちらを向いた。
「灰、落ちそうやで」
「……ああ」
 ほとんど吸わなかった煙草を空き缶に捨てる。それから立ち上がってドアに向かった。
「怒ったんか?」
 背中に声が届く。ひらひらと片手を振って答えた。
「やってらんねぇよ」
 一言、いい捨てる。
 背後でドアが閉じる。アリスがどんな顔をしたのかは知らない。

  ―― それでも、今夜の夢見は良さそうだった。









 


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