山路にて
 ― Mushi-shi FanFiction ―
(2006/08/27 11:40)
神崎 真


 目の前に続く、いつもと変わらない景色が、妙に現実味を欠いて見えた。
 様々な色の、緑。
 木漏れ日に照らされ、明るく輝く黄緑もあれば、木立の合間にわだかまる、どろりと暗く濃い深緑もある。
 葉擦れに合わせてちらちらと揺れるそれらが、視界の中で徐々に境界を失ってゆくような気がする。

「……あっちぃ」

 ぼそりと洩らした呟きは、乾いて貼りつく喉の粘膜のせいで、ほとんど形にはなっていなかった。
 地の底から立ちのぼるかのような熱気が、あたりを満たしている。
 時おり枝を揺らす風さえもが、むっとする熱い空気を攪拌するばかりで、いっこうに涼しさをもたらそうとはしない。
 竹筒の水は、とうに飲み干していた。
 どれほど辛かろうが、水のあるところまで耐えるしかない。
 運ぶ足の下で、降り積もった枯れ葉ががさりと音を立てる。
 ふ、と。
 重心がぶれるのを感じた。
 背に負った木箱に引っぱられるように、身体が横の方へとよろめく。
 反射的に伸ばした手が、木の幹へと触れた。そのままずるずるとその場へ膝を落とす。

「……ちっと、やばくねえかね。こりゃ」

 立ちあがる気力が湧いてこず、ギンコは一人小さくこぼした。
 思うように動かない腕を懸命に上げ、どうにか木箱を背中から下ろす。そうして木の根に体重を預けるようにして、枯れ葉の中へと座り込んだ。
 あがった息を押しのけるように、ため息が洩れる。
 煙草を取り出そうかと思ったが、それさえもがおっくうだった。
 計るまでもなく、体温が高くなっているのを感じる。おそらく熱射病を起こしているのだろう。
 揺れる視界に苛立ちを覚え、目を閉じる。そうしてさえ、瞼の奥ではちらちらとした光が踊った。

 既に踏み分け跡さえ消えかけた山越えの道には、ギンコの他に人の気配など欠片も存在していない。おそらく通る者は、月に一人いるかいないか。このままこうしていても、誰かが通りかかることはないのだろう。

「まいったねえ……」

 聞く者のない呟きをこぼして、ギンコは身体の力を抜いた。
 耳に届くのは、ざわざわという葉擦れの音と、全身に降り注ぐかのような蝉の鳴き声。
 むっとする草いきれと、湿った土の匂いがギンコの身体を包み込む。

 ―― もしも。
 このままここでギンコが死んだとしても、誰もそれに気づくことはないのだろう。
 一月か、二月かのち、ここを通りがかる者がいたとしても、その者が見つけるのはただ、身元の分からない旅の男の亡骸に過ぎない。親切な人間なら、埋葬ぐらいはしてくれるかもしれないが ―― それでも道端を掘って、埋めて、それだけだろう。
 いや、それとも亡骸すら、見つけてはもらえないだろうか。
 山には多くの獣が存在している。
 そして獣だけではなく、さまざまな蟲もまた住んでいる。
 蟲を寄せる質のギンコの肉体を、蟲たちがそのまま放っておくとは思えなかった。
 うっすらと目を開ければ、胸元でふわふわと踊る、小さな光が見えた。投げ出した手指の先や足首のあたりにも、幾つもの蟲がまとわりつき始めている。普段であれば、軽く払うか煙草の煙を吹きかけるだけで離れていく、ごく微細なそれら。
 だがそれはあくまで先触れ。微細であるが故に吹く風にも漂い、たやすく移動するそれらこそが、いつも一番はじめに姿を見せるのだ。そうしてそれらを追うようにして、じょじょに様々な蟲が集まってくる。
 ふ、となにかに引き寄せられるように、少し離れた場所にある茂みへと目を向けた。
 木々の合間に影を落とす、その中に、闇が見える。
 それはただ、光をさえぎっただけの暗がりではなかった。
 どろりとした質感を持つ、どこまでも濃く、深い、とこの闇……

 ―― 畏れや怒りに、目を眩まされるな。

 かつて、そんなふうに言っていたのは、誰だっただろうか。

 ―― みな、ただそれぞれが在るように在るだけだ。

 そんなことを思いながら、ギンコは再び目を閉ざす。
 そうして意識は、吸い込まれるように闇の中へと落ちてゆく……




 どれほどの時が過ぎたのか。
 気がつくと、ぽつりぽつりと頬を濡らすものがあった。
 貼りついたように重い瞼をどうにか持ち上げ、頭上を見あげる。
 いつの間にか、あのまばゆい陽差しはかげっていた。伸びる枝葉の合間から、どんよりとした雲の広がる空が見える。
 暗い雲の間から、雨の粒が落ち始めていた。
 粒の大きな雫は見る見るうちにその数を増やし、あっという間に土砂降りへと変わる。

「あー……、参ったな……」

 一気にずぶ濡れになって、ギンコはぼんやりとそうこぼした。
 いや、この場合は助かったと言うべきだろうか。
 あたりの空気が少しずつ温度を下げてゆくのを感じる。
 とりあえず口を開けて、降り注ぐ雨の雫を受けてみた。それからどっこらせっと身体を起こし、当座の飲み水を確保するべく、荷から竹筒と漏斗を取り出す。
 雨水に打たれ、ほてっていた体もようやく体温を下げ始めた。ぼんやりしていた頭も視界も、すっきりとした感覚を取り戻してゆく。
 動き始めたギンコに驚いたように、蟲たちはわらわらとどこかへ散っていった。
 ふと視線を茂みにやれば、そこにあるのはごく普通の暗がりばかりだ。

 水筒が一杯になったのを確認して、ギンコは再び木箱を背負った。
 木の幹に手をついて、どうにか立ちあがる。まだ少々ふらついたが、それでも歩くことはできそうだった。
 日が暮れるまでに、どこか人家のある場所までたどり着ければいいのだが。
 まあ、たどり着けなかったときには、行き倒れるのが半日延びただけの話だ。

「さぁて、行くとしますかね……」

 降り注ぐ雨を浴びながら、一歩、一歩。
 ゆっくりと歩を進めてゆくギンコの姿を、漂う蟲たちだけが、ただ見送っていた。



(2006/08/27 13:24)


 一人旅をするということは、いつどこで、誰に知られることもないままのたれ死んでもおかしくないことだと、そう思います。
 そして死にそうになったことも、危うく助かったことも、誰一人知ることはなく、そして誰に語ることもない ―― それがギンコの持つ孤独、というものなのではないでしょうか。


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