蟲を見る男
 ― Mushi-shi FanFiction ―
 
神崎 真


 かたりと、立て切った戸を動かす音が耳に入る。
 振り返ると、土間の暗がりに、人の姿が見えた。
 見慣れない人影だ。このあたりではまず見ることのない洋装に、わずかに丸められた背中。

(……老人か?)

 そう思ったのは、ほの白く浮かび上がる、淡い色の頭髪からだった。
 だがよく見れば、己とそう変わらない年頃の男だとわかる。

「……誰だ。この家は今取り込み中だが」

 問いかけに、男は口にくわえていた煙草を、ゆっくりと右手に取った。そうして嗅ぎなれない、一風変わった香りのする煙を、静かに吐き出す。

「失礼。邪魔をするつもりじゃあ、ありません。ただ話を聞いて、これは『こっち』の仕事なんじゃないかと、そう思ったもんですから」

 低くかすれた、穏やかな声がそう告げる。
 その声が、どこか闇の底から聞こえてきたもののように感じられたのは、なにかの錯覚だろうか。

「こっち、だと」
「ええ……」

 男はうなずくと、うつむいていた面をあげ、化野を見上げてきた。
 長い白髪の間からのぞくその瞳は、はっとするほど深い緑色をたたえている。

「ああ、名乗り遅れました。……蟲師の、ギンコと申します」


  二

 縁側に広げられた今回の品揃えは、またなかなか興味をそそられる物ばかりだった。
 ひとつひとつを手に取り、向かいに座った蟲師から、その来歴を逐一聞いてゆく。余計な修飾のほとんどない、淡々とした言葉で語られるその物語。めずらかな品を持ち込んでくる人間は彼の他にも幾人かいたけれど、いかにもこちらの興味をそそろうと、大仰なまでに抑揚をつけて語られる彼らの物語よりも、この蟲師の淡々とした語り口の方がよほど心を引きつけるのだから皮肉なものである。
 降り注ぐ陽差しに、その白い髪が眩しいほどに光っている。山深くに存在する淵を思わせる濃い緑の瞳も、今は陽差しを映りこませ、明るく輝いている。

「 ―― と、いうわけでね。報酬としてこいつをもらったってことさ」

 そう言って蟲師は、七色の光を封じ込めた、水晶のような欠片を手のひらで転がしてみせる。

「どれ、ちょっと見せてみろ」

 ちょいちょいと指で招けば、ほれとつまんだ指先が突き出される。
 手のひらで受けると、指先が一瞬、かすめるように触れた。乾いてささくれた、けれど温かな、生き物の持つ柔らかさを宿すその感触。

 ―― 不思議なものだ、と。

 そう思った。
 なにが不思議だといって、この男をこうして客として迎え、当たり前のように会話しているそのことが不思議だ。

(……蟲師の、ギンコと申します)

 そう言って暗い土間から見上げてきたこの男に、自分が最初に抱いた感情は。
 それは紛れもなく、激しい不快感と怒りだったというのに ――


  三

「こいつは、蟲の仕業です」

 土間の暗がりの中で、薄い唇が動く。
 作り物のような白い顔の中で、やはり色のない唇が淡々と言葉を形作る。
 その口元から、指先から、白い煙が立ちのぼり、まるで妖しのもののようにあたりを漂っていく。

「……蟲?」

 そう呼ばれるものの存在は知っていた。
 好事家として名を知られるようになってからこちら、自分の方から求めなくても、珍奇なものや情報が自然と集まるようになってきていた。その中には、蟲という存在にまつわるそれもずいぶんな割合で含まれていたものだ。そしてそれらはなかなかに興味深く、自身の蒐集欲をかなり刺激してくれていた。
 だが ―― 真贋の定かならぬそれらの品や、嘘か真やも知れぬ噂話の他に、『それ』と接したことなどありはしなかった。

「ええ。ただの治療だけでは、いくぶん症状を抑えられる程度。このままではその患者 ―― 命に関わります」

 ひっ、という息を呑む気配がした。
 振り向かずとも判る。部屋の奥からおそるおそるといった風情でのぞいていた患者の家族達が、その言葉を耳にしたのだ。
 内心、思わず舌打ちする。同時に激しい怒りが胸の内にわき起こった。
 いったい、なんという言葉を口にするのだ、この男は。
 たとえそれが事実であったとしても、患者と、その家族の耳に入る場所で。

 出て行け!

 (……そう口にできたなら、どんなにか胸がすくだろう)

 肩が揺れぬよう、注意して深く息を吸った。

「お前なら、治せるというのか」

 低く問いかける。
 相手の反応をわずかも見逃さぬよう、真っ直ぐに見すえて。
 白髪の男は、ただ無言でうなずいた。
 深緑のその瞳が、静かな光をたたえてこちらを見上げている。どんな気負いも、焦りも浮かんでいない、硝子玉のような目。
 まるでその男そのものが、無機物でできたまがい物でしかないような、そんな雰囲気を身にまとっていて。

「 ―― あがってくれ」

 顎をしゃくって、背中を向けた。
 そうすると、柱の影からのぞく顔が目にはいる。

「せ、先生……」

 不安げに見つめてくる彼らに、笑いかけた。

「大丈夫だ。おかしな事をしようとするなら、私が止める」

 そう言ってうなずいてみせると、彼らは困惑したように顔を見合わせ、それから蟲師と名乗った男の方を見、おずおずと頭を下げた。

「よ、よろしくお願いします」

 男は、やはり表情を変えぬまま、小さくうなずいただけだった。


  四

 薬を調合する手つきは、慣れた危なげのないものだった。
 物入れについた幾つもの引き出しから、迷い無く薬種を取り出し、きちんと計って混ぜる。

 患者の容態は、目に見えて改善していた。

「あとはこれを、一日一包、寝る前にぬるま湯で飲んでください」

 そう言って、薬包紙に包んだ薬を畳の上に並べる。

「飲み過ぎれば毒になる。必ず一日に一包だけです」

 そう、念を押す。

 横から見ていたところ、その言葉に誤りはなかった。
 薬種はほとんどが見慣れたそれで、幾分変わった調合ではあったが、その効力を察することはできた。確かに摂取しすぎるのは禁物だろう。しかし ―― そういった薬は数多い。と、いうより、たいがいの薬はそういった側面を持ち合わせているものだ。

 患者の家族は、うかがうようにこちらへと視線を投げてよこした。
 うなずいてみせると、ほっとしたように表情をほころばせ、そうして薬へと手を伸ばす。


◆  ◇  ◆


 蟲師と共に患者の家を出て、しばらく共に歩いた。
 特に他意はない。たまたま向かう方向が同じだっただけだ。
 そうして無言のまましばし歩み続け、道が分かれたところで足を止める。
 蟲師もまた、そこで足を止めていた。どちらに行こうかと迷うように、道の先を見比べている。

「……世話になった」

 そう口にすると、不思議そうにこちらをふり返ってきた。

「なにか、あんたに世話をしたかね?」
「患者を救ってくれた。それ以上の『世話』はないだろう」

 その言葉に、男はわずかに眉を寄せ、言葉を探すように宙へと視線をさまよわせた。
 そんなふうにすると、作り物のようだった顔が、不思議と人間らしいものに見えてきて、おやと思う。

「患者を取っちまったんで、怒ってたんじゃねえのか」
「そんなふうに見えたか」
「ああ」

 そうか。
 そういう解釈もあったのかと、己を見返り反省する。

「俺が怒っていたのは、そんな理由じゃない」
「というと?」
「……患者やその家族に聞こえるところで、不安にさせるような言葉を口にする、その無神経さに腹を立てていたのだ」

 たとえそれが掛け値なしの事実だったとしても、患者の治療に携わる立場にある者は、けしてそれを表に出してはならない。
 嘘であろうとも、治ると。
 大丈夫なのだと。
 そう信じさせること。それが医者として最低限やり遂げなければならないことなのだ。
 ―― たとえ、自分自身はそれが嘘なのだと判っていても。信じることができなくとも。

「そいつは……すまなかった」

 沈黙の後、蟲師はそう言って頭を下げた。
 あまりにもあっさりしたその仕草に、いい加減に聞き流されたのかと、別の意味で怒りがこみ上げそうになる。

 だが、
 再び顔を上げた蟲師は、意外なほど真摯な表情をたたえていた。


  五

「世話になったのは、こっちも同じだ」

 返された言葉に、今度はこちらが困惑した。

「別に、なにもしてやった覚えはないが」

 そう返すと、蟲師はかぶりを振る。

「あんたがいなかったら、あんなにあっさりと家に上げてもらえなかっただろうよ」
「それは」
「薬だって素直に受けとってもらえた。あんたの口添えがあったからさ」

 流れ者の蟲師の言葉など、そう簡単に信用されるものではない。
 なにが入っているかも判らぬと、差し出した薬をふり払われることなど珍しくもないのだと。
 そう言って男は肩をすくめる。

 ―― 確かに。
 相手は素性も知れぬ、流れ者だ。
 余所者に対する警戒心の強いこのあたりでは、なかなか受け入れてもらえるものではないだろう。まして蟲師というあやしげな職業の上に ―― この見た目では。
 このあたりではまず見ることのない洋装に、白い髪、白い肌、深緑の瞳。どれひとつとっても異質に過ぎるそれだ。
 弱みを見せれば、どんな無理難題を吹っかけられるやもしれぬ。そんなふうに思われても無理のないところだ。
 しかし、この男の治療は適切なものだった。
 蟲に対する手当ての術など知るはずもなかったが、それでも先刻の治療が患者をなにひとつとして害さなかったことは断言できる。なにより患者は目に見えて回復している。
 自分では、せいぜい容態を悪化させぬ程度のことしかできなかったというのに。
 ―― 皮肉な話だと、思う。

 たまたま顔見知りだったからというだけで、なにをすることもできなかった己が信頼され、
 たまたま余所者だったからというだけで、患者を救った蟲師が忌避される。

「あんたはすげえよ」
「皮肉か」

 思っていたことを見透かされた気がして、尖った声を返していた。
 だが蟲師はゆるく首を振り、取り出した煙草へと火をつける。

「あの家族は、ひとえにあんたを頼りにしていた。それは多分、これまであんたがこの場所で生活して、彼らといっしょに培ってきた『信用』ってやつなんだろう」

 吐き出された煙が、風に乗ってふわりと漂う。

「ひとっ所に留まることのない俺には、到底得ることなどできないものだ」

 一朝一夕には形作ることなどできない、長い時をかけてひとつひとつ積み重ねてきたそれ。

「……お前ほどの腕があれば、どこかで開業しても、充分やっていけるんじゃないのか」
「蟲を寄せる体質でね」

 煙を吐くその仕草が、どこかため息めいたものに見えたのは、単なる感傷に過ぎなかったのだろうか。


◆  ◇  ◆


 あれから何年が過ぎたのか、別に数えていないから覚えてもいない。
 ただ数ヶ月か、場合によっては数年に一度。思い出したように蟲師はこの里を訪れる。
 蟲にまつわる珍しい品と、珍しい話を携えて。
 時には倉の中にある蒐集品を、見せてくれと乞いに来ることもあった。
 あの目立つ風体だ。そんなことが二度、三度と続けば、近在の者もいい加減顔を覚える。
 最近では訪れる数刻も前から、その姿を見かけたと、そんな知らせが入ることもあった。

「 ―― 静寂を喰う蟲“阿”に寄生された時できる角か」

 こりゃ珍しい。
 顔を上げると、ギンコはさらに新たな品を取り出していた。
 そうしてこれ見よがしにちらつかせながら、意味ありげな笑みを浮かべてみせる

「ちょっと、協力して欲しいって話なんだが」

 人望の篤い化野センセイに、少々口添えしていただきたくてね、と ――

「ほう……? いったい何事だ」
「聞いたことはないか。液状の蟲の、そのなれの果てのことを……」



(2006/08/23 21:38)


化野先生とギンコは、お互い絶対できない生活をしているところに、それぞれの興味と憧れがあるんじゃないかなあ、と。


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