「ただいま ―― あら?」
買い物を終えて帰宅したフランソワーズは、ギルモア邸のリビングに足を踏み入れたところで、ふと目をしばたたいた。
澄んだ光を宿す碧眼が、応接セットのソファの上へと向けられる。
驚きに見はられたその瞳は、やがて柔らかな微笑みとともに細められた。
「ただいまー! うっわ、びしょ濡れだよ」
「ごめん、誰かタオルを出してくれないかーい?」
駐車場から土砂降りを避けて走ってきたジョーとピュンマは、戸口から奥へと向かって声をかけた。と、台所から顔を出したフランソワーズが、人差し指を口に当て、しっとたしなめてくる。
「フランソワーズ?」
きょとんとしたように首を傾げる二人に、彼女は目でソファを指し示した。
二人はその視線を追い、見つけたものに思わず顔を見合わせる。
それから、くすりと笑って肩をすくめた。
「いま帰ったアルよ」
「いや〜、参った参った。良く降るねえ」
張々湖とグレートが、連れだって帰ってきた。
横浜で中華料理店を経営するこの二人は、毎日朝早くから出勤し、帰宅もずいぶんと遅い時間帯だった。だが週末ばかりは、どれほど忙しくとも、かならず早くに切り上げてくる。
さまざまな仕事について、なかなか生活時間の合わなくなった仲間達のために、週に一度腕によりをかけて夕食を作ってくれるのだ。
今日も店から持ち帰った下ごしらえずみの材料を山とかかえ、よたよたと不器用に歩を進めている。
「 ―― ッと」
大量の荷物をひとまず置こうと、手近な応接セットに向かったグレートが、泡を食ったような声を上げて姿勢を崩した。乱暴に投げ出しかけていた紙袋を慌ててつかみ直し、勢い余ってお手玉状態に突入する。
「おわっ、たッ……」
「なにをやってるのネ」
呆れながら歩み寄ってきた張々湖が、器用にひとつを受け止め鼻を鳴らした。
「いや、そのだな」
言い訳するように顎をしゃくったグレートに、どれどれとのぞき込んだ張々湖は、とたんに納得したような顔になって、大きくうなずいた。
「……ただいま」
低く告げられた帰宅の言葉に、応じたのはギルモア博士の声だった。
「おかえり。今日はずいぶんと早かったんじゃな」
「雨で作業が中止になったので」
工事現場で日雇いとして働いているジェロニモだったが、続く長雨のせいで工事が中断され、今日は早々に解放されてしまった。急に時間が空いたのだが、特に行きたい場所もないし、降りしきる雨の中、しいて歩きまわろうという気も起こらなかった。
ひとまず、急を要していた用事は済ませられたことだし、朗報を早く持ち帰るのも良いだろう。そう考えて、彼はまっすぐ家路についたのだ。
「あいつは、どうしていますか?」
L字型に配されたソファで新聞を広げている博士に、そう問いかける。と、老人はなごやかに笑って、L字の長い辺を構成しているソファを指し示した。ジェロニモの立っていた位置からは、背もたれが邪魔になって、座面がよく見えない。
数歩近づいて見下ろしたジェロニモは、その一見いかついとさえ感じられる大造りの顔立ちを、わずかにほころばせた。
その表情の変化は、普段ともに過ごしている仲間達でもなければ、とうてい見分けられなどしない程度であったけれど。
* * *
それは、しとしととうっとおしい長雨が降り続く、ある夜のことだった。
夕食の時間を過ぎても帰ってこなかったジェットを、みながそれぞれに心配していた。
いい年をした若者、しかも腕っぷしなどわざわざ保証するまでもない、戦闘用サイボーグである。そうそう心配せねばならぬようなことなど、起きるはずがないとは判っていた。それでもこんな夜は、もしやという思いを拭うことができない。
むしろ、そんな彼さえも引き止める何かが生じたのであれば、それはただごとでなどすまされない、大事件なのではないか、と
――
だが、懸念は良い方向に裏切られた。
時計の短針が真上近くを示す頃になってようやく帰宅した彼は、その身に怪我のひとつも負ってはいなかった。
が ――
「ワリィ」
どこか照れたように笑うその姿は、生ゴミまみれだった。
いったい何をどうしてそうなったというのか。頭のてっぺんからつま先まで、見事なまでにドロドロだ。おまけに傘までなくしたのか、これまた全身ずぶ濡れである。
つん、と鼻をつく腐敗臭があたりに漂った。
「ちょっと、ジェット!」
そこ動かないでと言い捨てて、フランソワーズが奥へと走っていった。おそらくタオルを取りに行ったのだろう。そのまま室内を歩かれては、大変なことになってしまう。おとなしく戸口で立ち尽くすジェットに、一同は呆れの目を向けた。
「いったい何をやってきたんだ、お前は」
ハインリヒの声が冷たく響く。
無理もない。散々心配させられた上にこの有様では、腹立ちのひとつも覚えようというものだ。
「や、その……」
言葉を濁したジェットの胸元で、そのとき小さなものが動いた。
「おっと、脅かしちまったか」
慌てて上着の合わせ目へと視線を落とす。とっさに押さえた広い手のひらにくるまれて、それは再び身じろぎした。
みぃ
細く、可憐な鳴き声。
はっとした一同は、反射的に息をひそめた。
静まりかえったリビングの中に、愛らしい鳴き声が数度響いた。
「 ―― 捨て猫、か?」
「んー……単に野良かもしんねえけど」
汚れた頬を掻くジェットの元に、席を立ったジョーが歩み寄った。
「うわ、まだほんとに仔猫だね。目は開いてるのかな」
小さな生き物を怯えさせぬよう、そっとのぞき込む。
「猫、ねえ」
一同は思わず困惑の視線を交わした。
鳴き声が聞こえたのだろう。そんな彼らの元へと、ジェット用のバスタオルと猫を拭くためのハンドタオルを用意した、フランソワーズが駆け戻ってくる。
温かいミルクを飲み終えた仔猫は、丸く膨らんだ腹を抱え込むようにして寝息を立てていた。汚れを落として乾かされた毛並みが、ふわふわと柔らかい。
ソファの上にタオルを重ね、その中で丸くなった姿を見ていると、不思議なものでどこか気持ちが温かくなってくるような気がする。
自身も身体を洗って着替えてきたジェットが、そのすぐ傍らに腰を下ろし、コーヒーをすすっていた。眠る仔猫を眺める瞳は、穏やかな光をたたえている。
みな既にそれぞれの部屋で休んでいる。まだリビングに残っているのは、シャワーを浴びていたジェットと、読みかけの本をめくっているハインリヒのみで。
「……どういうつもりなんだ」
問いかけたハインリヒに、ふとジェットの目が上げられた。
「どういう、って」
「その猫のことだ」
指差す先を追って、まだ意味が判らないのか首をかしげた。
「ここで飼おうなんて言い出すんじゃないだろうな」
「まさか」
即座に返った答えに、ハインリヒの方が意表をつかれた。
「いつまでこうして暮らしてられるかも判らねえ。明日にでも、また闘いが始まるのかもしれねえ。そんな状態で、飼ってなんかやれるわけないだろ」
「 ―― 判ってるなら、良いんだ」
呟くように言う。
こうして、何事もなかったかのように暮らしている、この平穏なひととき。
愛しい仲間達と過ごすかけがえのないこの時間が、薄氷を踏むような危うさの中にある、限られたものでしかないのだと。時に失念しそうになるその事実を、しかし自分達はけして忘れてはならない。
明日を ―― いや、たった一時間先でさえをも、こうして平穏に迎えられるかどうかは保証できぬ自分達だ。たとえ猫の子一匹といえども、無責任に懐に入れるわけにはいかなかった。
ひとたび手をさしのべておいて、期待させておいてから振り払う。それが果たしてどれほど残酷なことか……この子供のような部分を残しすぎた若者にも、判るほどの分別はあったらしい。
安堵すると同時に、それでもハインリヒはわずかな引っかかりを覚えた。
「それが判っていて……何故拾ってきたんだ」
気がついたときには、そう口にしていた。
「飼ってなどやれないと最初から判っていたのなら、どうして」
一度でも餌をやり、温かな寝床を与えてしまえば、同じことではないのか、と。
「いいんだよ」
ジェットの答えには迷いがない。
静かなその口振りに、仔猫を眺める穏やかな横顔に、ハインリヒはどこか違和感を覚える。
常の彼らしくもない物わかりのよさには、いっそ苛立たしいものまで感じさせられて。
「たった一度飯を食わせて放り出すのか? 同情の自己満足だろう、それは」
無意識のうちに、声にきついものが混じっていた。
毒さえ含んだその厳しさが、己のやましさを反映しているが故にだと。ハインリヒは言葉にした瞬間、自覚した。
まだ産まれてさほども経っていないだろうこの仔猫は、放り出してしまえば数日のうちに死んでしまいかねない。
野良の生活は厳しいだろう。充分な食物も、雨風をしのげる温もりも得られることなく。幼い仔猫が無事に成長できる確率など、ごくごくわずかなはずで。
それが判っていてなお、自分はこのか弱い生き物を捨ててしまえと言っているのだ。
あるいはそれは、無責任なことをしたくないという、ただ己をきれいに見せたいが故の、エゴではないのだろうか。
意識せず握りしめた拳が、膝の上で鈍い音を立てた。革手袋のこすれるその感触が、ひどく、気に障る。
だが ――
その言葉に応えてジェットが見せたのは、どこかすがすがしいとさえ呼べる微笑みだった。
「たとえ一食でも、こいつにはそれで充分だろうよ」
そう言って、再び目を上げてハインリヒを見返す。
澄んだ青いその瞳は、曇りひとつない明るい光をたたえている。
「飼ってもらおうなんて、
最初っからこいつは考えてねえよ。ただ次のメシが食えて、そんで明日の命を拾えれば、めっけもんだってぐらいで」
たった一食とは言うが、その一食を得ることさえもが、野良の生活では至難のことだ。
そして一食を口にすることができれば、それで三日は生命が延びる。その三日より先のことは、その時になってから考えればいい。
「三日後なんかの為に、食える今日のメシを棒に振る馬鹿はいねえよ。今日は今日、その次はその次、さ」
そっと手を伸ばし、長い指で柔らかな毛皮を撫でる。
眠りを邪魔されたのか、仔猫はかすかに鳴いて寝返りを打った。小さな肉球を指先でつつき、ジェットは楽しげに喉を鳴らす。
まだ来てもいない未来を憂い、
現在を棒に振るなかれ、と
――
明るく澄んだ瞳で口にするこの若者は、それを実践することで、これまでを生きてきたのだろうか。
「…………」
人はそれを、先のことを考えようとしない、愚かしい刹那主義と呼ぶのかもしれない。
けれどあくまで現実を、現在を見すえて日々生き続けようとするその姿勢は、ひどく眩しく、そして羨ましいほどのたくましさにも感じられて。
* * *
閉じた傘を手に玄関の扉を押し開けると、リビングにいた全員がいっせいに振り返ってきた。
思わずぎょっとした彼へと、みなはさらに同調した動きで、しーっと唇に指を当ててみせる。
「……何事だ?」
眉をひそめて問いかけると、彼らは同じ方向を指差した。
その指が示す先は、リビングの一角に置かれた、応接セットのソファの上だ。
三人がけの広い座面に、長身を伸ばして寝息を立てている、赤い髪の青年。
その左腕には、イワンの小さな身体が、半ばずり落ちそうな形で抱えられている。ジェットの脇腹へと背を預けた格好の赤子もまた、安らかな表情でその目を閉じていた。
そして、仰向けになったジェットの胸には、仔猫が丸くなっている。
折り重なった三つの身体は、ゆったりとしたリズムで静かに上下していた。
深く、穏やかな眠りの内に、まどろんで ――
「…………」
ハインリヒは、無意識の内に唇の端を持ち上げていた。
無愛想な鉄面皮と評されがちなその面差しに、確かに刻まれた温かな微笑み。
それはいま、このリビングにいる全員に、共通した表情だ。
「まったく、子供じゃあるまいに」
風邪でもひいたらどうするのだ、と。
小言を落としながらも足音を忍ばせるハインリヒへ、フランソワーズがタオルを持って歩み寄ってくる。
「はい、濡れたでしょう? ちゃんと拭かなきゃ駄目よ」
降りしきる横殴りの雨は、とうてい傘を差したぐらいで防ぎきれるようなものではなかった。
だが、差し出されたタオルを、ハインリヒはかぶりを振って退ける。
「大丈夫だ。もう止みかけてる」
そう言って窓の外を示した彼に、みなが外を見やった。
「ほんとだ。陽が差し始めてる」
この数日、重くたれこめ続けていた雨雲が、いくつもの切れ目を生じていた。
その雲間から、細く明るい陽の光が、まるで透明なベールのように降りそそいでいる。
ほのかに茜色を帯びたその陽射しは、すでに夕刻が間近いことをも知らせていた。
「いい加減、起こしても良いんじゃないのか」
ハインリヒがジェットを指差す。
いったいどれほど前から眠っているのか知らないが、いつまでもソファを占領されていては、邪魔になってしょうがない。
それに ――
「知らせてやりたいことも、あるしな」
せっかく仔猫の引取先を見つけてきてやったのだ。どうせなら、早く教えてやりたい。
そのために彼は、今朝から仕事先の運転手仲間に、片っ端から声をかけてまわったのである。
……おかげで、ずいぶんと恥ずかしい思いをする羽目にもなってしまったのだが。
* * *
―― 未来を憂い、現在を棒に振るなかれ、と。
明るく、そして静かに凪いだ瞳でそう口にするジェットは、あるいはそれを実践せざるを得ないほどに、未来に裏切られ続けてきたのかもしれない。
NYの下町で、親も、守ってくれる大人達も存在せず、ただ自らの力だけで生きてきた子供。ようやく成長し、自らの力で人生を切り開こうという段になってもなお、その未来は無惨に奪われ、切り裂かれて。
あの言葉は、彼の持つたくましさとともに、未来への期待などしたところで無駄なのだと、そんなふうに宣言しているようなせつなさをも感じさせた。
けれど……
降り止まない雨などないように。
長い雨の後には、必ず雲間から明るい陽射しが差し込めるように。
―― いつか訪れる未来もまた、けして辛く苦しいものばかりだとは限らないのだと、教えてやりたい。
この、穏やかな空気をもたらしてくれた、子供達に。
「おい、起きろ」
ぶっきらぼうにかけられた声の先で、形も大きさも異なる三対の瞳が、重たげにそれぞれの目蓋を、持ち上げる
――
おまけ
※ kanau様より、素敵なイラストを戴きました ※
イラスト1 イラスト2
(2002/7/5UP)
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