呼びかけに応じて上げられた目は、けして光を失ってはいなかった。
薬物のせいでまだ焦点の合わない視線。ボクの姿を探してか、幾度かあたりをさまよってから、再び床へと落とされる。
『聞こえてる、よ。なんて声、出してんだ』
“002……”
まるで馬鹿のように。
その時のボクはただ、彼の名を繰り返すことしかできなかった。
そんなボクのテレパシーに、彼は小さく口元を歪めてみせる。
『大丈夫だ。これぐらい、なんてこたぁ、ねえ』
無惨な両脚へと目を向け、それでも彼は言い切った。
“ダケド”
『確かに、ちっとばっかひでえことになってるが、それでもオレは、生きてるだろ』
“生キテ……?”
『ああ。オレは生きてる。身体の半分以上を機械に置き換えられて、それでも飽きたらず、毎日みたいにそこかしこをいじくりまわされて。それでも、少なくともオレは、ちゃんと生きてる』
その言葉と共に、彼の脳裏にある映像が、ボクの中へと流れ込んできた。
下町の、塵埃と貧しさに満ちた生活。
親は子を殴り、子は親を足蹴にし。わずかな金のために幼い少女が身体を売る。痩せた浮浪児が生ゴミをあさり、ようやく手にした食べ物を、ナイフを持った別の子供が奪い取ってゆく。そんな光景が、当たり前の日々。
飢えと闘争、生と死、ドラッグと性とが入り乱れた、そんな日常が、幼い彼の過ごしてきたそれだった。
だから、心配するな、と。
『ろくでもねえのは、あの頃も今も、たいして変わっちゃいねえ。だから……大丈夫だ』
そう言って、彼は笑ってみせる。
運命が理不尽なのは、今も昔も同じことだ、と。それは彼の常からの口癖だった。
人は産まれる場所も親も選ぶことができない。そのくせ貧しく産まれついた人間は、努力したところでそうそう這い上がれるわけでもなく、逆に良いトコの出のやつは苦労なくぬくぬくと過ごす。
金持ちはいつまでも金持ちで、そして貧乏人はいつまでも、どぶ泥の底をはいずり回るのがせいぜいだと。そんなふうに言っては、乾いた笑みを口元に貼り付けていた。
この世のすべては理不尽で、人はみな平等だなんて、そんな言葉はうそっぱちでしかない。
ならばここでオレがこんな目にあっていることだって、絶望するほどのことではないのだろう。
静かな口調でそう語る彼を、それまでのボクは、そんなものなのかとしか思っていなかったけれど。
けれど ――
“ナラキミハ、今ノ状態ニ満足シテイルノカイ? コンナ目ニ遭ワサレテモ、平気ダトイウノカ”
『まさか』
答えは即座に返ってきた。
『満足なんて、してる訳ねえだろう』
乾いた、力のない……けれどはっきりとした思念が届く。
『いつか絶対、逃げ出してやるさ』
“逃ゲ、ル?”
『ああ。ここから逃げ出して、そんで今度こそ、自由の身になってやるんだ』
告げられる内容は予測もしなかったそれで。
ボクはしばらく言葉を返すことができなかった。
それを不審に思ったのか、002がのろりと
面を上げる。
『001……?』
“ココカラ、逃ゲダスッテ?”
『ああ』
“…………”
ボクの沈黙をどう思ったのか。
彼はやがて、ぽつりと呟いた。
『 ―― もしかして、お前。考えたことも、なかったのか』
この基地から外に出るという、そんな選択肢を意識することすらなかったのか、と。
そのときのボクは、それに何も答えることが、できなかった。
* * *
BG基地から逃げ出して、外の世界で生きてゆく。
それまでボクの中には、そんな考えなどまったく存在していなかった。
ボクにとっては、この基地の中だけが世界のすべてで。確かに何不自由ない生活だとは言えなかったけれど、それでもボクはそれ以外の暮らしを知らなかったから、それが当たり前のものなのだと思っていた。
それにボクの存在が、外の世界では異質なものだと言うことだって、判っていた。
成長することのない赤子。
確かにボクは人並みはずれた知能を持っている。加えて超能力も備えているから、大概のことはできる自信があった。それでも、たとえば働いて金銭を得ることや、それを使って一人暮らしをするような真似は、どう考えたって不可能だ。
この未熟な肉体には、日常の細々した世話をしてくれる人間が欠かせなかった。まして定期的に永い眠りについてしまうその間などは、完全に無防備な状態になってしまう。
だから、ボクが生きていけるのは、この基地の他にはないのだと。ごく当たり前に、そう考えていた。
そんなに不幸なことではないのだろう。
確かに、実験体であるボク達は、いつ不必要と見なされて処分されるかも判らない。
けれど明日の命をも知れないのは、普通に暮らす世の人々も同じではないのか。事故や病気、通り魔的な殺人者に襲われる人間もいれば、ある日いきなり原因不明のまま急死する人間だって存在する。
002の言うとおり、運命なんて理不尽なものだというのならば、ボクのこの生き方とて、ごく当たり前に存在する、ひとつの人生でしかないのだ。ならば、流されるままに生きていくのだって、かまいはしないではないか、と
――
そんなふうに考えるボクは、しょせん冷静な大人の振りをした、世間知らずの子供でしかなかったのだと、今ならば理解できる。
未来を予測し、その困難さを思い描き、なにもしないうちにあきらめてしまう。
それは断じて、『大人』の持つべき、物わかりの良さなどではなかったのだと
――
* * *
新しい脚を与えられた002が、再びボクの元へと現れたのは、さらに数日が過ぎてからだった。
「よっ」
明るい表情で片目を閉じてみせる表情に、あの独房で見せた虚ろさは欠片も残されていない。
「なんだよ、寝てんのか?」
反応しないボクをのぞき込んで、目が開いていることを確認すると、彼はほっと表情を和らげた。
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