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 斬靄剣ざんあいけん  ―― 鈴音道行すずねのみちゆき ――
 第 一 幕
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2002/5/18 11:59)
神崎 真


 最後の和音をかき鳴らし撥を休めると、周囲をかこむ人垣から、てんでに歓声が上がった。
 拍手の音に入り混じり、ちゃりんちゃりんと幾つもの銭が投げこまれる。
「ありがとうございました」
 志朗しろうは、うたいを口ずさむ時そのままの柔らかな発音で、聴衆へと礼を述べた。そうして弾き終えた三味線を持ち直し、優雅な所作で会釈する。
 それで彼の商売の仕舞いを知った聴衆は、名残惜しげにしながらも、それぞれに散り始めた。道の一角にできていた人だかりが、またたく間にその形を失ってゆく。
 ひとつ小さく息をつくと、彼はつと膝を折ってかがみ込んだ。地面に広げていた手拭いへと、投げられた銭を拾い集めていく。
 手早く包んで懐にしまい込んだ志朗に、少し離れた位置に立っていた男が歩み寄ってきた。
「盛況だったようだな」
 よく響く、太い声がかけられる。
 周囲に残っていた数名が振り返り、はじかれたように場所を空けた。
 それも無理はない。
 その男は、身の丈六尺はあるだろう、見上げるような巨躯の持ち主だった。それもただでかいと言うだけではない。着物の合わせや袖から覗く肉体は、見事に鍛え上げられていたし、胸も肩も分厚く広い。堂々たる偉丈夫だ。こんな男の機嫌を損ねては、ひとたまりもあるまいと誰しもが考えるだろう。
 のそりと巨体を運ぶ男に、しかし志朗は表情をやわらげた。立ち上がって膝の土を払い、たたっと小走りに近づいてゆく。
「待たせたね、シンさん」
 どこか冷たいところを感じさせるその美貌に、穏やかな表情を浮かべて男を見上げる。
「む」
 シンさんと呼ばれた男は、短くうなずいて志朗を迎えた。
「ちょっと待ってておくれよ。すぐにしまっちまうから」
 そう言って、手早く三味線の糸を緩め、胴の部分を懐から出した紫の袋でくるむ。そうして大切そうに小脇へと抱え込んだ。
「今の音、どうだった?」
「ああ……良かったんじゃないのか」
 気のなさげな返答にも、青年は頬を染めて嬉しそうに微笑む。
 それを目にした周囲の者達から、小さなため息が洩れた。
 芸人の中には、芸だけではなくその肉体 ―― いわば色を売りとしている者も数多い。ことにこの時代、衆道【※しゅどう:男色のこと】は禁忌でもなんでもない、ひとつの嗜みともなっている。ゆえに見物人の中には、美貌の芸人を相手に、茶か酒でも一杯、と目論んでいたやからも少なからずいた。
 だがそれらの者達は、親しげに言葉を交わす大男の姿に、かぶりを振って場を離れていく。どう見ても情人としか見えない屈強な男を前に、あえて声をかける勇気のある人間はいなかったらしい。
「行くぞ」
「うん」
 きびすを返して歩き出す男を、軽い足取りで志朗が追う。


 通りの真ん中を堂々と歩む二人連れを、道ゆく人々は時おり足を止めては振り返っていた。
 ひとりは着流しの上に長羽織をはおった、美しい面差しの青年。小脇にたずさえた三味線や、どことなく小粋な雰囲気を漂わせる立ち振る舞いから、芸人らしいとうかがえる。そしていまひとりは、三十がらみの屈強な浪人。傍らを歩む青年の背が、やっとその肩をかすめるかどうかという、巨漢である。
 だが男が目立つのはその巨体からばかりではなかった。確かに男はたくましく鍛えられた肉体を持っていたが、さりとてむさ苦しい、力だけが自慢のならず者などとというようには見えない。それどころか、ひきしまった剽悍な顔立ちにどこか涼しげな表情さえたたえた、かなりの男ぶりである。
挿絵2
 装いがまたすごい。派手な色の小袖を無造作に着流して、大きくくつろげた胸元から、裏地の鮮やかな緋色を覗かせている。高い位置で結い上げた総髪は、毛先が背の半ばに届くほど長い。角帯に長い太刀を一本落とし差しにぶちこみ、反対側に煙草入れ。吸い口の長い煙管キセルは、今は右手に持っている。
 のんびりと足を進める男の横で、青年の方は小刻みに忙しく歩を運んでいた。その動きに合わせ、ちりちりとかすかな音が生じる。長い黒髪が背の半ばほどでゆったりとくくられているのだが、結ばれている鮮やかな色合いの組み紐に、さらに小さな鈴をつけた細紐がからめられているのだ。その鈴が、身動きするたびに涼やかに音を鳴らしている。
 どちらもたいそう目を引く扮装なりであり、共に歩めばいっそう引き立つ二人連れであった。
「ちょいと、ずいぶん派手やかだが、ありゃぁ何モンだい?」
 折しも使いの途中とおぼしき商家の手代が、近くにいた別の町人へと問いかけた。
 声をかけられた相手は、知ったふうな顔をして口を開く。あまり大声を出して行き過ぎた二人に聞きとがめられぬよう、ひそめた囁きで答えを返した。
「旅芸人と、その連れのコレさね」
 身体の影で親指を立ててみせる。
「ここ何日か、このあたりで三味線弾いてるんだがよ。界隈じゃけっこうな評判だぜ?」
「確かにえれえ別嬪だが、イロつきかね。勿体ねえなぁ」
 ため息をつく手代に、男は苦笑いする。
「なんでも毎晩暮れ六ツからしばらく、泊まってる橋脇の木賃宿で弾いてるらしいよ。時間が空いたら覗いてみたらどうだい? 酒の酌ぐらいは、させられるんじゃないかね」
「なぁる。そりゃ良い」
 うなずいて、二人の男はくつくつと含みのある笑いを交わした。
 似たようなやりとりは、通りのそこかしこで交わされている。


 時おり耳に届く噂話に、志朗は唇の端に小さな嗤いを刻んだ。
 それは皮肉の色を多く含んだ笑みだったが、この青年の薄い口元にあると、それさえもがどこか蠱惑的な色香を感じさせる。
 彼は痩身ではあったが、けして蒲柳の質と言うわけではない。むしろ骨張った長い指や、背から肩にかけてのすっきりとした線などは、明らかに成人した男の持つ、完成された肉体のそれだ。
 だが、長い旅の生活にあっても全く日焼けする気配のない白い肌や、きつい光をたたえる切れ長の瞳、そのすぐそばにぽつんとある泣きぼくろといったものなどが、彼をどこか高慢な雰囲気を持つ、婀娜あだなる麗人として見せていた。
 男達は、彼のまとう空気に心を奪われ、そしてその手で高いだろう矜持を踏みにじりたいと ―― そんな欲望を抱いてしまうらしい。
 芸人として旅を続けてきて、そんな身勝手な振る舞いに、志朗は幾度となくさらされてきたものだ。そしてそういう男達に限って、たかが芸人風情、金さえ払えば誰にでも身を任せるのだろうなどと、たわけたことをほざいてくれる。
「ねえ、シンさん」
 志朗は前を歩いている男に声をかけた。
 と、男 ―― 進之介は、足を止めぬまま問い返す。
「ん、どうした」
 聞き返してくる進之介に答えかけて、しかし志朗ははっと目を見開く。
「シンさん、前!」
「うおッ?」
 注意を喚起するが一瞬遅く、進之介は向こうから歩いてきた魚売りと真正面にぶつかった。
 前をむいたままだったその顔面へと、長い天秤棒がまともにめりこむ。
 いかにも痛そうな鈍い音が聞こえた。
 進之介は両手で顔を押さえ、その場にしゃがみ込む。
「お、お武家……さま……?」
 小刻みに震える広い背中に、魚売りが恐る恐る声をかけた。
 正直を言って、今すぐにでも逃げ出してしまいたいところだろう。
 いかに浪人態とはいえ、士分の者に一発まともに入れてしまったのだ。まして相手は派手ななりをした無頼の。下手をすれば無礼討ちで命すら危うい。
 見ていたまわりの者達も、やっかいごとを避けるかのように大きく距離をあけた。進之介と志朗、魚売りの三人を中心に、ぽっかりと人のいない空間ができあがる。だが物見高い人々は、逃げるのではなく、安全な場所からことの成り行きをうかがっていた。
 その中心で、どうなることかと怯える魚売りをよそに、志朗はつと歩を進めて進之介のそばへと膝をついた。
「大丈夫かい? ほら、見せてみな」
 苦痛の声を無視して、分厚い手のひらを顔から引き剥がす。そうしてぶつけたところをのぞき込んだ。
「ああ、額がちょっと赤くなってるだけだね」
 ほっとしたように息をつく。
 どうやらひどい怪我はしていないらしい。
「まったく……ひとりでさっさと行っちまうからだよ」
 拗ねたような口調でそう言って、志朗は赤くなった部分に口づけた。
 鮮やかに紅い舌が先端を覗かせ、進之介のよく陽に焼けた額を、ちろりと舐めてゆく。
「…………」
「…………」
 周囲の人垣が、しんと静まりかえった。
 見守っていたうちの幾人かなどは、ほんのりと頬を赤く染めている。
「ほら、いつまでしゃがんでるのさ」
「む……」
 志朗はまだうなり続けている進之介の腕を引っ張り、強引に立ち上がらせた。そうしながら、腰の後ろでしっしっと手を振り、魚売りに立ち去るよう促す。
「辛いなら、そこの茶屋にでも入ろうよ」
「あ、ああ」
 頼りない足取りの進之介に寄り添い、志朗は慣れたように茶屋の店先まで導いていった。
 後に残されたのは、ぽかんとした風情で立ち尽くす魚売りと、ひそめた声で交わされる野次馬達のいかがわしげな噂話ばかりで ――


*  *  *


「ったく、なに間抜けたことやってんだよ、いつもながら」
 どっかりと畳の上にあぐらをかいた青年は、乱暴な仕草で頭を掻きながらそう吐き捨てた。
「あんたがボケてんのはいつものことだけどさ、ちったぁ自分が抜けてるのぐらい自覚して動けよなっ」
「あ〜、うむ」
 やはりあぐらをかいた進之介が、まだ額をさすりつつ歯切れの悪い声を出す。
 途端に志朗は相手をにらみつけた。
「どうせ、今度から気をつけるとか言って、そのまま忘れるつもりだろ」
 鋭い眼光にひるむ様子もなく、進之介は身体をねじって閉じた障子の方を見やった。
「酒はまだかな?」
「聞けやおっさんッ!」
 腕を伸ばして派手な小袖の襟首を掴む。膝立ちになってにじり寄る志朗のテンションは、どこまでも高かった。ブチ切れる寸前のその姿に、先刻までの妖艶な色香など、欠片も残されてはいない。
 鼻が触れ合うほどに顔を近づけられて、ようやく進之介は相手の方を見返した。
「判った判った。そう怖い顔するな」
 大きな手のひらを志朗の頭に載せ、くしゃくしゃと掻き回す。
 子供を相手にするかのようなその手つきに、志朗は毛を逆立てた猫のごとく唸った。
「アンタなぁ……ッ」
 怒鳴りかけたところで、障子の向こうから声がかけられる。
「酒をお持ちしましたが」
「おお、待ってたぞ」
 早く早くと催促する。と、盆を掲げた下女が障子を開けて入ってきた。
 進之介の膝に半ば乗り上がっていた志朗は、はっと我に返って身を離そうとする。だが下女は気に止める様子もなく、酒肴しゅこうを整えると一礼して退出した。
 ―― ちなみにこの時代の茶屋とは、店先で酒や茶を出すほかに、遊興施設としての一面も持っている、いわばラブホテルだ。店付きの遊女をはべらすこともできれば、言い交わした相手との逢い引きに使われることもある。たかが寄り添っている程度のことで、従業員がうろたえなどするはずもなかった。
「…………」
 がっくりと肩を落とす志朗をよそに、進之介は手探りで盆を引き寄せる。不器用な手つきで銚子を取り上げ、直接口をつけた。いかにも旨そうに喉を鳴らすのを見て、志朗は深くため息をつく。
 ごそごそと膝の上から降りて座り直した。
「ほら、貸せよ。注いでやるから」
 手を伸ばして銚子をひったくった。空いた手には代わりに盃を押しつけてやる。
「お、すまん」
 相好を崩す進之介に、苦笑しながら酌をした。
「……ま、あんたがそういう奴だから、俺もやりやすいんだけどさ」
 そう言って、自分も盃を取り、手酌でり始める。
 片膝を立てその上に盃を持った腕の肘を載せる。着流しの裾が大きく割れ、ふくらはぎから腿にかけてがあらわになった。その白い肌の色合いなど、先刻彼の三味線を聞いていた聴衆あたりが目にすれば、思わず生唾のひとつも呑もうかというなまめかしさだ。
 が、進之介は全く気にとめることもなく、ひたすら酒を口に運んでいる。
 見る者がどのように感じていようとも、実はこの二人の間に色めいたものなど、小指の爪先ほども存在してはいなかった。
 進之介にしてみれば一回り近くも年の離れた志朗は、その短気さや口うるさい所から、ほとんど弟か息子のようなものだったし、志朗は志朗でこの見た目と裏腹にズボラでめんどくさがりの大男を、手の掛かるおっさんだとしか思っていない。
 ―― もっとも志朗の場合は、周囲から自分達がどのように見えるのかを把握しており、あえてそれを利用している節もあったりするのだが。
 少なくとも、この男と道連れになってから、うっとおしく口説いてくる輩が激減したことは事実である。そばにいるだけで大概の男は気後れして近づいてこなくなったし、なにかやっかいなことが起きた場合は起きた場合で……
「なあ」
 物思いに耽っていた志朗は、声をかけられてはっと顔を上げた。
「え、なにさ」
「なんか聞かせてくれねえか?」
 進之介が懐手で胸を掻きながら、乞うてくる。
 一瞬なんのことかと思った志朗だったが、すぐに気がついて脇に置いていた商売道具へと手を伸ばした。
「何にする?」
「そうだな……常磐灘ときわなだの海戦のくだりとか」
「ああ良いね。久しぶりだ」
 流行はやりれ歌や恋物語などではなく、古典とも呼べる歴史語りを所望されて、志朗は嬉しそうに笑った。弦を調節しつつ数度撥を当て、音を合わせてゆく。
 楽器としての三味線の需要は幅広い。持ち運びが手軽にできることもあって、地唄や義太夫、浄瑠璃、流行歌から座敷芸の伴奏まで、様々な場で使用されている。特に志朗のような旅芸人ともなると、曲の種類や内容をえり好みする余裕などもなく、乞われるままにたいていのものは弾いてみせた。
 ―― 少なくとも、それができる程度に、志朗の伎倆ぎりょうは卓越していると言える。
 だが、実のところ彼がもっとも得意とするのは、長い上に地味で滅多に乞われることもない、歴史物語のたぐいだった。
「あまり大きい音は出せないけど……」
「でかけりゃ良いってもんじゃないだろう?」
「まあね」
 じょじょに撥の動きを早めながら、志朗は肩をすくめる。
 それから小さく咳払いをして、喉の調子を整えた。
 最初の一節が、ひときわ高く室内に響く ――


*  *  *


 ―― 世界の地図で確認すれば、極東の片隅の、ほんの小さな島国風情。
 だが住まう人々にとってはそれなりの広さを有するこの国を、震撼させたは天下分け目の大いくさ。それも、いまは遠く遙かな彼方の時代。
 既にかのいくさを直接見知る者は鬼籍に入って久しく、戦いを忘れた大名達は、おのおのの領地を運営するのに心奪われ。
 天下統一という偉業を為しえた将軍家もまた、移り変わる世代にその血を薄め、ただ遠き東の居城にて、その子孫がのんべんだらりの治世を敷いた。
 いくさの無くなった太平の世に、庶民達は持ち前のたくましさで、自らの生活を作り上げる。
 整備された街道をわずかにはずれれば、夜盗や山賊、有象無象が粗末なやいばをきらめかせ、町方商人達の間では、抜け荷や賄賂が裏でゆき交い。
 良くも悪くも、活気に満ちたこの時代。
 どこにでもある、どこと言って特徴もないとある宿場町で、この物語は幕を開ける。


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