ソラノナミダ
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/04/17 21:06)
神崎 真


 むせかえるような草いきれが、あたり一帯に立ちこめていた。
 藪をこぐ手元から、下生えを踏みしだく足下から、湿気を含んだ青臭い空気が揺らめくように立ち昇ってくる。
 道らしい道など存在しない、鬱蒼とした雑木林のただ中を、彼 ―― 秋月和馬はひたすらに進み続けていた。
 木々に遮られ、視界は全くといっていいほどきかない。足下もひどく不安定で、動きを妨げられることおびただしい。
 だが、それを利用して身を隠すことができるならまだしも、ここが『相手』にとっては住み慣れたホームグラウンドである以上、移動する足を止める訳にはいかなかった。とにかく、もっと有利な場所までたどり着かなければ、冗談抜きで命が危ない。

 ざわり

 うなじの毛が逆立つのを感じた。何かが見えたのでも、音がしたのでもない。が、和馬はその直感に従って自らの身体を横に投げ出した。ばきばきと枝を折り、名も知らぬ低木の茂みへと頭からつっこむ。
 間をおかず、冷たい風が吹き抜けていった。かつっという軽い音がして、目の前の立木に斜めの線が入る。その線は、見る見るうちに幅を広げ、線より上の部分がゆっくりと向こう側へ倒れていった。周囲の木々が巻き添えを食って枝をへし折られてゆく。くっきりとした年輪を見せる切り口は、いっそ見事なまでのなめらかさだ。
  ―― 幹の太さは床の間の柱にできそうなほどある。あのまま進んでいたら、腕の一本は楽勝で無くなっていただろう。内心に冷や汗を浮かべながら立ち上がった。あちこち引っ掻き傷だらけだったが、そんなものを気にしている場合ではない。
「話を聞く耳は無ェってことか……判っちゃいたが……」
 ひとりごちる。
 声には苦いものが混じっていた。太い眉が寄せられ、吐く息には無念の色が濃い。
 しかし、一度伏せてから上げられたその瞳には、何かを決断した力強い光が宿っていた。


 それからも幾度か同じようなことが続いたが、和馬はどうにかすべてをかわし、無傷で林を抜けた。出たのは、広く開かれた場所だった。木を切り、下生えを刈り、土を削って平らにならされた土地。あちこちに停止しているのは、何種類もの建設機械だ。本日の作業は休みらしく、立ち働く人間の姿は見あたらない。
 和馬はブルドーザの一台を背にして立った。出てきたばかりの雑木林の方を、ひたと見つめる。腰を低く落とし、五指を緩く開いた両手を、身体の脇に自然に垂らした。
 緊張した時間が流れた。
 全神経が周囲に張りめぐらされ、近づくものすべてを捉えるべく、鋭くとぎすまされる。先刻まで内にあった迷いや焦りは、完全に消えていた。
 風が吹いた。
 それに反応して、指先がわずかに揺れる。
 刹那の一瞬。
 旋風が実体を持って襲いかかった。むかえうつ和馬の右手が、消えたかと錯覚する早さで一閃される。
 血しぶきが大気に舞った。
 風をまとった黒影が二つに切断され、重機にぶつかり地に墜ちた。
「 ―――― 」
 緊張であがった呼吸を整えながら、和馬は自分が手に掛けたものを見下ろした。
 それは、イタチに良く似た生き物だった。ただし、その体格は大型犬ほどもある。細く長い頭部と胴体。それに比するかのように短い手足。前足には長く発達した爪があった。剃刀のように鋭く強靱なそれが、左右の足に一本ずつ、胴体と同じほどの長さに伸びている。
 血だまりの中で断末魔の痙攣を繰り返すその傍らに、そっと膝をついた。手を伸ばし、濁った赤い瞳の目蓋を閉ざしてやる。そんなことしかしてやれない、己の無力さをかみしめながら。
 気が付くと、そばに人が立っていた。恰幅の良い身体に上等なスーツを着た、いかにも会社の偉いさんといった風情の男だ。かぶったヘルメットに、今回の依頼者である土建会社の名前が書いてある。
「こいつが、噂の怪物か……」
 かがんだ和馬を盾にするようにして、肩越しにおそるおそる覗きこんでくる。複雑に歪んだ表情とそらしがちな視線には、未知の生き物に対する驚きと好奇心、そして嫌悪がありありと見てとれた。
  ―― 住宅地を建設するため、山林を伐り開いて造成を行う。その作業現場で立て続けに起こった不可解な事故は、工事の深刻な遅れと会社の信用の低下を招いた。さらに作業員を次々と襲う謎の怪物が現れ、下請会社までが工事から手を引こうとし始める始末。
 それでも怪物のうち一匹は、作業員達が協力して何とか叩き殺した。が、そいつには他にも仲間がいたのだ。そしてそれまでは人を転ばせたり、せいぜい軽い切り傷程度しか負わせずにいた怪物達が、翌日から容赦ない殺戮を始めた。
 腹を割かれた者、首を落とされた者 ―― 頭頂から股間までまっぷたつにされた者もいた。こうなってはもはや、素人の手にはとても負えない。
 そうして和馬へと依頼が持ち込まれたのだ。正確に言うならば、和馬が所属する一門、風使いの秋月家へ、と。
「いったい何なんだ、これは。こんなものが日本にいるなど、聞いたこともないぞ」
 和馬をここまで案内した男は、気味悪そうにそう吐き捨てた。
 男はいちおうこの工事の責任者だという話だったが、実際に現場へ足を踏み入れたことはほとんどなかったらしい。今回の異変についても、話を聞いているばかりで怪物の姿を目にするのも初めてだという。
「カマイタチっていう言葉くらいは聞いたことあるでしょう」
 立ち上がりながら言うと、男は怯えたように二、三歩後ずさった。
 和馬の巨体は、しばしば対する相手に威圧感を覚えさせるものだった。間近から見下ろされて、脅されてでもいるような気がしたのだろう。 ―― 今はあながち誤解でもなかった。
「……あ、あぁ、何だったかな……そう、風が吹いた時にできる真空のせいで、手や足が切れることがあるとかなんとか……」
 多少はものを知っているらしく、いささか舌をもつれさせながらもそう答えた。
「それも間違いじゃないですね。実際、俺がやってるのはそっちですから」
 怪物の完全に両断された胴体を示す。その仕草につられ、男ははみ出た内臓を直視してしまう。ぐっと喉を鳴らし、慌ててあさっての方向を見た。和馬はそんな男の動揺には構わず、先を続ける。
「ですが元々は妖怪の名前なんですよ。『鎌』のような爪を持つ『イタチ』のような妖怪の、ね」
「よ、妖怪って、君……」
 笑いとばそうとした男が、視界の隅にある死体に笑みを引きつらせる。
「あんた方が認めようと認めまいと勝手ですがね、ここに彼らがいたことは事実なんです。平和に暮らしていたのを、狩りたてたのもね」
「何が言いたいんだね」
 途端に男はむっとなった。たとえ言葉の意味はきちんと理解できずとも、向けられた悪意には敏感に反応してくる。和馬は苛立ってくる気持ちを抑えようと、男から視線をはずした。
 そうして雲が流れる空を見上げる。
「別に」
 短くつぶやいて歩き始めた。もう死体にも男にも目はくれない。
「ま、待ちたまえ、君!」
 放り出された形になって、男は慌てた。
「『これ』の始末はどうする気だ!?」
「もう腐り始めてます。明日には跡形もなくなってますよ」
 素っ気ない返事に見下ろせば、確かに鼻をつく異臭と共に、形を失い始めている。息を呑んで立ち尽くす男に、さらに言葉が投げられた。
「それからここの工事はやり直した方がいいですよ。ことに今夜からしばらくは嵐になる。まずは無計画に削った山が崩れないよう、手を打つことです」
 その言葉に、男の顔がさっと紅潮した。険しい表情で遠ざかる和馬の背をにらみつける。
「し、知ったふうな口をッ。この土地は綿密な計画にのっとって、的確な造成を行っているんだ。貴様のような拝み屋風情に、どうこう言われる筋合いなどない!!」
 唾を飛ばして力説する姿は、しかしいささか行き過ぎの感があった。たとえるならば、図星を指されて焦るかのような。
 和馬は足を止めない。男はますますいきり立った。
「それとも脅して報酬をつり上げる気か? 馬鹿なことを! こっちだって天気予報ぐらい見ている。明日も明後日も、雲ひとつない快晴なのは判ってるんだ。残念だったなッ」
 わめくだけわめいて息を切らせた男を、ようやく和馬が振り返った。表情のない顔で、何も言わずに男を眺める。
 その手がゆっくりと上がった。軽く動かすだけで怪物をも両断する、必殺の旋風を生み出す腕が。
「 ―――― 」
 蒼白になって硬直した男をよそに、和馬はくわえた煙草に火をつけただけだった。
 そして再び歩き始める。今度こそ振り向くことなく。
「なっ……」
 からかわれたのか。
 男は憤りと羞恥に身を震わせた。握りしめた拳がぶるぶると震える。
 そのはるか頭上では、風が激しく渦を巻き始めていた。そしてその流れに乗って、黒雲が次々と湧き上がってきている。
 暗く重い雨雲が、急速に上空を覆いつつあった。

  ―― しかし、男はそのことに、全く気がつこうとはしなかった。


*  *  *


 ひとりタクシーで駅まで戻ってきた和馬は、駐車場に置いていた車に乗り込むと、グローブボックスから携帯電話を取り出した。一連の番号をプッシュし、耳にあてる。
 待つほどもなく相手が出た。
「和馬です。仕事が完了しました」
 簡潔に告げる。
 穏やかな壮年の声が応じた。
  ―― ご苦労だったな。それで?
「やはり鎌鼬カマイタチでした。工事で住処を荒らされたのが原因でしょう。話にあった他にも、もう一匹殺されていました」
 淡々と報告する。
「最後の一匹は、非常に凶暴になっていたので処分しました。死骸はそのままにしておきましたが、明日までには消えているでしょう」
  ―― そうか。詳しいことは後で報告書を出してくれ。
「わかりました。では、失礼します」
  ―― うむ。今日は良く休め。
「はい」
 言葉少なにではあるが気遣う声に、硬くなっていた和馬の表情がわずかに緩んだ。相手に見える訳でもないのに、頭を下げてから通話を切る。再び電源をOFFにして携帯をしまいこんだ。エンジンをかけ、サイドブレーキを下ろす。
 自宅までたっぷり数時間はかかる距離だった。
 運転しながらラジオや音楽を聴く習慣のない和馬にとっては、余計な考えを巡らせる時間が与えられたようなものだった。短い会話で一度は軽くなった気持ちが、また少しづつ低迷してゆく。
 他に方法はなかったのか、と。
 もしも他人にそう訊かれたならば、なかったのだとしか答えようがない。
 鎌鼬とは、三匹が一体となって行動する妖怪だという。
 一匹目が人を転ばせ、二匹目が斬りつけ、三匹目がその傷に薬をつけてゆく。現実にそんなふうに働くのかは定かでないが、仲間意識の強い存在だということは確かに言えた。そんな彼らのうち、一匹は作業員達に叩き殺され、もう一匹もその場では死なないまでも、ひどい傷を負わされたのだろう。ほとんど溶けた、死骸の成れの果てが山中で見つかった。
 平穏に暮らしていた住処を開発の名のもとに突如荒らされ、抵抗すれば仲間を殺される。……残された最後の一匹が猛り狂ったのも当然のことだった。住処を余所に移せ、人間と争っても無駄だと説得することなど、出来ようはずもなかった。
 鎌鼬の抱いた無念。和馬には痛いほどに理解できた。
 和馬は秋月家という、特殊な一門に生を受けている。目には見えぬ、大気の流れを読み取り、操る能力を持ち合わせた、風使いの一族に。それは常人には及びもつかぬ力だ。使いようによって、あらゆる方向にいくらでも応用を利かせられるものだ。しかし……他者にない能力を持ち合わせるということは、単純に他者より優れているという事実を示しはしない。生きていくのに不可欠であるもの以上の能力は、それだけ生きてゆくのに必要のない労苦を与えることともなるのだ。
 ことに人間という生き物は、自らと異なる部分を持つ存在を、努めて排斥しようとする部分を持つ。それが生き物として持つ、未知なるものに対する自己防衛本能であるのか、それともより優れた者への羨望からくる妬心なのか。あるいはもっと複雑なものに裏付けられた行動か ―― 理由など明確にせずとも、現実はただそこにある。
 数百年の昔。秋月家の始祖となった風使い達は、その特殊な能力故に、一般世間に溶け込むことができず、血族同志で結束せざるを得なかった。そしてその排斥と団結は、時代を超えた現在でも、変わらず存在している。だからこそ……鎌鼬の無念を和馬は理解できるのだ。
 そう、仲間達を、秋月家の者達を理不尽に害されたならば、彼もまた復讐を考えるだろう。第三者の言葉になど、耳を貸す余裕もなく ――
 心がささくれてくるのを感じて、ポケットをまさぐった。前をゆく車から目をそらさぬまま、煙草を出して一本くわえる。運転席のライターで火をつけた。無意識に噛み潰してしまったフィルターから、まずい煙が出てくる。顔をしかめて吐き出した。
 それでも。
 あれを殺したことについて後悔するつもりはなかった。
 秋月家が依頼を受け、構成員たる和馬にやつの退治を命じた以上、凶行を見逃すことは秋月家自体に対しての反逆となる。和馬は家命に逆らう気など毛頭なかったし、何よりあの場では、むこうを殺さなければこちらの方が殺られていた。
 有り体に言ってしまえば、己の立場や命を懸けてまで、救ってやろうと思うほどの相手ではなかったのだ。今になって助命してやれば良かったなどと思うのは、単に自分の罪悪感を紛らわせようとするエゴであり、偽善だ。最終的に殺すのを決めたのは和馬自身であり、とっさに加減ができなかったとか、本当はやりたくなかったなどと今さら言い出すのは、もはや自身の決断をおとしめることでしかない。
 ふと、ステアリングを握る両手を見た。
 和馬の得物は風だった。ふるったのは真空の刃。手指には一滴の血潮も浴びてはいない。しかし、彼はその手が汚れていることを自覚していた。目には映らない、そしてどんなに洗ったところで落ちることのない、罪、穢れ。他者の命を奪ったという、その事実そのもの。
 これからもまた、同じことがあれば何度でも、自分は同じことを繰り返すだろう。これまでもずっと、そうしてきたように。たとえそうすることで多くの命をその手で奪うことになるとしても、そうする以外の方法を彼は選べなかったから。己の命と一門に対する執着を、忠誠を捨てることはできないのだから。
 ……けれど、
 大きく息を吐き出した。ふわりと車内が白くけむる。
 もしも、かなうものならば……
 長くなった灰をトレイに落とし、再び口に運んだ。フロントガラスのむこうを見る目が細められる。見ているのは、前の車のテールランプなどではなかった。
「強く……なんねェとなぁ……」
 つぶやく。
 たとえどんなに強いものを相手にしても、ねじ伏せられるぐらいに。
 問答無用でねじ伏せて、捕まえて、人間などやってこない深い深い山中に放り出す。そんなことができるぐらいに強くなれたなら……
 そうすれば、甘いことも言えるかもしれない。自分の手を汚したくないからではなく、ただ相手のことを想えばこその言葉を、自分に許せるかもしれない。
 もう一度深く煙を吸い込んで、短くなった煙草をもみ消した。
 フロントガラスにぽつぽつと雨の粒が当たり始める。
 風の名を持つ眷属の死に、大気が流す悲しみの涙だ。風によって風が死に、それを悼んで風が泣いている。けれど和馬は泣かない。彼は今の自分にできるだけのことを全力でやり遂げたのだから。ここで泣くことは、自分で自身の能力と、努力を否定してしまう。
 だから和馬は悲しまないし、後悔もしない。

 いつか……他にも方法はあるのだと、言えるようになるまでは。
 殺さずにすむ方法もあったのだと、言えるようになるまでは……


(2000/04/19 14:29)


名付けて『普通の一流術者』秋月和馬さんのお話。
とりあえず、定められた運命がある訳でも、出生の秘密がある訳でも、暗い過去を背負っている訳でもない、ごく当たり前の感性を持ち合わせた一風使いの青年です。
彼のことをもう少し知りたいと思って下さいましたら、「骨董品店 日月堂」を読んでいただければ、幸いにて。


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