―― 数時間後。
ロッドは不機嫌の極地にいた。
朝の井戸端での会話を皮切りに、なにか小腹に入れるものをと顔を出した厨房でも、警備兵達が守りに立つ城下へ続く門でも、なにやらいつもと異なり反応が微妙で。ちらちらと意外なものを見るような視線を向けられては、なにか言いたげに目の前で口ごもられる。あげくに発せられるのは、婚約おめでとうございますだの、幸せになって下さいだの、良かった、安心しました! といった祝福や激励の言葉ばかり。
なまじ本気で言っているのが判るだけに、夜会の時のように無視したり、ばっさり切り捨てる訳にもいかず。
これはさっさと街に出るのが吉だと、早々に城を後にしたものの、そこからがまた余計に悪かった。
早朝から王宮に詰めているような人種は、それでもまだ節度を保ち、言葉を選んでいたのだ。
高級住宅街を抜け下町へと下り、まずは朝食を摂ろうと肉体労働者向けの大衆食堂に入った。すると朝っぱらから酒をかっ食らっていた屈強な男どもが、ニヤニヤ笑いながら「女公爵の婚約者どのが来たぞ!」と
囃し立ててきたのだ。
「さしものあんたも、ついに本気になりやがったか」、「十七歳の清楚系だって? うまいことやりやがって」などとからかうだけなら、拳一発、問答無用で沈めてくれたのだが。しかしその後に「ともあれ、めでたい! こいつは奢りだ、呑め呑め!!」と、その店で一番の高級酒を注いでくるとなると、やはり無碍にはあしらえなかった。
さっさと杯を干し、味もろくに判らぬ勢いで飯をかき込んで店を出ると、今度は行き交う人々がまた、すれ違うたびに目を見開いて二度見してくる。中にはわざわざ立ち止まって振り返るのまでいた。そんな中でも以前に言葉を交わしたことがある顔見知りなどは、何やら合点したような表情を見せたあと、笑顔で婚約を祝ってきて。
いい加減うっとおしくなり、下町の中でもさらに底辺に位置する地域へと足を向けた。そのあたりはその日暮らしの貧しい人々が多く、浮浪児達もあちこちで縄張りごとに集団を為していた。毎日を生きるのが精一杯な彼らは、宮廷の色恋沙汰を無責任に楽しむ余裕すらない。王宮の貴族さまなどまったく別世界の、一生関わりあうことのない代物として、その実在すら意識していないような階層である。
ロッドやアーティルト、そして最近は二人に連れられたカルセストあたりは時おり出入りしているため存在を認識されているが、その三名はあくまでその三名として、別枠に勘定されているらしい。ここならば、婚約の噂も流れてきてはいないだろうと踏んだのだが。
最初に顔を合わせたのは、まだ十代も前半の少女だった。未だ幼さの残る彼女は、すでに身体を売って日銭を稼いでは、幼い弟妹を養っている。あまりに客がつかない日には、ロッドも買ってやったことがあった。安い同情で小金を恵むよりも、その誇りを尊重した上で正当な対価を支払うのがロッドの流儀である。まあついでに、弟妹へと子供でもできる清掃の仕事を斡旋したり、簡単な読み書き計算を教えてやったりもしたのだが。
ともあれそんな彼女は、ロッドに対して憧れにも似た感謝の念を抱いているようで。顔を見かけると頬をわずかに染め、嬉しそうに話しかけてくるのが常だった。
今回も気付いた途端、笑顔になって駆け寄ってきた。ところが近くで見上げてきてしばらくすると、その眉尻が下がり、複雑な……どこか寂しげな表情に変わっていった。どうしたと問えば、ふるふると
頭を振る。そうして今度は、ひどく大人びた笑みを浮かべた。
「あの、ロッドさま。今までありがとうございました。あたし今度、洗濯屋さんの下働きに雇ってもらえることになったんです。計算ができるなら、注文取りとかも手伝ってくれって。みんなロッドさまのお陰です」
そんなことを言って、深々と頭を下げてくる。
いや確かにそれは非常に良い知らせなのだが、いまこの場面で、そんな今生の別れのような空気で告げる内容なのか? と首を傾げてしまう。
どこか深刻げなその様子に、近くにいた住民が少しずつ集まってくる。
と、彼らもまた、妙に納得したような顔つきをして、それぞれに視線を交わしていた。
「あんたにもやっと、春が来たんだねえ」
「はァ!?」
しみじみと言われた内容に、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「だってあんたが自分でそんなもの買うなんて、絶対にないだろ」
「なら貰いもんなんだろうけど、そんじょそこらの相手に贈られたからって、あんたがちゃんと使うはずもないし」
指で耳元を指し示されて、ようやく昨夜から着けっぱなしにしていた耳飾りの存在を思い出した。とっさに手をやれば、指先に感じる小さな丸い手触り。
「別に、こいつは……」
「女から、だろ?」
意味深な笑みをたたえながら、年配の主婦が肘でつつく真似をしてくる。
「隅に置けないっていうか。むしろようやくあんたの良さを判る女が、上の方にも出てきたんだねえ」
「馬……ッ、たかが耳飾りぐれえで……」
「耳飾りだからこそ、さ。洒落っ気の欠片もないあんたが、そいつのためにわざわざ耳に穴開けたってんだ。それだけ本気の相手がくれたんだろうって、すぐに判るよ」
「そっちの留め具と言い、思い入れがなけりゃあ両方ともさっさと売っぱらって、金に変えちまうのが関の山だろ」
飾りなんかじゃ腹は膨れねえもんなあ! と。
いかにもロッドが口にしそうな言葉に、全員がどっと笑い声を上げる。
「……こいつは単に、もしもの時に売るつもりで……」
噛み締めた歯の間からかろうじてそう絞り出すが、誰もがまったく取り合わなかった。
「またまたぁ!」
「そんなの、そこらでひょいひょい買い取ってもらえる訳ないだろ!?」
遠慮のない力で何度も背中を叩かれる。
「……本当に、良かったです。お幸せになって下さいね」
うっすら両目を潤ませた少女が、最後にとどめを刺した。
―― ったく、たかが琥珀の飾りごときで、なんであそこまで言われなければならないのだ。
ロッドが王宮に戻ってきたのは、まだ昼までだいぶ余裕のある時間帯だった。
これ以上、下町の連中に見当外れかつ遠慮ない勘繰りをされるぐらいならば、城で時間を潰したほうがまだましだという判断である。
相手にまるで悪気がないうえ、実際に女のしかも ―― 偽装とはいえ ―― 婚約者からの贈り物だからこそ、いっそう始末に悪い。妙なところで正直な部分があるロッドは、真正面から向けられる善意を下敷きにした正論を相手にすると、どうにも強く出られないのだ。
結果的に現在の彼は、やり場のないもやもやを抱えて、不機嫌きわまりない空気を全身からまき散らしていた。
こうなったらひと暴れして鬱憤を晴らすかと、訓練場を目指す。
一般兵を相手にするのもいいが、手加減せず思い切りやるとなると、やはりアーティルトを選ぶのが一番都合が良かった。それなりに腕が立つことは当然として、あれならうっかり手が滑って大怪我をさせても、あとで口裏さえ合わせれば、自前で処置して事故そのものを闇に葬れるという利点もある。
……まあ、実際にそれを実行したことは、さすがにないのだが。
石畳敷きの広い中庭が、まるごとセフィアール騎士団専用の訓練場として確保されている。
国王の執務室からも見下ろせるそこには、夜会明けとあっていつもより人数は少ないが、それでも何人かが姿を見せていた。それぞれゆっくりと身体をほぐしたり、素振りや手合わせなどしている。
ロッドがこの場所に顔を出すのは、あまりないことだった。もともと日々行われる訓練の半分はばっくれていたし、そうでなくとも最近は、公爵領をめぐるあれこれでそれどころではなかった。
珍しい姿に気付いた破邪騎士達は、手を止めてロッドを振り返ってくる。
いつもならその視線はすぐに外されるが、ここでもまた不愉快な反応が繰り返された。
何度もこちらを盗み見ながら、手近な相手とひそひそささやき合っている。朝からのあれやこれやで、だいたいどんなことを言われているかは想像できた。お高く止まったお貴族さまも、しょせんは下町のおしゃべり雀と大差ねえな、と。こちらは善意をこれっぽっちも感じない相手だけに、それだけ思って無視を決め込む。
だがしかし、アーティルトと切り結んでいたカルセストまでもが目を見開いて固まったのには、むかっ腹が立った。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ!!」
蓄積されてきた苛立ちを、まとめて込めて怒鳴りつける。
空気を震わせるほどの声に、カルセストはようやく我に返ったようだった。多少首をすくめたものの、萎縮せずその程度で流せる程度には、度胸がついてきているらしい。
「ああ、いや……ちょっとびっくりして。珍しいな、お前が装飾品なんて」
はっきり言えといったのはこちらだが、いい加減、同じようなことを言われすぎて嫌になる。
「夕べだって、派手なのじゃらじゃら着けてたじゃねえか」
昨夜の夜会には、カルセストら破邪騎士達も当然参加していた。あのごてごてと飾り立てられた ―― としかロッドは思っていない ―― 姿で、しっかり会話したばかりだ。
「あれはほら、対外的な……変装、じゃなくて。なんていうか、お芝居の衣装みたいなものだろう?」
偽装婚約の件を知らされているカルセストの解釈は、確かに実情に即していた。
公爵家の婚約者として、それなりの体裁は繕わねばならないと、嫌々ながらやっていたのを判っているのだ。
「でも、普段まで着飾るようになるとは思わなかったから」
ある程度の身分と財力を持つ存在であれば、男女を問わずそれなりの装飾品を日常でも使用しているものだ。華美になり過ぎない程度に、趣味が良くかつ適度に高価な品を、さり気なく身につけるのが粋だとされている。カルセストも左の耳殻に銀と
蛋白石の飾りを嵌めているし、指輪や首飾りなどその日の気分で付け替えている。アーティルトはセフィアールの紋章入り指輪を愛用していて、髪を束ねるのにも真珠や
月長石、
硬黒玉や
雪片黒曜石といった玉石をあしらった、髪留めか組紐を使っていたりする。
そういった点で、ロッドはいっそ見事なほどに何も着けていなかった。最近は宴の時ぐらい多少飾ることもあったが、それでも一般庶民が小遣いで買うような、安物ばかり。ごく一部のそれらを贈った当事者達から以外は、失笑を買うほどだったのだが。
「公爵家の面子がどうのって、うるせえんだよ」
むっすり返すと、カルセストはさもありなんとうなずいた。それでも素直に従ったのが、まだ少々意外らしい。
「……夜会だの茶会だののたび、いちいち穴開け直すのも面倒だからな」
周囲には聞こえないよう、低く押さえた声でそう付け足す。
ぱちぱちと目をしばたたいて、それからその意味するところを理解したカルセストは、ようやく腑に落ちたようだった。
「そ、そうか……」
たとえ傷の回復が早い破邪騎士の一員でも、通常の団員であれば王族の力を借りない限り、目で見て判るほどの早さで回復するなどまずありえない。耳飾り用の穴も、二日や三日放置したところで、塞がりなどしないだろう。だがロッドの場合は事情が異なる。開けた穴が安定するのも早いが、完全に塞がってしまうのもまた相応に早い。
身支度を整える羽目になるつど、耳たぶへ針を突き刺す光景を想像したのか。カルセストの顔色は、わずかに青ざめていた。
「だ、だが、さすがは女公爵さまのお見立てだな」
気を取り直すように、小さく咳払いする。
「初めて見る石だが、実に美しい。……まあ、なんだ。良く似合ってるぞ」
最後の方はいくぶん複雑そうだったが、一応は本気で褒めているようだ。その横では、無言でやりとりを見守っていたアーティルトが、同意するようにうなずいている。
「…………はぁ?」
身分の低い使用人や下町の連中とは異なり、目の前のこいつは、これでも貴族に連なる良い所の出だ。目など自覚すらしない段階で肥えているだろう。そのお坊ちゃんが、たかが琥珀ごときを丸く磨いただけの装飾品を、美しいだと?
いやまさかとは思うが、このお貴族さまは、そもそも琥珀など目にしたことがないのだろうか。
「琥珀なんざ、珍しくもないだろうが。だいたい俺の肌じゃあ、溶けこんで遠目にゃ判らねえし」
「え、琥珀?」
「ああ」
「どれが?」
「……こいつの話だろ」
なにやら会話が噛み合っていない。眉をひそめ、親指で耳元を指し示すと、カルセストはきょとんとしたように瞬きした。
横で聞いていたアーティルトが、いきなり脇を向いて口元を押さえる。
もう片手は腹部に回し小刻みに震えているその様は、どう見ても笑いをこらえきれずに苦しんでいる状態だ。
「なにがおかしいんだよ!」
膝下を蹴りつけてやるが、笑ったまま器用に避ける。
むかついて何度も足を繰り出したが、すべてかわされてしまった。
それでもどうにか少しは落ち着いたようで、まだ口を覆いながらも身体を起こして顔を上げる。片方の手が舞うようにひらめき、指文字を綴った。
『耳飾り と 外套留め。もらった 夜?』
「……ああ」
確かに渡されたのは、夕べの夜半過ぎだ。
『朝 着替え。暗い 場所?』
「だからなんだってんだ!!」
意味の判らない問いかけに、さっさと説明しろと声を荒げる。
と、アーティルトの指先が、ロッドの肩口へとつきつけられた。いまだ収まりきらぬ笑いに細かく震えているそれを追って、ロッドは首をねじり己の肩へと視線をやる。
そうして ―― 目を疑うという経験を、その身でもって味わった。
そこにあるのは、今朝がた薄暗い部屋の中、手探りでつけた
外套留めだ。
つるりと磨かれた楕円形の石を銀細工の枝葉が囲む、ごくありきたりな意匠。それでも細かい部分にまできっちり細工が行き届いているあたりは、さすが公爵家で用意した品なのだと評価できる。
だが、問題はそこではなかった。
ごく地味な暗い褐色だったはずの琥珀は、降り注ぐ太陽の日差しの下で、不思議な青い輝きを帯びていたのだ。
水で割ったばかりの蒸留酒を思わせる、濃淡のある飴色の中に、透き通った深い青が入り混じり、わずかな身じろぎに合わせて燐光のようなゆらめきを見せている。差し込む光の角度や強さによって、さまざまに変化するその微妙な色合いは、ひどく現実離れした、どこか幻想的とすら言える雰囲気を感じさせて。
まさか、と耳元に手をやる。心得たように、アーティルトが隠しから携帯用の手鏡を取り出した。
差し出されたのを奪い取ってのぞきこめば、両の耳を飾る石もまた同様に、濃褐色と深蒼が見るたびに異なる配合で彩りを変えている。
目立たない、どころの騒ぎではなかった。
こんな特殊な光り方をする宝石をつけていれば、たとえそれが己でなくとも、二度見三度見されるのは当然だろう。
そして特別な贈り物なのだと、誰もが信じて疑わなかったのも納得がいく。こんな代物を、そこらの店で簡単に売り買いできるはずがない。
「あ……の、女……ッ!」
ロッドは歯軋りの間から、呻くように漏らした。
よくも
謀ってくれたなと文句をつけるべく、訓練場を後に、フェシリアの宿泊している客棟を目指して走り出す。
「あ、おい、ロッド ―― ?」
途中で聞き覚えのある声に呼ばれた気もしたが、立ち止まろうという気など、まったく起こらなかった。
* * *
血相を変えて飛び出していったロッドを、アーティルトはひらひらと手を振って見送っていた。
カルセストはいきなりの展開についていけず、呆然と立ち尽くしている。
渡り廊下から中庭へと出てきた所で、走り去るロッドとすれ違った男が、上体をひねるようにして遠ざかる後ろ姿を見送っていた。
改めて中庭の方を向いたその人物を見て、騎士団員達は慌てて姿勢を正す。
「陛下 ―― !」
いっせいに胸に手を当て、頭を下げた騎士達に、エドウィネルは気さくに手を振ってみせた。
「ああ、良い。気にしないで続けてくれ」
後ろに侍従文官のフォルティスと護衛の騎士を引き連れて、ゆっくりと歩み入ってくる。
もともと破邪騎士とセイヴァン王家の間の垣根は、その他の貴族達よりも低い傾向にある。破邪の任で傷つき疲労した騎士達を、手ずから癒してくれるのが王族の方々だ。本来であれば近づくことすら畏れ多いはずのお方も、破邪騎士であれば誰もが幾度もその手に直接触れた経験があり、親しく声すらかけていただく間柄だった。
ましてエドウィネルは、つい先日即位するまで、王太子として幾度も破邪に同行してきた。
国王となった現在では、何もかもこれまで通り気安くとまでは行かないが、それでも長い時間をかけて育ててきた絆は健在であった。
それぞれに一礼して訓練に戻ったセフィアール達を満足気に眺め、エドウィネルはアーティルト達の方へと近付いてくる。
そして、事情を知っているだろうと、そう確信している口調で問いかけてきた。
「いったい、どうしたんだ。あれは」
視線で、先ほどロッドが消えていった方向を指し示す。
しかしカルセストは答える
術を持たない。困惑したままアーティルトの方を見ると、彼はまた何やら思い出してしまったのか、とっさに手の甲を口元に当て、控えめに顔をそらしている。
「アーティルト?」
訝しげに名を呼ばれて、ようやくもろもろをこらえきったらしい。
エドウィネルに向き直ると、失礼を詫びるように会釈した。それから両手で指文字を操り、事情を説明してゆく。あまりの早さにカルセストは正確な意味を追い切れなかったが、異母妹の相手で慣れているエドウイネルは、苦もなく内容を読み取っていた。
「……なるほど。珍しく洒落た良い品をつけていると、朝からちらほらと噂になっていたが。そうか、ただの琥珀だと思っていたのか」
さも愉快そうに声を上げて笑う。
そんなふうに二人で判りあっている間に、水を
注すのは気が引けた。それでも訳が判らないのは座りが悪く、カルセストはおずおずと口を挟む。
「あ、あの。さっきの宝石って、そんなに珍しいものなんですか?」
あのように不思議な輝きを見せる石など、カルセストは今まで見たことも聞いたこともなかった。身につけていた相手を思うと素直に認めるのはいささか癪に障るが、非常に美しく、そして実際あの男に良く映えていたのだ。
あれほどの宝石を、これまで存在すら知らなかったとは、貴族の一員として勉強不足もはなはだだしい。
それでも、聞くは一時の恥と言う。素直に教えを請うたカルセストに、エドウィネルは上機嫌のまま説明してくれた。
「あれはな、
青琥珀と呼ばれる、希少な石だ」
「青……琥珀、ですか」
思わず首を傾げる。
琥珀といえば、時に色の名そのものとしてさえ使われる、透明感のある黄褐色の代名詞だろう。その琥珀に、さらに『青』という形容を重ねるとは、いささか違和感のある命名ではないか。
しかし先刻の、まさに
深蒼と
琥珀が混ざり合い折々に入れ替わる姿を思い返すと、確かにしっくりとくる気がする。
「琥珀それ自体は、水辺などで拾われることもある、さほど珍しくもない石だろう。だが北方山脈にある鉱山の、ただ一箇所から産出される琥珀。そのさらにごく一部が、時にあのような青い輝きを放つのだ。それを青琥珀と称するが……まあ滅多に
市場に出るものではないな」
「初めて知りました」
うなずくカルセストへと、アーティルトが手を動かしてみせる。
『しかも 青い 昼、だけ』
「はい?」
指文字を読み間違えたかと、アーティルトを見返す。
すると妙に意味ありげな笑みを浮かべていた。エドウィネルもまた ―― こう言っては不敬にあたるかもしれないが ―― 悪い笑顔をしている。
「青琥珀が燐光を帯びるのは、昼間だけなのだ。夜に蝋燭や
洋燈の灯りで照らしても、普通の琥珀と変わらぬ黄褐色にしか見えん。太陽の下でのみ、青く変化する。そういう点でも、夜会などには不向きな石だな」
「ええと……それって
金緑石とか、一部の
柘榴石とかで出るやつですよね。変色効果、でしたっけ」
どちらも人気の高い希少な宝石で、昼の光のもとでは緑や青、灯火に照らされた時は赤や紫、桃色などに色が変わって見えることで有名な石だ。高位の貴族などがこぞって求めたがるため、そちらはカルセストも何度か見たことがある。多面体に研磨されたそれらの宝石がきらめく様は、確かに美しく思えたけれど。
それでも先ほどの青琥珀のような、目を奪われるほどの感動はついぞ感じなかった。
「うむ。昼と夜で色変わりする石は他にもいくつかあるが、その中でも青琥珀はかなり珍しい。私も以前、アルス公爵が側室に贈った首飾りを見たぐらいだな。夜会ではなく昼の茶会向けにあつらえたものだったが……あれはもっと淡い、薄黄と水色に近かった」
ここで言うアルス公爵と側室とは、エドウィネルが立太子して以来臣下として扱わざるをえなくなった実の父親と、その後妻で彼が物心つく頃には実母と変わらぬ育て親となっていた、
義母を指している。
エドウィネルは懐かしむように、ふと遠くを見る眼差しをした。
が、すぐに追憶をふり払い、今度は先ほどすれ違いざまに見た外套留めと耳飾りを思い起こす。
「あれほどはっきり青が出ていたうえ、外套留めはあの大きさ……いやはや、どれほどの
値がしたものやら、見当もつかぬな」
そもそもあれは、金さえ積めば手に入れられるという石でもない。
濃い褐色の地色に、一瞬かいま見ただけでもそれと判る、深い蒼の燐光。
大衆向けの安価な半貴石どころか、文句なく二大公爵家の当主の伴侶が身につけるに相応しい、
品質の高い逸品であった。
エドウィネルはしきりとかぶりを振っている。
「フェシリアどのも、見事な選択をしたものだ」
感じ入ったように呟く。
ひと目で高価と知れる宝飾品を渡そうとすれば、あの男はけして受け取らないだろう。仮に無理やり押し付けたとしても、普段使いとして身になど着けはしまい。しかもなまじ当人の目が利くだけに、簡素だが質の良い品を安物だと偽っても、あっさり見破られるのが落ちである。
その点、青琥珀であれば、太陽が沈んでいる間は通常の琥珀と同じに見える。そして耳飾りは一度つけさせてしまえば、鏡でも見ない限り、当人の視界には入らない。外套留めとて、よほど意識して首を捻らなければ見えないだろう。そしてあの男は、新しい贈り物を眺めて悦に入るような性格ではないし、朝は夜明け前に身支度をすませて動き出すのが常である。
高価な装身具で着飾らせた夜会の後を狙い、琥珀というさほど高い値の付かない石程度ならと、意識の落差を利用して受け取らせる。そうして陽が昇る前に、自分では見えない場所につけさせてしまうのだ。
まったくもって、素晴らしい手腕である。
―― なによりも、あの変幻自在な濃褐色と深蒼は、まさにあの男の有り
様を象徴しているかのようで。
一見しただけでは、ほとんど評価されることのない地味な石ころが、条件次第であらゆる者を魅了する美しい輝きを放つ。ごくごく希少なそれの真価は、けして世間に広く名を知られたものに劣らない。
その存在すらも知る者は少なく、それでも『それ』は、変わることなく泰然として、そこに在る ――
「……
先代の陛下も我々も、言葉を尽くしに尽くしてようやく、露店売りの安物しか受け取らせられなかったものを」
『女性、は すごい』
「うむ。発想からして、到底叶わぬな」
エドウィネルとアーティルトは、しみじみとうなずき合っていた。
なお、
直談判に及んだロッドとフェシリアの間に、果たしてどのようなやりとりが交わされたのか。それは当人らもその場に居合わせた女官達も、黙して語ることはなかった。
それでも ――
貴族らが絢爛と競い合う夜会の席ではなく、明るい昼の陽射しのもとでこそ真価を発揮する、美しいその青い石は、
その後も長い間、彼の
耳朶と肩口を飾り続けることとなったのである ――
(2015/06/29 16:55)
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