その日、城下町はひときわ明るい喧噪に満ちあふれていた。
星の海、ティア・ラザのほとりに広がるセイヴァン王都は、常から活気のある豊かな街である。
綿密な都市計画にのっとり建造された街並みは、無駄のない見事な機能美を誇っていた。放射状に広がる石畳の大通りと、それらを繋ぐ街路、網目のごとくはり巡らされた運河とが、人と物資を活発に行き来させ、そこに住まう人々の暮らしを支えている。
民達はみな、湖に向かい高くそびえる岬の上、市街を見守るように建つ王宮を見上げ、王家の庇護下にあることを心から感謝した。深い敬愛の念は、保証された豊かで文化的な生活と、妖獣をおそれずにすむ安堵感から発せられるものだ。
今をはるか300年の昔。妖獣に仲間を喰われ、苦心して拓いた畑はつぶされ、明日をも知れぬ貧しい日々に生き疲れていた人々を救った祖王、エルギリウス=アル・ディア=ウィリアム=フォン・セイヴァン。
彼は恐るべき妖獣をその剣の下に制し、またまるで野に住むけだもののように、散在してただ生きるだけであった人々に、互いの力を合わせることを教えた。街を作り、街道を、運河を整備し、物資や情報、文化を流通させ ―― 無秩序だった地を、ひとつの共同体としてまとめあげていった。
最初はティア・ラザ周辺だけにとどまっていたそれは、やがてじょじょに範囲を広げ、現在では東部と南部は海辺までを、北部は越えることも困難な険しい山脈までの土地を、そして西部は同じく広大な砂漠に面したあたりまでを国土として有するに至っている。
他国に比してけして広いとは言えぬまでも、領地の隅々まで王家が勢力をゆきわたらせたこの国は、争いの少ない、平和な土地となっていた。
季節は、春まだ浅き頃。
祖王エルギリウスが国家セイヴァンの建国を宣言したのは、そんな時期だったという。
降り積もった雪が解け、川の水もぬるみ、色鮮やかな花々がそこここで蕾をほころばせる頃合い。彼はようやく形を為し始めた王都の ―― 当時はその街こそが、セイヴァンの名で呼ばれる唯一の土地だった ―― 一角で、初めて自らが統治する土地に名を付け、そこに住まう人々と共に暮らし、生きることを誓ったのだ。
その、建国を記念する日が、もう間もなく訪れようとしていた。
その日はちょうど、昇る太陽が年に一度、
宮殿と重なる位置に来る日である。ティア・ラザ沖に浮かぶ小さな島に建てられたその建物は、代々祖王エルギリウスに連なる者のみが足を踏み入れることを許された、禁域だ。
最初期に建設された市街中心部からその島を臨んだとき、年に一度だけ朝陽が島を、石造りの宮を呑み込むかのように昇る朝がある。その日、民達は遠き建国の時を想い、偉大なる祖王の存在を感謝し、妖獣の恐怖から解放されたことを祝うのだった。
その当日は、昇る朝陽を目にするため、人々は
黎明前から岸辺へと集まり、その瞬間を待ち望む。
そして
厳かな夜明けを迎えたのち、街は文字通りお祭り騒ぎへと突入した。
五日間にわたる祭りの間、近隣の街や村から多くの民達が、入れ替わり立ち代わり都を訪れる。この時期は普段立ち入りを制限されている王宮も、一部開放され、かつて祖王が行った偉業をあらわす絵画や、その姿を模した
浮き彫りなどが公開された。
「 ―― 偉大なる祖王、ねえ」
祭りを控え、慌ただしく人が行き来する王宮の一角で、ロッド=ラグレーは小さく息をついた。
みなが忙しげに立ち働く中、堂々と立ち尽くして正面の壁を見上げている。
何が入っているのか、数人がかりで
櫃を運んでいた男達が、邪魔そうに顔をしかめる。が、ロッドは気にもとめず、男達もまた無言で通り過ぎていった。他にも銀の燭台を磨く者、花瓶の位置を調整する者、床に落ちた塵を掃く者などで広間はいっぱいだ。
明日にはもう、国内各地より建国を祝いに訪れた貴族諸侯が、この広間で国王と共に式典を行うことになっていた。そしてそれが終われば、ここは市民へと開放される。準備しなければならないことはいくらでもあった。
そんな場所で、ロッドがのうのうと眺めているのは、巨大な一枚の絵画だった。
それは大広間の正面、舞台のように数段高くなった場所の、さらに見上げなければならないような高みに掲げられている。描かれているのは一人の人間だ。数百人を楽に収容できる広間のどの位置にいても、その面差しをつぶさに見てとることができる。それほどに大きく、緻密に描かれた肖像。
「エルギリウス=ウィリアムか……」
その絵が描かれたのはまだ建国して間もない頃か、あるいは後に彼を偲ぶ者が、記憶を元に筆をとったのか。まだ若い、二十代半ば頃と見える容貌だった。
白皙の肌に薄い頬。広間を見下ろすかのようにわずかに伏し目がちになった瞳は、ティア・ラザの湖面を思わせる深い蒼だ。意志の強そうな口元に、あるかなしかの笑みをたたえている。
腰にセフィアールの細剣を下げ、籠手や胸当てを身につけた姿が、妖獣を相手に剣を振るったその功績をあらわしていた。鮮やかな
青藍の外套に、豊かな黄金色の巻き毛が一房、毛先を散らしている。
だが、その体格は細身とまではいえないものの、たくましいと評するにはいささかためらいを覚えるそれだった。この若者が、数多くの妖獣を
殲滅し、民達を守り抜いた英雄だとは、普通であれば信じがたいことだったろう。
それでも、彼の持つ不思議の力は、尋常な手段では容易に滅することのできぬ妖獣を、見事に
屠っていった。また彼は、たとえどれほどの手傷を負っても瞬く間に回復し、けして妖獣に膝を屈することはなかったという。
そして、そんな彼の能力は、のちに次世代を
担う若者達へと継承された。素質のあった幾人かには、妖獣を滅しうる破邪の力が、そして彼の血を引く娘には、破邪の力を得た者達を癒すすべが。
それが、破邪騎士団セフィアールとセイヴァン王家の始まり。
この国に住まう人間であれば、五歳の子供でも知っている逸話である。
「300年が過ぎても、民はあんたを忘れてねえ。それは誇ることかい? それとも ―― 」
呟くロッドの口元には、皮肉げな笑みが刻まれていた。
しかし肖像を見上げる瞳に浮かべられている光は、常の、すべてを揶揄するかのようなそれではなく ――
「ロッドさま!」
呼びかける声に、ロッドはゆっくりと瞬きした。
そうして振り返ったときには、既にいつもの力強い眼差しを取り戻している。
「何やってんだ、てめえ。こんな場所で」
「それはこっちの台詞でしょうがっ」
腹立たしげに答えて駆け寄ってきたのは、まだ十二三と見える少年だった。
地味ではあるがそれなりに上等な、そして動きやすげな衣装を身につけている。その格好からして、良家の小姓か召使いと言うところか。短く切られた赤茶色の髪が、ところどころ飛び跳ねているあたりに、どことなく愛嬌があった。
「式典の準備があるからって、騎士団から呼び出しかかってるじゃないですか! はやく用意してくださいよっ」
唇を尖らせるようにして訴えてくる。その両手に抱えている包みは、どうやら盛装に必要なもろもろらしい。
この少年は、ロッドの身のまわりの世話をしている召使いだった。二年近く前、妖獣に襲われているところを助けられ、行き場がないというので王宮に引き取られたのである。
親の顔も知らぬような浮浪児ということもあって、引き取られた当初はずいぶんと問題も起こしていたが、最近ではようやく仕事も覚え、それらしく振る舞うようになっていた。
もっとも、礼儀知らずという点では、ロッドの右に出る者はそういない。
問題ある主人に振り回される少年は、今日もロッドを探して、広い王宮内を相当駆けまわったようだ。
「ほら、早く早く。俺が怒られちゃうじゃないですか」
背を押さんばかりにせかす少年に、ロッドは意地悪く鼻を鳴らした。
「何だっておまえが怒られないために、俺が急がなきゃならないんだよ」
「じゃあ、何だって俺があなたのために怒られなきゃなんないんですか!?」
少年は頬を膨らませてロッドを見上げる。
普通の召使いが主人に対してこんな物言いをすれば、鞭打ちのひとつもされかねないところだった。だが、ロッドは小さく失笑しただけで歩き始める。
「わ〜ったよ。ほら、寄こせ」
慌てて後を追った少年に、無造作に上向けた手のひらを突き出す。
包みから出した畳んだ
外套を渡されると、足を止めぬままに広げ、ばさりと羽織った。
「ん」
再び突き出した手に銀細工の
留め具が乗せられる。大粒の青玉がはめ込まれたそれで外套を止め、だらしなく緩めていた襟の金具を締めた。次いで傷だらけになっている粗末な額環をはずす。後ろを見もせず放り出したのを、少年は器用に受け止め、代わりに見事な細工の施された剣帯を差し出した。なめした革と銀と青玉とで作られたそれに吊り下げるのは、柄から刃まで一体となった、銀細工と見まがわんばかりの
細剣。
続いて同じく銀と似た ―― しかしけして銀ではない、特殊な金属で作られた、籠手と額環。どちらにも、繊細な模様がびっしりと浮き彫りにされている。
最後に一度、ロッドは大きく外套を払った。ずっしりとした厚手の布が、音をたててひるがえる。
細身の、しかし弱々しさなど微塵も感じさせぬ引き締まった肉体にまとう、濃い青藍の制服。ゆったりと身を包む外套はさらに深く、しかしなお目に鮮やかな色合いだ。
銀と青とに彩られたその姿に、周囲をゆく者達は、一瞬瞳を奪われていた。
生まれも育ちも卑しい、セフィアール騎士団の鬼子。
礼儀も知らず、教養もなく、口を開けば罵りと嘲りしかまき散らすことのない、王宮に足を踏み入れることすらも許し難いような、最低最悪の下郎。
そんな風評ばかりをもつこの青年の、滅多に見せることのない盛装姿は。
まっすぐに前を見つめる瞳の光。何に対してもひるむことのないだろう、その生命の輝きが、豪勢な宝石も、見事な装飾品の数々をも従え、ひれ伏させる。
夏の深海を思わせる、濃く鮮やかな深蒼の双眸が、セフィアールの青と銀の装いを、よりいっそう引き立たせていた。
「お前は、そいつを持って隣の部屋にいろ」
ずしりと重い大剣を渡された少年は、両手でそれを抱え、うなずいた。
* * *
星の海沿岸には、大小を含め多くの船着き場が存在していた。
その中でも、王宮の鎮座する岬にほど近い幾つかは、位高い貴族達専用として使用されている。
建国祭を間近にした今の時期、国内各地から御用船を仕立てて王都入りする貴族達で、船着き場はひときわにぎわっていた。
有力貴族の持ち船しか出入りせぬ一角とはいえ、その中でもやはり位分けというものは存在する。
より権力を持つ家のものほど、より王宮に近い桟橋を使うことができる。一見、どうと言うこともなく係留された船達だったが、そこには厳密かつ熾烈な権力争いの結果があらわにされていた。
いまもまた、一隻の船が、ゆっくりと錨を降ろしたところだ。
場所はもっとも奥まった、見上げればもう、王宮を囲む城壁を間近にすることができるあたり。
船の造りも見事なそれだ。けして巨大でも、派手な見た目をしている訳でもなかったが、甲板の前後で帆をはためかせる二本の帆柱と、船腹にあいた櫂を出す漕ぎ穴から察するに、天候や流れに左右されことなく、安定した航行をおこなえる船なのだろう。生半可な経済力で所有できるようなものではなかった。
「ああ、また船が着きましたね」
窓から入港を見下ろしていたカルセストが、傍らの青年を振り返った。
式典の打合せを終え、そのまま立ち話をしていたアーティルトは、その言葉に応じて幾度か両手を動かす。
「『もんしょう』? 『こーな』? ……ああ、ほんとだ。あの旗の紋章、コーナ公爵家の船ですか」
繰り返すカルセストに、にこりと微笑んでうなずく。
『あとは、アルス、最後』
「……です、ね。はぁ、もう明日か……」
深々と嘆息する。
訪れる貴族達にとって、船を停泊する場所もそうならば、到着する順番もまた身分に左右された。
真打ちは最後に登場とはよく言うが、南方パルディウム湾における対外交易を一手に引き受けるコーナ公爵家と、王太子エドウィネルの生家にして西部の広大な穀倉地帯を管理するアルス公爵家とは、その血筋の高貴さからも、またセイヴァンの国力を充実させうる権力と財力の持ち主という点でも、双璧を為す名門であった。彼らが王都入りしたということは、すなわち本祭が始まるまで、本当に間がないことを示している。
「う〜、緊張するなぁ」
カルセストは落ち着かなげに身体をもぞつかせた。その様子にアーティルトが、くすくすと笑う。
「あ、笑わないでくださいよ。俺、ああいう堅苦しいの苦手なんですから。それに式典終わったら、今度は舞踏会……ああっ、足踏んだりしたらどうしようっ」
セフィアール騎士団の一員として、彼らは式典において様々な役目が割り振られている。そのうえ舞踏会になったらなったで、やはり騎士団の人間として、幾人もの女性から踊りの相手を申し込まれるのが慣例だった。女性に恥をかかせる訳にはいかない以上、断ることなど言語道断。だが、彼はあまりそういったことが得意ではなかった。
俺みたいな下っ端、姫君がたもほっといてくれればいいのに。
愚痴るカルセストだったが、セフィアールの盛装を身にまとったその立ち姿は、どうしてどうして、下っ端風情などと評するにはもったいない映えぶりだった。
騎士として叙任を受けて数年、本人の自覚こそなかったが、彼も一人前として充分に認められるだけの経験を積んできていた。伯爵家の三男に生まれたカルセストは、継ぐべき領地こそ持っていなかったが、セフィアールの一員であるというそれだけで、その身分と生涯は保証されている。むしろ身軽さ故に、婿養子を必要とする一部の貴族や姫君達からは、熱い視線と秋波を送られていた。
もっとも重ねて言うが ―― 本人の自覚はまったく、ない。
『誰か、決める』
特定の相手を決めてしまえば、必要以上に煩わされることはなくなるだろう。けしかけるアーティルトに、頬など膨らませてみせる。
「そんなことができたら苦労しませんよ」
すねたようなその仕草は、まだまだ子供じみたそれだ。
「おい」
いつの間に近づいていたのか。
つっけんどんな呼びかけと共に膝裏を蹴られ、アーティルトががくりと体勢を崩した。なんとかこらえてそちらを振り返る。こんな声のかけ方をする相手と言えば、王宮ではひとりしか存在しなかった。
「いつまでぐずぐずしてやがる」
とっくに盛装を解いて、襟元もだらしなくくつろげたロッドが、脱いだ外套を担ぐようにして立っていた。
「さっさと行かねえと、席がなくなっちまうだろうが」
えらそうにふんぞり返るロッドに、カルセストが不穏な目を向ける。
「なんだってそう、口より先に手が出るんだかな、お前は」
「口だけで言ったら忘れてたのはこの馬鹿だろうが」
顎を上げてアーティルトを示す。
穏やかならぬ雰囲気でにらみ合う二人だったが、アーティルトは慣れているのか、あっさりと割って入った。
『昼食、下町、いっしょ?』
首をかたむけながら、カルセストを指さす。
「あ、ええと……昼飯食べに行かないかってことですか? 俺も一緒に」
こくりとうなずく。
「こっきたねえ酒場だけどよ、祭りの時期限定で、旨い煮込み出すんだ」
ロッドが横から補足説明する。
野菜と家畜の臓物を煮込んだ下町料理で、はっきり言って身分高い人間が口にするようなものではない。だが、焼きたてのパンをひたしながら喰うそれは、その界隈でも語り草になっている人気の献立だった。
「また、そこの親父秘蔵の
濁酒が絶品でな」
そう言うロッドは、既に舌なめずりせんばかりだ。
カルセストの方も、聞いているうちに空腹を意識し始めた。今日は朝からばたばたしていて、ろくなものを食べていない。
「ん、んじゃあ俺も……」
まだやらなければならないことは残っていたが、少し出かけるぐらいは良いだろう。
「言っとくが、てめえの分はてめえで払えよ」
「当たり前だっ」
反射的に言い返す。
誰がお前に奢ってもらいなどするか。
ふくれっ面で呟くカルセストだった。だが、世の貴族連中のなかには、身分をたてにろくに代価も払わず飲み食いするような
輩が存在することも、またそう言った人間を見かけるたびに、ロッドがはり倒しては無理矢理金を出させていることも、素直な彼は知るよしもなかった。
―― そもそも、必要とする物は屋敷に商人を呼びつけて購入し、その支払い作業や資産運用をも執事や召使いに任せがちな貴族という人種は、己で現金を持ち歩くという習慣をほとんど持っていない。それどころか、中には何かを得るためには代価が必要なのだと、それすらも意識していない者とて、けしてまれではないのである。
実際、カルセストが財布を携行するようになったのも、以前持ち合わせがなかった時、ロッドに散々こき下ろされたのがきっかけだったりする。
「じゃあ行くか」
促して歩き出そうとしたロッドが、ふと急に足を止めた。
その視線は窓の外、船着き場の方へと向けられている。
「あれは……」
小さな呟きが漏れた。残る二人も、つられて再び桟橋を見下ろす。
到着した船から下りてくる人影が、小さく見えた。離れているのではっきりとした風体までは見て取れないが、多くのお付きに囲まれた様子からして、船の持ち主である公爵家に連なる人間なのだろう。
もっとも窓枠に手を置き、目を細めるようにして見はるかすロッドには、人物の区別が付いているらしい。
「コーナ公爵のお着き、か……」
窓枠に載せた手に力が込められたようだった。もともと筋張った手の甲に、骨の形が浮かび上がる。口元に浮かぶのは、常にもまして皮肉げな嘲笑だ。目の下に、わずかに皺が寄っている。
「 ―― ロッド?」
なんとなく違和感を覚えて、カルセストが呼びかけた。だが、ロッドは気がついていないのか、視線を動かそうとはしない。
「おい、どうしたんだ。……コーナ公爵に恨みでもあるのか」
「ああ」
冗談交じりの問いかけに、あっさりとした答えが返る。かえって訊いたカルセストの方が面食らった。
「う、恨みって」
「……あのやろう、ガキの頃、俺を物乞い呼ばわりしやがった」
「はぁ?」
思わず目をしばたたいたカルセストに、ようやく振り返る。
「汚い手で触るなってよ。したたかぶん殴られたおかげで口ん中は切るわ、三日ぶりに食えたモンはゲロ吐くわで、えらい目にあったもんさ」
そう言って、肩をすくめる。小さく鼻が鳴らされた。
「……おまえ、公爵領の出身だったのか?」
カルセストはどう反応すればいいのか迷ったあげく、ようやく質問を口にした。
焦茶の髪や濃い色の肌、手足の長い引き締まった体躯など、ロッドの身体的特徴はもっぱら南方に住む人間のものである。青い瞳というのは珍しい取り合わせだったが、交易船の出入りするコーナ公爵領のあたりでは、混血もすすんでおり、そう言った人間もしばしば目にされる。
案の定、ロッドは無造作にうなずいた。
「いたのはほんのガキの頃までだけどな。……すぐに人買いに捕まって売られっちまったし」
「人買い!?」
「ああ。もっとも売られた先につく前に、そいつぶっ殺して逃げ出して ―― あとはまぁ、いちいち覚えちゃいねえけど」
帰るべき家もなく、守ってくれる大人もおらず。働こうにも、年端もいかねば身元を保証するものもない身では、雇ってくれる相手すらいはしない。結果として食べる物も着る物も、得るためには盗むより他はなく ――
「……って、くだんねえ話だな」
ひらひらと手を振って、ロッドは話をうち切った。
「行こうぜ。マジ、腹減ってしかたねえ」
「あ、ああ……」
今度こそきびすを返して歩き出すロッドに、カルセストとアーティルトは複雑な視線を交わしあった。今のはそんなに軽く流してしまって良い話なのだろうか、と。さらりと語られた割に、彼の壮絶な生い立ちを匂わせる言葉だった。
が、彼らはあえてそれ以上を口にすることはしなかった。
そうして二人もまた窓辺を離れ、さっさと先をゆく背中を追いかけにかかる。
船から桟橋へと渡された板に足を乗せたレジナーラ=キエルフは、主へと手を貸すべく、上体をひねり甲板を振り返った。
かえりみた主人は、しかしレジィの方ではなく、そびえ立つ岬の上の王宮を眺めている。
「我が君?」
何か見えるのかとその視線を追ったレジィに、フェシリアはようやく
面をむける。
「いえ ―― 何度見ても、見事な建物だな、と」
頭からすっぽりとベールを被った少女は、薄い紗越しにか細い声を響かせた。
「フェシリア様は、以前にも王都にいらしたことがおありでしたね」
「……ええ。まだほんの、子供の頃でしたけれど」
もう十年以上も前のことだ。彼女を公爵家の嗣子として正式に申請するため、コーナ公は幼いフェシリアを連れ、国王の元へ謁見を請いに赴いたのである。さしもの彼女でも、当時の記憶は既におぼろだった。
覚えているのは王宮の広々とした印象と、自分を見つめる貴族達の、あまり心地よいとは思えなかった視線ぐらいだ。それから……
「フェシリア様?」
レジィが再び問いかけてくる。
「御気分でもお悪いのですか」
錨を降ろした船は、それとは感じられない程度にゆったりと揺らめいている。そういった微妙な揺れは、下手に風を切って進んでいるときよりも、かえって酔いを誘発することがあった。
「公爵さまもお待ちです。早く上陸なさって、建物の中でお休みになられた方が」
先に船を下りた公爵が、いぶかしげに甲板を見上げている。まだ冷たさが残る湖からの風に、不快そうに顔をしかめていた。あまり待たせては、機嫌を損ねてしまいかねない。
フェシリアもまた、吹きよせる風に、小さく肩をふるわせた。コーナ公爵家の領地では、冬に多少気温が下がりはするものの、雪が降るようなことは滅多にない。温暖な気候に慣れた彼女にとっても、遮るもののない甲板はいささか居心地が悪かった。
縁に房飾りの付いた外套をそっとかき合わせ、レジィに右手を預ける。そうしてフェシリアも不安定な渡し板へと足を乗せた。
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