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 楽園の守護者  第二話
  ―― 運河の街 ―― (前編)
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/02/28 AM10:19)
神崎 真


 寝台に横たわった騎士 ―― カルセストは、苦痛に青ざめた顔で私を見上げた。そうして力の入らぬ身体で、どうにか枕から頭を上げようと努力する。
 私は身振りでそれを止めた。冷たい汗の滲む額に、そっと手のひらを置く。
「無理をするな」
 静かに諭すと、彼は息を吐いて身体から力を抜いた。見つめてくる瞳が潤んでいるのは、なにも苦痛のせいばかりではあるまい。そっと微笑みかけてやった。額の手を滑らせ、目を閉じさせる。カルセストは素直に従った。
「呼吸を楽にしろ。何も考えなくて良い。落ち着いて息をするんだ ―― 」
 穏やかに語りかけた。そうしながら、毛布の上に投げ出された右手をとる。
 中指に指輪がひとつはまっていた。銀線を寄り合わせたかのような、単純ではあるが繊細な細工の装飾品。一見するとどこにでもある銀細工のようだ。しかしわずかに輝きや質感が異なる。ただひとり、セイヴァン国王のみが精製方法を知る、王家秘伝の特殊金属の指輪。セフィアール騎士団員のしるし。
 妖獣を狩るという、この国でもっとも重要な職務を果たして傷ついた騎士の、その心身を癒してやるべく、私は目を閉じて精神を集中した。



  ―― セイヴァン王家は、妖獣を滅するために存在する。
 もちろん国王の果たすべき努めとはそれだけではない。自国領として統治を任された土地財産を大過無く運用すること。国家という共同体全体の機能システムを整え、国民の財産を保障し、地域や立場による落差を極力抑えた文化的生活を確保する。そういった、与えられた権力に付随する管理責任は当然あった。だが、この国 ―― 数多く妖獣が生息し、近隣諸国とは比べ物にならぬ被害をこうむっていた土地 ―― で、我が王家が台頭したのには、それだけ他国とは異なった理由があったからだった。
 異界の生物である妖獣は、その生命力もまたこの世界の存在とは異なっている。剣や弓では容易に貫けぬ外皮を持つものが多く、またどうにか傷を負わせたとしても、それを致命傷とするには多大な労力が必要だった。首を失ってもなお暴れるもの、胴体を半ばまで割っても即座に治癒するもの、二つに裂けば二つに再生するもの ―― 脆弱な人間のふるう武器で滅多に倒せる相手ではなかった。
 セイヴァン王家の始祖エルギリウスは、そんな妖獣を容易に倒す技を持っていた。そしてそれを他者へと伝授することが出来た。残念ながら完全にではない。だがそれでも、妖獣の脅威にさらされていた民達が救われるのには充分だった。彼は素質のある人間に破邪の力を、そして自らの子孫には、その破邪の力を与えられた者達を癒すすべを、それぞれに伝えた。
 優れた統治能力よりも、人々を惹きつける支配者としての魅力カリスマよりも、その技術こそが、彼の血筋を王族として登りつめさせたのだ。
 この国では今もなお、変わらず妖獣の出現が頻発した。しかしそれもものともせず、近隣屈指の安定した繁栄を誇っている。国民はみな、王家と破邪の力を与えられた騎士達 ―― セフィアール騎士団の守護による賜物だと、口をそろえた。
 民達の支持に擁されて、セイヴァン王家の統治が他者に取って代わられることはない。
 私、エドウィネル=アル・デ=ゲダリウス=フォン・セイヴァンが王位につく日も、そう遠くはなかった。
 だが ――
 果たして国民は、そして騎士達は気付いているのだろうか。
 私の跡を継ぐ者が存在するのかどうか。この国の未来もまた、現在と同じように繁栄を続けられるのか。その保証は、けして誰からも為されてなどいないということに……



 カルセストの手は、日頃凶暴な妖獣相手に剣を振るっているのが嘘のようだった。長く細い指、傷ひとつない肌。見目よく整えられた爪の一本一本まで損なわれてはいない。
 彼らのふるう剣は、特殊な銀色の細剣だった。刀身から柄まで一体に造られ、柄や鍔には繊細な彫刻が施されている。材質は金属とは思えないほどに軽いものだ。一見すると儀礼用の装飾品のよう。だが見た目とは裏腹に、その剣こそが彼らを破邪騎士として活躍させる重要な要素のひとつだった。王家秘伝の特殊金属は、体内で生み出された破邪の力を外部へと放出する指針となる。細く軽い細剣は、持ち主の腕に殆ど負担をかけることなく操られた。破邪の力を宿した金属は、繊細な透かし彫りですら妖獣の牙を跳ね返す。優雅に弧を描いて籠のように柄を覆う鍔は、装飾を兼ねて剣を握る手指を防護した。
 伸ばさせた右手を私の手首に重ね、その上から押さえて固定した。カルセストの手の下で、手首にはめた腕環の石が光を放ちはじめる。透き通るような水色だった宝珠が、見る見るうちに紅く染まっていった。
「……っ」
 手首を刺す痛みに、つと眉を寄せた。幸いカルセストは目を閉じている。気遣う必要はなかった。瞬く間に血の色に変じた宝珠は、しかし同じだけの素早さで色を失ってゆく。完全に元の色を取り戻したところで、押さえていた手を解放した。
 終わったのを察して、カルセストはゆっくりと目を開いた。おずおずと右手を引き戻す。
「どうだ?」
 問いかける。形式的なものだった。既に彼の顔色は血の気を取り戻しはじめている。
 二三度まばたきをしたあとで、彼は口を開いた。何かを言おうとしたらしいが、言葉にはならなかった。なおも数回口を動かすが、産まれるのは声にならない声ばかりだ。
 無理もない。彼はまだ騎士になって間もなかった。負傷し、私の癒しを受けるのは初めてなのだ。
 まっすぐに目を見てうなずいてみせる。
「明日には起きあがれるはずだ。今はゆっくり休め」
「 ―― はい」
 ようやくそれだけ言って、しかし目を閉じる気配はなかった。
 王太子の前でだらしなく眠ってしまう訳にはいかないと思っているのだろう。そんなふうに気をまわせるほど、身体が回復しはじめたのだ。
 このままここにいては彼が休めない。それにまだやらねばならないことは残っていた。
 私は席を立って扉へと向かった。背中をじっと視線が追いかけてくる。
 廊下に出るとアーヴィングが待っていた。
「どうでしたか」
 心配そうに問いかけてきた。
「大丈夫だ。二日もすれば出発できるだろう」
 そう答えると、壮年の騎士はほっと安堵の息をついた。緊張した光をたたえていた煉瓦色の瞳が穏やかに和む。
 今回の破邪に派遣された十数名の騎士団員の中で、彼が一番のベテランだった。経験年数、人格、身分。どれをとっても隊長格として指揮を取るのに相応しい。が、王都からこの街まで、運河を使っても丸一日かかる。即座に上の指示を仰げぬ土地での仲間の負傷は、彼にかなりの心理的負担を強いたのであろう。
「最後のとどめは彼が刺したらしいな。名誉の負傷だ。褒めてやれ」
 負傷者を出したのは、けして責められるようなことではない。全員の身を張っての任務遂行、まことにご苦労だった。言葉に出してねぎらうと、アーヴィングは無言で深く頭を下げた。
「他に負傷者は?」
「おりません。殿下にはわざのご足労、申し訳なく……」
「何を言っている」
 確かに、王都で知らせを受け取ってからこの街に着くまで、けっこう無茶はした。時間を重視したため船の準備にはだいぶ無理を通したし、航行も風や流れをかえりみないものになった。供の者にはずいぶん酷い思いをさせてしまったかも知れない。だが私自身は、その程度を負担に思うほど脆弱ではないつもりだったし、そもそも ――
「セイヴァンの王太子たるもの、本来なら、破邪の折りには先頭に立ち、そなた達と共に戦場にあるが努めだ。なのにカルセストには二日も辛い思いをさせて、すまなく思っている」
「そのような……勿体ないお言葉を……」
 アーヴィングは首を振って私の言葉を否定した。
 しかしそれが本来なのだ。みなが危険だからと言って、私の身を戦場から遠ざけようとする。次期国王たる者、万一のことがあっては取り返しがつかぬから、と。まわりの気持ちは判らぬでもない。確かに私はおいそれと己が身を粗末にしてはならぬ立場にある。それはよく理解している。しかし ――
 垂らした右手が拳を握る。緊張した筋肉が腕環の存在を意識させた。
 幾何学的な彫刻を施された、腕に密着する幅広の腕環。セイヴァン王太子としての証。他でもないこの腕環が、私に常に努めを忘れさせない。この国の王族の血を継ぐ者として、果たすべき義務をつきつけてくる。
 今の私がすべきこと。できること。負傷者の手当ては行った。ならば次にすることは決まっていた。
「アーヴィング」
「はい」
「みなを集めてくれ」
 指示する。
 王家が彼らに与えた破邪の力は、あいにく完全なものではなかった。始祖エルギリウスは誰の手を借りる必要もなく、ただ一人で強大な力をふるい、また驚異的な自己治癒力を持ち合わせていたが、セフィアール達はそうもゆかない。回復力を発揮するには王族の助けが必要だったし、一定以上消耗した術力もまた、王族の手でしか回復してはやれなかった。
 実際アーヴィングの顔色はかなり悪い。戦いを終えて二晩が過ぎてもなおこの様子では、さぞや辛かったことだろう。
「私は部屋にいる。順に騎士達を寄こしてくれ」
「はっ」
 かちりと踵をそろえ、姿勢を正す。
 頭を下げる実直な騎士をその場に残し、私は滞在する部屋へと足を向けた。


*  *  *


 目覚めはあまり快適なものではなかった。
 妖獣の出現により騎士団の出動を乞うたこの街は、物資流通をになう運河の恩恵により、かなり栄えた裕福な土地になっている。市庁舎に設けられた貴人用の宿泊施設の中でも、さらに最高級に部類される客室は、控えの間までついた続き間に上等な家具を配しており、当然寝台も申し分ないものだった。だがこの際、それはあまり関係ない。
 初夏と言う季節柄、窓を閉めた室内にはいささか暑気がこもっていた。にも関わらず、右手の指先が氷のように冷え切っている。何度か逆の手で揉み、どうにか血行を取り戻そうとしきりに指を動かした。腕環の内側にまだ鈍い痛みが残っている。ぞくりと悪寒のようなものが背筋を這い上がった。普段は理性で押さえつけている、生理的な嫌悪感。今すぐこの腕環を引き抜き、投げ捨ててしまいたい。そんな衝動が湧き起こる。
 苦い唾と共にそれを腹へ呑み込んで、寝台から起きあがった。柔らかな絨毯を踏んで部屋を横切り、まず鎧戸を開く。澄んだ朝の大気を吸い込むと、いくらか気分がましになった。
 呼ぶよりも早く、召使い達が水差しと洗面具を持ってきた。手早く顔を洗い、身支度を整える。朝食を運ぼうかという申し出は断った。多くの貴族がやる寝台の中で食事を摂る習慣は、私の性にどうも合わない。他の騎士達と共に同じ食卓を囲むことにする。
 供も断り、廊下を食堂へと歩いた。朝の散歩がてら回廊の手すり越しに景色を眺める。中庭には川から引いてきた水で涼しげな噴水が造られていた。周囲をかこむ植え込みも、豊富な水と丁寧な手入れとを享受して、すごしやすそうな木陰を作り出している。枝葉の間から鳥の声が洩れ聞こえた。
 何という鳥だろう。鈴を転がすような美しいさえずりに、ふと立ち止まり耳を澄ましてみる。
 と ――
 鳥の声に混じって、何かをひっくり返すような物音が聞こえた。
 そう近くのそれではない。おそらく何枚か壁を通したむこうで起きたものだ。続いて複数の人間が言い争う気配。
 私は足を早めてそちらへと向かった。



 玄関ロビーには人だかりができつつあった。
 一番外側にいるのは、遠巻きに様子をうかがう下働きの者達。恐れと好奇心とをない交ぜにした、複雑な表情で騒ぎの中心を見つめている。内側にいるのは数名の騎士団員だった。さらにその中心で、二人の騎士が向かい合っている。
「ったく、うっとぉしいことを、ゴチャゴチャとほざきやがって」
 一方の騎士が小指で耳をほじりながら言った。
「俺がどこで何をしてようと、どうでもいいだろうがよ。いちいちいちいち、つっついてカッカきてんじゃねぇよ。馬鹿が」
 早口で放たれる言葉は、とても騎士のそれとは思われない汚さだった。対するもう片方は、面と向かっての暴言に、ぎりぎりと歯を噛みしめる。
「ああ! 貴様がどんな乱行を繰り広げたところで、我々の知ったことではない。だがな、貴様もセフィアールの一員である以上、その評価は騎士団全てに影響を及ぼすのだ。仮にも、名誉あるセフィアール騎士団員ともあろう者が、あ、朝帰りだなどと……ッ」
 『仮にも』と言う部分に、必要以上に力が込められていた。お前など断じて仲間として認めたくはないのだ、と強調した言い方だ。まわりの騎士達も同調してうなずく。
 ひとり孤立して険しい視線に囲まれた騎士 ―― ロッド=ラグレーは、しかし全く応えた様子がなかった。
「はっ、酒だろうが女だろうが、こちとらちゃぁんと金払って買ってるんだ。ここでタダ飯食らってる奴らに言われる筋合いはねぇな」
「た、タダ飯だと!?」
「我々がここにいるのは破邪の任務あってのことだ! ろくに仕事もせず遊びまわっているような貴様と一緒にするな!」
 いきり立つ一同をせせら嗤う。
「手前ぇらの破邪なんざおとといで終わってるだろうが。昨日一日、何もせずにぶらついてたくせに、何が仕事だ、えぇ? 遊びじゃねぇってんなら、とっとと王都に帰りゃいいだろ」
「怪我人を置いて帰れるか!」
「カルセストは動かせるような状態ではなかったんだ。ほとんど妖獣の相手もしないで逃げまわっていた貴様とは違い、あいつは勇敢に戦って名誉の負傷を負った。それを見捨てていきなど ―― 」
 口々に言い返される言葉が尽きる前に、ロッドは盛大に吹き出した。そのまま腹を抱えて爆笑する。
「何がおかしい!」
「名誉の負傷? あれが?」
 いちいち語尾を上げるようにして疑問を強調する。
「単にトロかっただけじゃねぇか!」
 そう言って、思いきり笑い転げた。
 あまりといえばあまりなその態度に、騎士達の我慢は限界に達したようだった。
「貴っ様ぁ……よりにもよってカルセストまで侮辱する気か!?」
「もう許せん! そこに直れ!!」
 それぞれに拳を握り、あるいは腰の細剣に手をかける。剣呑な気配に見ていた使用人達がざわついた。さすがにこうなっては私も黙っていられない。
 しかし私が何かを言おうとするより早く、ロッドは笑いをぴたりとおさめた。そうして殺気立った一同をまじまじと見やる。
「お前ら……」
 低い、真剣な声になっていた。
「本気で馬鹿か。手前ぇらごときに許してもらわなきゃならない筋合いがどこにある」
 眉をひそめ、心の底から不思議だというように言ってみせる。そして二三度頭を振った。
「まぁ、心配すんな。別に帰りたくて帰った訳じゃねぇし、目障りな俺様はまた出かけてやるさ。なにせこちとら忙しいんだ。手前ぇらの相手なんざしてるヒマはねぇ」
 目を細め、フンと鼻で嗤う。布でくるんだ細長い物でぽんぽんと肩を叩いた。
「じゃぁな。こいつ、ちゃんと弁償しろよ」
 そう言って、あっさりと歩き始めた。真っ赤になって肩を震わせる騎士達の間を、平気な顔で抜けてゆく。何かのはずみで倒してしまったのだろう、玄関脇に飾られていた大きな花瓶の破片を、ご丁寧に蹴飛ばしていった。ひらひらと肩越しに手が揺れ、後ろ姿が扉の向こうへと消える。
「 ―― 下種が!」
 置き去りにされた騎士のひとりが吐き捨てた。蔑みに満ちた罵りは、しかし分厚い扉に阻まれ、ロッドの元まで届くことはなかった。



 いったん回廊へと戻り、そこから中庭に降りた。足早に建物をまわりこんで外門に向かう。ロッドの後ろ姿はまだ往来の向こうに見えていた。どうするかわずかに迷ったが、見失わないうちに後を追うことにする。
 近付いてくる気配を察していたのだろう。横に肩を並べても、ロッドはちらりと視線を寄こしただけだった。
「ひさしぶりだ」
「…………」
 返事は鼻を鳴らす音だった。
「お前もこの街に来ていたんだな。知らなかった」
「それぐらい把握しときやがれ。間抜けが」
 辛辣に言い捨てる。
 確かに。派遣された人員を確認しなかったのは、私の手落ちだった、
「すまなかった。もしかしたら、アートも ―― 」
「はっ、あいつまで忘れてやがったのか」
 たいした鳥頭だな。ボケ。
 王族を相手に、よくぞここまでと評したくなる暴言だ。しかし彼のこの物言いは、誰が相手であっても変わることはない。それに蔑み突き放すような口調は、気分を害しているからだとは限らなかった。この男は普段からこういう話し方をする人間だ。
 まるで騎士らしからぬこの青年は、セフィアール騎士団の中でも異色の存在であった。さる事情から特例で入団を認められた彼は、いま言ったアート……アーティルトと共に、騎士団で二人しかいない平民階級に属する人間である。しかも特に底辺に位置する育ちをしていた。治安の良くない貧しい土地で成長し、堅気とは言えぬ様々な事柄に手を染めた経験すらあるらしい。
 性格は粗野・粗暴。とにかく口が汚く、礼儀や協調性など全く持っているようには見えない。破邪の任務時にもさぼってばかりの、ろくでなしだと評判だった。騎士団内に彼の味方はほとんどいない。
 しかし彼はむけられる悪意など歯牙にもかけず、態度を改めるどころか、逆に相手を刺激して楽しんでいる風情さえあった。
「少し言い過ぎだったのではないか?」
 無駄だとは思ったが、一応言ってみる。
「カルセストのことまで言わずとも ―― 」
「トロいのをトロいっつっただけだろうが。たかがでかぶつ一匹倒すのに、総出で足止めしてもらったあげくに刺し違えと来た日にゃ、笑う以外にどうしろってんだ。おまけに死ぬような怪我でもあるまいに、看病もしねぇ奴らがぞろぞろと付き添って、無駄飯食らって遊んでるときた」
 あんな馬鹿共、相手にする価値もねぇ。
 忌々しげに唾を吐く。いつになく真剣な口調だった。いつもは乱暴なりに、もう少し余裕のある言動をとる男なのだが。今朝はやけに直接的な怒りを見せている。相手が私だということもあるだろうが、それにしても珍しかった。
 ずかずかと大股に歩く様も、妙にせわしなく感じられる。
「どこに行くんだ?」
「手前ぇに教える必要ないだろ」
「ある」
 ようやく顔がこちらを向いた。
「へぇ? どんな」
 からかうような口調で問い返してきた。唇の端が皮肉気に上げられている。ここで下手な答えを返すと、浴びせられるのは罵詈雑言だ。
「『私が』知りたいからだ」
 断言した。ぴくりと眉が上がる。
「そりゃそっちの都合だろうが」
「その通りだ」
 逆らわず肯定する。私は私が知りたいから問うたのだし、それに答えたくないというのなら、それもそちらの都合だ。
「さっきの見てたんだろ。予測ぐらいつかねぇのかよ」
 朝帰りと罵られていたことか。あれを信じるのなら、酒場か花街、あるいは知り合いの女性の部屋というところだろう。しかし ――
「生憎、お前の行動は予想を越えるからな。ちゃんと訊いた方が確実だ」
「他力本願だな」
 顎を持ち上げてこちらを見る。
 きつい言葉に代わりはなかったが、向けられる瞳の光は、強いなりに落ち着いたものだった。
「エレネスだ」
 短く告げる。
「 ―― 下町だな」
 頭に地図を広げてみる。
 王都に臨む湖から、海へと流れ出る太い河がある。蛇行し幾度か分岐・合流するその中ほどに発展したこの街は、網目状に運河を張り巡らせた水上交易都市であった。運河と街並みは幾度かの段階を踏んで計画的に建設された、無駄のない機能的なものだ。しかし、計画段階で下積みとなり、後に発展から取り残された地域というのは、どうしても存在してしまう。
 エレネスは当時、運河を掘るために集められた職人や人夫が住まっていた地域だった。最低限の土地に入るだけの生活施設を詰め込んで、何とか暮らしていける程度の給料を与えられた人間達が数多くひしめいていた町。工事が終わり、労働力が必要とされなくなってからも、どこにゆくあてもない貧しい者達は、そのままその土地に留まり続けた。そしてそんな彼らに引き寄せられるように、経済的あるいはその他の要因によって、都市部に生活の場を持てない人間達が次々と流れ込んでいった。都市の繁栄に取り残されたそこに、それでもわずかながらの居場所を見いだして。
「素直に貧民窟スラムっつったらどうだ? 薄汚ねぇ、ダニ共の吹きだまりだってな」
「そんな言い方はできない」
 われわれ行政に関わる者にこそ、そんな地域と、そこにしか住めないような人間達を生み出した責任があるのだ。そして救済しなければならない義務もまた。問題の解決はとても困難で時間がかかることだろうが、それでも努力は怠りなく続けている。福祉施設の設立や、失業対策などの予算はしっかり組んでいるし、民達からの要望があれば叶う限り耳を傾けるよう、各地に通達してある。
  ―― もっともその政策が、末端まで確実に機能しているかといえば、けして断言できないのが、いかんともしがたいところなのだが。
 ともあれ、
「その下町に、何をしに行くのだ?」
 そう言った土地で盛んな遊び ―― いわゆる呑む・打つ・買うというやつ ―― をしに行くようには思えなかった。素直に答えてくれるつもりだったのかどうか。ロッドが口を開こうとした時、
「兄貴ッ!」
 突然そう呼びかけてきた声があった。前方の人混みの間から、誰かがこちらへと駆けてくるのが見える。しきりに飛び跳ねるようにして、激しく手を振り注意を引こうとしている。
 ロッドは一瞬表情を緊張させた。が、すぐに元の皮肉気な笑みを取り戻す。
「おぅ!」
 担いだ荷はそのままに、もう片手を挙げて相手を迎える。
「兄貴、兄貴、兄貴ぃっ」
 必死な様子で走り寄ってきたのは、まだ幼い子供だった。十歳にもなるかならないかといった年齢の、痩せこけた少年。櫛など通したこともないだろうもつれた髪は、生来のものとは思えぬくすんだ色で、肌も油染みた薄黒さだ。大きさが合っていない服はかなり汚れ、あちこちが破れたりすり切れたりしている。明らかに路上生活の浮浪児だ。
 周囲を歩いていた通行人が、眉をひそめて距離をあけた。汚いものを見る目で少年を見やり、そして彼が話しかける我々をもまた胡散臭げににらむ。
 少年は一直線にロッドへと飛びつこうとして、そこで私の存在に気が付いた。とまどったように立ち止まり、おどおどと我々を見比べる。
「どうしたよ、あぁ?」
 ロッドは立ち止まった少年の頭に手を置いた。撫でてやるのかと思いきや、大きな手のひらでわし掴みにし乱暴に振りまわす。かなり手荒な応対だったが、気後れしていた少年はそれで我を取り戻したようだった。
「あ、あの、また奴らが……もう一人の兄ちゃんが相手してるけど、数が多くって……」
 ちっとロッドが舌打ちする。
「場所は」
「ドブ通り三本目、倉庫ンとこ!」
 それだけ訊くと、ロッドはものも言わずに走り出した。あたりを歩く人間を乱暴にかき分け、押しのけてゆく。少年も後を追おうとした。とっさに私はその手を掴む。
「待ってくれ。何があったんだ」
 引き寄せて問いかける。だが少年は露骨に顔をしかめた。隠す気のない嫌悪 ―― いや怯えの色を見せて私をにらむ。
「はなせっ」
 叫びと同時に噛みつかれた。長い袖越しでさほど痛みはなかったが、驚いて指から力が抜ける。その隙を逃さず、少年は私の手から抜け出した。あっというまに人の間へと駆け込んでいってしまう。
「あ、おいっ」
 ここで置いていかれては、まったく訳が判らない。やむなく私も二人の後を追って駆けだした。


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