―― 当時。
王都とコーナ公爵領という二つの場所で、いったい何がどういう順序で起こっていたのか。すべてを把握していた人物は誰一人としていなかったであろう。
単なる情報をやりとりすることにすら、数日を要する遠く離れた土地。
まして公にされず隠された情報はあまりに多く、また後に公にされたとしても、その内容を大幅に改変されていたそれも多分に存在していた。
故に、すべての事態が収束してからも、ほとんどの人間は当時の経緯をはっきりとは知らぬままであったのだ。
後に公にされた中で、手が加えられていた代表的なものは、セイヴァン国王カイザール=ウィルダリアの崩御の日であろう。
現実には、エドウィネルが実質的な王位継承を果たし、そのまま高熱により意識を失った二日後には、国王はその息を引き取っていた。だが、その事実は王宮の奥向きによって厳重に秘され、公的記録にはその三日後、エドウィネルが無事に意識を取りもどしたその日とされたのである。
五日ぶりに寝台から身を起こした王太子は、その事実を知り、激しく嘆いたという。
しかし彼は長くそのことに捕らわれることも、またそれが許される立場にもなかった。
自身が五日もの時を無駄にしたと知った彼は、すぐさま多くの質問を発し、現在の状況を把握することに務めた。
未だその身体は高熱による痛手から立ち直ってはいなかったが、気遣う侍医や侍従達を、彼は一言のもとに退けた。
既に事実上国王である彼に対し、臣下である身が必要以上の抵抗をすることは難しい。
もたらされる情報から、かなう限りの現状を見て取ったエドウィネルは、寝台の上から多くの命令を発した。
そのほとんどは、一刻も早く国王の死を弔い、また名実ともに王位を引き継ぐためのそれであった。
先代国王亡き現在、それこそが何よりも必要とされる急務だったからである。
だがその中には、臣下の者達を戸惑わせ、疑問を感じさせる命令も幾分かなりと含まれていた。
そのうちの一つは、セフィアール騎士団の遠征である。
国王崩御を間近にして、破邪騎士セフィアールは、そのほとんどが王都へと集められていた。破邪のため、あるいは移民達を護衛するため開発途上の土地になど各地へ派遣されていた者達すべてが、
来る国王の葬儀と王位継承の儀に参列するため、王都へと帰参してきていたのだ。
例外は、密かなる王太子の意を受け、コーナ公爵領に滞在していた、カルセスト=ヴィオイラ、アーティルト=ナギ=セルヴィム、ロッド=ラグレーの三名のみ。残る三十名弱の騎士達の内、実に三分の二にあたる二十名を、至急コーナ公爵領へ向かわせることを、彼は次期国王の名において命じたのだった。
その根拠となる、妖獣大量発生の知らせは、確かに王都へと届いていた。だがカイザールの崩御とエドウィネルの昏倒によって混乱していた宮廷は、その知らせを危急のものとは見なしていなかった。セイヴァン国内でも二大公爵家に数えられるコーナ公爵家のお膝元で起こった事件である。また現在公爵領には、破邪騎士の一人ロッド=ラグレーが滞在していることが確認されていた。ならば、いましばらくの時は充分稼げようと、公爵自身をも含めそう判断されたことに無理はなかった。
故にエドウィネルのこの措置を、経験不足から来る誤りではないのか、と。
そう話し合う重臣達の前に現れたのは、侍従達を押し切り床を離れたエドウィネルその人だったという。
未だやつれの色を濃く宿した王太子は、常日頃の穏和さとは裏腹に、居並ぶ重臣達を静かにしかし鋭い眼差しで睨み据えた。
下がり切らぬ熱に掠れひび割れたその声は、しかし低く、重い響きを持って会議の間に響いたと伝えられる。
曰く ――
「王のつとめは君臨し支配することにあらず。ただ民達を守り、その平穏なる生活のために奉仕することなれば」
たかが王位を継承せんが為、国民の難儀に、そして妖獣の跋扈に目を閉ざせというのであれば、元より王位など必要とはせぬ。
セフィアールに力を与えられる、ただひとつの血筋というその事実だけが、我がセイヴァン一族の誇りであり、存在意義である、と。
未だ三十にも手の届かぬ、やつれ衰えた青年のその発言に、しかしその場にいた重臣達は、誰一人として言葉を返すことができず、ただ無言で膝を折るに留まったのだと ――
そしてもうひとつ。
ごく一部の者にしか知らされなかった、しかしひどく重要な意味を持つ命令が存在していた。
それは、コーナ公爵領へ向かうセフィアールが選抜され、急ぎ出立の準備を行っていたときのこと。王太子の信頼あつい侍従文官、フォルティスによってもたらされたものだった。
時は既に夜半近く。王太子の寝所へと密かに呼び出されたレジナーラ=キエルフは、多くの灯りで真昼の如く照らし出された室内の明るさにその目を射られ、数度せわしなく目をしばたたいた。
天蓋つきの寝台に半身を起こし、多くの書類に目を通していたエドウィネルだったが、フォルティスに続いて入室してきた女騎士の姿を目にして、わずかにその表情を和らげたようだった。
口述筆記させていた書簡を中断させた彼は、まとめたそれを持たせ、文官を部屋から下がらせた。そうしてレジィを枕元近くへと呼び寄せる。
フォルティスは一人扉近くへと残り、言葉を交わせる距離にいるのはエドウィネルとレジィのただ二人のみ。
「……夜分、急な呼び立てをしてすまなかった」
第一声は、いかにもエドウィネルらしい、穏やかなそれであった。
柔らかな羽枕に上体をよりかからせたその姿は、やはり未だ衰えの色が濃い。王位継承に伴う体調不良は、今もなおその身をさいなみ続けているのだった。
「滅相も……それより殿下こそ、もっとお身体をお
厭いになられなければ……」
奏上する言葉は、主君に対する家臣のそれと言うよりも、もっと
親しく、気遣いに満ちた響きを備えていた。
事実、たとえ健康な状態であったとしても、これほど遅くまで執務をとり続けていることは、けして褒められたこととは言えないだろう。まして現在の彼の体調では、あまりに無理が過ぎるというものだ。
しかしエドウィネルは小さくかぶりを振って、その言葉を退ける。
「今はまだ、為さねばならぬ事が多すぎる。なによりもコーナ公爵領に対して、私には重大な責任があるのだ」
「殿下……?」
唐突に告げられた己の故郷の名に、レジィは小さな違和感を感じた。
「私が倒れなどしなければ、もっと早くに騎士団を公爵領に向かわせることができていただろう。フェシリア殿の書簡によれば、大量の妖獣が発生し始めてから、早四日……ロッドらの手があれば、ある程度は食い止められているだろうが、それでもはたしてどれほどの被害が生じていることか……」
明日の夜明けと共に王都を発ったとしても、騎士団が公爵領にたどり着くまでにはそれからさらに三日を要するのだ。それだけの時があれば、被害はどこまで広がることか、知れたものではない。
「勿体ないお言葉に存じます。ですがフォルティス殿より伺ったところによれば、殿下の
病は王位継承につきもののそれだとか。けして殿下の責であるだなどとは……!」
視線を伏せて呟くエドウィネルに、レジィは感じた違和感などすぐに忘れ、懸命に言いつのっていた。無論、
己が故郷の大事である。残してきた家族や部下達、なにより主君たるフェシリアの安否も気にかかる。
それでもいまこの時、この何に対しても真摯な王太子を責めることなど、彼女にできようはずもなかった。
枕元にひざまずくような姿勢になったレジィを、エドウィネルは目を細めて眺めた。
その表情は、どこか眩しいものを見るそれにも似ていて。
やがて ―― 小さく息を付くと、エドウィネルはそのことについての話を打ち切った。そうして、あらためてコーナ公爵家に仕える女騎士を見返す。
「こうして深夜にそなたを呼び立てたのは、他でもない。頼みたいことがあったからだ」
「……はっ」
エドウィネルの雰囲気が変わったことを察し、レジィは短く首肯した。
ひざまずいた胸元に手を当て、命令を待つ臣下の姿勢をとる。
そんな彼女の前で、エドウィネルはゆっくりと自身の右手首を引き寄せた。
そこにはめられているのは、幾何学的な彫刻を施された、腕に密着する形の幅広の腕環だった。中央に透きとおるような、淡い水色の宝珠をはめ込んだその腕環は、国家セイヴァンの王位継承権を証明するものだ。身につけられるのは、王太子と国王のただ二人のみ。国王が身罷った現在となっては、エドウィネルただ一人が許されているそれだ。
そしてその腕環が持つ意味は、単に象徴的なものに留まらない。
破邪騎士団セフィアールに所属する騎士達の、傷を、そして失われた
術力を癒してやるその時にこそ、その腕環は真価を発揮する。
息を呑んで見守るレジィの前で、淡い水色をたたえていた宝珠は、ちかりと微かな光を放った。そうして見る見るうちにその色を、鮮やかな紅色へと変じてゆく。
まるで血の色を思わせる、どこまでも深く、鮮やかな真紅。
目を閉じ、わずかに眉間に皺を寄せていたエドウィネルは、やがてこめていた力を抜いた。ほぅとため息をつき、寝台の枕へと、深くその背中を沈める。
セイヴァンに生まれ育った人間であれば、五歳の赤子でさえ知っているであろうその光景を、しかし破邪騎士以外で実際に目にすることができる人間は、ごくごく稀である。
目をみはって宝珠が染まる様を眺めていたレジィは、ごくりと喉を鳴らしてエドウィネルを見つめた。
閉ざしていた目を開いたエドウィネルは、だるそうに腕を動かすと、腕環の留め金を外し、それを腕から引き抜いてしまう。
良く陽に焼けた肌にくっきりと残った白い痕から、それが滅多なことで外されるものではないことが、よく判った。
「レジィ=キエルフ」
静かな声で名を呼んで、エドウィネルは外した腕環を女騎士へと差し出した。
「明朝王都を発つセフィアール騎士団に同行し、この腕環をある人物へと渡してほしい。内密に ―― 誰にも知らせることなく、だ」
「は……いえ、しかし……これは……」
レジィは戸惑ったように、無意識のうちにかぶりを振っていた。
それは国王と、王太子しか身につけることを許されぬ腕環だ。たとえ手にするだけでも畏れ多いそれを、現在唯一の継承者である青年は、いったい誰に手渡せと言うのか。
わずかに身すら引きかけているレジィを、エドウィネルはまっすぐに見つめる。熱に潤んだその瞳には、しかしどこまでも真摯な光が宿っていた。けして熱に浮かされたが故の戯れごとなどではないのだと、そう示すかのように。
「いま、あの地にいる者達には、『これ』が必要なのだ。私のもとには、まだ陛下が使っておられた腕環が残っている。だから、彼らにこれを ―― 渡して欲しいのだ」
真紅に染まった宝玉は、セフィアールの心身を癒す力を備えている。
それはただ一度分の力でしかないかもしれない。それでも、かの地で苦しい戦いを続けているだろう彼らには、必要な力であるだろうから。
「ぎょ……御意……」
とっさに懐から手拭いを取り出したレジィは、そっとそれで包むようにして腕環を受けとっていた。両手で捧げ持ち、外部からはそれと知られぬよう、丁寧に包み込む。
「頼む。けして誰にも知らせることなく、彼らに……ロッド=ラグレーに渡してくれ。彼に渡せなければ、アーティルト=ナギ=セルヴィムに。必ずこの二人のどちらかに、だ」
言葉を重ねるエドウィネルに、レジィは深々とこうべを垂れた。
「必ずや、仰せの通りに」
王家の至宝をその胸に
抱き、女騎士は至高の主に忠誠を誓った。
告げられたその言葉が、事実のすべてではないことを、薄々とは感じとっていながらも。
やがて、数時間ののちにその夜は明け、コーナ公爵領へと向けて一艘の船が王都を発った。
選び抜かれた破邪の騎士達と、王太子の密命を受けた女騎士を乗せて ――
* * *
それは、王都へと妖獣の大量発生を報を発してから、八日目の事だった。
七日目も夕刻間近となって、伝令鳥によるその知らせを受けとったフェシリアは、思わず天を仰いで安堵の息を吐いたという。
破邪騎士団、セフィアールの到着。
よほどのことがない限り、常に王都に余力を残すその遠征は、多くとも十名を数えるかどうかというところがせいぜいだ。それを全団員の三分の二を裂いた大人数に、公爵領の人々は諸手をあげて彼らを歓迎した。
それまで三名がいた破邪騎士達の内、一人は既に倒れ、一人は負傷から回復しつつこそあるものの、その術力はほぼ底を尽き、そして最後の一人もまた限界に近くあったその状況において、騎士団の到着はまさに救世主のそれにも等しかったのである。
「 ―― 良くやった!」
想像をはるかに絶していた妖獣の発生数に、騎士団を率いていた副騎士団長ゼルフィウム=アル・デ=ドライア=ルビスは、声を惜しむことなくカルセストをねぎらった。
着替えとして持ってきていた
青藍の制服は、既に泥と埃と妖獣の体液にまみれ、身体のあちこちに大小幾つもの傷を負っている、そんな若者のその肩を力強く抱き、ゼルフィウムは力強い言葉を投げかける。
「いえ……俺、いや私は……アーティルトさんと、ロッドがいてくれたからこそ……ッ」
かぶりを振ろうとするカルセストを押しとどめ、ゼルフィウムはただ彼に休息を命じた。残る掃討は自分達の責務であるのだからと、疲れ切った仲間をいたわり、その労を多とする。
実際、ほぼ限界を迎えていたカルセストは、到着した救援に現状を説明し終えると間もなく、倒れるにも等しい状態で医師の手にその身を委ねられたのであった。
一気にその数を増やした破邪騎士達は、良く訓練された公爵領の兵士達と共に、やはり良く整理された情報を活用して、次々と妖獣共を屠っていった。その勢いはまさしく掃討と呼ぶに相応しいもので。多種多様だった妖獣共は、みるみるうちにその数を減らしていった。
ここに、建国当時を除けば近来稀に見る妖獣の大量発生 ―― 公爵領の危機とも言えた事態は、ある意味その始まりからはあっけないとも言えるほどの速さで、収束を見せていったのである ――
破邪騎士達と共に帰還を果たしたレジィ=キエルフは、まず己が主君たるフェシリアの召喚を受け、王都での状況を報告していた。
公爵家の隠し通路に対する、エドウィネルの見解。情報を隠匿していた公爵についての処置はひとまず保留とするにしても、なにかが起きることを予測して遣わしたアーティルトとカルセストは、無駄になることなく公爵領を守ることに多く役立っていた。
彼ら二人に代わり、過去、習性に反する出現を行っていた妖獣の例がなかったか調査を引き継いだレジィだったが、そちらの方面に対しては、結局これといった成果が上がることはなかった。
それは、実際にそういった例がこれまで生じたことがなかったからなのか ―― それとも何らかの理由で情報が公的記録から伏されていたからなのか ―― それは謎のままであったのだけれど。
そして遠きコーナ公爵領では妖獣の単発的な発生が数件生じ、レジィの元へとフェシリアからの密書 ―― 即ち、王家に対する弾劾とも呼べる、妖獣の発生法則についての疑問を記した書簡が届いた。
その書簡をエドウィネルに渡して以後、五日間にわたり、レジィはすべての情報から隔絶されることとなった。この間にエドウィネルはカイザールから事実上の王位を継承し、そしてカイザールの崩御とエドウィネルの昏倒という大事件が続いたのだが、彼女はそれをそうと知る立場にはなかった。
そしてその間に、コーナ公爵領では妖獣の爆発的な発生が生じ、フェシリアの英断によって大規模な人員の避難が行われるなどの事件が起こった。アーティルトは妖獣の前に倒れ、ロッドもまた現在、意識不明のまま公爵家の一室で療養の時を送っている。
間に幾つかの重大な空白を含んでこそいたものの、この段階でもっとも事態の流れを把握できていたのは、コーナ公爵家公女フェシリアであったかもしれない。
このとき彼女が持っていた手札の中には、後にすら公にされることのなかった、重要なそれもまた含まれていたのだから……
ねぎらいと共に主君の元を辞したレジィは、やがて館の者に話を聞き、ロッドが現在面会できる状態にないことを知った。仕方なく代わりとなる相手 ―― アーティルトを探すと、彼は中庭にある人目につきにくい一画で、ゆっくりとその肉体を動かしていた。
ほんのつい数日前、妖獣によって瀕死に近い重傷を負った彼だったが、そこはセフィアールの一員と言うことで、かろうじて一命を取り留め、昨日寝台から起き上がったばかりなのだという。
未だその術力は戻ることなく、身体の方も本調子には遠いらしい。騎士団の救援が到着した今は、もう前線に出ることはなく、王都に戻るまでゆっくりと療養に励むことが許されているのだろう。
それでもたゆむことなく、愛用の剣を手に筋肉をほぐしているその姿に、レジィは好感を覚えた。
「アーティルト殿」
声をかけるよりわずかに早く、気配に気付いたらしい青年は動きを止め、こちらをふり返ってくる。
「…………」
幼い頃、声帯を傷つけられた彼が、自ら声を放つことはない。
わずかに首を傾けるようにしてこちらの言葉を待っている青年に、レジィはさらに人目につかぬ場所へ向かうよう、身振りで促した。剣を鞘に収めたアーティルトは、特に疑問を差しはさむでもなく、素直に後をついてくる。
植えられた樹木が周囲からの視線を完全に隠す場所へと移動してから、レジィは慎重に言葉を紡いだ。
「王太子殿下より……お預かりしてきている品がございます」
アーティルトは、わずかに目を見開くことで驚きを示した。
「本来であれば、ロッド殿に直接お渡しせよとのことでしたが。それが叶わぬ場合は、アーティルト殿に。くれぐれも内密に、とのお言葉でございました」
他に手紙も何もつけられていないそれは、無言の内に『渡せば判る』ということを暗示していた。
手拭いの上からさらに幾重にも布を巻きつけた腕環の包みを、レジィは丁重に取り出し、アーティルトへと差し出す。
無言のまま受けとった彼は、問いかけるようにレジィの様子を窺った。が、説明がなされぬ事を確認すると、手早くその包みを解きにかかる。
そして……現れた物に対し、今度こそ大きくその隻眼を見はり、絶句した。
仮に彼の喉が潰されていなかったとしたら、そこでは必ず何らかの声が発せられていたことだろう。
とっさに、といった仕草で手の中の物に布をかけ直した彼は、数度大きく息を吸ってから、もう一度確かめるようにゆっくりと包みを開いた。
「…………」
幾何学的なその彫刻と、真紅に染まった宝珠とを目にして、傷のある喉元がごくりと一度上下する。
それは、本来ここにあるはずのない物。あってはならぬはずの物。
幾重にも重ねられた布を握る手が、かすかに小さく震えている。
が ――
わずかののち、驚異的な精神力でアーティルトは平静を取りもどした。
黒に近い焦茶色の瞳がレジィを見返し、右手の人差し指が腕環を指差した。そうしてそのまま唇の前へと静かに立てられる。
「はい。誰にも知らせるな、との仰せでしたので。……その、フェシリア様にも……お伝えはしておりません」
その答えに、鋭かった眼差しがほのかに和らげられる。
口元に指を立てたまま、ゆっくりと微笑んだアーティルトは、小さくひとつうなずいてみせた。
そのまま、誰にも告げることなくいよとの意だ。
そうして改めて腕環をきっちりと包み直し、己の剣や脱ぎ捨てていた上着をひとまとめにして持った。
「ど、どちらへ?」
足早に席を外そうとするアーティルトに、レジィはとっさに問いを放っていた。
ふり返った彼は習慣で片手を上げ指文字を綴ろうとし、それから戸惑ったように手を止め、わずかに首を傾げた。
そうして再び己の口元へとその指先を触れさせる。
小さく二度開閉された唇は、音声こそ伴っていなかったが、二つの音節を形作っていた。
即ち、現在意識がないまま床についている、褐色の肌の破邪騎士の名を。
* * *
かくして、公爵領を襲った未曾有の危機は終わりを告げ、再びそこには平和が戻ってきたかに見えた。
無尽蔵に現れるかと思われた妖獣共も、破邪騎士達の連ねる
細剣の前には虚しく力尽き、その数を減らしてゆく。
斃れた者は数多く、失われたものもまた多かったが、それでも元より大きな経済力を持つ公爵領下のこと。復興の兆しは早く、人々の表情は明るく変わった。
喉元を過ぎれば ―― とは古からの言葉だが、確かに一時の脅威が過ぎ去った後の彼らは、たくましくも力強く、未来を見すえて動き始めようとしていたかに見えた。
しかし ――
妖獣を排除しただけでは済まぬ事を、ごく一部の者達だけは知っていた。
ある意味、天災にも近かった今回の出来事。
だがそれも、ふさわしき判断と対処さえ行われていれば、もっと異なった結果をもたらすことができていたはずだったのだ。
故にこれは人災でもあり得るのだ、と。
それを知る者は数少なく、そしてその中でもすべてを知る者は未だ一人として存在せず。
だが、それをこのままに捨て置くことが許されぬということだけは、事情を知る誰もが判っていたのである ――
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