<<Back  List  Next>>
 楽園の守護者  第十五話 外伝
 〜 疑 惑 〜 後編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 冷ややかな雰囲気のままに晩餐を終えると、フェシリアは足早に執務室へと向かった。寝床に入るには未だ早い時間帯。フェシリアはいつも夕食の後も、執務室でしばし書類に目を通してから自室に戻ることにしている。その際にも、興味を覚えたものに関しては、資料を寝台まで持ち込むことがままあった。
 そういった職務への責任感と、中毒といっても過言ではないほどの傾倒ぶりは、王太子のそれと実に良く似通っている。
 いつになく足早に進むフェシリアに追い立てられるように、先をゆく侍従文官もまた足取りを早め、執務室の扉を開き素早く脇へと控えた。
「おるのか! ロッド」
 室内に入るなり呼びかけたフェシリアに、例によって執務机に腰を乗せた姿勢のロッドが、よう、と軽く手を挙げてくる。
「案外早かったな」
 ちゃんと食ってきたんだろうな? などと訊いてくるのには答えず、フェシリアは無言で大またに歩み寄り ――

 ぐい、と。

 細い両腕でその襟首をつかみ寄せた。
 座っているためいつもよりは低い位置にあるロッドの顔が、フェシリアのそれへと肉薄する。
 吐息が触れるほどに近付いて、二人はしばし互いの目をのぞき込む格好になった。
 閉ざした扉の前で仰天しているラスティアールをよそに、フェシリアは恐ろしいほど静かな眼差しでロッドを見すえる。
 その表情を、顔色を、何一つ見逃さぬよう凝視し、そして ―― 問いかける。
「……毒か?」
 低く紡がれたその言葉に、ロッドがにやりと口元を上げた。
 片手を背後へとまわし、影になる位置に置いていた水差しを取り上げる。半分ほど液体が入っているそれからは、ほのかな甘い香り。先ほどの食事で出された果実酒だ。あの食卓で、未だ幼いファリアドルには果汁が、そのほかの大人達には酒が、それぞれに供されていた。だが、大人と呼ばれる中でもやはりまだ年若いフェシリアには、特に軽く口当たりのよい酒が別に用意されていたのだ。
「うまかったからっつって、厨房から取り上げてきた」
 つまりこれは、フェシリアの杯に注がれた ―― 言い換えれば、フェシリアの杯にのみ、注がれた酒だということで。
 そら、と乱暴に突き出してくる。フェシリアは無言でロッドを解放すると、差し出された水差しを両手で受け取った。そうして立ちのぼる香りを確認し、次いで注ぎ口についた水滴を指で拭い、口元へと運ぶ。
 薄桃色の舌がわずかにのぞき、指先へと触れた。
「……やはりそうか」
 形のよい眉がひそめられ、袖が素早く口元を拭う。
 ロッドはどこか感心したようにその様子を眺めていた。そして口を開く。
「こいつは即効性のもんじゃねえな。飲んで半日もした頃に、いきなり効いてくるやつだ」
 その場で劇的な効果を現すのではなく、間を置いてから症状が現れる類の毒だと、そう解説する。
「で、良くあることなのか?」
「……まあ、な」
 深々とため息をついたフェシリアが、水差しを卓上へ置き、執務用の椅子へと投げ出すように身を預けた。
 ロッドの態度と給仕が杯を片づける際、漂った香りだけで事情を察した彼女は、その場で騒ぎ立てるでなく、まずこうして真相を確認にきたのだった。そして疑惑が確信に変わってからも、ただため息をつくだけで終わらせているあたり、慣れているのは本当なのだろう。
 もちろん慣れているからといって、なにも感じずにいられるわけでは、ないのだろうけれど。
「盛ったのは例の義母はは親だ、と」
「そうだ」
 躊躇なくうなずく。
 つい先刻まで、目の前の席で食事を共にしていた、義理の母親 ―― 赤瑪瑙の瞳を持つ、西の方。
 己が息子を爵位につけようと画策する、野心家の側室を名指しする。
「それよりそなた、大丈夫なのか」
 今度はフェシリアが逆に問いかけた。
 毒物が混入されていると判っていながら、杯を干したロッド。こうして見る限りではなんら具合が悪いようには見えないが、しかしたったいま本人が告げたばかりではないか。この毒物が症状を現すのは、明日になってからなのだと。ならば今は通常通りでいても、半日が過ぎる頃には……
 フェシリアの態度はけして取り乱したそれではなかったが、その顔にはさすがに硬い表情がたたえられている。
 真剣な眼差しで見すえてくるフェシリアを、しかしロッドはあっさりと笑い飛ばした。
「こんな程度でどうこうなるほど、ヤワな腹してねえよ」
「 ―― ふざけるな!」
 室内の空気が震えるほどの怒号だった。
 控えていた侍従が、びくりと弾かれたようにその身を引きつらせる。
 椅子から立ち上がったフェシリアは、まっすぐにロッドをにらみつけていた。銀を帯びた薄墨色の瞳が、まるでやいばのような光を宿して輝いている。
 その全身から怒気が立ち上るのを、確かにその目で見たと侍従は後に語った。
 だがそのラスティアールも、気づかなかったことがある。磨かれた黒檀の表面についた、フェシリアの右手。強く握りしめられたそれが、よくよく見なければ判らないほど、かすかに震えていたということを。
 しかしロッドは笑みを納めることもせず、それどころかくつくつと喉の奥を鳴らしさえしながら、フェシリアへと顔を近づけるようにする。
「この毒はな、夏に山で採れる紫の実から作るやつだ。潰したのを煮詰めて濃くしてから、干して粉にするんだがな」
「……それぐらい知っておる。末端からの痺れをもたらし、しまいには呼吸困難を誘発するものだ」
 効いてくるのに時間差があるため、いつどこでどうやって摂取させられたのか、特定しにくいのが特徴だ。そのため暗殺にしばしば用いられる種類でもある。
 低い声で補足するフェシリアに、ロッドはさらに顔を近づけた。そうして、まるで秘密をささやきかけるように、意味ありげな口調で続ける。
「あの実はな、甘くてうまいんだ」
 反応するまでに、わずかな間があいた。
「口にしたことがあるのか!?」
 驚きをあらわにするフェシリアに、ロッドはこらえ切れぬように爆笑した。
「ガキの頃は口に入るモンならなんでも食ったしな。あれは結構どこにでも生えてたし、二三個ならたいした毒もねえ。滋養もそこそこあるしな」
 笑い声の合間に、そんなふうに説明する。
 多少の毒で体調を崩すよりも、飢え死にを避けることを選ぶ。それがあの頃の彼にとっての日常であった。そのためには毒の実も食べたし腐った肉をんだこともあった。得体の知れない茸を口にして七転八倒したり、野草と誤って毒草を採って死にかけたりもした。そんなことをくり返しているうちに、気がつけばちょっとやそっとのものではびくともしなくなっていて。
 おかげで薬も効きにくいのがまあ厄介といえば厄介だが、破邪騎士である以上、たいがいの怪我や病は治療せずともなんとかなる。
 それは、笑いとばすようなことではないのではないか。
 信じられぬと言わんばかりの目で見上げてくるフェシリアに、ロッドはつと手を伸ばし、水差しを指ではじいた。薄い陶磁でできたそれは、キンと澄んだ綺麗な音を立てる。
「言っとくが、そう珍しいこっちゃねえぜ。実際あの実なんざ、そこらの山村にいきゃ子供の菓子がわりになってるしな。ま、たまに食い過ぎて死ぬガキもいるが」
「……それは冗談か?」
「店に行って金を払えば、砂糖菓子が手に入る人間ばかりじゃねえってことさ」
 秋に実る天然の甘味は、貧しい生活をする者らにとって、限られた時期にしか口にすることのできない、貴重な嗜好品である。子供の頃から少しずつ食べていれば、知らぬ内に耐性がつく。当たり前に口にし続ける中には、毒と知らずにいる者とて数多い。
都会まちの人間が、生水飲んで腹下すのと同じさ。まして蝶よ花よと育てられたお貴族様じゃあな」
 田舎の農民であれば多少体調を崩すだけですむ毒でも、ひ弱な都会の人間ならあっさり命を落とすものだ、と。そう言いたいらしい。
 ―― もちろん、それが誇張された言いようであるのは疑いようもなく。
 加工前の生の果実ならともかく、実際に毒物として流通し使用されている劇薬に対し、生半可な生活で耐性がつけられるはずもなかった。
 いかに彼が、破邪騎士として人並み以上に強靱な肉体を備えていたとしてもだ。
「だいたいお前こそ、よく毒の見分け方なんざ知ってたな」
 問いかける言葉つきには、この男にしては珍しい、感心したような響きが混じっていた。
 いかに普段のたおやかさは装ったものだとはいえ、それでも彼女の本質が深窓の令嬢であることは掛け値ない事実である。いまだ十代半ばの娘に過ぎないフェシリアが、毒物に対する実用的な知識を持っているというのは驚くべきことだった。
 だがフェシリアは、それこそなんでもないことだと言うように、軽く肩をすくめてみせる。
「ファリアドルが生まれるまでの間は、自衛のすべも学ばされたからな」
 公子ファリアドルは、フェシリアにとって十歳違いの弟である。彼が誕生するまでの十年間、彼女は公爵家唯一の子供であった。故に彼女は、後継者として厳しく育てられていたのだ。男よりは劣ると考えられた女児であるが故にこそ、いっそうに。そしてその中には毒物の見分け方も含まれていた。唯一の血族であるフェシリアが失われ、コーナ公に次の子供が産まれなければ、爵位は養子をとって継がせるしかなくなる。王家の血を継ぐ男児だったロドティアスをしいそうと考えるやからはいなかったが、貴族の母を持つとはいえ、所詮側室の子でしかも女児たるフェシリアが相手となれば、彼女の代わりにもっと都合のいい相手を次期継承者にしたいと、そう画策する者がいないとも限らなかったからだ。
 そして現在、フェシリアを取り巻く状況は大きく変わっていたが、しかし学んだそれらのことどもは、確実に彼女の役に立っている。
 組んだ足を揺らしながら聞いていたロッドは、少し思案して問いを重ねた。
「毒味は置いてねえんだな」
「ああ……昔はいたが、今はおらん」
 私が言って廃させた、と続く。
 毒殺を防ぐための毒味役だとは言うが、そもそも毒味をかいくぐって毒を盛る方法などいくらでも存在している。たとえば実際に給仕する者に手を回されてしまえばそれで終わりだし、料理そのものではなく、食器などに毒を仕込む例もある。また毒味役当人を抱き込まれたならば、毒味の意味そのものからしてなくなってしまう。
 だいたい信頼できぬ毒見など百害あって一理なしだが、かといって信頼できる者をその任にあてることで、あたら貴重な人材を危険にさらすなど愚の骨頂。
 それら諸々を考え合わせれば、自分で見分ける以上の良策はなかった。
「はっ……そりゃ違いねえや」
 淡々とあげられる理由に、ロッドは楽しげに同意する。
 最大の問題は、その『自分で見分けること』というのが、並の人間では至難の業だという事実であるのだが、そのあたりをどうこう言うつもりはないらしい。難しかろうが無茶だろうが、やらねばならぬことがある以上、どうあってもこなすしかないのだと。自身にも他者にも厳しいこの男は、あたり前のようにそう考えているのだから。
 そしてそれは、フェシリア自身の座右の銘でもある。
「……しかし、あれだな」
 しばらくぶらぶらと足を揺らしていたロッドだったが、ふと思いついたようにそう呟いていた。
「わざわざ危険な橋渡ってまで、あの女が毒盛んのは、ちっとばかしせねえな」
「そうか?」
 毒に限らず、義母によって命を狙われることが半ば日常化しているフェシリアは、なにがおかしいのかと問い返す。
 ロッドは口元に手を当て、何かを思案している様子だった。
「弟のほうを跡継ぎにしようっていう、公爵の意思はすでに定まってるんだ。なのにここでお前が妙な死に方しようもんなら、かえっていらねえ嫌疑をかけられるのは目に見えてるだろうが」
「ふむ……」
 言われてみれば、確かにその通りではあった。
 セクヴァールの意思がいまだ曖昧であるのならばともかく、内々にではあるが、ファリアドルに爵位が譲られることは、ほぼ決定しているといって良い。いまはただ、もう少し彼が成長し、次期継承者としてふさわしい振る舞いができるようになるまで、時を待っているだけに過ぎなかった。
 ただ座して待ってさえいれば、安全にすべてを手にできる立場にある者が、わざわざ暗殺などという危険を冒すというのは、確かに軽率ではないだろうか。
 ならば彼女の命を狙うものが他に存在しているのかと考えるには ―― その可能性が皆無だとはけして言えないが ―― フェシリアはこれまで調査を命じてきた人材を信頼していた。
 実際、先刻ロッドが酒を口にした際の反応からしても、かの義母が毒杯の存在を知っていたことは、ほぼ確定できる。
 と、なると。
 たとえ危険をおしてでも、早いうちにフェシリアを亡き者にしておきたい、なんらかの理由が彼女には存在しているのか。
「……なるほど。少し調べてみるのもおもしろいかもしれんな」
 つややかな唇の端に、小さな笑みを刻み、フェシリアはそうひとりごちた。
 その笑みは、けしてたおやかな深窓の令嬢が、浮かべられる類のものではなく。
 机の端からその姿を見下ろしていたロッドが、くっと口元を吊り上げる。
 己の命がかかったこの状況で、怯えるでなく、悲しむでもなく。ただ豪胆に笑い、今後に対する手を打てる。そんな女は ―― 否、たとえ男であっても ―― そういるものではなかった。ましてこの少女は、いまだ若造と評されるロッドよりも、さらに十近く年下だというのに。
「ま、せいぜいがんばるんだな」
 なんらかの弱みでも握ることができれば御の字だ、と。
 そう言って笑うロッドの表情は、フェシリアが浮かべるそれともどこか似通っていて。

「ラスティ=ガーズ!」

 鋭い声で突然名を呼ばれ、呑まれたように呆然と立ちつくしていた侍従が、はっと背筋を伸ばした。
 慌てて注意を主人あるじへと戻せば、二対の瞳がまっすぐに彼の方を見つめている。
「話は聞いていたか」
「呆けてたんじゃねえだろうな」
 それぞれの声が叱責するように問いかけてくる。一瞬にして干上がった喉をどうにか湿し、忠実な侍従はかろうじて答えを返した。
「西のお方様につきまして、フェシリア様を狙う理由に不審なものがあるや否や。調査するよう早急に手配いたします」
 よし、と。
 二つの顔が同時に小さく上下する。


 ……容貌にも立ち振る舞いにも、まるで共通点など存在していないというのに、彼ら二人が漂わせる雰囲気は、他者の入る隙をうかがわせぬ、どこか独特なものを放っていた。
 よく似た表情と、語られるその言葉。
 それは、彼らの魂そのものが、誰よりも似通っていたが故であるのか。
 あるいはまた……何らかの理由がそこに存在していたからなのか。


 その真相を知るものは、この時点では誰一人としておらず ――


 命じられた仕事を手配するべく、急ぎ退出する侍従も、室内に残された二人も。
 新たな調査の結果もたらされる未来を、この時点ではまるで想像できずにいた。

(2006/10/22 14:40)
<<Back  List  Next>>



本を閉じる

Copyright (C) 2007 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.