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 楽園の守護者  第十四話
 ― 継承のとき ―  第五章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ―― 確か、前にもこんなことがあった。


 働きの鈍った脳味噌が、そんな言葉を形作っていた。


 ―― あの時も、自分はこんなふうに為すすべもなく、ただ枕元に座り込んでいるだけだった。


 そうだ、あの時も自分は、目の前で苦しんでいる同僚に何をしてやることもできず。ただ頭を抱えて嘆いているだけでいた。
 強い風の吹く、まるで隠れ里のような山奥の貧村で、今回と同じように少人数で妖獣に相対した破邪。ほとんどなにもできないまま、右往左往するばかりだったあの時から、気がつけばもう二年も過ぎていたというのに。自分も少しは役立てるようになったと、そう思っていたのは、とんだ自惚れでしかなかったのか。


 カルセストの瞳は、虚ろに見開かれたまま、寝台に横たわるアーティルトの姿を映していた。妖獣の鱗は、いまだその胸を貫いたまま、暗く鈍い光を室内に放っている。
 治療の邪魔になる衣服は、すべて切り裂いて取り除かれていた。アーティルトの古傷に覆われた胸から生えたその棘は、いっそ作り物めいた非現実さすら放っていて。
 傷のある右を上にして横たわったその身体が、息をするたびに大きく揺れ動いていた。呼吸に湿った音が入り混じり、時おり咳き込んでは鮮やかな血を寝台に吐き出す。
「……ッ」
 敷布を握る指が、苦しげにかきむしられた。カルセストはただ、口元を汚す血糊を拭いてやるぐらいしかできないでいる。
 妖獣を倒したそのあと、彼らはとるものもとりあえず負傷者を手近な建物へと運び込んでいた。その多くは妖獣の巨体や尾になぎ払われ、強く身体を打ちつけた兵達だ。骨を折った者、頭を打って意識がない者など様々だったが、ほとんどがこれといって命に別状はない。そんな中でアーティルトだけが重傷を負っていた。
 カルセストを庇った彼は、至近距離から妖獣の棘に貫かれていた。肩胛骨の真下から胸へと抜けたその傷は、普通の人間なら致命傷となっているだろうそれだ。心臓こそはずれているものの、肺を傷つけているのは明らかである。
 通常ならば即死。かろうじてその場は生き延びたとしても、手の施しようもなく、苦しんだあげくに死亡する。そういった傷だ。事実、他の負傷者達と部屋を分け、アーティルト一人が個室に寝かされているのは、傷を見た兵達がせめて静かな環境で、と気を遣ったためでもあった。
 アーティルトが今も意識を保っているのは、ひとえに彼がセフィアールだからだった。
 常に手強い妖獣を相手どる彼らは、破邪の力と共に、ある程度強靱な肉体をも与えられている。普通の人間より傷の治りは早かったし、痛みや失血に対する耐性もあった。失われた器官を再生するような非常識さこそなかったが、中には半ば切断された手首を癒着させたという例さえあるという。
 しかしそれも、王族の助けがあってこその話だった。
 国王、あるいは王太子が身につけている、王族の証の腕輪。幅広の台座にはめ込まれた、透きとおるような水色の石が真紅の色に染まるとき、その石に触れた破邪騎士達は、自らの肉体が活性化されるのを目の当たりにするのだった。全身を構成する、細胞のひとつひとつがざわめきをあげるかのようなその感覚。それは実際に経験してみなければ、到底実感することなどできないだろう。赤い石に触れた手のひらから、駆けめぐるかのように全身が賦活されてゆく。傷ついた組織がみるみる再生され、失われた血は新たに生み出される。手足を重くする疲労が取り除かれ、枯渇していた気力と術力がわき上がり ――
 そう、いまここにあの王太子さえいらして下さったならば、こんな傷などなにほどでもないのに。
 無論、何事もなかったかのように、すぐさま全快できるわけではない。元通り動けるようになるまでには、数日の休息が必要だろう。それでも、けして命に関わることも、後遺症を残すほどのそれでもないのだ。王族の、手当さえあれば。
 しかし、エドウィネルはいない。エドウィネルも、カイザールも、ここにはいないのだ。
 アーティルトが、身体を折り曲げるようにして咳き込んだ。ひゅぅひゅぅと喉が笛のような音をたてている。わずかな身じろぎのたびに、胸元の傷から血が滲んだ。
 いまだに棘が刺さったままにしているのは、下手に抜けば出血をひどくしてしまうからだった。いまは棘が栓のような役割をしているため、この程度ですんでいるのだ。それが失われれば、さえぎるものを失った血液は一気に噴き出すことだろう。そうなればいかに強靱な破邪騎士といえども、ひとたまりもなかった。だがこのままでも、体内での出血は続いている。いずれ早いか、遅いか、それだけの違いでしかない。
 手拭いを握るカルセストの手は、小刻みに震えていた。布は既に真っ赤に染まっている。いい加減洗うなり替えるなりしなければならないのだが、それすらもおぼつかない。
 突然、扉の向こうから物音が聞こえてきた。わめき交わす声とがたんばたんという置いてある物をなぎ倒すかのような音が、廊下の向こうから近づいてくる。
「ここか!?」
 扉が手荒に開かれた。
 現れたのは血相を変えたロッドと、彼を案内してきたのだろう、青ざめうろたえた様子の兵士が一人。
 ロッドは素早く室内を一瞥すると、大またで入り込んできた。そうして寝台に横たわるアーティルトを見下ろす。
 巨大な鱗に貫かれたままの、その姿を。
 一瞬、ロッドの表情が複雑なものに歪んだ。
 椅子から腰を浮かしたカルセストは、なにを言うこともできず、ただ手拭いを握りしめてロッドを見上げる。
「…………」
 気配を感じたのか、アーティルトが閉ざしていた目をうっすらと開いた。
 濡れたように光る片目が、荒い息の中、ロッドの姿を捉える。そのまま数秒間、見つめ合っていただろうか。
 やがて、ロッドが視線をそらさぬままに口を開いた。
「 ―― 湯と布と酒、持ってこい」
「は……?」
 低い声で紡がれた言葉に、戸口にいた兵士が不思議そうに聞き返した。
「手当てに必要なもん、持ってこいってんだ」
「は、いえ、ですが」
 下手に治療などしようとすれば、かえって苦しませてしまうばかりのはずだ。だからこそ、こうして安静にさせているのに。
 とまどったように口ごもる兵士を、ロッドは振り向きざま怒鳴りつけた。
「さっさとしろッ!!」
 深蒼の瞳が、炎にも似た輝きで兵を射抜く。
 すくみあがった兵は、返答も残さず部屋を飛び出していった。あちこちにぶつかりながら、言われたものを用意するべく遠ざかってゆく。
 それを見送りもせず、ロッドは視線を寝台へと戻していた。アーティルトは再び目を閉ざし、かすかに細い息をついでいる。
「カルセスト」
 低い声が名を呼んだ。
 顔をこちらに向けぬまま、自身の袖口の留め具をはずし、まくり上げている。
 カルセストは、どこかぼんやりとしたまま、そんなロッドの姿を見返していた。手早く両袖を上げ終えたロッドは、アーティルトの上体へと手を伸ばし、そっと肩を押しやった。そうして棘が刺さっているあたりへと顔を近づけ、傷の具合を確かめている。
「……王都からの応援がつくまで、あと一日か二日か……その間、一人で妖獣を相手できるか」
「え……?」
 言われたことが理解できず、カルセストは数度まばたきした。鈍くなっていた思考が、ようやく働き始める。アーティルトの身体を仔細に調べていたロッドは、ややあってから顔を上げた。カルセストの方をふり返る。
 静かな ―― 力強いが、しかしどこか静けさを感じさせる光をたたえた目で、ロッドはカルセストを見ていた。
「お前がそうできるなら、一人で町を守れるって言うんなら ―― 」
 低い声が先を続ける。


「こいつは助けられる」


 その言葉が心に浸透した瞬間、靄が晴れたような心地がした。
 それまで、薄い膜のむこうにでもあったかのような、どこか遠かった現実が、急速に己へと近づき、確かな感触を取り戻す。
「やる」
 口が動き、即答していた。
 どうやって助けようというのか。何故それができるのか。そんなことは後でいい。
 ロッドが助けられるというのなら、自分はそれを信じる。そして自分にできることがあるというのなら、全力をもってそれを行うのだ。
 『できる』ではなく『やる』と答えたカルセストに、ロッドはちらりと笑った。口元の端をわずかに曲げたそれは、いつものように嘲りの色を帯びたものではなく ――


 開いたままだった扉が音を立てた。ふり返れば、バージェスが両手一杯に荷物を抱えて立っている。さっき飛び出していった兵の代わりに、いろいろ調達してきたらしい。
 カルセストがすぐさま走りより手を貸した。卓に湯を張ったたらいを置き、その傍らに酒瓶やその他の道具を並べる。
「破邪騎士ってのは、こんな傷でもなんとかなるんですかい」
 問いかけるバージェスの表情も、普段の飄々としたものとは異なり、ひきしまった固いそれだった。疑いの色を浮かべたまま、それでも手早く準備を整えてゆく。
「普通はならねえ」
 ロッドは短く答え、しばし値踏みするようにバージェスを見た。
「……他言無用、ってことですか」
 その答えに無言でうなずき、再び卓へと視線を落とす。念を押そうとしないそれが、かえって事態の深刻さをあらわしていた。
 湯で軽く手を洗ったあと、ロッドは小刀を取り上げた。治療用のそれは、手のひらに収まるほどの大きさだが、おそろしいほど鋭く研ぎすまされている。右手にそれを、左手に清潔な布を一枚持って、寝台へと向き直った。
「起きてるか」
 背をかがめ、アーティルトの耳元へと問いかける。応じて静かに目が開かれた。
「噛んどけ」
 突きつけられた布を、アーティルトは口を開いて受け入れる。
「手伝え」
 促されて、カルセストとバージェスはロッドの両側に立った。言われるまま、それぞれ裸の胸と突き刺さった棘とに手をかける。
「良いっつったら一気に引き抜け。躊躇すんな」
 普通であれば従えるはずもない荒っぽい指示に、しかし二人とも真剣な表情でうなずく。
 ロッドの手にした刃物が、静かに持ち上げられた。切っ先が窓からの光を反射して白くきらめく。
 次の瞬間、小刀は容赦なく皮膚を切り裂いていた。鮮血があふれ出し、ぼたぼたと敷布へとしたたり落ちる。
「な ―― ッ」
 カルセストとバージェスは、同時に目をみはった。
 ロッドが深々と刃を突き立てた先は、アーティルトの胸ではなく、己自身の手首だったのだ。
「つ……ッ」
 顔をしかめたロッドは、それでも手を止めぬまま、えぐるようにして刃物を引き抜く。血がしぶいた。両脇にいる二人、そして横たわるアーティルトにも、真っ赤な飛沫が点々とあとをつける。
「な、なにを」
 うろたえるカルセストを無視して、ロッドは刃物を投げ捨てた。血に濡れたそれは床で澄んだ音を立てる。そうして彼は、寝台に投げ出されたアーティルトの右手をとった。その中指に、銀線を寄り合わせたかのような指輪が光っている。彼らはみな、破邪騎士に任命される際、王宮の奥深くで丸一月の眠りにつく。その長い眠りから覚めたときには既に与えられている、抜けもまわりもしないその指輪こそが、破邪騎士セフィアールの証だ。
 その右手を、ロッドは血を吹き出す己の傷口へと重ねた。
 王太子が、真紅に染まった腕輪の宝珠に、破邪騎士のその手を重ねさせるように。
「 ―――― 」
 びくりと、アーティルトの手が動いた。血の感触に抵抗するかのようなそれを、ロッドは押さえつける。
 どれほどの間そうしていたか。実際にはほんの十数秒のことだっただろう。
 アーティルトの手を離すと、ロッドは数歩後ずさって場所を空けた。右手で傷口を押さえながら、呻くように命じる。
「やれ」
 その言葉に二人ははっと我に返る。
「肉が締まる。早く抜け!」
 叩きつけるような声に、なにを考える間もなく従っていた。カルセストが身体を押さえ、バージェスが力任せに棘をつかむ。
 ずるりという感じで、大人の腕ほども長さのある棘が引きずり出された。固まりかけた血と、想像もしたくない欠片がまとわりついたそれを、バージェスは乱暴に放り出す。
「……ッ、……!」
 アーティルトは寝台の上でのたうっていた。もし喉が正常だったなら絶叫していたことだろう。押さえようとするカルセストの手をはじきとばし、敷布をわしづかんで身をよじる。やがてくわえていた布を吐き出すと、下を向いて激しく咳き込んだ。背中が揺れ、ひときわ大きな血塊が吐き出される。
 そして、動きが小さくなった。
 敷布を引き寄せるようにつかみ、大きくあえぐ。その呼吸にはまだごろごろと湿った音が混じっていたが、先程までのような消え入りそうなほど細いものではなかった。数度確かめるように深呼吸し、咳き込んではまた息をつく。
「あ、アート、さん……?」
 確かめるように呼びかけるカルセストの声に、顔を上げこそしないものの、小さくうなずきが返される。聞こえていると、そう言いたいらしい。
 丸められたその背中に、傷口があった。肩胛骨の、わずかに下あたり。本来であれば、あふれる鮮血で到底確認などできないだろう傷が、いくばくかの出血を滲ませただけでそこにある。それも、見まもる間に肉が盛り上がり、無惨に穿たれた穴を塞ぎ始めている。
 声もなく凝視する二人の耳に、どんという鈍い音が聞こえた。そちらをふり返ると、ロッドが背中から壁に寄りかかっていた。身体の前で、血にまみれた手首を押さえながら。
 うつむいたその口元から、深く息が吐き出される。
「お、おい、大丈夫なのか!?」
 慌てて寝台を離れたカルセストの前で、ロッドはそのままずるずると座り込んでいった。
 走り寄ろうとしたカルセストは、途中で視界に入った卓から酒瓶と布をわし掴みにしていく。
「見せろッ」
 そばに腰を落とし、立てた膝の間に投げ出されている両手をとりあげた。
「なんて無茶なことを……」
 まずは止血しようと、傷を押さえる右手をはがす。布できつく縛ろうとして、しかしカルセストは違和感に動きを止めた。まじまじと血で汚れた褐色の肌を見下ろす。
 そこには、鋭い刃物で切り裂かれた傷が、大きく口を開けていた。たったいま目の前で付けられたばかりの傷だ。出血の具合からいって、動脈に達していたことは疑いようがない。
 それが。
 ついさっきまであふれるようだったその出血が、完全に止まっている。
 王族の治療を受けたばかりの、まさにその時のように。
 愕然として顔を上げたカルセストは、今度は違った意味で顔色を変える。
「ち……くしょ、血が……足んね……」
 ロッドはとぎれとぎれに呟きを漏らしていた。
 再び手首に手をやり、大きくあえいでいる。その顔は完全に血の気が失われ、蒼白になっていた。比喩ではない。唇が白っぽくなっているその症状は、言葉通り彼が激しい貧血状態に陥っていることをあらわしていた。
 だが、そこまで血を失ったとは思えない。
 これが普通の人間なら、手首を切れば充分命に関わる。失血量も問題だし、たとえ出血は少なくとも、痛みや急激な血圧低下などによる循環不全を起こす場合もある。だがロッドはセフィアールだ。多少ふらつくぐらいならばともかく、ここまでひどい状態になるとは思えないのに。
「……ただでさえ、術力ちから……使い過ぎてた、ってのに」
 そう呟いて両目を閉ざす。のけぞるように頭を背後の壁へと預けた。
 その右手は、震える指で己の肌をたどっていた。飛び散った血糊を集めるかのように、手探りで手のひらをこすりつけている。
 手のひらが通り過ぎたあとは、まるで布でぬぐったかのように完全に赤い色が消えていた。気がついてみれば、右手もほぼもとの褐色を取り戻している。
 やがて再び目を開いたロッドは、のろりとカルセストの方をふり返った。伸ばされた右手が二の腕を確かめるように掴み、そして袖に飛んだ血痕をたどり当てる。ロッドが手首を切った際に付着したものだ。
 織りの荒い布に染みこんだそれに、ロッドの指が重なる。と、まだ乾いていなかった血痕は、見る見るうちに小さくなっていった。
 それはまるでロッドの手のひらに吸い込まれるように、消えてゆくのである。
 ―― いや、違う。
 そのことに気づいた瞬間、カルセストは殴りつけられたような衝撃を覚えた。
 吸い込んでいるのは手のひらではない。
 指輪だ。


 ―― 破邪騎士の証である銀の指輪が、ロッドの血を吸っているのだ。


 しばしののち、力なく離された手のひらの下には、もはや染みひとつ残されてはいなかった。
 呆然とそれを見ていたカルセストは、やがて己の右手が脈打つように熱を持っていることに気がつく。見下ろせば、手のひらに血がついている。アーティルトのものか。いや、そうではない。たったいま、止血しようとした際についた、ロッドの血液だ。
 利き腕の手のひらに……指輪についた、わずかなそれが。
 消えてゆく。指輪に吸い込まれ、その色を失ってゆく。
 そうして、その指輪から生まれる、この熱は。
 破邪騎士として身に馴染んだ、全身が賦活されるようなこの感覚は ――

「大丈夫ですかい」

 かけられた声に、カルセストは弾かれたように顔を上げた。包帯を手にしたバージェスが、のぞきこむようにかがみ込んできている。
「一応あっちは消毒して包帯巻いときやしたが。あとは安静にしとけば良いってことですかね?」
 示されるまま寝台を見れば、上半身を包帯で覆われたアーティルトが、横たわったままこちらの方を眺めていた。その表情は、まだひどくやつれた怪我人のそれだったが、それでも意識はしっかりしているようで、先程まで瀕死の床にいたとは到底信じがたい様子だ。
 それはまさしく、王族の手当を受けた破邪騎士の姿に他ならず。


「…………」


 やがて、
 カルセストは数度激しくかぶりを振った。そして一度こぶしを握り締めると、改めて手を伸ばしロッドの手を取る。
 酒に浸した布で塞がり始めている傷口を拭い、新しい清潔な布を当てた。バージェスが持ってきた包帯で巻き、そうして手当てを終えてから、低い声で問いかける。
「アートさんは、休んでてもらえばいいのか」
 うつむいて荒い息をついているロッドは、顔を伏せたままでうなずいた。
 力なく持ち上げられた手が、額に押し当てられる。目眩をこらえるのに似たその姿勢のまま、彼はさらにしばらくあえいでいた。
「……俺も、さすがに……血が足りねえ」
 ややあってから、再びそう繰り返す。
「あとは、お前が……やれ」
 わずかに顔が上がり、指の間から青く光る目がカルセストを見た。
 カルセストは小さくうなずいて、その場から立ちあがる。
「あとの片付けを頼む。それからこの人をどこかの部屋で休ませてやってくれ」
 バージェスに向かってそう指示した。
「王都から応援が来るまであと一日か二日だ。その間、妖獣の相手は私がする」
 宣言するように告げる。
 一人でどうにかなるのかならないのか、そういう問題ではない。やりとげなければならないことなのだ。
「わかりやした」
 答えたバージェスにうなずき返し、カルセストは腰の剣を確認した。
 そうして扉を開け、部屋を出る。廊下を足早に進んでゆくと、せわしなく行き来する兵達の姿が目に入り始めた。やがて向こうもこちらの存在に気がついたらしく、何人かが近づいてくる。
 さっきバージェスに言ったのと同じことを伝えながら、現在の状況を確認していった。負傷者の状態、建造物の被害、妖獣の死骸の始末に、新たな妖獣が現れていないか各地で監視しているその報告。聞くべきことを聞き、指示するべきことを指示しながら、カルセストの脳裏には幾つもの考えが同時に組み立てられていっていた。
 不思議なほどに、思考がなめらかに回転しているのを感じる。
 それまで思いもしなかったこと、思い出しもしなかったことが、次々と浮かびあがっては形を変えて消えていく。


 ―― 二年前、あの強い風が吹く谷の農家で、ロッドは負傷した同僚レドリックに対しなにをしたのか。


 建国祭の折り、コーナ公爵の船を意味ありげに見つめていた、その横顔が思い出される。そしてそのしばらくのち、公爵領を訪れた際に様子がおかしかったのはなぜなのか。
 そもそも、生まれも定かではない流れの用心棒にすぎなかったロッドが、いかに多少なりとも優れた武技を見せたからと言って、即座に破邪騎士に取り立てられたのは不可解すぎる。だが国王が彼に対してことさら目を止めた、なんらかの理由があるとするならば。


 ―― あのやろう、ガキの頃、俺を……


 コーナ公爵と面識があったことを示唆する、その呟きが意味することは ――


 ふと、カルセストは急いでいた行き足を止めた。
「どうかなさいましたか?」
 共に歩いていた兵士が、いぶかしげに問いかけてくる。
「いや、なんでも……ない」
 それに対してかぶりを振ってみせながら、カルセストは確信に近い思いでその答えを噛みしめていた。
 いったい何があってそんなことになったのか。どんな理由が、誰の意思がそこに介在していたのか。そんなことなど判るはずもない。先ほどロッドがしてみせた治療にしても、そこにどんな意味が隠されているのか、カルセストの理解ごときが及ぶはずもなく。
 それでも判った。判ってしまった……ことがある。


 妖獣の死骸目指して再び歩き始めたカルセストは、周囲に気づかれぬよう、ひそやかに、静かに息を呑み込んでいた。


 これは、口に出してはならないことだ。
 少なくともいまこの時、誰かに聞かれる恐れがわずかでもある場所で、言葉にすることなど絶対にしてはならない。


 自分が気がついたのならば、アーティルトも気づいたことだろう。
 否、あるいはもっと前から、彼は知っていたのかもしれない。そう考えればうなずけることは幾つもある。
 ならば、殿下は。
 エドウィネルはどうなのか。
 知っているのか、知らないのか。知っているのなら、それをどう思っているのか。
 そしてフェシリアは、コーナ公セクヴァールは。


 考えたところで答えなど出るはずもない問いが、胸の内を駆けめぐる。


 ―― 今はもう、考えるな。
 妖獣の死骸を処理するべくあたりへと指示を出しながら、カルセストはそれ以上そのことについて思考するのをうち切った。
 今はただ、王都からやってくるだろう救援がたどり着くまで、この町を守ることだけ考えていればいい。いや、そうするべきなのだ。未熟なこの身ですべてを守り抜くためには、余計なことに思いわずらっている余裕など、あるはずもないのだから。
 細剣の柄を握りしめ、顔を上げたカルセストの耳に、走り寄ってくる伝令兵の声が届く。
 新たな妖獣の出現を告げるそれに、カルセストはひとつ息を吸い、鋭い声で問いかける。


「場所は!」
「こちらですっ」


 案内に従って走り出す彼の脳裏を、最後によぎって消えたのは、公爵の屋敷を飛び出す寸前に眺めていた、あの肖像画。
 そこに描かれていた少年の、穏やかな蒼い、その眼差しの面影だった。


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