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 楽園の守護者  第十四話
 ― 継承のとき ―  第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 国王の意識が戻ったという知らせは、唐突に、そしてすみやかにエドウィネルの元へともたらされた。
 誰もがもはや二度とその目が開くことはないだろうと確信していた老人は、しかし弱々しいながらも枕頭に詰める侍医の姿を認め、王太子を呼ぶよう命じたのだという。
 その時エドウィネルは、ちょうど受け取った密書に目を通し終えたばかりだった。
 差出人の名すらないその書簡は、南国コーナ公爵領より届いたものだ。紙面を埋めるのは、エドウィネルにとって、見慣れた筆跡
 その人柄からは意外なほど読みやすく整った文字で綴られている内容は、しかし案の定歯に衣着せぬ、おそろしいほど率直に向けられた問いかけだった。
 なるほど、この内容では署名などできぬはずだ。
 最初にそんなことを思ってしまったのは、ある意味、思考のどこかが麻痺していたからかもしれない。
 迂闊な人間にこれを見られれば、いかにあの男とてただではすむまい。そしてそれはたとえ公爵家の姫であっても同じことだ。王家に対するまっこうからの侮辱 ―― いや、反逆とさえ言えるか。
「なにか悪い知らせでも?」
 便箋に目を落としたまま動かなくなったエドウィネルに、不審を覚えたのだろう。フォルティスが控えめに声をかけてきたが、エドウィネルがそれに答えるよりも早く、国王からの呼び出しが届いた。結果としてエドウィネルは、そのことについて深く思案する猶予もないまま、祖父の病室へと向かうこととなったのである。


 数日前に見舞った時と変わらず、病室は暗く重い空気を漂わせていた。
 意識が戻ったとはいえ、それが国王の快復に繋がるものだとは、もはや思えぬ状態になっているのだ。たとえて言うならそれは、燃え尽きる前の蝋燭が、最期に見せるわずかな輝き。見方を変えれば、数週間に及んだ病床の時の終わりを告げる、確かな前触れでもあったのだ。
 細く、浅い、カイザールの呼吸の音が、微かに聞こえてくる。それをかき消すことを恐れるかのように、室内にいる者はみな、衣擦れの音ひとつ立てることなくひっそりと息を殺している。
 執務室から付き従ってきたフォルティスは、入室してすぐ足を止め、戸口の脇に無言で控えた。他にいるのは、寝台に横たわったカイザールをのぞけば、侍医と、そして枕元を守るように立つ一人の騎士だけ。
 脈を診ているのか。国王の手を取り目を落としていた侍医は、エドウィネルの来訪に気づくと静かにその上体をかがめた。カイザールの耳元へと口を寄せ、ささやくようになにかを告げる。そうしてふり返ると、小さく頷いた。
 場所をゆずられ寝台のすぐ脇に立ったエドウィネルは、なんとも言えぬ表情で横たわる祖父の姿を見下ろした。
 もともとから、ひどく痩せた人だった。伝え聞く若かりし頃の武勇など絵空事にしか思えぬほどに、げっそりと肉が落ち、衰えたその身体。つやのない皮膚は幾重にもたるみ、老人特有の染みが浮かんでいる。……それでも。
 それでもこの祖父を、弱いと感じたことはなかった。
 その深い蒼色の瞳には、常に強い意志を宿した光がたたえられ、見つめられれば自然と背が伸びる。そんな人だった。
 しかしいまこうして、寝台でか細い息を継ぐ、その姿は ――
「…………」
 言葉もなく見つめるエドウィネルの前で、閉ざされていた老人の目蓋が、ゆっくりと持ち上げられる。
 現れた両目と視線を合わせ、エドウィネルは息を呑んだ。
 穏やかに凪いだ、深蒼の瞳。しばしば星の海ティア・ラザの湖面にたとえられるその目には、死を目前にした恐怖も、苦痛も存在してはいなかった。ただ静かに、そしてまっすぐに、エドウィネルを見上げてくる。
 無意識のうちに姿勢を正していた。背筋を伸ばし、胸元に手を当て、控えて王の下知を待つ。
 カイザールの唇がかすかに動き、エドウィネルの名を呼んだ。
 しわがれた、ほとんど声にはなっていないその言葉を聞き漏らさぬよう、全員が神経を集中させる。
「……そなたに、王位を……譲る。心、せよ。王としての……つとめを」
 エドウィネルは深く頭を垂れ、拝命した。
 低い声で、幾たびも聞かされてきた、その言葉を繰り返す。

「『王のつとめは君臨し支配することにあらず。ただ民達を守り、その平穏なる生活のために奉仕することなれば』」

 権力に驕ることなかれ。己が欲望に目をふさがれることなかれ。守るべきものを見失うことなく、常に国と民のために心を砕け。

「『王あっての国ではなく、国あるが故にこそ生かされる王であることを、肝に銘じよ』」

 一言一言を確かめるように口にし、そうして面を上げる。
 再び合わされた瞳は、心なしか和らいでいるようだった。己の後継者を誇るように、いとおしむように、細められた目蓋の向こうからエドウィネルを映す。
「……ダストン」
「はっ」
 国王が呼んだのは、枕元を守る騎士だった。
 青藍の外套をまとい銀の細剣をいたその装いは、国家セイヴァンが誇る破邪騎士団セフィアールのそれだ。だが彼が団員達と共に妖獣を狩る現場に出ているところを、エドウィネルはついぞ目にしたことがない。それも無理はないと言えた。
 姿勢は良く、身体つきも他の騎士達に見劣りするほどではなかったが、それでも老いの色は隠しようがない。たくわえられた口ひげも、きれいに撫でつけられたその髪も、完全に色が抜け雪のような白さを持っている。彼は、カイザールがいまだ王太子として破邪の現場に身を置いていたその頃から、側に侍していた男であった。その頃には一介の若騎士であった彼も、既によわいを重ね、とうに一線から身を退いている。
 今ではセフィアール騎士団の長と呼ばれる彼だったが、実質的な団の指揮はほぼすべて副団長であるゼルフィウム=アル・デ=ドライア=ルビスに任せていた。彼のつとめはただ、老いた王の傍らに立ち、そして新たな破邪騎士を任命する際にその手を貸すことのみだ。
 ―― そう。
 破邪国家セイヴァンの根幹を為すともいえるセフィアール騎士団。彼らの持つその破邪の力と銀の細剣が、どのようにして与えられるものであるのか。それを知るのは当代国王と、そしてこの騎士団長の二人しか存在しないのであった。
 それは王太子であるエドウィネルすら例外ではなく。
 国王の崩御をもって王位継承と為すこの国において、ならばその知識を次代の王に伝えることが叶うのは、代々の騎士団の長以外にはなかった。
「エドウィネル、を……頼む……」
「 ―― 御意」
 答える騎士団長の唇は、微かに震えていた。
 だが彼はそれ以上を口にすることなく、ただ一礼するのみにとどまる。
 そうして再び瞳を閉ざそうとする国王に、エドウィネルはしばし葛藤した。これ以上祖父に負担をかけたくないという想いと、これを逃せばもはや疑問を解消することはできないだろうという焦り。身内としての想いと、王族としての義務とが内心で激しくせめぎ合う。そこにはこれが最後になるであろう対話を、終わらせたくないと言う切なる願いもまた存在していて。
「陛下」
 喉の奥底から、絞り出すようにしてようやく、言葉が形となる。
「ご指示を、仰がねばならぬことがあります」
 エドウィネルの発言に、騎士団長と侍医が驚いたように眼を向けてきた。離れた場所で控えていたフォルティスもまた、目を疑うようにエドウィネルを凝視している。
 いまや安らかにその生を終えようとしている国王の、その最期の時を、なおも騒がせようというのか、と。
 だが周囲の反応の全てを、エドウィネルは黙殺した。
 そして国王もまた、それらに対し反応を見せることはなかった。あるいは既に、目の前にいるエドウィネル以外のものが、カイザールの意識には届いていないのかもしれなかった。
 一度閉じかけた目蓋が、わずかに持ち上げられる。促されていると信じて、エドウィネルは先を続けた。
「三週間前、コーナ公爵領で謎の構造物が発見されました。その後の調査によれば、その構造物はコーナ公爵家の地下に安置された物体と酷似しているとのことです。ですが公爵はそのことについての報告を怠り、陛下がお倒れになられた結果、王家としてどう処置すればよいのか判らぬまま、現在に至っております」
 かの物体が現れた場合は、すみやかに国王に報告し、その指示を仰ぐべし、と。
 代々の公爵に密かに受け継がれてきたその王命を、当代公爵セクヴァールはひそかに握りつぶした。それでも本来であれば、致命的なことではなかっただろう。いまこのとき、カイザールが倒れることさえなかったならば。事の知らせは王都に帰参するエドウィネルによって国王へと伝えられ、そこには数日の遅延が生じたに過ぎなかったはずで。
 しかし現実には、こうして二十日以上をむなしく浪費し、国王の今際の時間をも騒がせることとなっている。
「公爵に信頼されずにいたは、私の不徳の致すところ。公爵への処断も、後の采配についても、すべて私が私の責任において為すべきことと承知しております。ですが、かの構造物については、どのように……いえ、あれは……いったい……?」
 エドウィネルの言葉は、そこにきて惑うように乱れた。
 なにを聞かねばならぬのか、どう問いかければいいのか、それはまだ彼の中で確かな形を取っていなかったのだ。
 無意識のうちに上げた手が、先刻とっさに胸元に納めてきた密書を、上着越しに押さえる。
「何者かが、なんらかの意図を持って妖獣を野に放っているのではないか……あの構造物は、そのための『容れ物』なのではないか……と。そう、仮説を立てた者がおります。……私も、それを……否定できませぬ」
 彼らの持つ文化とは異質でありながら、それでも確かに人工物の匂いを漂わせた構造物。内部に妖獣の体液を満たし、大量発生した妖獣達と相前後して発見されたそれと、同種のものを所有していたコーナ公爵。そしてそれを下賜したのは、破邪騎士セフィアールを擁するセイヴァン王家。王家の指示はただひとつ、『それ』を発見した際には、すみやかに国王へと知らせを送ること。その理由も、知らされた結果どうするのかも、なにも告げぬまま一方的に下された命。
「陛下……」
 口の中が乾き、問いかけの声が掠れる。
「今の世に、そのようなことができるのは……それが可能、なのは……」


 他でもない、この王家しか考えられないのではないか。


 それこそが、現在南方でひとりことにあたっている、かの破邪騎士からつきつけられた弾劾であった。


 室内は、恐ろしいほどに静まりかえっていた。
 発せられた言葉が持つ意味に、誰もが背筋に冷たいものを覚えていた。
 それは国家セイヴァンを、王家の存在そのものを真っ向から覆そうとするものだ。国のため、民のため、身を削って奉仕し続ける王と、その命を受けて妖獣を狩る破邪騎士達。その両者をともに否定しようとする言葉だ。
 妖獣を滅することで現在の地位を築いた王の血筋と破邪騎士達。だが、その妖獣の横行自体が、王家によって仕組まれたものであったのならば……?
「 ―― 殿下」
 重い沈黙を破ったのは、騎士団長ダストンだった。
 病床の国王を前に激昂こそせずにいたが、低くおさえられた声には隠しようのない怒りの色が滲んでいる。
「いかに殿下とはいえ、そのおっしゃりようは、あまりにも……」
 だがエドウィネルはふり返るどころか眉一つ動かそうとはせず、ただ無言でカイザールを見つめ続けている。騎士団長の顔に血の気が昇った。
「殿……ッ」
 叫びかけた騎士団長を、エドウィネルが軽く掲げた手のひらで止める。
 はっと息を呑んで目を落とせば、カイザールの唇が動いていた。
「……哀れな……男だ」
「陛下 ―― ?」
 これまでの会話とはなんの脈絡もない言葉に、侍医が訝しげな声をかける。
 それまではまっすぐにエドウィネルを見上げていたカイザールだったが、今その視線ははずされ、どことも知れぬ宙をさまよっていた。
 もはやこちらの言葉も届いていないのではと、みなが息を呑む中で、カイザールはまるで独り言のように、途切れがちな言葉を綴ってゆく。
「己の罪も……知らず……ただ闇雲に、憧憬ばかりを覚え……無知なるが故の罪……を、重ねるか……公爵よ……」
 深く息を吐き、両の目を閉ざす。
「エドウィネル」
「はっ」
「……その問いの答えも、これからゆく場所で知れよう」
「これから、ゆく場所」
 繰り返したエドウィネルに、小さくうなずき、そうして今度こそ国王は全身から力を抜いた。その身体が深く寝台へと沈み込む。
「お祖父じいさま!?」
 顔色を変えたエドウィネルをよそに、侍医が国王の手を取り脈を計る。それから口元に耳を寄せた。顔を上げて短く告げる。
「お休みになられたようです」
 はりつめていた空気がわずかに緩んだ。
 エドウィネルは小さく息をつき、祈るように拳を額にあてる。
 しばらくそうしていたが、やがて自らを呼ぶ声に顔を上げた。いつの間に寝台を回りこんできたのか、騎士団長がすぐそばに立ち、エドウィネルを見つめてきている。
 そうして老齢の騎士は、姿勢を正し、胸に手を当て深々と一礼した。
「ご案内致します。殿下」
 それはすなわち、いまカイザールが告げたゆくべき場所にであり、そしてセイヴァン国王として知らねばならぬことを知るための、その場所への導きであった。


*  *  *


 通常、余人が訪れることは滅多にない、国王の寝室にその仕掛けは隠されていた。
 続き部屋になった居室の方であれば、親しい家臣を招くこともあり、侍従も多く出入りしている。だがすべての職務を終えたのち、ひととき休むための場所には、身のまわりの世話をする者をのぞけばごく限られた人間しか足を踏み入れることはない。
 国王のもっとも私的な空間といえるそこには、カイザールの趣味なのか、大きな書棚が存在していた。中には革で装丁された分厚い背表紙がぎっしりと並んでいる。
 その、最下段に納められた数冊を、騎士団長が半ばまで引き出した。
 そうして棚に手をかけ、横に力を込める。壁の中から何かのかみ合う鈍い音が聞こえた。
「……この仕組みは、コーナ公爵家にあったという」
 エドウィネルの呟きに、騎士団長は無言でうなずく。
 横向きに滑るように移動した書棚の向こうから、隠されていた通路があらわになる。それはレジィによって知らされた、コーナ公爵家の執務室にあった仕掛けと同種のものに思われた。
 黒々と切り取られた四角い穴を前に、エドウィネルは一度立ち止まる。
 なにかの覚悟を決めるようにひとつ息を吸い、それから呆然と立ち尽くしているフォルティスをふり返る。
「ここで待っていてくれ。判っていると思うが、これまで見聞きしたことは、私の許しがない限り他言無用を命ずる」
「は ―― 」
 我に返ったように姿勢を正し、首肯するフォルティスにうなずいて、ようやく通路の方をまっすぐに向く。
 いつの間にか蝋燭を用意していた騎士団長が、先に立って足を踏み入れていった。


 壁にうがたれた穴をくぐってすぐ右へ折れた通路は、まもなく石段へと変わった。幾度か折り返しながら下方へと向かう急な階段を、騎士団長のあとに続き下りてゆく。
 空気抜きだろうか。ときおり壁の合間から射し込む光があった。好奇心を覚え石組みの間をのぞいてみたが、視界に映るのはどこかの天井であったり、あるいは置かれている調度の裏側だったりと、益体のないものばかりだ。それらもやがては少なくなり、いつしかまったく見られなくなる。
 石段はかなり長いものだった。国王の寝室が城の上層部にあったことを考えても、とうに地面へとたどり着き、地下深くへと達しているはずだ。
 どれほど下り続けただろうか。先を行く騎士団長が、ふと蝋燭の位置を高くした。ちらちらと揺れるわずかな明かりでも、闇に慣れてきた目にはそれなりに先を見ることができた。
 どうやら先刻通り過ぎた踊り場が、最後の折り返しだったらしい。肩越しに見下ろした先に、扉が見えた。
 最後の数段を越えその目の前へと降り立って、エドウィネルは思わず眉をひそめた。
 その扉は、これまで見たこともない材質でできていた。
 のっぺりとした、金属質の一枚板だ。表面に飾りめいたものはいっさいなく、ただ中央に縦一筋、まっすぐな切れ目が走っている。手を触れると、驚くほどなめらかに磨き上げられていた。これほどの面積を持つ金属板をこうまで平坦に形作ることは、並の技術でできることではない。
 まじまじと観察するエドウィネルに、騎士団長が声をかける。
「こちらを」
 示されるままに目を向けると、扉脇の壁にまた異なる材質の板がはめ込まれていた。人の顔ほどの大きさをした長方形のそれも、やはり見慣れない質感をしている。似ているものを上げるならば、黒い硝子板だろうか。彼らの肩あたりの高さで、つややかな表面に二人の姿を映しだしている。
「手のひらを、当てていただけますか」
「…………」
 いったいなにをさせようと言うのか。予測などまるでつかなかったが、それでも従う他はない。そっと手を伸ばし、まずは指先で軽く触れる。なにも起こらないのを確認して、そろそろと手のひらを押しあてた。
 と ――
 数秒の間をおいて、ピッという鳥のさえずりにも似た音が発せられる。そして次の瞬間、目の前にあった扉が二つに割れた。縦に走っていた筋から左右に分かれ、それぞれがなめらかな動きで壁の中へと吸い込まれてゆく。
「これは……」
「セイヴァン王家の血を引く方のみ、この扉を開くことができるのだと聞いております」
 騎士団長が告げる。
「王家の血を……この、仕掛けで判別していると?」
「そうだという話です。私などには、どうしてそのようなことが可能なのか、到底理解も及びませぬが」
 嘆息する騎士団長と黒硝子とを、エドウィネルは交互に眺める。
 無論のこと、彼にだとて理解できる事柄ではなかった。こんな仕掛けも、また動かす者もいないのに自ら開く扉も、これまでエドウィネルが見聞きしてきた物事の中には存在しえないものなのだ。
 それらがよりにもよって、長年暮らしてきたこの王宮の、しかも王の寝室から繋がる通路に存在している。それもおそらくは、この国の根幹にも関わるべき、重要なものとして。
「この奥には、なにがあるのだ」
「……私の言葉では、表しがたいものにございます」
「己の目で確認せよと、そういう訳か」
「御意」
 確かに、たとえ上の部屋にいた段階でこの扉のことを説明されていたとしても、このようなものであるとは想像すらできなかったに違いない。百聞は一見に如かずというが、どのみちこの目で見なければならないものならば、ここでいたずらに時間をかけるのは愚かなことだった。
 たとえこの先何を見ることになっても、不様に狼狽えることだけはすまい、と。エドウィネルは無言で己に言い聞かせた。そうして頭を下げる騎士団長の前を通り過ぎ、開いた扉の内側へと歩を進める。
 これまでの通路と同じく、狭く暗い場所。そう感じたのは一瞬のことだった。
 エドウィネルの身体が扉をくぐるかくぐらないかの内に、眩いほどの白光が天井より降り注いだ。反射的に両手を上げ、上体をかばう。細めた目蓋の隙間から、素早く周囲の様子をうかがった。
 室内には、なにも存在しなかった。
 四方を扉と同じ金属質の壁で覆われたそこは、ごくごく狭い、人が数名も立てば一杯になってしまう程度の空間だった。そこを、まるで真昼の野外を思わせる、明るい光が照らし出している。不思議に思い頭上を見上げると、やはり見たことのない材質でできた天井一面が、自ら発光していた。熱のないその光をしばし眺めてから、騎士団長の方をふり返る。
 エドウィネルに続いて入室した騎士団長は、扉の脇にある装飾へと手を伸ばしていた。
 色硝子めいた半透明の欠片を、幾つもはめ込んだモザイク状の飾り。
 実物を見たことこそなかったが、それは明らかにロッドの報告にあった『舟』と、同種の様式によるものだった。
 ではやはり、『舟』と ―― 妖獣と王家の間には、並ならぬ関係があるのだ。
 疑惑を裏付けるその存在に、エドウィネルは固く拳を握りしめる。
「少し、揺れますのでご注意下さいませ」
 騎士団長は一言断ると、モザイクの一片に指先で触れた。途端に開いたままだった扉が閉じ、そして部屋そのものががくんと揺れる。
 とっさに壁に手をつき身を支えたが、揺れはすぐに収まった。しかしわずかな振動と、そして馬車に乗っているときのような、身体が移動していく感覚が残っている。その方向は ――
「部屋ごと、下に動いているのか」
 階段で相当の距離を地下に降りたはずだった。だがそこからさらに深くまで行かねばならぬらしい。
 外部が見えないためはっきりとは言えないが、身体に感じるものから推し量ると、かなりの距離を移動しているようだった。が、少しずつ速度が落ち始めている。
 やがて完全に部屋が止まると、ひとりでに扉が開いた。
 促されるままに部屋を出れば、そこはわずかに広くなっている場所だった。部屋ではないらしく、左右に通路が延びている。明かりがともっているのはいまの小部屋とこの周辺だけで、通路の先は暗く闇に沈んでいた。
 はたしてどこに繋がっているのか。左右を見わたしたエドウィネルは、広くなっている部分の壁に、幾つもの扉があることに気がついた。どれもいま出てきた小部屋のそれとよく似ている。
 そのひとつ、一番端に位置するものへと歩み寄った騎士団長は、またもモザイク状の装飾に触れ、扉を開いた。やはり同じような小部屋に続いている。
「殿下、こちらへ」
 乗り込むと、またも部屋ごと動き始めたが、今度は下にではなく横に移動しているようだった。
「この小部屋は移動用の、いわば馬車のようなものだと聞かされております。先程の広くなった場所は、いくつかの乗り場が集まった、駅の役割を果たしているのだとか」
「なるほど……しかしそのようなものが必要なほど、この場所は広いのか」
「どれほどのものか、私も全てを知っているわけではございませんが」
 騎士団長は、しばし思案するように言葉を切った。
 そうしてエドウィネルに問いかける。
「殿下は、王都の湖が何故『星の海』と名付けられたのか……その理由を御存知ですか」
星の海ティア・ラザが?」
 この状況にはまるでふさわしくないその話題に、エドウィネルは思わず眉をひそめていた。あいにく今は世間話で時間を潰していられる心境ではない。
「私の知っているところでは、水面に映る星空が実に見事だからだと聞くが。それから、もうひとつ……」
 そちらはあまりにもおとぎ話めいたそれ故に、口にすることを迷った。しかし騎士団長は無言で先を促してくる。
「……はるか昔、天空より輝く星が落ちてきたという。その星が大地を穿ったあとに湖ができた。故に星の海、と」
 語るうちに、エドウィネルはふと似たような話を他にも知っている気がした。星が落ちる……星から、落ちる……?
「まさか……妖獣が……」
 民間に流布するたわいのない戯れ言。そこで語られるのは、星から落ちてきたと伝えられる妖獣、星が落ちたと伝えられる湖。
 そして妖獣の容れ物とおぼしき物体と、同種の様式を持つ施設が王宮の地下に存在するこの事実。王宮の地下とはすなわち、星の海ティア・ラザのほとりを意味する。
 ごとりと、かすかな揺れとともに小部屋が止まった。
 エドウィネルは、半ば呆然としたまま扉をくぐる。そうして導かれるままに、さらに数度、移動用の小部屋を乗り継いだ。最後の部屋を出る前に、騎士団長は再び蝋燭へと灯をともす。
 たどり着いたのは、これまでとは趣を異とする部屋だった。
 だがエドウィネルにとってはむしろなじみ深いと言える。切り出した石材を組み合わせた、窓ひとつない、石造りの地下室だ。正面に、上へ向かう石段がある。
 石段を登り、突き当たりの扉を開くと、おだやかな風が肌をくすぐった。
 これまでエドウィネルをとりまいていた、暗く重苦しい空気とは裏腹な、あたたかく柔らかな空気だ。
 思わず目を見張り、あたりを見わたした。
 そこは、質素な石造りの建物の中だった。ほとんど手入れなど為されていないらしく、苔生こけむし、一部は崩れかけてすらいる。
 エドウィネルが出てきた扉は、建物の一番奥にある石碑の影に、隠されるように設置されていた。石碑の表面には、びっしりと文字が刻まれているが、それらも苔に覆われ、あるいは崩れ、もはや判読は難しいものになっている。
 しかしエドウィネルの意識は、その石碑よりも、大きく開かれた建物の正面へと向けられていた。
 建物を覆うかのように茂る木々で、視界は判然とはしない。駆けるように建物を出て、木々の間を抜けた。
 そうして開けた視界に、息を呑んで立ち尽くす。

「ここは ―― !」

 眼前には、きらめく湖面がまばゆいばかりに広がっていた。
 陽光を浴びてさんざめくその向こうに見えるのは、遠目にも整然とした、石造りの町並み。岬の上にそびえるのは、見慣れた城。
 ならば、この場所は。
 ティア・ラザ沖に存在する、小島の一角。
 年にただ一度、国王のみが足を踏み入れる、その宮殿みやどのなのか。

 だが、エドウィネルは舟になど乗ってはいない。不思議な移動手段こそ使っていたが、それでも彼がいたのは王宮から降りた地下であったはずだ。
 ならば、あの施設は……その、大きさは……

「王宮の建つ岬の地下から、この小島にかけて、先程の施設が埋まって……いえ、沈んでいるのでございます」

 いつの間に追ってきていたのか。
 足音もなく背後に控えていた騎士団長が、静かに答えを告げてきた。

「そして、セイヴァン王家の方々は、その施設を『船』と、そうお呼びになっておられるのです……」


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