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 楽園の守護者  第十二話
 ― 縺れゆく糸 ―  第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 乗り合いの定期船は、お世辞にも良い乗り心地とは言えなかった。
 カルセストは元より、船舶というものが好きではない。つい一週間あまり前にコーナ公爵領から王都へと帰還した折りには、もっと大きく安定した船に乗っていたのだが、それでも辛くはなかったというだけで、楽しいとはついぞ思えなかったものである。
 数日もかけてようやく王都へたどり着いた頃には、正直ほっと息をついたというのに、よもや半月と経たないうちに、再び船上の客となろうとは。
 深々とため息を落とし、船倉から甲板へと上がる階段に足をかけた。ほとんど梯子と変わらないそれを這うようにして登り、跳ね扉を押し開ける。途端に差し込むまばゆい陽差しに、緑を帯びた灰色の瞳をつと細めた。
「 ―――― 」
 片手を上げて光を遮る。
 強烈な光に目の奥が鈍い痛みを訴えた。が、その代わり重苦しい気分が少し払われたような気がする。大きく深呼吸して、肺の中の空気を新鮮なものに入れ替えた。
 しばらくそのままでいると、後ろから苛立たしげな声がかけられる。
「おいあんた、出るなら出るでさっさとしろよ」
 はっと見下ろせば、布袋を担いだ水夫が険しい目でにらみつけてきていた。
「あ、す、すまない」
 邪魔をしていたことに気がついて、カルセストは甲板へ上がるべく急いで手足を動かした。明らかに動作の鈍い彼を、水夫は哀れむように一瞥する。そして見るからに重たげな荷を肩へと載せたまま、身軽に段を蹴り姿を現した。
 跳ね扉を足で閉め、水夫は後甲板へと向かっていく。脇へよけたカルセストには声もかけようとしない。
 普段であれば、そんな無礼な態度へは黙っていないところであった。向こうはたかが乗合船の水夫に過ぎず、三男とはいえ貴族であるカルセストとは、天と地ほども身分の開きがあるのだ。
 が ――
「うー」
 しゃがみこんだカルセストは眉を寄せて唸った。
 はっきり言って、気持ち悪くてそれどころではなかった。今はむしろ放っておいてもらえる方が、よほどありがたい。
「……大丈夫ですかい?」
 すぐ傍らに影が落ち、頭上から気遣うような声が降ってくる。
 聞き覚えのあるそれに、カルセストは下を向いたまま手だけ挙げて応じた。
「な、なんとか」
 実際、風に当たったことで、だいぶ楽にはなっている。
「なら良いんですがね」
 今回の旅の案内役をつとめる、髭面の男 ―― バージェスは、カルセストの横へと並んでしゃがみ込んできた。さてどうしたものかと思案するように、顎のあたりをさすっている。この男の方はというと、いっこうに揺れなど気になっていないようだった。この船の乗組員達と同じように、揺れる船上でも、危なげない様子で足を運んでいる。
 カルセストは懐を探り、小さな布の袋を取り出した。色鮮やかな端切れで作られたそれを、鼻の下へ押しあてる。清涼感のある香りが彼の鼻腔を満たした。しばらくそうしていると、心なしか気分が楽になってくる。
「匂い袋ですか」
「ああ、妹に作ってもらったんだ」
 今度は笑顔を見せることができた。袋をしまいながら立ち上がる。
 それは前回の旅で壁掛けの土産をねだってきた妹に頼み、縫ってもらったものだった。もっとも頼んだのは外側だけで、中身はカルセストが自身の手で詰めたのだが。
「 ―――― 」
 ふと顔を赤らめたカルセストは、ごまかすようにあたりを見わたした。
「あ、あの。アートさんは」
「あっちの影にいらっしゃいますぜ」
 落ち着きないカルセストに、バージェスが指をさして教える。


「よく平気ですね」
 唐突に振ってきた声に、アーティルトは読んでいた本から顔を上げた。
 壁に手を付いて見下ろしているのは、船室で休んでいたはずのカルセストだった。まだ顔色は悪いようだが、少しは楽になったのか。降り注ぐ陽差しに、眩しげに目を細めている。
 彼も影の中に入れるよう、アーティルトは座っている位置を少しずらした。
 青年はさっそく並んで腰を下ろし、紙面をのぞき込んでくる。が、すぐに眉を寄せてそっぽをむいてしまった。
「本なんか読んでて、気持ち悪くならないですか?」
 いかにも嫌そうなその声音に、思わず失笑してしまう。文字が視界の端に入るのも嫌なのだろう。しおりを挟んで閉じてやると、安心したように居住まいをただした。
 カルセストはそう飽きっぽい性分の若者でもなかったが、さすがについ先日同じ航路をたどったばかりだけに、船内の様子や河岸の景色も、いい加減見飽きているのだろう。となると暇つぶしの手段はごく限られてきた。この船は河岸の港へ順に接岸しては客や荷物を積み下ろす、半客半貨物の船だった。そのため、まっすぐ目的地に向かっていた前回の旅とは異なり、パルディウム湾につくまで一週間ばかりかかる予定だ。その間、本のひとつも読めないのでは、さぞかし退屈することだろう。
「いったい何の本ですか」
 問いかけてくるカルセストに表紙を向けてみせる。大きな文字で書かれたそれぐらいは、一瞥するだけで見て取れた。途端にカルセストがはしゃいだ声を上げる。
「うわ、懐かしいな」
 それはセイヴァンに住まう人間なら、誰しも一度は読むなり語り聞かされた経験があるだろう、子供向けの物語集だった。セイヴァンの建国者たる祖王エルギリウスの活躍譚を集めたもので、中でも有名ないくつかの逸話は、それだけで独立して劇や絵物語などになっている。
 カルセストも幼い頃から繰り返し幾度も読み返した話だった。もちろんそれはこんな粗末な装丁のものではなく、厚い革表紙のついたしっかりとした書物であったのだが、それでも気がつけばずいぶんと手垢がつき、擦り切れていたものだ。
『久しぶりに読む、けっこう、面白い』
 本を手渡すと、目を輝かせてめくり始める。船酔いのことなどすっかり頭から飛び去ってしまったようだ。
「ああこれ、うん……この棘を飛ばしてくる三つ頭の蜥蜴退治、大好きだったんですよ。そっか、これってハミアのことだったんだ……」
 手を止めてしきりにうなずく。
 子供の頃にはよく判らなかった妖獣の種類や習性も、セフィアールとなった今ではしっかりと学んでいる。ただ胸を躍らせるだけだったあの頃とは、また違った視点で読めるのが実に興味深い。
「アートさんはどの話が好きですか」
 興奮したように問うてくるカルセストに、アーティルトはしばし思案した。
 やがてつと指を持ち上げ、文字を綴る。その内容をカルセストは意外そうに繰り返した。
「【流れ星の窪地シス・ティア・トゥラン】ですか? また、渋いところですね」
 その通称で語られる説話は、確か妖獣退治よりもむしろ、荒れ地に新たな街を建造する部分を主題としたものだった。どちらかというと地味な話ゆえに、大衆受けも低い部分だったと記憶しているのだが。
「窪地の底に埋まってた金の卵から、燃えさかる炎の鳥が孵化したってくだりは、けっこうわくわくしましたけどね」
「へ、ありゃぁ確か銀の大蛇うわばみだったでしょう」
 唐突に割り込んできた声に顔を上げれば、いつの間に近づいていたのか、バージェスがかがみ込んできていた。
 レジィ=キエルフの副官であるこの壮年の男は、なかなかどうして神出鬼没であるようだった。この男、身分としては平民から募集された一般兵士に過ぎないが、その実若い頃からたたき上げられた、経験豊富な熟練者である。いわば世間知らずなカルセストなどより、一枚も二枚も上手うわてというところ。
 今回の旅では休暇旅行を装うため、移動手段として乗合の船を利用することになったのだが、貴族であるカルセストや貧しい山村出身のアーティルトは、これまでそんなものに乗ったことなど一度もなかった。そこで実際の手配など、勝手の判らぬ彼らを補佐するため、物慣れた彼が案内役として任ぜられたのである。
 それはさておき。
 しげしげと閉じた本の表紙をのぞき込んでくるバージェスに、カルセストはむっとしたような面もちで言葉を返した。
「大蛇だって? 聞いたことないぞ、そんなの。祖王は巨大な鳥の広げた翼を一刀で斬り落とし、返す刃でばっさりと首をねてしまうんだ」
 立てた指で剣を振るう仕草をするカルセストだったが、バージェスは太い首を傾げてみせる。
「あっしが覚えてるのは、蛇の下顎を剣で縫い止めて、暴れる尾から逆向きにずばーっと斬り開くってえ場面ですがね」
 それで噴き出したのが、岩をも溶かす毒の血ってことで、祖王もたいそう苦心なすったってんですよ。
 うんうんと自ら頷くバージェスだが、カルセストは譲らない。
「違うって! 待ってろよ、いま証明するから……」
 ばさばさと本をひっくり返すカルセストだったが、つと脇から腕が伸びてきた。カルセストの手元から本を取り上げ、手際よく目次を開く。
「あ、アートさん」
 言い合う彼らの前に、アーティルトは該当する説話の挿し絵を示してみせた。
 子供向けの稚拙な筆で描かれたそれは、蝙蝠のような翼と人の腕ほどもある長い牙を持った、恐ろしげな飛竜の姿であった。
「へ? これって ―― 」
 つと指さす頁の端には、確かに【流れ星の窪地】と章題が記されている。
 二人は思わず目と目を見合わせた。そんな彼らの様子にアーティルトはくすくすと笑う。
「どうなってんですかい」
 代表して問いかけたバージェスに、アーティルトは隠しから石板を取り出した。指文字を解さない彼のため、白墨で字を書いてゆく。
『口伝、尾鰭、変形』
「はい?」
 限られた面積に書かれる文字は、自然最低限のものとなる。目を白黒させたバージェスに代わり、カルセストが意味を確認した。
「昔話が口から口へ伝わるうちに、尾ひれがついて変形しちゃったってことですか?」
 うなずきが返る。
『この話の他にも、細かいところが違う話、たくさんある。地域、時代、本にした人、それぞれ全部、違ってくる』
 今度は指文字でそう綴る。
 なにしろことは三百年以上も昔の話である。今でさえ文字の読み書きができる人間は限られている。ましてエルギリウスによって統一される以前のこの地域では、文字による記録などほとんど行われていない状態であった。逸話は口から耳へ、耳から口へと順繰りに伝達され、それに従い細かな部分は脱落したり想像によって付け加えられたりしていった。二つの違う話が統合されたり、あるいは同じものが違う話として分岐していったり。そうしたことが繰り返される中で、何種類もの説話が新たに生み出され、また消えていった。
 噂に尾鰭がつくという言葉は、けして単なる揶揄ではないのだ。
 たとえ語る人物自身に悪気や意図など存在せずとも、長い時間、多くの口を経た情報とは、どうしても変容してゆく。それが伝承というものの持つ性質なのだ。
「じゃあ、実際はどれが正しい話なんですか?」
『判らない』
「判らないって、そんな」
『流れ星の窪地、本当はどこだったのか、はっきりして、いない。似ている土地、いくつかある。でも、少しづつ、違う』
 いくつもの説話といくつもの記録、地形や物的証拠を照らし合わせてゆくと、そこにはどこかしら必ず齟齬が現れてくる。実際に起こった出来事はひとつでしかないはずなのに、それを見る目が、語る口がいくつも存在すれば、その数だけの言葉が出来事を表現する。そうして最終的には、どの言葉もが、どこかしら事実から食い違い、聞く者に混乱をもたらすこととなってくるのだ。
 エルギリウスの業績について、もっとも信頼できる情報としてあげられるのは、やはり王宮に残された破邪の記録類であろう。国内でも屈指の知識人達が、かの存在のもっとも近くで見聞きし、書き留めた文献の数々。
 ―― だがそれも所詮は、権力者の側が残した、形式的な文書に過ぎないのである。それはしばしば記録に残らぬ非公式な破邪を行ってきたアーティルトが、身をもって知っていることだった。
 現実、いまこうして騎士団上部にも目的を秘したまま、休暇という名目でコーナ公爵領へ向かう一行が存在している。もしも向かった先で、あるいは後世の記録にも残るような事態が生じた場合 ―― 彼らがその場に居合わせたことについて、記録は、そして民間に流布する伝承は、いったいどういった説明をつけるのだろうか。
 そう、なにかしらの事件が起こる可能性は、けして低いものではないのだ。コーナ公セクヴァールと公女フェシリア=ミレニアナ、そして王太子エドウィネル。国王崩御を間近に控えた現在、三者の確執と思惑がはたしてどのように絡みあうのか。公爵領沿岸に現れた謎の構造物は、やはりなんらかの前兆を示すものであるのか。
 もちろんのこと、なにも起きなければ、それに越したことではないのだが。
 しかし ――
「アートさん?」
 手を止めてしまったアーティルトに、カルセストがいぶかしげに呼びかける。はたと我に返ったアーティルトは、曖昧な笑みを浮かべてそれに応じた。本心を見せないうわべだけの微笑みは、しかしカルセストに対する誤魔化しにはなったようだ。
『どれが本当でも、祖王の偉大さは、同じ』
 たとえ相手が怪鳥でも大蛇でも飛竜でも、妖獣を倒し街を建設した祖王の偉業に変わりはないのだと。
 そう綴るアーティルトに納得したのかしないのか。
 うなり声をあげるカルセストをよそに、アーティルトは開いていた書物を音をたてて閉じたのだった。


*  *  *


 アーティルトらが船上で遠い過去についての会話を交わしていた時期より、数日をさかのぼる頃。はるか距離を隔てた南の土地で、同じように過去の記録について意見を交換している者達がいた。
 意見を交換というと、いささか穏やかに過ぎる表現かもしれない。 ―― いや、けして声を荒げたり掴み合いを演じたりといった、粗暴なふるまいをみせているわけでも、ないのだが。
「だいたいだ」
 瀟洒な浮き彫りで飾られた出窓へと直接腰を下ろし、あまつさえ乗馬靴を履いたままの土足を窓枠に乗せるという、不調法きわまりない姿勢をした青年が、まず先に口を開いた。
「例年の収穫高だの水揚げ量だの、調べるのに毎度毎度公爵の署名がいるってえのはどういうやり方だよ。いちいち手間ぁかかってしょうがねえだろうが」
 そう言って、膝に広げた帳面の紙面を、ぱしりと手の甲ではたく。分厚い革で製本されたそれは、フェシリアの命で書庫から運ばせた資料であった。
 屋敷の主が王都へと出立して一週間。フェシリアは公爵に代わって執務室に籠もり、日常的な公務を代行していた。その傍ら領地内で生じる様々な問題をも処理し、さらに平行して破邪騎士ロッドと入念な話し合いを行っては、今後何らかの事態が生じた場合への対処を、怠りなく手配してゆく。
 現在のフェシリアはセクヴァールの留守を預かっている立場上、一時的に公爵代理をつとめている形となる。もちろん代理と本人とでは当然、行使できる力に大きな隔たりがあったが、それでも資料の閲覧ぐらいであれば簡単に許可を出すことができた。
「その土地が持つ生産力は、立派な機密事項にあたる。おいそれと他者の目にさらせぬのは当然であろう」
 そんなことも判らぬのか、と言わんばかりの冷淡な口調。
 絹糸のように艶やかな黒髪を肩から背中へと流し、公女は執務机で書きものを続けていた。出窓に腰を落ち着けた青年 ―― ロッドは、彼女の真後ろにいる。が、フェシリアは振り返るどころか書類から顔を上げようとすらしなかった。ペン先を墨壷にひたしては、流麗な文字を次々と綴ってゆく。
「誰にでも公開しろっつってんじゃねえよ。専任の責任者でも置いて、もうちょい手軽に借りられるようにしやがれってんだ」
 古臭いやり方してんじゃねえよ。要領悪ぃ。
 吐き捨てたちょうどその時、書類を持った文官が入室してきた。柔和な面立ちの年若い青年は、いきなり聞こえてきた暴言に、扉を開いた姿勢のまま凝固する。
 視線をあげたフェシリアが、机の片隅を示して促した。
「そちらに置いてくれるか」
「あ、は、はい」
 ようやく我に返ると、文官はぎこちない足運びで歩み寄ってきた。示された場所を確認し、既に置かれていた書類と重ね、端をそろえる。
「ドガ村一帯をまとめる者から、気になる報告が来ておりますが」
 フェシリアがふと署名する手を止める。そうして机脇で控える青年を見上げた。
「気になるというと」
「は」
 薄墨色の瞳にまっすぐ見つめられて、青年は一度目を伏せ息を吸った。それから改めてフェシリアを見返す。
「ご指示のあった舟状の構造物ではありませんが、以前見慣れぬ漂着物を目にしたことがあると申しております。詳しく話を訊いた方が良いでしょうか」
「いま待たせておるのか」
「はい」
「 ―― 私が直接訊こう。第二応接室に通しておけ」
 端的な指示にうなずいて、青年は部屋を出て行った。フェシリアは扉が閉まるのを見届けて、再び書きかけの文章へと目を戻す。彼女の立場であれば、村のとりまとめ役程度に急ぎ面会する必要などなかった。仕事のきりがついてからで充分である。
「けっこう気が利いてるようじゃねえか」
 背後から投げられた言葉に、フェシリアは再び手を止めた。
「ラスのことか」
 問い返す。それには答えず、ロッドは先を続けた。
「この辺じゃ珍しい人種だな。北の出か?」
 おそらく日焼けひとつ見られぬ白い肌と、明るい白金の髪とを指しての言葉だろう。交易港であるこの街では、様々な人種・民族を目にすることができるが、それでもあそこまで淡い色彩を持つ者は珍しい。
「ラスティアール=ガーズ。母の輿入れの折り、実家より伴ってきた侍女の息子でな」
 この地の人間との混血ではなく、生粋の北方人だ。フェシリアも淡い色の肌を持つ方だったが、あの青年にはさすがに及ばなかった。
「レジィほどではないが、なかなか使える男だぞ」
 荒事にはまるで向かぬが、なかなか目端が利いており、指示した以外の事柄にも気を配ることができる。なかなか貴重な人材といえた。難を言えばいささか気の弱い部分があるところだが、まぁ、あまり求めすぎるのも贅沢というものだろう。
 彼の前では繊弱な姫を装わないあたり、それなりの信頼を置いていることがうかがわれた。
「今の内に手懐けとこうってハラかよ?」
 ロッドが意地の悪い含み笑いを漏らす。
 侍女の息子。それも代々仕えてきた者ではなく、側室が実家から伴ってきた人間ともなれば、その立場はごく低いものでしかない。いくら優秀であったとしても、本来ならばせいぜい下働きが良いところである。それを拾い上げ、それなりの職務に就けてやれば、当然向こうはフェシリアに恩義を感じることだろう。そうして彼女は、公爵家を継いだ折りの有用な手駒を、ひとつ手に入れる訳である。
「先を見ていると言って欲しいな」
 フェシリアは無論、悪びれない。
 いまだ年若く、しかも武技・知性・教養、どれも格別に秀でているとは言い難いフェシリアである。もちろん彼女の聡明さはエドウィネルも存分に認めているところではあったが、それは公爵家の跡継ぎとして本来持っていてしかるべき能力であり、またエドウィネルであればこそ、推し量ることのできたものでもある。余人が彼女自身を目にすれば、ただその生まれ故に不相応な称号を受け、父の影に立っているだけのか弱き姫としか映らぬであろう。彼女自身が己には充分な能力があるといくら言い募ったところで、追従の笑みと共に聞き流され、それで終わるだけである。
 だからこそ彼女は、己を見下すことない、いまだ低い立場にある人間へと働きかけ、その真の能力を認めさせてきた。その人物らがやがて高い地位へと登りつめた折りにこそ、自身の忠実な臣下として利用するために。
 それを裏切りだの、下心だのと呼ばれる筋合いはない。際だった能力を持たぬ彼女にとって、人材こそがもっとも有力な武器である。そして彼女は彼らを不遇に扱うわけでも、約束した報償を与えぬ訳でもない。利用しているのはむしろお互い様というものだ。
「まったく、てめえを廃嫡して六つだか七つだかのガキに後継がせようってえ、あの男の気が知れねえな」
 ロッドが喉の奥でくつくつと笑った。
 フェシリアの異母弟であるファリアドル=ウラヌスは、先日ようやく7歳を迎えたばかり。特別な才覚など見せることもなく、母親のもとで無邪気に日々を過ごしている、ごく平凡な幼子おさなごである。
 この先どのように成長するのかも定かではない子供だったが、それでも現在のセクヴァールには唯一の男児。長男を失ったのち、やむを得ず次に生まれた最初の子を跡取りとした公爵だったが、そこには常に不満がつきまとっていたらしい。十年近くも過ぎてから授かったファリアドルを、彼は非常に可愛がっていた。いずれもう少し成長したならば、フェシリアに変わりファリアドルを跡継ぎにしようと、内々にではあるが意志表示している。そこにはどうやら、ファリアドルの生母である、野心家の側室も関わっているらしい。
 まったくもって、見る目がないというものだった。
 統治者としてこの年齢の人間が持つべき、およそ期待できる充分のものを、フェシリアは備えている。彼女個人が持つ腕力や体力は、この際問題ではない。大切なのは、手足として利用できる人間を与えられた際に、それを効果的に動かし結果を出す、その能力だ。それが彼女にはあった。人の上に立つ者として何よりも必要なその力と、そしてやはり権力者として欠くことのできぬ、現実を見る目。
 ―― ある種の冷淡さとも表現できる、それさえも、フェシリアは確かに備えていた。
 父に必要とされぬなら、いっそ父などいらぬと言い切ってしまえる。そんな意志の、強さ。
 たとえそこにわずかならぬ屈託や葛藤があったにせよ、そうして自身の道を定めてしまえる。そんな彼女の、ありようが ――
「所詮あいつらは、外側しか見てねえってことだな。実際の中身がどんなだろうが、見た目がてめえの思うような格好じゃなけりゃ、気に入らねえってな」
 嘲笑を浮かべ、ロッドは絨毯へと足を下ろした。
 そう口にする彼は、どこからどう見ても小物然としたその振る舞いから、騎士団内部でも鼻つまみ者と称されている存在であった。だがその実体はというと ―― 確かに善人とはお世辞にも言えなかったが、それなりに有能な人物であると、一部の人間からはしかと認められている。
 どうせ見た目で疎まれるのであれば、むしろそれさえ利用してくれよう。
 そんな考えを抱いているのは、はたして二人の内どちらであったのか。
「ドガ村のまとめ役とやらに逢ってくらぁ」
 さっさと扉へ向かうロッドに、フェシリアは筆を置いて立ち上がった。
「私も行く。少しぐらい待たぬか」
 まったく、こらえ性のない。
 ため息をついてかぶりを振る。戸口で立ち止まったロッドは、振り返って唇の端を持ち上げた。
「てめえこそ、その程度の仕事にいつまでかかってやがる」
 このグズが。
 およそ忌憚のない言葉をぶつけ合いながら、彼らは執務室の扉をくぐる。
 この先は人目があるため、しばらくこういった会話はできない。
 忠実な文官と情報提供者の待つ応接へ向かうべく、二人は無言で肩を並べ、屋敷の廊下を歩んでいった。


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