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 楽園の守護者  第十話
 ―― 予 兆 ――  第五章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2002/11/04 17:10)
神崎 真


 出航の準備を整える船員達が、桟橋と甲板とをせわしなく行き来していた。
 星の海ティア・ラザからパルディウム湾へとやってきた行きの航路とは異なり、今回王都へ戻るには、河の流れに逆らって上流へとさかのぼってゆく必要があった。しかも今の時期、季節風の方向も北から南へと向いている。コーナ公爵領への到着が想像以上に恵まれた行程であっただけ、王都への帰途はそれだけ時間がかかるものと予測された。
 いくらエドウィネルが気さくな王太子とはいえ、王族が旅する以上、一定の水準は整った船が必要である。彼自身も華美を好むことこそなかったが、それでも心地の良い旅を行えることに、否やはない。そういった次第で、出航準備には多くの手間と時間、物資が費やされていた。
 ようやく最後の準備を終えようとしている船を、エドウィネルはコーナ公爵家の館から見下ろしていた。
「もう間もなくですわね」
 フェシリアが、口をつけた茶器をそっと受け皿へ戻す。
「ええ」
 エドウィネルもうなずいて、良い香りのするお茶を一口含んだ。
 桟橋を目にすることのできる露台テラスで、エドウィネルとフェシリアの両名は最後のお茶を楽しんでいた。
 見上げる位置にある太陽が中天を過ぎる頃に、彼はこの地を発つ。
 領内における妖獣の襲撃など想定外の事態が生じたおかげで、当初予定していた視察は半分程度しか行うことができなかった。
 だがそれ以上の収穫をこの訪問で得ることができたと、エドウィネルはそう思っている。
 次代の公爵であるフェシリアとの親交を深められたことや、期せずして公爵領内の町を視察する結果となった破邪の実施、そして ―― いまだ正体の判らぬ謎の物体 ―― その存在を知ることができたこと。通り一遍の視察では知ることの叶わなかった、そんな事実が幾つも存在した。
「失礼いたします」
 つつましやかな声が室内からかけられた。
 振り返れば、リリアが銀の髪をきらめかせ控えている。
「レジィさまが参られました」
「少し早いのではありませんか」
 エドウィネルの出発には、まだもうしばらくあるはずだ。準備ができたと知らせに来たにしては、まだ眼下の動きが慌ただしさを残している。
 不審に思うフェシリアに、リリアは言づかってきた伝言を告げる。
「お屋形様より、殿下の御出立前に少々お時間をいただければとのことにございます」
 彼女の言うお屋形さまとは、すなわちこの屋敷の主人である、コーナ公爵を示している。
「お父さまが?」
 フェシリアがいぶかしげに眉を寄せる。
 ―― が、それを拒む理由も、また権限もフェシリアには存在しなかった。意向を確かめるよう振り返った彼女へと、エドウィネルは小さくうなずいてみせる。それを見て、フェシリアは再び侍女の方へと視線を戻した。
「判りました。すぐにご案内申し上げますと伝えて下さい」
 そう告げた彼女に、リリアは困惑したような表情でかぶりを振る。
「あの、それが……フェシリアさまの同席には及ばぬと……」
 再びフェシリアの表情が動く。
 王太子との最後の会見となる場に、後継であるフェシリアが呼ばれぬという、その事実。
 だが彼女はそれ以上なんらかの反応を見せることはせず、無言でうなずいた。
「では、殿下。また後ほど」
 出航の折りには、フェシリアも桟橋まで見送りに出る。
 迎えの待つ戸口まで同行した彼女に、エドウィネルは小さく会釈し公爵の待つ執務室へと向かった。
 先触れの召使いが足早に去ってゆくのをよそに、レジィの先導のもと、ゆっくりと歩を進める。
 背筋を伸ばし姿勢良く歩むレジィを、エドウィネルはしばし無言で眺めていた。が、やがて彼はその背中へと声をかける。
「傷の具合はよろしいのですか? レジナーラどの」
 その呼びかけに、レジィの肩が揺れた。
 が、前へ進む足は止めようとはせず、ただ静かな声が返される。
「かすり傷に過ぎませぬゆえ、大事はございませぬ」
「ならば良いのですが、二の腕の傷は、かなり深かったのではありませんか」
「お心遣い、勿体なく」
 低く答えるその声の調子に、エドウィネルはいぶかしげに問いかけた。
「レジナーラどの?」
 どこか様子がおかしい。やはり傷に障りがあるのでは。
 続けようとしたエドウィネルの前で、レジィはふと進む足を止めた。
 通路の真ん中で立ち尽くす格好になった彼女に、エドウィネルも自然立ち止まる。レジィはゆっくりとした動きで振り返った。だが、その目はエドウィネルの方を見ようとはせず、廊下に敷かれた綾織りの絨毯へと落とされている。どこか困惑しているかのような、複雑な表情に、エドウィネルは首を傾げた。
 彼女はしばらく言葉に迷うように言いよどんでいたが、やがておずおずとその口を開いた。
「恐れながら、殿下」
「うむ?」
「あの、できますれば……私のことは、レジィとお呼び捨ていただけますでしょうか。その、私ごときに敬称をお付け下さることは……」
 気まずげに言いよどむ。
 エドウィネルは数度まばたきした。何を言われているのか、一瞬判らなかったのだ。
 だが彼も人心にはさとい方である。すぐに望まれている内容を呑み込んだ。
 ひとつうなずいて快諾する。
「では、今後はレジィと呼ばせてもらおう」
 呼称だけではなく、言葉遣い自体を意識して改める。
「 ―― ありがとうございます」
 レジィはほっとしたように表情を緩めると、小さく頭を下げた。
 ……いま現在、王太子たるエドウィネルがこの国で譲るべき相手は、厳密に言ってただ一人、当代国王のみである。その彼が一介の騎士を相手に礼を取るというのは、端から見れば確かに異様に映った。
 だがレジィ ―― 否、レジナーラ=エル=キエルフ=ロミュは、騎士であるという以前に、れっきとした貴族階級の姫君である。
 コーナ公爵家とも縁深い、ロミュ侯爵家の第三子。貴族としてはさほど高貴な血筋でこそなかったが、コーナ家との繋がりをかんがみれば、国内のどの有力貴族にしたとて、不思議のない家柄だ。
 そして高貴な女性に対し男性が敬意を払うのは、王太子とても同じことである。レジナーラに対しエドウィネルが一定の礼儀を保つのは、ごく自然な成り行きだった。
 しかし、彼女は己が『女性』であることに、複雑なこだわりを抱いている。男物の衣服を身にまとい、腰に剣をき、凛とした声で部下達を統率する。その立ち振る舞いを見て彼女を女性だと認識する人間は、ごくごく稀だ。そんな彼女を女性名で呼び、さらに敬称を付けて接することは、レジィが女性であることを幾重にも周囲に喧伝することとなった。既に優秀な騎士としてそれなりに評価を受けている彼女にとって、それはひどく居心地の悪い、また評判を低下させる方向にしか働かぬことでもあった。
 故に遠まわしにではあるが、女扱いしないで欲しいと告げたレジィの意図を、エドウィネルはあやまたず汲み取った。
 もちろん彼は、その複雑な心境を全て悟った訳ではなかったろう。
 しかし彼女の端正な面差しに刻まれた、深い傷痕。額から右目の上を両断し、頬にまで達するそれから何らかを察することは、たとえエドウィネルでなくとも容易だったはずだ。
「それにしても、ずいぶん変わった剣を使っていたようだが、あれは東方のものかな」
「あ、はい。軽くて切れ味がよいので重宝しております」
 話を変えたエドウィネルに、レジィはうなずいた。再び先に立って、公爵の執務室へと向かう。
 彼女が使用していた片刃の長刀は、妖獣との戦いの中で折れてしまっていた。圧倒的な鋭さと引き替えにひどく薄くできている刃が、あの乱戦に耐えきれなかったのである。
 もっとも、それまでの間に彼女が斬り捨てた敵の数は、銛や両刃の大剣を使用していた他の者のそれを、はるかに上まわったのだが。
 間に合わせに提げた剣を撫でつつ、次をどうやって手に入れようかと思案する。
 東方諸島から訪れる商船は、何隻か予定されていた。だが刀というものはあまり商品価値を認められていない。螺鈿らでん象嵌ぞうがんを施した飾り太刀ならばともかく、実戦に供する価値のある、切れ味と使いやすさを兼ね備えた実用品ともなると、なかなか……
「ふむ」
 エドウィネルが顎を撫でて呟いた。
「もし良ければ、私の方で手配させるとしよう」
「は ―― はぁっ?」
 反射的に首肯しかけて、レジィは彼女らしくない、上擦った声をあげた。
 思わず身体ごと振り返る。たっぷりとした外套が、その動きで大きく揺らいだ。
 驚きに目をみはるレジィに、エドウィネルはもの柔らかな笑みを向ける。
「騎士のふるう剣ともなれば、自身の目で心ゆくまで吟味するのが最善であろうな。しかし今回のことで、私もそなたに報いたい」
 手になじまぬようならば、無理に携えるには及ばぬ故、受け取ってもらえるだろうか。
 あくまで穏やかに意向を問うてくる。
「で、ですが」
 対するレジィは、言葉を見つけることができず、うろたえるばかりだ。
 それも無理はない。彼女の直接の主人は、次期女公爵エル・ディ=コーナフェシリアだが、エドウィネルはそのフェシリアよりさらに上位の存在であり、間もなくこの国でもっとも高貴な、至高の座に着くことを決定されている人物である。
 その次期王位継承者から剣を下賜されるなど、素晴らしい栄誉だ。普段使いにするなどとんでもない。屋敷の奥深くに壇を設け、家宝として飾っておくのが本来である。
 臣下の跡取りの、そのまた側仕えでしかないレジィにとっては、喜びよりも困惑の方が大きい。
 しかし、立ち尽くすレジィの肩へと、エドウィネルは気安げに手のひらを載せた。
「なに、そう堅苦しく考えられると私も困る。豪華な宝剣など、用意しようもないからな。いずれは民を守って折れるのにふさわしい、実用的な物を探させるつもりだ」
 飾って埃を払われるだけの宝剣など、戦うことを知っている騎士には無用の長物だ。そんな飾り物よりも、使う者の手の中で、肉を斬り骨を断ち、多くの民を守ることのできる、そんなやいばをこそ贈りたい。
 もし再び事ある折りには、此度と同じよう、存分にふるうことができるように ――
 レジィはしばし、微笑むエドウィネルを見つめていた。が、やがてつと片足を引き、胸に手を当てて一礼する。
「……勿体なく。謹んで拝領させていただきます。殿下」
 彼女の剣は、主人たるフェシリアのものに他ならない。
 だが ―― 同時にこの方のそれでもあれると良い。
「うむ」
 鷹揚にうなずくエドウィネルを前にして。
 レジィは臣下ゆえの義務としてではなく、ごく自然にそう思った。


*  *  *


 コーナ公爵の執務室には、居心地の良い調度が揃えられていた。
 絹で張られた椅子に深く腰を下ろし、部屋の主と向かい合ってくつろぐ。
 だが、公爵が切り出した話を聞くうちに、エドウィネルは思わず背もたれから身を起こしていた。正面に座るセクヴァールを、まじまじと見つめかえす。
「いま、なんとおっしゃられました? フェシリアどのと……私が?」
 聞き違いではないのかと繰り返すエドウィネルに、公爵は大きくうなずいた。
「先だってより拝見しておれば、殿下は娘を気に入って下さっておられる御様子。娘の方も、恐れながら殿下に対して、心を開いているようですし」
 そう言って、満足げな笑みを浮かべる。
 エドウィネルは ―― こう言ってはなんだが ―― しばし相手の言葉を疑った。これはなにかの冗談だろうかと思い、からかわれているのかとも考えてみる。
 だがセクヴァールは、あくまで真面目に話しているようだった。
 それを確信して、エドウィネルはため息をこぼす。
「おっしゃっている意味が、よく判らないのですが。フェシリアどのは公爵の大切なお世継ぎ。入り婿を取られるのであれば判りますが、私の妃にとは、話がおかしくありませんか」
 そう。
 コーナ公爵、セクヴァール=アル・ディア=フレリウス=コーナは、エドウィネルに対し、娘を王太子妃として迎え入れてはどうかと持ちかけたのだ。
 エドウィネルが驚いたのも無理はない。
 エル・ディ=コーナの名を持つフェシリアは、王家にも届けられた、コーナ公爵家の正当な後継者である。その母親こそ側室の身分ではあったが、それも今は亡きかつての正室が現国王の息女であることをはばかり、あえて新たな正室を置いていないがためにすぎない。彼女がコーナ公爵の名と領地を継ぐのは確定された未来であり、それが故に、彼女が他家へとするのはあり得ないことであった。たとえその相手が、国王家にゆかりする人物であったとしてもだ。
 エドウィネルはそれを知っていたからこそ、初めて顔を合わせた舞踏会で彼女の手を取った。そしてフェシリアもまた、それを理解していたからこそ、その手を彼にゆだねた。互いに互いの立場を知り、それに理解と共感を覚えたが故に、彼らは親睦を深めていったのだ。
 それなのに今さら ―― そう、今さらである ―― そのような事を提案されてしまっても、困惑するしかないというのが正直なところだ。
 しかしセクヴァールは、心配する必要などないと、緩やかに首を振ってみせる。
「爵位のことでしたら、問題はありません。私には他にれっきとした息子がおりますゆえ」
 けしてコーナ家が断絶するようなことにはならないのだ、と。
 柔らかな笑みを浮かべ、諭すように言う。
 その言葉を聞いた瞬間 ――
 エドウィネルの顔から表情が消えた。
 それはほんのわずかな間のことで、相対するセクヴァールは気がつかなかったかもしれない。だがその一言をきっかけに、エドウィネルの言動はそれまでと異なるものへと変わっていった。
「なるほど。確かご子息はファリアドルどのとおっしゃられましたか」
「はい。まだいささか幼くはありますが、なに、もう十年もすれば立派ににつとめを果たすようになるでしょう」
 セクヴァールが満足げにうなずく。
 その面に浮かぶ微笑みは、未だ幼い息子に対する、愛情をかいま見せるそれだ。しかしエドウィネルにとってその表情は、けして快く思えるものではなかった。
 落ちついた声音を崩さぬままに、エドウィネルは言葉を続ける。
「そうでしょうね。……ですが十年が過ぎる頃には、フェシリアどのが存分にこの領地を差配しておられることでしょう」
「……殿下?」
「遠くない先、私の意を汲み、共にこの国を栄えさせてくれるであろう臣下を、私はとても大切に思っています。そしてフェシリアどのは ―― そういった点で、非常に得難い方だと、そう思います」
 彼女のものの考え方、領地と民に対して抱く想い、そして飾りとしてだけではない、確固たるものをうかがわせる能力。そのどれもが、エドウィネルにとっては頼もしくてならない。もう間もなく訪れるだろう、己が国王としてこの国を治めてゆく時代。それを共に過ごし形作る、彼女は心強い協力者となってくれるはずだ。
 なのにこの公爵は、何故いまだその才すら定かではない子供などに、その席を譲らせようというのか。
「お心遣いは大変有り難いですが、公爵ともあろう方が、王太子の色恋に気を遣われることはありません。むしろそのような場合には、何をたわけたことをと、叱責していただかねば」
 望んではならぬ相手を望むなど、人の上に立つ者のする事ではない。ある一定以上の立場にある者は、その婚姻さえもが義務のひとつである。それを思えば、いかに愛しい相手であれ、考えなしに娶ったり手をつけたりということは慎むべきなのだ。
 そしてこの場合において、優秀な領主となるであろうフェシリアを王太子妃にと望むことは、国家に対する明らかな損失である。
 ―― それでも。
 もしも自分と彼女の間にあるものが、真実色めいたものであったならば。
 いや、それでも自分達は、きっと同じ道を選んだことだろう。だからこそ、そうではないと断言できるいま、公爵に告げるべき言葉はただひとつだけだった。
「フェシリアどのは、私にとって良き臣下であり、大切な友人でもあります。いずれ彼女が爵位を継ぎ、コーナ女公爵エル・ディア=コーナとなられる日が来ることを、私は楽しみにしています」
 だから我々の婚姻など、実現される可能性は全くないのだ、と。
 きっぱりと言い切ったエドウィネルに、セクヴァールはしばし言葉もないようだった。
 だが、
 やがて公爵は深々とため息をつくと、背もたれに身を預けた。
「どうやら私は、とんだ年寄りのお節介をしようとしたわけですかな」
 苦笑まじりに呟く。
 その言葉に、エドウィネルもまた、力のこもっていた口元を緩めた。
「公爵にご心配をおかけする、私の不徳でもありますが」
 もはや二十代も半ばを過ぎ、嫡男筋の独身貴族としてはいささか年かさと呼んでも良いエドウィネルである。定まった相手が存在しないからこそ、こうして周囲が気を揉む羽目になっているのだ。それは本人も自覚しているだけに、あまり強くも出られなかったりする。
「もしや殿下、どなたか意中の姫君でもいらっしゃるのでは」
「それは……」
 セクヴァールの問いは、この種の話題が出た折りに、必ずと言っていいほど口にされるものだった。あるいはからかい混じりに、あるいは真摯な眼差しを伴って、人々はエドウィネルに問いかける。
 既に望む相手がいるからこそ、用意された縁談に興味を持てぬのではないかと。
 だが……
 エドウィネルはいつもと同じように、静かな笑みをたたえてかぶりを振った。
「 ―― なかなかどうして。そのように魅力的な姫君と、出会ってみたいとは思いますが」
 責務も立場も忘れ去るような、そんな恋に憧れなくもないけれど。
 それを望むには、捨てることのできないものが多すぎる。そしてそれは、既に義務ですらなく、確かに自身の意志で選んだ道だから。
「ところで公爵。セフィアールの一人が報告してきた件ですが」
 エドウィネルはそこで話を別の件へと移した。
「ああ、あの奇妙な『舟』とやらについてですな」
 うなずいて、セクヴァールも机から報告書を取り上げる。
 両者の表情は既に厳しく引き締まり、その意識は次の案件へと集中していた。


*  *  *


 出航を間もなく控えた桟橋では、年若い騎士と美しい侍女とが、見るからにぎこちない会話を交わしていた。
 吹く風に長い銀髪を乱しながら、リリアが手にした包みを差し出してくる。
「あの、わずかではございますが、よろしければお持ちになって下さいませ」
「え、いや、そのような」
 手のひらに収まるほどのそれを前に、カルセストは口ごもる。
 お気遣いいただかなくても、と固辞しようとする彼に、リリアも遠慮がちに視線をさまよわせる。
「カルセストさまは、船が苦手だとおっしゃっておられましたでしょう? この香草茶は、船酔いにも良く効くといいますから」
 ですがやはり、余計なことでしたわね。
 うつむくリリアに、カルセストは慌てたように両手を振りまわす。
「あ、そんな……わざわざ用意して下さったんですか」
「ええ、でも ―― 」
 しまおうとしたその包みを、カルセストはとっさに手を出して受け取っていた。
 が、目測を誤ったのか、リリアの手ごとわし掴みする形になってしまう。
「あ……」
「え……」
 一瞬、両者の動きが止まり、なにが起きたのかを把握した途端、みるみる顔が赤くなってゆく。
「す、すみませ……っ」
 うろたえるカルセストの声が、風に乗って甲板上にまで届く。
「なぁにやってんだか、あいつは」
 船縁に肘をついたロッドが、呆れたように呟いた。
 同じようにして桟橋を見下ろしているアーティルトは、洩れかける笑いを懸命にこらえている。彼にしてみれば、二人の初々しいやりとりが微笑ましくてならないようだ。
 ロッドがつと手摺りから身を離した。船内に入るかと思われたが、彼はただ身体の向きを変えただけだった。背中を預けるようにして船縁に寄りかかり直す。
 小さくため息をついて、空を見上げた。
 深蒼の瞳が晴れあがった青空を映し、あたりの水面と同じ鮮やかな色を宿す。じわりと目を細め、陽射しに手のひらをかざした。
「……暑」
 ぽつりと小さく、呟く。
 桟橋のたもと、屋敷へと続く門をくぐり、エドウィネルと公爵親子がその姿を現していた。


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