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 楽園の守護者  第十話
 ―― 予 兆 ――  第四章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2002/7/06 15:01)
神崎 真


 良く通る声が、兵達を鼓舞していた。
 砂塵と体液と血と肉片とがあたりを汚し、幾体もの妖獣と人間が地へと伏す中。
 それでもなお、志気を失うことなく戦い続ける一団があった。
 中心となっているのは、ひとり上質な衣服をまとった黒髪の剣士だ。
 だが華麗な刺繍を施された上着は見る影もなく汚れ、裂け、見事な艶を持っていたはずの巻き毛もまた、ほつれ、乱れ、異臭を放つ妖獣の体液で固まってしまっている。
 革を貼り合わせた胸鎧に、深く刻まれた爪痕。武器をふるう腕にも、埃にまみれた顔にも、小さな傷が幾つも走っていて。
「援軍が来たぞ。もうあと一息だ!」
 折れた刀を妖獣の鱗に突き立て、叫ぶ。
 既に掠れつつあるその声は、しかし着実に男達の耳へと届いていた。
 もはや五体満足の者など一人としていないだろう兵が、その言葉を耳にして、力強い喊声を上げる。
「 ―― かかれ!」
 エドウィネルは高く右腕をかざし、叫びと共に振り下ろした。
 それと同時に、桟橋から従ってきた一団が、鬨の声を上げ走り出す。
 王太子もまた腰の剣を抜き、妖獣のただ中へと突っ込んでいった。
「殿下!?」
「フェシリアどのはそこでお待ちを!」
 肩越しに振り返り、叫ぶ。
「オラオラ! 怪我人は引っ込んでなッ」
 先頭を切って飛び込んだロッドが、段平だんびらを手に暴れ始めた。その横で、アーティルトが今にも殴り倒されそうになっていた男を救出する。数ヶ所でセフィアールの術が青白い閃光を放った。
「無理はするな! 妖獣の相手は破邪騎士に任せ、残りは怪我人を守ることに集中せよ」
 率いてきた一般の兵達へと、エドウィネルが指示を下す。
 彼自身、剣をふるいはするものの、積極的に妖獣に向かうことはせず、もっぱら足止めと身を守ることに専念していた。
「町に侵入した妖獣は!?」
 どうにか混戦の中央までたどり着いたエドウィネルは、レジィへと問いかけた。
「おりません。全てこの場でくい止めておりましたゆえ」
 疲労を隠せぬ、しかし強い光を放つ黒曜石の瞳が、まっこうからエドウィネルを映す。
「良くやってくれた。感謝する」
 エドウィネルは間近にその目を見返し、うなずいた。
 レジィの固く張りつめていた表情が弛み、口元にほのかな笑みが浮かぶ。
 そうして彼らは立ち位置を入れ替え、エドウィネルの指揮のもと、掃討が開始された。


*  *  *


 被害は、少なかったと言って良いだろう。
 全ての戦闘が終わり、事後処理に当たったエドウィネルとフェシリアは、被害状況の報告を受けてそう結論した。
 既に彼らの到着から一日が経過し、翌日の昼近くとなっている。
 一般市民の死者は無し。負傷者も避難途中に転倒した者などがほとんどで、みな軽傷にとどまっている。施設の破壊は堤防とその付近ばかりで、民間の個人財産にはなんの被害も生じていなかった。
 ―― だが、兵達の死傷者は、けして少ない数とは言えない。
「あれだけの数を相手に、よくぞもちこたえたものです」
 報告を行ったアラヴァスが、しみじみとそう付け加えた。
 ほぼ丸一日の戦闘で、警備兵の実に三分の一がその命を落としていた。残りの者達も全員どこかしら負傷しており、命に関わる深手を負っている者も多い。
 海から這い上がってきた妖獣は、結果的に二十体にも及んだ。そのうち幾体かは、兵達の奮闘も虚しく堤防を乗り越えてしまい。そしてそれらの相手に手を取られている間に、浜への階段を閉ざしていた落とし戸が破られたのだ。
 それでも彼らは、諦めることなく戦い続けた。
 破られた落とし戸の前に土嚢どのうを積み上げ、侵入した妖獣達は、懸命にその場へと足止めし……
 多くの犠牲を出しながらも、エドウィネル達がたどり着くまで退くことなく戦い続けていた。
 彼らは妖獣を相手取る際の訓練を受けたこともなく、また充分な武器すら与えられてはいなかった。町の警備兵たる彼らはあくまで海賊や夜盗といった、人間の相手を想定して組織されている。恐るべき妖獣を目の当たりにした場合の、その心構えからして、固められてなどいなかったはずだ。
 それにも関わらず、圧倒的に不利な状況で、逃げ出すことなく戦い抜いた兵達。
 通常それほどの負傷者、死者が発生すれば、誰もが怖じ気づくはずだ。人間誰しも死ぬのは怖ろしい。自らの死が現実感を持って迫りくれば、ひるみ、逃げだそうとしても無理はない。そしてひとたび誰かが逃げをうてば、あとはもう止めようなどない。統制を失い、ばらばらになって壊走してしまうものだ。
 だが彼らの内に、途中で逃亡した者は、一人として存在しなかった。
 それを成し得た、その理由は ――
「負傷者と遺族には、充分な補償をしてやらねばなるまい」
「は、はい。心得ております」
 エドウィネルの言葉に、控えていた市長 ―― メルフデスが頭を下げる。
「無論、報償はまた別に与えましょう。彼らが期待以上に働いてくれたからこそ、市民達が救われたのですから」
 フェシリアがその後を続ける。
「補償及び報奨に関しては、コーナ家が対応します。メルフデスどのは、どうか彼らに不自由がないよう、心がけて下さいませ」
 金銭についてはコーナ家に請求をまわせとうけ合う。だからけして物惜しみなどするな、と。
「フェシリアどの。妖獣に関する被害については、王家の方で……」
「存じております、殿下」
 エドウィネルを振り返り、フェシリアは小さくかぶりを振る。
「ですがこのたびの被害は、一般市民よりも兵達の方が大きゅうございます。そして抱える兵の損害に責任を持つのは、その主たる市長であり、この地を治むる公爵家の努めにございますれば」
 いざ事が起これば、兵達の命が危うくなるのは当たり前のことだ。
 それだけの危険があると承知の上で、地方領主は自らの領民へと兵役を課している。そのことに反発を感じさせないために、充分な補償を約束して。
 だからこそ……役目を果たした者達に対し、彼らは報いてやらねばならない。自らが口にしたその言葉をたがえぬように。
「わかりました」
 エドウィネルはひとつうなずいて、それに関する話を打ち切った。
 市長の前でいつまでも言い争う内容ではないし、補償のしかたは幾通りもある。出してくれるというものを、無下に断るのも得策とは言えなかった。
 さらに今後の具体的な手配を幾つか取り決め、市長は退出していった。報告を行ったアラヴァスは、とうに妖獣の死骸の後始末へと戻っている。
 市庁舎の執務室を占領していたエドウィネルは、本来メルフデスの物である椅子から立ち上がり、フェシリアを振り返った。
「私は負傷者の見舞いに向かいますが、フェシリアどのはいかがなさいますか」
「無論、ご一緒させていただきますわ」
 同じことを考えていたのだろう。フェシリアは思案する様子もなく、即答した。エドウィネルに手を貸されるより早く、来客用の椅子から腰を上げる。音もなくリリアが寄り添い、その肩に外套を羽織らせた。エドウィネルもまた、はずして机に立てかけていた大剣を取り、腰に帯びる。


 一時的に遺体安置所とされた湾岸倉庫は、沈鬱な空気と時おり洩れる啜り泣きに満たされていた。
 この季節に遺体を外に放置しておいては、すぐに腐敗が始まってしまう。そうでなくとも、町を守って死んでいった者達を、いつまでも戸外に晒しておく訳にはいかなかった。
 近くにあった空の倉庫を開放し、手分けして運び込んだ亡骸が並べられる。みな顔や肉体の汚れをできるだけ清め、近隣から集めた清潔な布で全身をくるまれていた。それでもその凄惨さ、遺族達を襲う哀しみの念は拭いようもなく。
 父を、夫を、息子を亡くした家族達の、うなだれ、泣き崩れる姿。
 レジィ=キエルフは倉庫の入り口近くに佇み、無言で中の様子を眺めていた。彼女もまた、けして無傷などではなく、頬や袖口などに治療の跡をのぞかせている。
 血の気の薄い唇が、何かをこらえるように引き締められていた。
 彼女の係累が、犠牲者の中に存在するわけではない。彼女も、その副官であるバージェスも、共に命を落とすことはなく、無事生き延びていた。だが、だからといってこの場において、レジィが何も思わないはずはなかった。
 彼女は偶然この時期に町を訪れただけの、いわば通りすがりと言っても良い存在であった。にも関わらず、独断で兵達の指揮を執り、結果として多くの死者を出してしまったのだ。
 もちろん、咎めの言葉などどこからも上がらなかった。むしろレジィの指揮がなければ、町に侵入した妖獣によって、もっとひどい惨事が生じていたことだろう。兵達と共に現場へ身を置き剣を振るっていた彼女は、フェシリアからもエドウィネルからも篤くねぎらいを受けた。
 しかし……
 レジィは沈んだ瞳で犠牲者とその家族達の姿を見つめる。
 彼らにもまた、その働きにふさわしい報奨が授けられるはずだ。
 だが、たとえどれほどの栄誉を約束しようとも、彼らが一生働いても得られぬだろう程の金銭を積もうとも、それで失われた命の代わりとすることなど、できるはずもなく。
 そんなことは、判っているのだ。
 判ってはいても、それでも他に彼らがなせる償いなど、存在せず ――
 身体の脇に垂らされた拳が、固く握りしめられた。
「…………」
 やがて、近づいてくる人の気配を感じ、彼女はふと顔を上げた。
「どうした」
 フェシリアやエドウィネル達と共にこの地を訪れた兵の一人が、ひそめた声で耳打ちしてきた。その内容に、レジィはわずかに目を見開く。足早に倉庫を出て、目の上に手のひらをかざした。
 まばゆい陽光が、目元に濃い影を落とす。
「フェシリアさま……それに殿下まで」
 呟くレジィの前で、わずかな供を連れただけで現れた二人は、馬を止めて親しげな笑みを見せた。エドウィネルはともかくとして、フェシリアのような身分ある女性は、通常移動の際には内部の見えない馬車か輿こしを使用する。だが薄手の外套を頭からすっぽりと被った公女は、そのままエドウィネルに抱きかかえられるようにして、鞍の前に横座りしてきたらしい。
 エドウィネルの手で馬から抱き下ろされると、暑苦しい頭巾フードを下ろし、ほっとしたように息をついた。
 しばし呆気にとられていたレジィだったが、はたと我に返ると素早くそば近くへと歩み寄っていった。まばらに砂の散る石畳へ膝をつき、己が主人あるじと次期国王を見上げる。
「このような場所においでになるとは。何か御不審な点でも」
 言いかけるのを、エドウィネルが手を上げてとどめた。
「いや、問題があって来た訳ではない。それより ―― 」
 いったん言葉を切って、ひざまずくレジィを見下ろす。
「死者達の元に案内してもらえるだろうか」
「 ―― は。どうぞこちらへ」
 彼女は改めて深く頭を垂れると、素早く立ち上がった。慣れた仕草で外套を払い、倉庫の入口へときびすを返す。
 足を踏み入れた倉庫の中は、薄暗く翳っていた。
 まばゆい直射日光の降りそそぐ場所から、急に室内へと入ったこともあるだろう。だが、けしてそれだけではない暗さ、空気の冷たさがエドウィネルとフェシリアを取りまいた。
 馬を繋いで追ってきた者達も、なにかに気づいたかのように足を緩め、物音を立てぬよう息をひそめる。
 エドウィネルとフェシリアは、余計な言葉を交わすこともなく、無言で遺骸の傍らに膝を落とした。並ぶその後ろへと、両手いっぱいに花を抱えたリリアが控える。
「 ―――― 」
 二人は彼女から一輪ずつ花を受け取ると、そっと死者の胸元へとのせた。そうしてしばし沈黙のうちに頭を垂れる。
 その口からは、一言の声も発せられはしない。
 しばしそうして祈りを捧げてから、彼らは音もなく立ち上がり、その隣に横たわる死者へと再びひざまずく。
 犠牲者達の弔いは、後日正式に行われることとなっていた。
 街を守って死んでいった兵達に報いるためにも、それは市を上げた大々的なものに計画されている。当然エドウィネルもフェシリアも、参列する予定だ。
 だがその葬礼は、公的な意味合いの強い、いわばひとつの式典だった。全ての死者をひとくくりにし、まとめて弔う。ある意味ひどく乱暴なやりかたとも言える。
 だからこそ、せめてその前に、と。
 一人一人に対し花を手向けてゆく彼らの姿を、その場にいた者達は静かに見守っていた。
 弔いの儀式は、死者に対するものであると同時に、遺された者達への癒しをも含んでいる。
 けして余分な時間など無いはずの二人が、それでもこの場へ足を運んでくれる。その事実に、遺族達は新たな涙を滲ませていた。
 最後の一人の側から立ち上がった二人へと、レジィが深々と頭を下げる。
「 ―― ありがとうございました」
 一拍遅れて、兵や遺族達、その場にいた全ての者がこうべを垂れた。


*  *  *


 再び市庁舎へと戻ろうとする一行には、レジィも付き従った。
 今度はフェシリアとレジィが相乗りをし、エドウィネルは単独で馬を歩ませている。主人と同じように薄手の布をまとったリリアは、カルセストが鞍の前へ座らせていた。
「問題は、警備兵達の補充をどうするか、ですね」
「ええ。この街に住まおうとするのであれば、兵役は逃れようのない責務ですわ。しかし今回のことで、怖れ逃れようとする者が出ることは、大いに予測されます」
「義務であると押しつけることは容易いが、頭ごなしに強制することは、民達からの反発を招きやすい。できるだけ穏便に、彼らの意志で入隊させることが望ましいのだが」
 ゆっくりと歩を進める馬上で、統治者たる二人が低く言葉を交わす。
「それにしても、ヴェクドがこれほどの集団で行動するとは、あまり聞かない話です」
 エドウィネルが、顎に手をやりながら呟いた。わずかに細められた目線は、馬の進む先ではなく、記憶の中へと向けられているのだろう。
「アート、お前はどうだ」
 問いかけに、アーティルトは小さくかぶりを振った。
 過去の記録をこまめに閲覧している彼にしても、この種の妖獣がこれほどの群で動いた例など見たことがなかった。
「……この数年、こんなはずではという件が、頻繁に起きつつあるように思われます。過去の事例はあくまで例、いつくつがえされるとも知れぬというのは当然ですが、それにしても多すぎる」
「統計とは、けして無視できぬものですわ。予測から外れたものの存在は、あくまで規定の法則が存在していてこそ現れてくるもの。例外に目を奪われ、これまで培ってきた集積をないがしろにするのは愚かなことかと」
「無論のこと。先達が積み重ね、導き出してきた法則を無きものにするつもりはありません。ですが同時に、現在起きていることをも、同じ事実として記録し分析していかねばならぬでしょう」
 そうして得られた結果が、あるいは未来において、新たな法則を生み出すことになるやもしれぬのだ。
 馬上にある者達の間に、ふと沈黙が下りる。


 波に洗われる船縁に身を乗り出して、ロッドは小さく舌を打っていた。
 その眉間に刻まれた皺は深く、舟を出した時から不機嫌そうな表情と向き合わされていた漁師は、怯えたようにちらちらと様子を伺ってきた。
「もう少し寄せられねえか」
「へ、へえ。けど……」
 口ごもる男に、ロッドはぎっと音を立てそうな目つきで振り返る。
「なにかあったら俺が守る。いいから寄せろ」
 鋭い視線に射抜かれて、男はいちもにもなくうなずいた。を動かす腕に力をこめ、小舟を行く手に見えるものへと近づけてゆく。
 二人も乗れば一杯になってしまう漁舟いさりぶねは、ロッドが漕ぎ手込みで強引に借り出したものだった。まだ暗いうちから漁に出ていた男達が戻り、遅い朝飯を食いながら交わしていた噂話。たまたまそれを耳にして、その場所に連れて行けとごり押ししたのだ。
 腰の引ける男に金を握らせ、どうにか舟を出させたロッドは、じょじょに見えてきたものに、ますます表情を険しくしていった。
「 ―― こいつは」
 呟きを落とすが、漁師に返答のすべはなかった。これがいったいなんなのか、と。それを訊きたいのは、むしろ彼の方である。
 それは、一見すると座礁した小舟のように思われた。
 人ひとりが寝ころんで入るのにちょうど良い大きさの円筒を、縦に割って開いた形をしている。二つに分かれた半筒は、長い一片で接し、喩えるなら開いた豆の鞘に似た形状となっていた。
 こういった型の舟は、小さな島が密集した諸島地域に多く見られる。
 しかし……
「金属と、硝子ガラス……いや……」
 船縁に手をついたロッドは、ぎりぎりまで上体を伸ばし、その物体を眺めた。体重が片寄ったことで、漁舟が大きく揺れる。
 普通の小舟は、たいてい丸木をくり抜いて作られるものだ。あるいは、削りだした板を組み合せ、防水性のある樹脂や瀝青アスファルトを塗り込むか。どのみちその材質は、何処でも見られるごく身近なものである。
 だがいま目の前にあるそれは、金属質の光沢がある表面に、ところどころ見慣れぬ半透明のものがはめこまれた、なじみのない物質でできていた。片一方の底部分 ―― 円筒の壁などは、三分の一近くが四角く切り取られ、同じように弧をえがく透明な板に置きかえられている。
 伸ばした手の指先が、辛うじて表面に届いた。爪でモザイク状になった半透明のものを引っ掻く。
「硝子じゃなくて、もっと、軽い……」
 感触を確認して、ロッドは眉をひそめた。
 もっと近づいて調べたいのだが、なかなか思うようにいかず苛立っているらしい。
 それは海面すれすれに顔を出した岩礁に半ば乗り上げたようになっており、波が寄せるたび不安定に揺れていた。海水に没した部分と水面に出ている部分とが、ごくごく微妙な均衡を保っている。下手に手を出せば、そのまま海中に沈んでしまいそうだ。
「おい、こいつをおかに運びたいんだが」
 問いかけに、漁師はぶるぶると首を振った。とんでもないと言わんばかりの仕草に、ロッドは目の光を鋭くする。
「金なら払う」
「そ、そう言われても、無理なモンは無理ですわ!」
 青くなりながらも、震える声で主張する。
 たとえどれだけ強要されようと、金を積まれようと、できることとできないことがある。
 こんな手漕ぎの小舟で、ほとんど変わらない大きさの物体を牽引するなど不可能だ。仮に相手がそれ自体で海面に留まるだけの浮力を持っているのならばともかく、既に半分沈みかけているような状態では、下手をするとこちらまで海面下に引きこまれかねない。
「……なら、もっとでかい船ならいけるか」
 必死に訴える漁師に、ロッドは別の手段を考える。彼らが王太子やフェシリア達と乗ってきた船であれば、わざわざ曳航せずとも、甲板上に引き上げてしまえるだけの大きさがある。その方がゆっくり調べるにはちょうどいい。
 だが、漁師はその案にもかぶりを振った。
 このあたりは岩礁が多く、喫水の深い船では入り込めないようになっている。海面下の地形が不規則なため、潮の流れが複雑なものとなり、慣れた者でなければ地元の人間でも漕ぎ入れようとはしない。特殊な環境故に珍しい魚が生息するため、一部の腕に覚えのある漁師だけが、身ひとつでやって来る漁場なのだ。
 ぎりと奥歯を噛みしめ、ロッドは正体不明の物体を睨みつける。
 が、そうしていても状況は何も変わらない。やがてロッドは小さくため息をつくと、漁師を振り返った。
「しょうがねえ。いったん戻るぞ」
 運べないのであれば仕方がない。それならいっそ、改めて余人を連れて来るでもした方が、まだしも現実的だろう。
 その言葉に、漁師はほっとしたようにうなずいた。
 気が変わらぬうちにと、いそいそと櫓を動かす。その場に浮いたままで、器用に小舟が方向を変えていった。
 と ――
 波の加減だろうか。ゆらりとひときわ大きく揺れた小舟が、吸い寄せられるように岩礁へと近づいた。鈍い音を立てて、船腹と金属がぶつかる。
 息を呑んだ二人の前で、均衡を崩されたそれは、ゆっくりと傾き岩礁からずり落ちていった。
 ロッドがとっさに手を伸ばす。海面下に消えようとするのを阻止するかのように。
 だが、たかが一人の腕でそれが叶うはずもなく。
 水しぶきを上げて海面に突っ込まれた指の先で、それは水の青に紛れ、見えなくなっていった。
「くそッ!」
 がつりと船縁を叩いて歯噛みするロッドに、漁師はおろおろとうろたえた。けしてわざとやったわけではないのだが、それをこの騎士様が納得してくれるかどうか。
 海底を見透かすかのようににらみつけていたロッドは、伸ばしたままだった右手を引き上げた。拳を握ったその手が妙にぬるついて、いっそう顔をしかめる。
 だが、開いた手の平に目を落とした彼は、ふとなにかに気がついたように、その手を顔に近づけた。
「こいつは ―― 」
 生臭い匂いを放つ、薄紫色の粘液。
 ごく最近、いやというほど目にしたものに酷似したそれに、目を細める。
 取り出した手拭いで丁寧に粘液をぬぐいとると、汚れた面を内側にして畳み、隠しへとしまい込んだ。それから海水に手をひたし、残ったぬめりを洗い流す。
「おい」
「は、はい」
 漁師は裏返った声で返事した。何を言われるかと怯えているのに構わず、顎をしゃくる。
「陸に戻るぞ。大至急だ」
 どうやら咎めはないようだと安心した漁師は、今度こそ慎重に舟の向きを変えた。
 波を切って進み始めた小舟の上で、ロッドは何かを思案するかのように、行き過ぎる海面へと視線を投げていた。


(2002/10/29 11:44)
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