時ならぬ悲鳴と喧噪が、日没間近い町を満たしていた。
「慌てるな! 持ち出す荷物は最小限にしろッ」
「妖獣はまだ堤防の向こうだ。落ち着いて避難すれば充分に間に合う!」
通りを右往左往する町民の間を、複数の兵士達が声を枯らして走り回っている。
だが、その程度では混乱を収拾する役になど、まるでたっていなかった。
親に手を引かれていた
幼子が、つまずいて転倒する。はっと振り返った母親が手を伸ばすが、別の人間がその間へと割り込み、またたくまに引き離されてしまう。はぐれた子供は、すりむいた膝の痛みと心細さで泣き出したが、それに構う余裕のある者など、誰ひとりとしていはしない。
「 ―― なんて騒ぎだ」
駆けつけたレジィとバージェスは、混乱の場を鞍上から見下ろし舌を打った。
「このまんまじゃ、妖獣が侵入する前に怪我人が続出しますぜ」
バージェスがそう口にするが、そんなことなどわざわざ指摘されるまでもない。
レジィは振り返ると、ともなってきた歩兵達へと声をかけた。
「まずは町民の避難を最優先する! 二名は街灯に火を入れてまわれ。残りの者は三名づつ組になって、通りごとに人々を誘導しろ。逃げ遅れる者が出ないよう、各戸を確認するのを忘れるな!」
「はっ」
「
呼子は持ったな? よし」
良く通る声で指示し、掲げた手を振り下ろす。
「 ―― かかれ!」
兵は弾かれたように散っていった。混乱していた通りのあちこちで呼子の高い音が鳴り響き、はっとそちらへ気を引かれた民達へと、むかうべき先を伝える声が上がる。
「警備の長はどこにいる?」
「こちらへ ―― 」
問いかけに、案内を勤めていた男が、詰所のある方向へと馬を向けた。
レジィとバージェスの二人も、馬首を返してその後を追う。
市長の母親の元を辞し下山する二人が目にしたのは、やはり合図の
狼煙であった。
知らされたのは、妖獣の来襲 ――
沿岸近くまで山が迫り、わずかな平地に密集するように建造されたこの街は、海岸沿いを除く三方を深い森に囲まれていた。そしてこの国の他の都市と同じように、森と街との境に防壁を築き、常に歩哨を置いて監視を怠らないでいる。
いつなんどき、怖ろしい妖獣が現れ、平和な生活をおびやかすやもしれぬから、と。
それはこの国で産まれ育った者達にとって、本能とも呼べる根深さで刷り込まれた恐怖だった。祖王エルギリウスによって妖獣の害より救われて三百年、それだけの長き時間が過ぎようとも、民達は今もなお、かつての恐怖を忘れていなかった。
自分達の明日が、今日と同じように訪れるかどうか。それはけして誰にも保証などしてもらえぬのだから、と。
だが街を囲むのにも限度というものがある。森の中を行く街道は、使用頻度も少なく、防壁と頑丈な門によって閉ざされていてもさほどの不便はなかったが、交易や漁業の場となる海辺に関しては、いたずらに壁を築くわけにもゆかず。ただ土地の落差を利用して、街と砂浜との間に堤防を置くのがせいぜいであった。
大人の背丈の倍ほどの高さがある石造りの堤防には、数ヶ所砂浜へ降りる石段が設けられており、また一部は桟橋として大きく海に張り出している。喫水の高い商船などはその桟橋を利用し、漁師達が使用する小型の釣り舟などは、直接砂浜へと引き上げられていた。潮の満ち引きで広さの変わる浜は、現在遠くまで波が引いている。湿った砂の上に、海水の運んできた藻や貝の欠片が幾つも散らばっていた。
そして、まさに陽が沈もうとしている遠浅の海に、ぽつぽつとかいま見える、黒い影。
碧緑を帯びた湾のさざ波が、没しかけた太陽の最後の輝きを受け、どこまでも美しくきらめいている。そこに黒々とわだかまり、近づいてくる妖獣の姿。
この街が建造されてから既に幾世代もの時が過ぎていたが、実際に妖獣が現れたのは、これが初めてのことだという。それでもなお、妖獣の来襲を知った途端、市民は混乱へおちいった。ことに妖獣の姿が視認された海沿いでは、逃げようとする人々が確たる避難先も決めぬままに通りを行き交い、随所で怪我人の出る大騒ぎとなっている。
市長の屋敷へと駆け戻ったレジィとバージェスは、青ざめうろたえる市長から事情を聞くと、動かせるだけの兵を借り受け、即座に現場へと向かった。
妖獣の群は、いまだ街内部までは侵入することなく、ようやく砂浜へと上陸しつつある段階だ。堤防は容易に乗り越えられぬだけの高さを持っていたし、昇降に利用されている石段は、あらかじめ設置されている落とし戸で閉鎖されていた。木製ではあるが、鋼で幾重にも補強されたそれだ。当分は保つはずである。
「警備の者は何名いる? 砂浜に降りる石段の数と場所は? それから用意できる武器と、篝火の位置を」
矢継ぎ早に問いかけるレジィに、見張りを行っていた兵士の長は、ただ目を白黒とさせた。どうやらいきなり妖獣が来襲したことで、完全にうろたえてしまっているらしい。
レジィは内心でひとつ舌を打つと、わずかに口調をやわらげた。
「堤防の図面を見せてもらえまいか。どこにどう人員を配置するかを決めたい。それに明かりを灯さなければ、間もなく陽が沈んでしまう。暗闇で奴らを相手したくはなかろう?」
「は、はっ!」
具体的に指示されて、ようやく彼は我を取り戻したようだった。詰所の壁を振り返り、貼られている色あせた図面を指し示す。
「この四角が今いる場所です。こちらが海、こちらが街で、この三角が……」
簡素化された線と記号で表現された配置図を、指差しながら説明してゆく。
「ふむ、なるほど、当面のところ堤防でくい止めれば良い訳だな。なんにせよ石段を素早く封鎖できたのは幸いだった」
レジィがうなずくと、ほっと息をついた。
「心配するな。現在コーナ公爵の元には、王太子殿下がセフィアールを率いて視察に来ておられる。既に知らせの早馬は出立したゆえ、一日しのげば救援が来るだろう。焦らず落ち着いて行動すれば良い」
「はっ」
直立して敬礼する。
「 ―― た、隊長!」
戸口から泡を食った声と共に、ひとりの男が飛び込んでくる。
「来ました! よじ登ろうとしてますッ」
「落ち着け。場所は!?」
レジィの鋭い叱責が飛ぶ。
「え、あの……っ」
言葉が出ないらしくしきりに指差す男に、隊長の方がしびれを切らす。
「こちらへ」
先に立って詰所を走り出た隊長に、レジィとバージェスも即座に続いた。
街のある土地は砂浜より高いため、堤防も大人の胸あたりまでしかない。三人は手近な場所から身軽に上へとよじ登った。そして石組みの上を駆ける。走り出してすぐに、問題の妖獣は目に入った。
全身を鱗に覆われた、魚類と人間の中間のような生き物が、海岸側の石組みにとりつき、じりじりと這い上がろうとしている。周囲に集まった兵達が、口々にわめきながら剣を突きだしていたが、みな及び腰で、効果が上がっているようには見えなかった。
鉤爪と水掻きの生えた腕が、堤防の上端にかかる。
とたんにわっと兵達が退いた。
「何をしている!」
叫びざま、レジィはその間へと飛び込んでいった。
腰の
長刀をすらりと引き抜き、逆手に構えて妖獣へと突き立てる。
鱗の密生した頭部の真ん中を、研ぎ澄まされた刃が貫通した。乗馬靴の踵で丸い頭を踏みにじり、剣を引き抜きながら蹴り落とす。
どぅと砂浜に落ちた死体が、四肢を痙攣させた。紫色の体液が流れ出し、白い砂にしみ込んでゆく。そちらを見やりもせずに、レジィは兵達を睨みつけた。
「それでも貴様らは市民を守る警備兵か!? 貴様らが逃げれば、この化け物どもは民達を襲うのだぞ!」
長い刀を一閃させる。その仕草で、刃にまとわりついていた体液が振り払われた。
白銀の刀身が落陽を受け、鮮やかなきらめきをこぼす。海からの風に、束ねた黒髪の後れ毛が数筋、ふわりとなびいた。
黒曜石にも似た強い光を放つ瞳が、堤防上とその下に集まってきた兵士達を見すえる。
「現在、コーナ公爵の元へ妖獣出没の知らせが走っている。明日にはセフィアールが駆けつけるだろう。たかが一日をしのげぬほど、南の男達は腰抜けだと、彼らにそう言わせる気か?」
嘲るようなその物言いに、不満そうなざわめきがそこここから洩れた。
その反応に、レジィは口の端を持ち上げてみせる。ほっそりとした端正な面差しへ、不敵とさえ呼べる笑みを浮かべて。
「そうだとも。荒波に鍛えられた男達が、そうそう負けなどするものか」
良く通る声が響きわたった。
「剣よりも、槍と松明を用意しろ。登って来る妖獣を見逃すな!」
畳みかけるその言葉に、兵達の表情がじょじょに高揚しはじめる。
本来の彼らは、気性の荒い漁師でもある。課せられた兵役のために、交代で任についているのだが、元々は小舟ひとつで荒波へと漕ぎ出す、海の男達だ。今回は妖獣が相手ということで本能的に腰が引けていたのだが、レジィの言葉に耳を傾けるうちに、その持っていた闘争心を取り戻し始める。
呼吸を読むかのようにいったん言葉を切り、レジィは一同を眺めわたした。
「いいか、数人で組になって冷静に対処すれば、必ず追い落とせる。たかが魚の出来損ないごときに、おくれなどとってたまるものか!」
突き上げた拳に、一同のそれが重なった。気合いに満ちた喚声が上げられる。
レジィは満足そうにうなずくと、傍らにいた隊長を振り返った。
「名前は」
「ハ、ハーン」
唐突に声をかけられた隊長は、どもりながら応えた。
「ではハーン。ことは持久戦になる。三交代で持ち場につかせるから兵を分けてくれ。それから篝火と松明の準備を早急に頼む」
「はっ」
「バージェス」
「なんでしょう」
「お前は数名を連れて、近在の漁師から
銛を集められるだけ集めてくれ。それから避難状況の確認を」
「了解でさ」
バージェスがうなずくと、その横でハーンが手近の者に指示を飛ばした。
「お前ら、お手伝いしろ。漁師が文句を言うようなら、俺の名を出せ!」
「はいっ」
こちらへ、と先に立ってバージェスを案内してゆくのを見送って、ハーンはレジィを振り返った。笑みと共にうなずきを返すと、ほっと表情をやわらげる。
おそらくもう五十が近いだろう壮年の隊長は、しかし年に似合わぬ屈強な身体つきをしていた。短く刈り込んだ髪に白いものが混じり始めていることを除けば、四十前と言っても通りそうなほどだ。背丈などレジィの目線程度しかない小柄な男だが、よく鍛えられたがっしりとした肉体をしている。長年強い陽射しに灼かれ続けた肌が、見事なまでに黒い。
「お名前をうかがってよろしいですか」
問いかけるその瞳には、既に落ち着きの色が戻り始めていた。
経験を積んだ海の男が持つ、力強く、そして深く澄んだ眼差し。
「レジナーラ=キエルフ。レジィで構わん」
「は」
目を伏せ、小さくうなずく。
レジィは堤防の向こうへと視線を向け、遠浅の海を見はるかした。
「次が、来るぞ」
その瞳の向かう先。
美しい碧緑の海面を乱し、波打ち際へと這い上がってくる半人半魚の化け物共に、輝く漆黒の双眸を据えて。
ちゃきりと刀を持ち直すその姿。
あたりを囲む兵士達は、それぞれの武器を手に息を呑んだ。
恐るべき妖獣を間近にして、しかし怖れる気持ちは彼方へと失せ、戦いの予感に意識が高揚してゆくのを感じる。
自分達は、自身のこの手で町を守るのだ、と。
突如現れた余所者でしかないレジィの元で、しかし彼らは指示に従うことを、疑問にすら思いはしなかった。むしろその指揮下で戦えることに、一種の喜びさえをも覚える。
胸の奥底で、鼓動が高まってゆく。背筋にぞくりとするものが走った。
もはや、怖れるものなどありはしない。
誰もがそう信じ、迫り来る妖獣の姿を、強い瞳で睨みすえた。
* * *
闇に沈んだ甲板上を、幾つもの足音がせわしなく行き来していた。
帆柱や張り渡された
索などに、幾つもの角灯が吊り下げられている。だがそれらの灯りも、黎明前の暁暗を払拭するには力が足りないようだ。
港内を吹きわたる風は、湿り気を含み、時として肌寒さすら感じさせる。
甲板後部の一段高くなった位置で作業を見守っていたエドウィネルが、気遣うように傍らへと視線を落とした。
「海風は身体に悪いと聞きます。中に入っておられた方がよろしいのでは」
「 ―― いいえ」
フェシリアは、羽織った薄手の外套を風にひるがえしながら、きっぱりとかぶりを振ってみせた。
王太子と共に肩を並べ、出航準備を進める水夫達の姿を眺める。
「これでも港町の育ち。この程度の風には慣れておりますから。それに……」
いったん言葉を切って、彼女は口元に小さく笑みを刻んだ。
「剣を握ることも、戦術を語ることもできぬこのわたくしが、破邪に同道したところで何もできぬことなど、重々承知しております。ですがわたくしは、上に立ち命を下す者として、彼らを見ていなければなりません。それこそが、わたくしの役目と心得ておりますゆえ」
命を下すのは上に立つ者の務め。それを果たすのが下の者の務め。そして下の者が為したその働きについて、責任をとるのもまた上の者が果たすべき義務である。
だからこそ、彼女は立ち働く者達を見守っていなければならない。そうして彼らの行為に責任を持ち、時にねぎらい、報いてやることこそが、結果として下位の者の彼女に対する信頼を高めることとなる。
エドウィネルは、無言で頷き目を甲板へと戻した。
「出航と航海には、どれほどの時間がかかりそうですか」
「誰か、殿下にお答えを」
フェシリアが黒髪をなびかせ、近くにいる者へと声をかける。
士官とおぼしき男が一人、姿勢を正して向き直った。
「抜錨だけなら、もう小半時もあれば行えます。ただ、この暗闇で船を出すことは危険が大きいので、夜明けまでお待ちいただくことになります。明るくなると同時に船を出したとして、問題の町までは半日あまり ―― まだ陽のある内にたどり着けるでしょう」
「いささか時間がかかりすぎではないか。町からここまで、早馬は一晩かけずに駆け抜けたぞ。ならば午前の内に充分到着できないのか」
「それは、その……」
言いよどむ士官に、フェシリアがうなずいてみせる。
「かまいませぬ。率直にお申し上げなさい」
「は ―― では、ご説明させていただきますが、潮の流れと風向きの問題がございまして……」
彼は二人を操舵室へといざなった。そうして壁に貼られた書き込みだらけの海図を示しつつ、説明してゆく。
もともとこのあたりの海域は水深が浅く、岩礁の数も多かった。そこに潮の満ち引きなどが加わり、複雑な潮流を形作っている。外洋に向かうのであればそれもあまり問題とはならなかったが、沿岸部を航行する場合はかなりの慎重を期した。さらに今の時期は、
陸から海へ向けて強い風が吹いている。これに逆らって接岸するのには、それなりの時間と技術が必要だった。
「半日は最低の刻限です。我々以外のどの船どの船員をもってしても、それ以上早くはたどり着けないでしょう」
はっきりと揺るぎなく口にされる言葉は、自らの仕事に自信を持っているがこそのものだ。
「そうか……」
エドウィネルは小さくため息をつき、海図から士官へと視線を移した。
「無理を言ってすまなかった。よろしく頼む」
「 ―― はっ」
まっすぐ目を見て言う彼に、士官は背筋を伸ばして姿勢を正した。
仕事に戻るべく退出する男を見送って、エドウィネルはもう一度、海図の方を見やった。そこに小さく記された、
件の町の名を眺める。
「妖獣の数は多い。間に合うと良いのだが……」
「こればかりは致し方ございませぬ。わたくし達の方で為すべき手は、すべて打ちました。あとはもう ―― 」
「祈るばかり、か」
「御意にございます」
フェシリアが面を伏せ、低く答える。
二人ともに、ここで焦りなどしても仕方がないことを、はっきりと理解していた。
だがそれで、全ての感情が収まるわけでもない。外套の布をたくし上げるフェシリアの指は、かすかに震えていたし、剣の柄に置かれたエドウィネルの手も、こめられた力に関節を白く浮き上がらせている。
訪れる者のほとんどない船尾側の右舷で、ロッドは暗い海面を眺めていた。
胸まで高さのある手摺りに両肘を突き、ぼんやりと視線をあそばせている。
その足元では、甲板に直接尻をつけたアーティルトが、丹念に剣の手入れを行っていた。織りの粗い磨き布で刀身を拭い、ときおり明かりにかざしては状態を確認している。
同じ場所に座を占めながらも、彼らの間に交わされる言葉はなにもなかった。ただ黙然と、それぞれの時間を過ごしている。
ふ、と。
唐突にロッドが動いた。
それまで海のほうを向いていた身体を返し、手すりに背中を預けるようにしてよりかかる。やはり両肘は手すりの上へと載せられたままで、胸をそびやかし、木箱や樽で雑多に占められた後甲板へと視線を投げた。
「ヴェクド、だってな。今度の相手は」
つぶやくように落とされた言葉に、アーティルトが手を止めて傍らを見上げた。
「…………」
だがロッドは彼の方を見返そうとしない。アーティルトはしばらくロッドの動きを待ったが、彼が反応しようとしないので、投げ出していた足をわずかに揺らした。
固い乗馬靴のかかとが、甲板上でこつんと音を立てる。
相槌代わりになされたそれに、ロッドは再び口を開いた。
「 ―― あいつは鱗が固くて、まともな剣で相手するのはきついんだよな。そのぶん陸上での動きは鈍いから、なんとか足止めを重視して接近戦を避ければ、普通の兵どもでもしばらくは相手してられるだろうが」
また足が動き、硬質な音が夜気に響く。
「問題は数か。早馬の話じゃあ、10匹は下らないってことだったが、普段バケモノなんざ見慣れてねえやつの言うことだしな。話半分ってことも充分考えられるし、逆にそいつが出発したあとで、もっと大量に増えたってえ可能性もある」
「…………」
「せめて先発で俺かお前でも、馬飛ばして駆けつけられれば良かったんだけどな」
「…………」
「慣れねえ道だし、戦う余力を残して行くとなると、到着はこの船とおっつかつだ」
「…………」
「って、手ェ抜いてんじゃねえよ」
足音だけで返答し続けるアーティルトに、ロッドはそのつむじあたりを平手ではたいた。すぱんと間の抜けた音が響く。
唐突なそれに手元を狂わせかけて、アーティルトは喉の奥でくぐもった呻きをあげた。彼が細剣と併用している両刃の長剣は、それなりの切れ味を備えた上質なものだ。刃に顔を突っ込みなどした日には大惨事である。
焦茶色の隻眼がロッドをにらみつけた。
「なんだよ、その目は」
「…………」
ロッドは傲然とした表情でその視線を受け止めた。心持ち顎を上げるようにした仕草が、相手の気持ちをとことん逆なでる。
アーティルトの指がひらりと動いた。迷いのないなめらかな動きで、幾つかの単語を形作る。
『やつあたり、止める』
途端、ロッドの眉間に皺が寄った。
「……何が言いてえ」
低い声が漏らされる。
声を荒げるでもなく、いっそ静かに紡がれた言葉。すがめた瞳の奥に、一瞬形容しがたい暗い光がよぎる。
常であれば、それぐらいの言葉など悪口雑言とともに笑い飛ばしてしまう男だ。だが今宵の彼は、どこかしらいつもの余裕が感じられない。否、それは今夜だけに限らなかった。思い返せばこの青年は、この地 ―― コーナ公爵領を訪れることを通達されてからこちら、どこか、らしくない言動が続いている。
『判りきったこと、話す。話したいだけ。聞くは、する。でも、やつあたりは迷惑』
いまさら妖獣や現状についてわざわざ口になどしなくても、そんなことは二人ともとうに熟知していた。ここでおとなしく出航を待っている、それ自体が良い証拠である。たとえどれほど危険であれ、自らに負担を強いる行動であれ、そうすることでわずかなりとも人々を救うことができると判断したならば、ロッドは迷わず深夜の街道を疾駆しただろう。そしてアーティルトは、その際彼が誘いをかけてきてくれることを疑っておらず、また付き合うことに否やもなかった。
だが、いま彼らはこうして船上で夜明けを待っている。今回はそうすることがもっとも有効な手立てだと判断したからだ。
だからこそ、ロッドの話は彼らの間においてまったく意味など持たないそれだった。あまりにも判りきった、自明の事柄であるがゆえに。だがそれでもなお、彼がそれを口にするのは ―― してしまうだけの理由が、あるのであれば。
耳を傾けるぐらいはいくらでもしてやれる。その理由を語りたくないのであれば、あえて問いかけることもすまい。興味がないといえば嘘になるが、人間誰しも人に知られたくないことがある以上、下世話な好奇心などで踏み込むのは無粋というものだ。
しかし……
『人の好意、無にする、駄目』
愚痴をこぼしたいのであれば、付き合うぐらいはしてやれる。だが、苛立ちを発散する手段には、あくまで許容できる範囲というものがあった。
「好意だと?」
『是』
わざとらしく眉を吊り上げたロッドに、アーティルトはにっこりと笑いかけてみせる。もちろん、半分は嫌味である。
こうやってまっすぐ目を見て言う言葉に、存外この男は弱いのだ。
案の定、彼は悪態を返すでもなく、ただ小さく舌打ちして視線をそらす。
さらに何か言ってやろうかとも思ったが、相手がこちらを見ていないのでは、指文字も役には立たなかった。
アーティルトは何事もなかったかのように剣の手入れへと戻る。
そ知らぬふりを装うその態度は、ある意味非常に底意地が悪かった。
「…………」
ロッドはため息をついて夜空を見上げる。
煤を
刷いたかのような暗い空に、瞬く星の姿は見受けられず。
闇を払う曙光もまた、いまだ兆しすら感じられはしない。
公爵家所有の船とはいえ、もっぱら湾内を巡視することを目的とした軽帆船は、さほど乗組める人員も多くなく、船内の居住性も最低限のものが確保されているのみであった。水夫たちの多くは、船腹に棚のように配された吊寝台を交代で使用し、私的な空間などほとんど与えられていない。
今回はその速度と機動性からこの船が選ばれたのだが、その結果として、騎士達はいつになく不自由な思いをさせられることとなっていた。ロッドやアーティルトが後甲板に出ていたのも、そこであれば息がつけると考えたからである。
それでもエドウィネルとフェシリアには、さすがに個室を用意されていた。王太子であるエドウィネルには船長の部屋が、フェシリアにはそれに順ずる上級士官の部屋が明け渡されている。しかしごく狭いその空間は、本来彼らのような身分高い人間が使用するようなものではなかった。
もっとも、海上を航行中、彼ら二人がその部屋で休む気があるのかどうか、それはかなり怪しいところではあったのだが。
ともあれ、フェシリアの使用する部屋では、付き従ってきた侍女が少しでも居住性を良くしようと立ち働いていた。実用を重んじるフェシリアは、けして不必要な贅沢さなど求めなかったが、それでも年若い少女に固い寝台は辛いし、どこかすえた臭いを含むよどんだ空気もこらえがたいものがある。
予備の毛布を出してもらったり、空気を入れ替えたり、湿気でじめついた手触りのする調度を拭き清めたりと、することはいくらでもあった。主人がここを使うかどうか判らないという事実は、侍女にとって問題ではない。フェシリアに不快な思いをさせるおそれがわずかでも存在するのであれば、彼女は手を尽くしてそれを回避しようと努めるのだ。それが身の回りの世話をするということの本当の意味であったし、彼女はその職務を喜びをもって果たせる程度に、己の主人へと心酔していた。
手桶の水で、汚れた雑巾を絞る。身動きの邪魔にならぬよう、ゆるくひとつに編んだ銀髪が、肩から垂れ下がってきた。立ち上がりざま、しずくを切った手で払いのける。
と、
「失礼。あの……」
戸口から、ためらいがちな声がかけられた。
侍女 ―― リリアは、反射的にふり返る。
「いま、お忙しいですか?」
開いたままの扉の前に立っていたのは、リリアにも見覚えのある若者だった。
年の頃は二十代になったばかりというところだろうか。細かい癖のある亜麻色の髪を、首の後ろでひとつに束ねている。細く引き締まった身体を包むのは、青藍の制服とたっぷりした外套。
「あなたは、セフィアールの」
それは相手の身なりを見ればすぐにわかることでもあった。だが彼女にこの若者 ―― カルセスト ―― は、もう少し異なる印象をもって記憶されている。
「お久しぶりです。その、俺……あ、いや私のことを、覚えておられますか」
「はい ―― あの、王都ではお救いいただいて、お礼も申しませず……」
リリアは完全にカルセストへ向き直り、深々と頭を下げた。
さっき一度払った三つ編みが、再び胸元へと落ちかかる。
一月ほど前のこと。フェシリアに付き従い王都へ上ったリリアは、建国祭の人ごみの中で、妖獣に襲われる奇禍にあった。そして危うく命を落としそうになったその時、最初に駆けつけてくれたのがこの若者、カルセストだったのである。
「いえ、あれはセフィアールとして当然の務めを果たしただけのことですから。そんな」
カルセストは、困惑したように数歩リリアへと近づいた。
そっと顔を上げて見返してみれば、まだどこか少年の雰囲気を残した面差しに、心底からとおぼしき戸惑いの表情を浮かべている。緑を帯びた灰色の瞳が、誠実そうな光をたたえてリリアを映していた。
「フェシリアさまでございましたら、甲板上で王太子殿下と御一緒にいらっしゃるはずですが」
なにかお伝えせねばならぬことでも?
問い掛けるリリアに、カルセストはかぶりを振る。
「そうではなくて、その……」
「騎士さま?」
言葉を濁すカルセストに、リリアはほっそりとした首を傾げる。虹の光沢を持つ銀髪が、角灯の光を浴びて鮮やかにきらめいた。硝子玉に似た透明な色の瞳が、疑問をたたえてカルセストを見上げる。
カルセストは幾度も言いよどみ、言葉を探すようにしていたが、やがてようやく口を開いた。
「もし、お時間がとれるようなら、少し話をさせて欲しいのですが」
「はなし……でございますか」
つっかえながら言ったカルセストに、少女はますます困惑を深めたらしい。形の良い眉がひそめられる。
カルセストは後ろめたげに視線を床に落とし、小さくうなずいた。
「その、亜人種のことについて ―― 」
その言葉に、リリアの両目がわずかに見開かれた。
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