<<Back  List  Next>>
 楽園の守護者  番外編
 ― 義務 ― 後編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ベルセリウス=トゥーリッキが初めて参加することとなった破邪は、倉庫街に大量発生した小型の妖獣を駆逐する任だった。
 船で運び込まれる様々な積荷を保管する倉庫は、星の海ティア・ラザとそこから流れ出す河から引き込まれた、運河近辺に固まって存在している。周囲に通常の民家はほとんどなく、商家の倉庫や船を造改修する船渠、あとは船乗り向けの安酒場や娼館などが並んでいる、あまり治安のよろしくない一帯である。
 逃げまどっているのは、仕事を終えたばかりの水夫や、荷の上げ下ろしをする日雇い労働者、あるいは酒場にいる酌婦らなどなど、見るからに堅気とは言いがたい人間ばかりだ。

「ゼイトゥーンとオーレルークは馬を後退させてこい。アーヴィングはトリフォスとレドリックを連れて反対へ回れ。クレーヴェ、アラヴァス、ジェルミナシオは民間人の待避だ! あとの者は行くぞ、『 ―――― 』の陣を使う!!」

 新騎士団長ゼルフィウム=ドライアの指示が、朗々とあたりに響きわたる。
 応じて弾かれたように、破邪騎士達が動き始めた。二人の騎士が全員の馬をとりまとめ、及び腰で現場を遠巻きにしつつ、民衆を遠ざけている一般の兵達へと預けに向かう。さらに三人が脇道を選び、妖獣の群を挟んだ向かい側を目指して駆け去っていった。逃げ遅れて右往左往している人々には、他の三人が手分けして声をかけ、その身を守りながら安全地帯まで誘導する。
 そして団長を含めた残りの六名が、群をなす妖獣のただ中へと果敢につっこんでいった。


 腹に響くような低い唸りを上げながら無数に空中を飛びまわっているのは、胴体だけで大人の拳ほどもある巨大な妖蜂ようほうであった。
 通常の蜂とは異なり尻の毒針はないのだが、その代わり手近な生き物に襲いかかり、鋭い口吻こうふんを突き刺しては体液を吸おうとしてくる。既に何名もの人間が身体中に群がられ、悲鳴を上げながら石畳を転げまわっていた。
「う、動かないで。いま助けますから!」
 手近な一人に走り寄ったベルセリウスは、厚い冬の上着をも貫いて管を刺している妖獣に対し、なんとか細剣の切っ先を向けようとした。しかし激しく振動する羽が邪魔なのと、恐慌状態になった被害者が暴れるのとで、なかなか狙いが定まらない。
 服を掴んで懸命に動きを止めようとするベルセリウスのすぐそばで、バチッと青白い火花が散った。その音と光に驚いて、思わず顔をあげる。
 いつの間にか傍らに、細剣を構えたアーティルトが立っていた。
 冬の弱い陽差しのもとでは黒く見える髪に、焦げ茶色の瞳を持つ青年騎士は、その隻眼でベルセリウスを見下ろす。
 淡い燐光を帯びた細剣レピアが、すっとなめらかな動きで下げられた。
 先程からベルセリウスが手こずっていた妖蜂の上を、細い刀身が軽く撫でるようによぎる。
 すると細剣のまとっていた白光が一瞬強く輝き、静電気のような火花が散った。触れるか触れないかといった位置にいた妖蜂が、青白い光に撃たれて痙攣する。そして四本の足をわななかせ、そのまま薄い紫煙をあげてぽろりと剥がれ落ちた。襲われていた人間の方はと言うと、切り傷を負うどころか服への焦げひとつ生じていない。
 どうやら厳密に狙いをつけて斬りつけなくとも、すぐ近くで術力を解放すれば、それだけでこの妖獣には充分であるらしい。
 こくりと唾を飲んで、同じように細剣を動かし、まだ残っている妖蜂の上へと刀身を翳した。意識を集中すると、白銀の刃が火花を放ち、妖獣の身体を灼く。
「やった!」
 思わず声を上げてふり返ったベルセリウスへと、アーティルトはそれで良いと言うように柔らかく笑ってみせた。そして次の瞬間、表情を厳しいものに改め、細剣を一閃する。
 連続して破裂音が生じ、二匹の妖蜂がくすぶりながら石畳へと落ちた。固まってうずくまっているベルセリウスと被害者は、妖獣達の格好の的となっているのだった。目先の妖獣と被害者に意識を囚われ、周囲への警戒を疎かにしていたことに気が付いて、ベルセリウスは慌てて立ち上がろうとする。
 が、アーティルトは身振りでそれを制した。まだ数匹とりついている妖蜂を指差し、そうして己は二人に背を向けて細剣を構える。
 守りは自分が固めるから、まずは目の前の相手を助けろと、そう態度で示したのだ。それを呑み込んだベルセリウスは、自身の力不足を実感するとともに、とにかくできるだけの仕事はこなそうと、残る妖獣へ注意を戻す。
 荷を積んだ車が何台もすれ違えるよう、広く取られた通りのそこここで、騎士達がめいめいに妖蜂を相手にしていた。一体一体は弱いが、なにしろ数が多いうえに動きが早い。
 二人のように、組んで互いの死角を補っている者もいれば、壁を背にして前方と頭上にのみ集中している者もいる。団長ゼルフィウムなどは、素早い足さばきで襲いくる妖蜂から身をかわしつつ、見事な太刀筋で次々と切り捨てていっていた。そうしながらも周囲に目を配り、時おり的確な指示を出している。
「だあっ、この、うっとおしいッ!」
 口汚い罵りを上げながら空っぽの手を振りまわしているのは、褐色の肌を持つ青年 ―― ロッドだった。
 こうも小さくて素早い動きをする相手だと、いつも使っている鋼の大剣などではとても役に立たなかった。いくら斬りかかったところで、到底当たるはずもない。ならば普通に腰の細剣を使えば良さそうなものだが、この男がセフィアールのレピアを振るうところなど、見たことがある者はほとんどいなかった。
「ッ、ぎゃぁぎゃぁ喚いてないで、しっかりしやがれ!」
 背中に何匹もの妖獣をとりつかせ、絶叫しながら逃げまわっている男を、ロッドは容赦なく怒鳴りつけた。そしてそのまま足を引っかけると、固い石畳へ乱暴にすっ転がす。
 不意をつかれてまともにひっくり返った男の上へとのしかかり、おもむろに右手を振り上げたかと思うと、素手で妖獣をはたき落とし始めた。常軌を逸した無茶苦茶なやりようだったが、騎士達はみな自分の仕事に手一杯で、役立たずの厄介者のことになど誰も注意を向けていない。かろうじてその行為に目を止めたのは、アーティルトとカルセストの二人のみだった。
 カルセストはあまりに無謀な試みに表情を引きつらせて絶句し、アーティルトは不思議な笑みを唇へのぼらせる。
 妖蜂へと振り下ろされるロッドの右手は、中指に白銀の指輪がはまっていた。セフィアールの証とされるその指輪こそ、騎士達の体内に根を張る植鉱物セフィアが体表に姿を現したものなのだ、と。そんな真実はセフィアの存在と共に、最上級の国家機密事項として秘されていた。抜けることも回ることもなく、騎士達の指を生涯飾り続ける、白銀のリング。それは星の海ティア・ラザの底にある地下施設で、台座に安置された『舟』内の液体に沈められた破邪騎士候補が、再び運び出され王宮の『叙任の間』へ戻される際に与えられる。
 ―― 否、むしろ作り出されると言った方が、より正確だろうか。
 その時、騎士団長じきじきの手によって、眠る騎士候補の中指の根元に、ぐるりと細い傷が刻まれるのだ。種から芽吹いたばかりで活性化している植鉱物セフィアは、その傷口から細い根を外部へと伸ばす。空気に触れると間もなく硬化し始める白銀の根は、素早く寄り合わされ中指へと巻きつけられた。そして四半刻もすれば完全に硬質化し、金属としか思えない質感を持つに至る。もちろん刻まれた傷もまた、破邪騎士としての回復能力によって、目覚める前に消えてしまう。
 そうして形作られる『指輪』こそが、体内に存在するセフィアが生み出す破邪の力を、体外へと放出するその道筋となるのだった。白銀の根を通じて体外へと導かれた破邪の力は、さらにその表面に接触している白銀の細剣レピアへと伝わり、そうして顕現する。
 指輪を填められるのが、右手でも左手でもなく『利き手』とされているのは、そう言った理由があるからだった。
 そして破邪騎士の標準装備が王家に伝わる特殊金属 ―― すなわちセフィアによって作られた、白銀の細剣であることもまた然り。セフィアこそが破邪の力の発生源であり伝導体であり、それなくして破邪騎士セフィアールの術力は発現しないのだった。
 ―― これを言い代えるならば。
 セフィアさえあれば、破邪の力を振るうことはできるとも解釈できる。
 利き手に填められた、白銀の指輪。それこそが体内より破邪の力を導き出す回路である。細剣はあくまで、それを使いやすく放出するための道具に過ぎない。
 故にセフィアの特質を知り、そして充分な訓練さえ積めば、指輪だけで術力を行使することもまた、けして不可能ではないのだ。
 振り上げられ、妖獣へと叩きつけられるロッドの右手。その中指を取りまくのは、破邪の力を生み出す植鉱物セフィアの根。
 妖蜂へと触れるその瞬間、指輪が白銀の光を帯び、手のひらに光の魔法陣が浮かびあがっている。ごくごく小さいその輝きは、手の陰に隠れて、余人の目に留まることはなかった。火花が炸裂する乾いた響きも、灼き焦がされた死体をはたきのける音に紛れ、誰の耳にも届きはしない。
 使うのであれば、最小限の術力ちからを最大限の効率で。
 常に暴走の危険を身の内に孕む男は、これまでも半ば本能に近い部分でそれを実行してきていた。そして真実を知った今となっては、さらなる努力と共に、己の肉体に巣くう存在との共存をはかっているようだ。
 すべての妖蜂を払いのけたロッドは、そのまま男の襟首を掴みあげ、引きずるようにして手近な倉庫へと運んでゆく。
「しばらくそこで震えてろ!」
 扉を開けて内部へ放り込むと、妖蜂が入り込まぬうちに乱暴に閉ざした。
 それから新たな要救助者を見つけるべく、戦いの場へと再び視線を巡らせる。


 襲われていた民間人がようやく全員助け出され、通りにいるのは破邪騎士のみとなった。
 しかし飛び交う妖蜂の数はまるで減ったように見えない。石畳には多くの死骸が転がっていたが、それでも未だ数百匹が重低音の羽音をたてて騎士達を取りまいていた。
「ったく、誰が持ち込んだか知らねえが、いい迷惑だぜ」
 ロッドが舌打ちをして空を見上げる。
 この妖蜂は、幼虫の間はある種の根菜を食料としていた。ひとつの根菜にひとつの卵が産みつけられ、根菜の生長とともに内部で幼虫も成長してゆく。そうして時期が来ると蛹となり、羽化する。ある意味大きささえ除けば、普通の昆虫とさほど変わりない生態を持っていた。通常はこれほど大量に発生することもないため、仮に襲われたところで滅多に命に関わったりもしない。せいぜい運が悪かったと見なされて、わざわざ破邪騎士の動員を願うほどでもない、そんな種類の妖獣である。
 しかし今回は、その運が悪すぎたと言うべきか。
 近在する複数の農家で収穫され、一箇所に集められ、そうして倉庫で保管されていた根菜のことごとくが、この妖蜂に侵されていたのである。たまたまその地方で普段より多めに発生していたものを、わざわざ人の手によってひとつ所に集積し、しかも都市部へと運び込んでしまった訳だ。扱った商人にとっても大損害だろうが、対応しなければならない破邪騎士達からしても、どうしてこんな面倒な羽目にとこぼしたくなる厄介事だった。
 盛大にぼやきながら近くに来たのをはたき落としているロッドをよそに、他の騎士達は素早く視線を見交わし、お互いの立ち位置を確認していた。ロッドと己を守ることで精一杯になっているベルセリウスを除く十二名が、道の中央と両脇に立ち、三名ずつ四列の綺麗な隊列を作りあげてゆく。
 前後の二列がそれぞれ向かい合うように内側を向き、一番外側の列がちょうど妖獣の群を挟み込む位置になっていた。時おり妖蜂の攻撃により形が乱されるが、それもすぐに修正される。
 やがて、道いっぱいに広がった長方形が、妖蜂の群と重なるように完成した。

「いくぞ!」

 陣の中ほどに立つゼルフィウムが、合図の声をあげる。
 全員がいっせいに細剣を大きくひと振りし、そうして切っ先をまっすぐ上へ向けて、顔の前に掲げた。刀身を包み込むように、反対の手のひらをそえる。

『 ―――― 』

 複雑な音韻と独特の旋律を持つ呪文が、一分の狂いもなく開始された。
 それぞれに異なる声質を持ついくつもの喉が、まったく同じ発音を紡ぎだし、重なり合って不思議な音響を生んでゆく。
 並び立つ細剣が淡い光を放ち始め、それはじょじょに輝きを増していった。
 動きを止めた騎士達へと、妖蜂が襲いかかろうとする。しかし発せられる白光に阻まれるかのように、その動きは急速に乱れた。それでも何匹かは無防備に立つ身体に取りつき口吻を突き刺そうとする。が、あるものは素早く走り寄ったロッドの手により叩き払われ、離れた位置にいたものもその指先で弾かれた飛礫つぶてによって、あえなく撃ち落とされていた。
 しかし目を閉ざして集中している騎士達は、まったくそのことに気がついていない。ただ一人状況に乗り遅れ、おろおろと術が構築されていくのを眺めていたベルセリウスと、さらに離れた場所で手をこまねいている一般の兵士達だけが、それを認めて目を見張っていた。
 呪文の声が高まるにつれ、細剣の光はますます強くなり、放電の糸をまとい始める。パリパリというかすかな音が空気を鳴らし、息を呑んでつっ立つベルセリウスの、頬の産毛が逆立った。
 次の瞬間、全員が一糸乱れぬ動きで剣を持ち替える。
 そうして逆手に握りしめたその切っ先を、足元の石畳へと突き立てる勢いで振り下ろした。
 鋭い切っ先が地面に触れると同時に、眩い閃光が八方へと走る。
 前後左右、そして斜めに立つ者同士が持つ切っ先を、稲妻を思わせる光の帯が互いに繋ぎ合った。
 それはまるで、光で編み上げられた巨大な網にも見えて。

『 ―― !』

 最後の一声が発せられると、その網を構成する放電が一気に上空へと駆け昇った。破邪騎士達の姿をもその内に呑み込んで、連なる巨大な光の檻が立ち上がる。
 あまりの眩しさに、ベルセリウスはとっさに顔を背けていた。
 ゆえにその檻に捕らわれたすべての妖蜂たちが、既に地面に落ちていた死骸もろとも跡形もなく灼き滅ぼされてゆくその光景を、彼が目にすることはなかったのである ――


 やがて閃光が消えると、まるで何事もなかったかのようにあたりはいつも通りの様相を呈していた。
 道の脇に積まれていた木箱や樽が倒れたり、あちらこちらに逃げる人々が落としていった持ち物が散乱しているのは、まあしかたのないことだろう。
 そもそも破邪騎士の能力は、基本的に妖獣に対してのみ影響を及ぼす。器物に対する気遣いはもちろんのこと、本来ならばわざわざ一般人を逃がす手間さえ、かけなくても良かったのだが。
 しかし大規模な術を行うには綿密な人員配置と正確な呪文、そして精神を集中させる時間が必要である。故に恐慌をきたしている一般人がそば近くにいると、術を成功させるのに支障をきたすおそれがあった。
 ちなみに、真っ先に集中力が足りないなどと文句をつけそうなロッドには、また別の考えが存在していたりする。
 もしも襲われている一般人の中に、亜人種が混じっていたら、と。
 それは指揮をとるゼルフィウムを含めたほとんどの破邪騎士達が、最初から考えつきもしない、しかし充分にあり得る『もしも』であった。
 ともあれ。
 目に見える範囲にいた妖獣は、これですべて滅ぼすことができた。
 多少の取りこぼしはあったとしても、前述の通り、一匹二匹が相手であれば、さほどの被害は発生しない種類である。
 他にできることと言えば、同じ事件が再発しないよう倉庫の持ち主から根菜の産地を聞き取りし、同じ地域から仕入れられた作物を追跡して、幼虫が潜んでいないか確認するぐらいであろうか。
 それから特定の毒こそ持っていないとはいえ、複数ヶ所を刺された人間にはやはりきちんとした治療が必要だろう。それにたとえ傷を負ったのが一ヶ所でも、相手は妖獣だ。どんなやまいを媒介するか知れたものではない。
 今回の負傷者は、特に低所得者層が多くを占めているようだった。満足に医者にもかかれない人間とて含まれているだろう。そういった人々には、国から然るべき援助が与えられる制度もある。
 まずは手分けして負傷者の確認と、倉庫の調査から始めるべきか。あたり一帯の片付けについては、地区ごとに配備されている一般の兵達にまかせれば良い。
 そう結論して指示を出してゆくゼルフィウムに従い、一同は迅速に動き始めた。
 しかしまだ物慣れないベルセリウスは、具体的にどう行動すればいいのか見当がつかず、ただうろうろとあたりを見まわすしかできないでいる。
 と、そんな彼の肩へと優しく手が置かれた。はっとしてふり返ると、アーティルトが微笑んでいる。
「あ、アーティルトさん……」
 平民出身とはいえ騎士団内での評価が高く、また小者達に対してさえ礼節をわきまえた穏やかな態度で接しているアーティルトについては、ベルセリウスもごく自然な敬意を抱いていた。身体ごと向き直って、深く腰を折る。
「さっきは、ありがとうございました! おかげであの人を助けられたし、怪我もせずにすみました」
「…………」
 まっすぐに礼を述べられて、アーティルトは柔らかくその隻眼を細める。
 そうして再び肩に触れて顔をあげさせると、その背に腕を回して方向を変えさせた。促されるままに足を動かすと、ちょうど歩き出そうとしていたカルセストと行き合う形になる。
 アーティルトが、ひょいひょいと胸の前で両手をひらめかせた。ベルセリウスにはまったく意味不明なその仕草を見て、カルセストはああと納得したようにうなずく。
「俺とアートさんは、これから負傷者に怪我の具合や身元を聞いて、資料にまとめるんだ。お前もいっしょに来て手伝ってくれ」
 明確な行動指針を示されて、ベルセリウスはほっとした表情になった。やるべきことを命じられれば、それをこなすだけの力量はどうにか持っている。だが自分で考えて判断できるようになるまでには、まだまだ多くの経験が必要なようだった。
「えっと、じゃあ兵に言って、詰め所から紙と書くもの持ってこさせますね」
 とりあえず思いついたことを実行するべく、急いで歩きだそうとする。
 その時だった。
「兄ちゃん!」
 まだ幼い少年が、遠くの方から走り寄ってきた。もっと近くにいる他の騎士達には目もくれず、まっすぐに彼らの方を目指している。
 おそらくは六つか七つか、それぐらいの年頃だ。その背丈がまだ大人の腰ほどしかない。やせ細った手足はこの季節にも関わらずほとんどむき出しで、薄黒く汚れていた。身につけているものも、古着とは名ばかりのぼろきれ同様の代物で、やはりひどく垢じみている。くしゃくしゃになった髪の毛にいたっては、もとがどんな色なのかすら判然としなかった。
 界隈にたむろする、宿無しの浮浪児である。こう言った子供達は、整備された市街地には居ることができず、たいていは治安の悪い下町や歓楽街などに住み着いては、連なる店の雑用や荷運びなどを手伝ったりして、なんとか糊口をしのいでいる。
 アーティルトやロッドはしばしばそういった地域に出入りし、上下の分け隔てなく席を並べて共に酒を飲んだり、適当にぶらついて通りすがりの人々とたわいないやりとりを交わしたりしていた。そのためそんな子供達とも、親しく顔なじみになっている。カルセストもたまに付き合ってはいるのだが、まだ広く顔を知られるほどではなかった。
「片目の兄ちゃん、ねえちゃんが……ッ」
 本来ならば浮浪児の方からは、とても声をかけたりなどできない破邪の騎士だが、どうやらこの子供はアーティルトと直接の面識があるらしい。ただ彼だけを目に映して、べそをかきながら何かを訴えようと、まろぶように駆けてくる。
 そうして周囲を見ていなかった子供は、間近で急に動いたベルセリウスに、気付くのが遅れた。
 いっぽうベルセリウスはというと、目の前に用意されたやるべき仕事に気を取られており、自分の半分もない小さな子供の存在など、まるで目に入っていなかった。
 結果 ――
 二人は真正面からぶつかった。
 さすがにベルセリウスは、よろめいただけでその場に踏みとどまった。そして子供の方は、反射的にだろう、腕を伸ばしてベルセリウスの衣服を掴み、ぶら下がるようにして身体を支えた。
 子供の顔は、涙と鼻水まみれになっている。幾度もすすり上げ、手で擦ったのだろう。もともとの汚れと入り交じって、顔もそして服を掴んだ手もどろどろである。
「うわ……ッ」
 ベルセリウスは、反射的にその手を振り払っていた。
 氏素性も知れない下町をうろつく浮浪児など、貴族の子弟であるベルセリウスの目には、野良犬あたりとほとんど変わらないように映った。しかもいつ身体を洗ったかも定かではなく、得体の知れない汚れにまみれた手で触れられるなど、生理的に耐えられない。
 おかしな病気でも持っていたらという思いが脳裏をよぎり、払うのに使った手を無意識に服の裾でぬぐった。
 と、その肩に、軽く手が置かれる。
 先ほどアーティルトに呼ばれた時のことを思い出し、用があるのかとふり返った。
 開きかけた口が声を発するより早く、褐色の何かが視界に閃く。

 バシィッ

 乾いた鋭い打撃音が響きわたり、一瞬あたりが静まりかえった。
 頬を襲った痛みと熱と、そして首の筋を傷めるかと思うほどの強い衝撃に、ベルセリウスはたまらずよろめいた。かろうじて転ぶのは免れたが、それでも大きく足をもつれさせてしまう。
「な ―― 」
 何が起きたというのか。
 わんわんという耳鳴りと共に、頬が焼けるように痛む。口の中を切ったのか、金臭い味が舌の上に広がった。
 ふらつく頭をなんとか止めようとしながら、星が散る目を懸命に開き、前を見る。
 その耳に、低く、押し殺した声が届いた。

「……ふざけるな」

 それはけして、声高に張りあげられたものではなかった。
 むしろ静かな、つとめて感情の色を排したかのような、そんな口調だった。
 しかし、それを発した相手は。
 表情はない。
 いっそ無機質さすら感じさせるほどに、顔の筋肉はその機能を放棄している。
 ただ、その瞳が。
 濃い褐色の肌にはめ込まれた、真夏の海を思わせる双眸が。
 今はまるで激しく燃える炎のように、恐ろしく輝きながらベルセリウスを映していた。
 炎とは、温度が高くなるほどにその色を変えてゆくという。赤よりは橙、橙よりは黄色、そして白から青へと変じるにつれ、その発する熱は高温になってゆくのだと。
 いまベルセリウスに向けられている両目は、まさにそのもっとも高い熱を孕んでいた。常ならば豊かな水を想起させる蒼い瞳に、いまはどこまでも冷酷な、凍りついた炎とでも呼べる峻厳な侮蔑の色をたたえている。
 これまで経験したことのない、殺伐とした凄みのある空気を向けられて、ベルセリウスは震え上がった。膝から力が抜けそうになったのを、背後から手を伸ばしたアーティルトがかろうじて支えてくれる。掴まれた腕の温かい感触に、思わずすがりつきそうになった。
 いったいどうして、こんな目を向けられなければならないのか。
 ただ怖れ混乱しているベルセリウスに、ロッドはぎりっと奥歯を噛みしめた。

「……大人は」

 地を這うような声が、その喉から絞り出される。

「大人は、ガキを守るためにいるもんだろうが。手前ぇも立派なセフィアールになるとかほざくぐらいなら、ガキの一人も守ってからにしやがれ」

 掠れ潰れた、聞き取りにくい悪声。
 けれどそれは、なぜか聞くべき者の耳に、重くそしてはっきりと響いて ――


 それだけを吐き捨てると、ロッドはふいときびすを返した。
 そうして振り払われたはずみで尻餅をついていた少年の傍らへと、膝を落としてかがみ込む。
「どうした、何があった」
 無頓着な仕草で汚い頭に手を乗せ、ぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でている。
 子供はロッドのことも知っていたらしい、安心したのかせぐりあげるように喉を鳴らし、ボロボロと新たな涙をこぼしている。
「ね、ねえちゃんが、ねえちゃんがおれたちをかばって、あいつらにいっぱい刺されて……」
「そうか。どこにいる」
 言いながら、ロッドは腕を下ろすと子供の腰に回した。そうして立ち上がりながらひょいと軽く持ちあげて、肩の上にその尻を乗せる。
 子供は驚いたように手をばたつかせると、そのまま近くにあった頭部に捕まり、つりあいを取った。安定したことを確認すると、ロッドは無言で子供が走ってきた方向へと大股に歩み始める。この寒い日に裸足の子供に合わせるよりも、それはよっぽど早い移動速度だった。
 無言で遠ざかっていく背中を、ベルセリウスは呆然と見送っていた。
 助かったという思いと、どうしてという疑問がその胸中を渦巻いている。
「…………」
 そんなベルセリウスからそっと手を放し、アーティルトは複雑な色をたたえた瞳で小さく息を吐いた。
「 ―― その、大丈夫か?」
 カルセストがようやくそう声をかけた。
 怯えている後輩を慰めるべく、そっとその背を撫でてやる。
 思い出したように震え始めた若者に、カルセストもまたため息をついていた。ぽんぽんと子供をあやすように、拍子を取って背中を叩く。
 アーティルトが、腰につけた物入れから清潔な布と、小さな器に入れた塗り薬を取り出した。ツンと鼻を刺す臭いがする塗り薬を布に伸ばし、ベルセリウスへと差し出す。
 消炎効果があるそれを受け取って、ベルセリウスはありがたく頬へとあてた。よほど強い力で張られたのか、熱を持った頬は、早くも赤く腫れあがり始めている。もともとが色白なだけに、それは見るからに痛々しかった。
「……まったく、あの男は何を考えているんだ?」
「仲間に対して手を上げるだなんて……正気の沙汰とは思えんぞ……」
 遠くの方でひそひそとささやき交わす声が洩れ聞こえてくるが、それもどこか力ない口調だった。どうやらみな、あまりに威圧感のあったその態度に、どこか気を呑まれてしまったようだ。
 そんな騎士達の言葉を聞き流しながら、カルセストはぽつりと呟いた。
「……珍しい、ですね」
「…………」
「なんて言うか、あの男が、あんなふうに怒るなんて」
「…………」
 カルセストの言葉に、アーティルトがかすかなうなずきを返した。
 粗野で、口が悪くて。手も早ければ、いつも他人の揚げ足を取ることばかり考えているような、底意地の悪い乱暴者。それが騎士団内で噂される、あの男の一般的な評価だ。
 けれど深く関わりを持ってみれば、それは誤りなのだと判ってくる。
 あの態度は、意識して装われた、一種の見せかけなのだ。
 実際のところ、あの男はむしろ冷静な部類に入るだろう。感情に流されて我を失うことなど、まずめったにない。たとえ声を荒げようと、足や手が出ようと、そこにはいつも計算された『余裕』があった。思わず答えに詰まるような意地悪な物言いは、相手の深層心理を暴きたて、その根底にある考え方を自覚し、より深く思考させるためのもの。向けられた言葉が耳障りだと匙を投げ、そこで自省することを止めてしまう程度の人間は、考えなしの愚か者だと判断し、むこうのほうから見切りをつける。あれはそういった男なのだ。
 だから。
 常のロッドであれば、騎士団員に対しあそこまで腹立ちをあらわにすることは、ほぼなかった。たとえ騎士達が税金を納めていない ―― すなわちこの国の『人間』の範疇には数えられないと見なす下町の住人や浮浪児達を邪険に扱っても、彼はただ蔑むような冷たい一瞥をくれ、ちくりと皮肉な言葉を投げつける程度で済ませてしまう。
 それはけして、彼らの行為を容認しているのではなくて。しょせんこいつらには何を言っても無駄なのだ、と。最初から期待すらせぬまま、見限って突き放しているに過ぎない。
 あの男なりの、それが人との距離のとり方なのだ。
 それなのに……
 先ほどのロッドは、ベルセリウスに対して本気の怒りを見せた。
 いきなり頬を張り、真正面から侮蔑したその表現方法は、確かに少々手荒だったかもしれない。だがそれでも、今後の成長を促すという長期的な視点から見れば、黙って見放しているよりも、ずっとずっと相手のことを考えたやり方だ。
 そう思ってふり返ると、あの乱暴な男が拳で殴り倒すのではなく平手ですませたというあたりも、彼にしてはかなりの手加減が入っていたのではないかと思えてくる。
 そんなことを小声と指文字で言い交わしていると、黙ってうつむいていたベルセリウスが、小さく息を吸い込んだ。
 はたとその存在を思い出したカルセストは、落ち着いたかどうか確かめるように、その顔をのぞき込む。
 まだわずかに潤んだ濃緑色の瞳は、何かを探すように、頼りなく揺れていた。
 ほつれ乱れた赤銅色の髪が、一筋二筋、顔に貼りついている。
 やがて、
 彼はゆっくりと言葉を選ぶように、喉の奥から絞り出した。
「むかし……」
 脈絡のないその単語に、カルセストとアーティルトはちょっと首を傾げる。
 そんな二人の反応になど気付かぬまま、ベルセリウスはどこか遠いところを見ているような目で、先を続けた。
「叔父さんが、よく言ってました。『大人には、子供を守る義務があるんだからな』って……」
 優しくて子供好きだったあの叔父は、男爵家の庭で幼かったベルセリウスを膝に乗せながら、破邪騎士として経験してきた、心躍らせられる様々な活躍を聞かせてくれた。そしてその中で、いつもいつも、口癖のように繰り返していたのだ。大人は子供を守らなければいけないと。そう言っては、自分や通りすがる見知らぬ子供達を、いとおしそうに眺めていた。
 まだ子供だったベルセリウスには、言葉の意味が難しすぎて、正直よくは判らずにいた。
 ただその言い方が、なんとなく格好良く感じられて。意味も理解せぬまま回らぬ舌で、小鳥がするように口真似していたものだった。
「あの子も、子供……なんですよね。どんな生まれでも、両親なんていなくても」
 すっかり忘れかけていたあの言葉は、もしかしたらそういう意味だったのだろうか。
 たとえ貧しくても、汚くても。それはけしてあの子の責任ではなくて。
 産まれる先を、子供は選ぶことができず。自分はたまたま貴族の親を持ち、あの少年は住む家もなく路上で生きざるをえなかった。
 あるのはただ、それだけの違いに過ぎないのだろうか。
 視線を落として呟くベルセリウスの様子に、カルセストはどこか既視感のようなものを覚えていた。
 いつのことだったか。良く似た言葉を耳にした気がする。
 しばらく脳内の記憶をたどってみて、ふと耳の奥に甦る声があった。

『大人と、いうのは、な……子供を守る義務が、あるんだ』

 それは、深い深い夜の闇のただ中で。
 小さな角灯が放つ、ほのかな光に照らされながら。
 乾いて感情の色のうかがえない声が、淡々と静かに綴ったその言いまわし。
 あれからずいぶんと時が過ぎた今になっても、わずかな抑揚の変化まで、はっきりと思い出すことができた。
 その言葉を発した、本人から直接聞かされたものではなかったけれど。
 おそらくはあの男が、繰り返し繰り返し、何度も己のうちで再生し続けてきた……遺言。

「なあ、ベルセリウス」
「……なん、ですか」
「行方が判らなくなった、その叔父さんって……」
「はい」
「いなくなったの、いつ頃だった」

 問いかけたカルセストに、ベルセリウスは目をしばたたかせた。
 小さく鼻を啜ってから、頬を押さえているのとは逆の手で、順に指を折っていく。
「確か、オレが五つぐらいの時だったから。……ええと、もう十二三年になると、思います」
 ベルセリウスは十七になったばかりだから、確かにそういう計算になるのだろう。

 ―― 十二三年前。

 あの男が、十年近く前だろうと言っていたのが、一昨年の夏のこと。
 くわしい記憶は、既に曖昧だとも口にしていた。

 計算は、合う ――

「…………」
 アーティルトがその視線を上げ、ロッドが姿を消した方向を見やった。
 そうして、ぽん、とベルセリウスの肩を叩く。
 無言で穏やかな微笑みを向けられたベルセリウスは、戸惑ったように口のきけない先輩騎士を見返した。それから助けを求める視線で、カルセストの方を見る。
 カルセストもまた、同じように笑ってみせた。
 その表情は、どこか苦さと、そして切なさを含んだそれになってしまったけれど。
「あの男は、さ」
 この若者には、言ってやらなければいけない。
 そんなふうに思って、口を開いた。
「あれでも子供とか、下町の住人とか……そういった弱い立場にある人間のことは、たとえ身体を張ってでも守りに行く奴なんだよ。確かに態度は悪いし、口も悪いし、すごく……すごく判りにくいんだけど」
 それでも、この若者には誤解することなく、あの男の本質を理解してほしいから。
 だから、カルセストは言葉を探す。
「野蛮人とか、厄介者とか言われてるけど。だけど、さ」
 黙ったまま耳を傾けているベルセリウスに、にこりと笑いかける。
「そう言うところは、見習って良いと思うんだ」
 あ、でも手の早さとか礼儀知らずなとことかは、真似しちゃ駄目だからな。
 その点は重要だと、思い切り力を込めてつけ加える。
 そんなカルセストの話に、ベルセリウスはしばし考えこんだのち、こくりとひとつ、うなずいた。
 いきなり殴られた腹立たしさと、感じた恐怖、それから己の態度と、叔父やカルセストから告げられた内容などを考え合わせて、いろいろ内部で折り合いをつけたらしい。
 そんな二人のやりとりを、アーティルトはなごやかな眼差しで見守っていた。
 それからおもむろにパン、と両手を打ちあわせる。
 その音にそろって振り返った二人へと、隻眼の青年は手のひらを上にむけ、あたりの様子を示してみせる。そこにはてきぱきと立ち働く破邪騎士達と、散らかった物を片付け始めている一般の兵士の姿があった。
「……あ!」
 二つの口から同時に、しまったという声があげられる。
 会話に気を取られて、すっかり本来の仕事を忘れてしまっていた。
 慌てて二人は動き出そうとし、しかし何をやるはずだったのかがとっさに思い出せず、わたわたと意味もなく両手を振りまわしている。
 先輩風を吹かせていたカルセストも、やはりまだまだ修行が足りていない。良く似た二人のうろたえぶりに、アーティルトはくすくすと笑いながら、指示を出してやるべく石版と白墨を手にとるのだった。


*  *  *


 ―― カルセスト=アル・ディア=ヴィオイラ=クラウス子爵は、継承権を持たぬ一下級貴族の三男の身から、国家に貢献した様々なその功績を評価され、王より新たな爵位を賜り正式な貴族として大成した、立志伝中の人物である。
 当時は低く見られがちだった亜人種の地位向上に力を尽くしたり、のちには破邪騎士団の団長にも任命されるなど、その名は多くの文献に残されている。ことに自ら率先してあまたの優秀な後進を育てたことは、彼を語るうえで外せない部分であった。
 第十九代国王エドウィネル=ゲダリウスの治世下において、破邪騎士団セフィアールはその門戸を大きく広げ、下級貴族から平民に至るまで幅広い人材を受け入れるようになった。そしてカルセストはそんな立場も性格も異なる様々な騎士見習い達に対し、まだ一介の破邪騎士だった時分から熱心にそれぞれの特質を見極め、ひとかどの人物となれるよう丁寧に教え導いたのだという。
 そんな彼の代に定着した破邪騎士の基本方針のひとつに、『子供は未来への希望であり、なにをおいても守るべし』というものがある。
 そのような方針が生まれるに至った、そのいきさつについて、公式記録が語ることは何もない。
 しかし……
 後世に名すら残らなかった、夭折したたった一人の破邪騎士。
 そんな人物が命をかけて救った子供が、のちに国の有りようさえをも変えていったのだという、そんな事実を。
 彼、カルセスト=ヴィオイラは、生涯深くその胸に刻んでいたのであった ――

(2012/09/01 00:37)
<<Back  List  Next>>



本を閉じる

Copyright (C) 2013 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.