これはチャンスだ、と。
青年 ――
那州崇志は心に強くそう思った。
目の前にあるのは、漆喰造りの古い蔵だ。金具が錆びた観音開きの扉の前に、ぼんやりとした影が
凝り揺らめいている。
どす黒く濁った、もやの塊のようなものが、人の姿をかたどって佇んでいるのだ。
それは断じて、この世の存在ではなかった。
崇志が身を置く呪術者の世界に属している、魑魅魍魎の
類であった。
ぺろりと、緊張に乾く唇を舌で湿す。
彼がやらなければならないのは、『それ』をこの世から滅し去ることだった ――
◆ ◇ ◆
そもそもの起こりは、さる旧家が蔵の中身を処分しようとしたことに始まる。
遠くさかのぼれば、戦国の時代から連綿と続くという
粕原家。そこは二十一世紀になった
現在の代にも、そこそこの地所や家作を残した名家として、その面目を保っていた。広大な日本家屋の敷地内には、いくつもの蔵が建っており、中には代々の当主が蒐集してきた古美術の珍品名品が収められているという。
今回はそのうちのひとつを開き、中身を売却しようとしたらしい。
当代の主である
粕原紘紀はまだ三十半ばと年若く、骨董の持つ伝統や歴史、
侘寂といったものには、まったく興味を示さない人物だった。彼にとって蔵の中身とは、高く売れるかそうでないかの価値しか認められず。手がけている事業で少々まとまった現金が必要になったため、いくつか手放すことにしたのだと。
ところが、である。
それなりに信頼がおけるという骨董商を紹介してもらい、蔵の中身を確認し始めたあたりから、異変が起こり始めた。
最初は蔵の中で、いるはずのない人影のようなものを見かけただけだった。その時は骨董商と二人、顔を見合わせた程度で、気のせいだと片付けていたのだが。
しかしざっと品物を見つくろって、今日のところはこれぐらいで、と蔵を出た瞬間。彼らは背筋を突き抜けるような強い悪寒を感じたのだった。
そしてその晩から、悪夢が始まった。詳しいことはなにも覚えていないのだが、毎晩毎夜ひどくうなされ、起きた時には全身びっしょりと冷や汗をかいている。飛び起きた呼吸は荒く、布団を握りしめる手は細かい震えが止まらなかった。なにかひどく恐ろしい思いをしたことが確信できるのに、いったい何を見たのか具体的な内容は、闇で塗りつぶされたかのように暗く覆われ、まるで思い出すことができないのだ。
変事は寝ている間だけではなかった。なにもないところでつまずいたり、頭上から物が落ちてきたり、あるいは階段を踏み外したりといった出来事が連続したのだ。不注意からと言ってしまえばそれまでだが、それにしても頻度が高すぎる。
なによりも、共に蔵に入った骨董商の身にも、同様の出来事が起きているということだった。
これは、なにかがあるのではないか。
古くから続く旧家の出だけあって、紘紀はこの世の常ならぬ存在に対して、多少の理解があった。それは、もしかしたら……と思う程度のものでしかなかったが。それでも長く続く家の歴史の中で、彼はそういった類に対する
伝手のようなものを聞かされ育っていた。
そうして話は、崇志へとまわってきたのである。
◆ ◇ ◆
―― もともと、粕原家が繋がりを持っていたのは、崇志の師匠筋である篠田という拝み屋であった。彼もまた、それなりに古くから続く呪術者一門の末裔だったが、しかし現在ではかなりの高齢になっていた。崇志は幼い頃にその元へと弟子入りし、何年も厳しい修行に耐えてきたのである。
最近になってようやく、一人での仕事を任されるようになってきていた。
もっともこれまでのそれは、簡単な護符作りや新築の家の方位見であったりと、地味なばかりで必要なのはせいぜい根気といった内容がほとんどで。
今回も、悪いことが続くそうだから、ちょっと行って様子でも見てこいと言われたのが実状だった。しかし半ば渋々足を運んでみたところ、そこには実際に
障りを引き起こしている代物が、確かに存在していたのである。
もしもこれをうまく除霊できれば、自分の株は一気に上がる。師匠の覚えもめでたくなるであろうし、対外的に名を売る良い機会にもなる。
崇志は興奮を隠せずに、常人の目には映らぬ黒い影を見すえた。
ゆらゆらと微かに揺れる影は、まだこちらに対しては何も関心を向けていないように見える。不意さえつければ、いっきに祓ってしまえそうだ。
蔵の入口を凝視して身構える崇志に、背後に立っていた紘紀が不安げな声をかけてくる。
「ど、どうだね」
その言葉に、崇志は依頼人の存在を忘れていたことに気が付いた。興奮のあまり、つい冷静さを欠いていたようだ。
小さく息を吐いて、依頼人を振り返る。
紘紀の様子は、ちょっとした見ものだった。中肉中背ながら、名家の当主に相応しく品のいい雰囲気を漂わせた男だ。しかし細面の端正な面立ちが、いまは様々なもので台無しになっている。半袖のポロシャツにスラックスといった服装をしており、むき出しになった腕のあちこちに絆創膏や包帯が見えた。首から上も、頬にはガーゼが貼られているし、左目は眼帯で覆われている。ひとつひとつの傷はそうひどくないようだったが、あまりにも数が多かった。おまけにあらわになった右目の下には、くっきりと深い隈が刻まれている。相当に参っていることが見受けられた。
まだ二十歳そこそこの崇志に対して、隠すことなく縋るような態度を見せているのが良い証拠だ。
拝み屋の心得その一。依頼人にはできるだけ自信ありげに見せること。間違っても不信感を抱かせるような態度を取ってはならない。
師匠から口酸っぱく言い聞かされたことを思い出し、ことさら真摯に見えるよう表情を取り繕う。
「蔵の入口に ―― 」
意味深長に言葉を切って、すっと視線を蔵へ戻す。背後で紘紀が息を呑むのが聞こえた。
「邪悪な影が見てとれます。とても、良くないモノです」
おごそかに告げる。
そうして指を揃えた両手の人差し指と親指をつき合わせ、できた三角形越しに黒い影を透かし見た。そうすると普通に眺めていた時よりも、もやがわずかに収束したようになり、
人形の輪郭がはっきりする。
伝わってくるのは、強い恨みつらみの念。なにに向けられた怨念かは判らないが、放っておけば事態はますます悪化するだろうと予測できた。
ゆらり、と影が揺れる。
目鼻立ちもはっきりしないそれは、明らかに周囲の様子を認識し、標的を探し求めていた。
顔を会わせてすぐに身を守るための護符を渡しておいたからか、今は紘紀の所在がつかめずにいるらしい。だがそれも時間の問題だといえた。護符には効力の限界もあるし、いつまでも ―― たとえば風呂に入る際などにまで ―― 持ち歩くわけにもいかないからだ。
これはもう、この場で除霊を行うしかない。
そう心に思い定めて、崇志は大きく息を吸った。
「術をとり行います。準備をするので少し下がっていてください。恐ろしければ、席を外していただいても構いませんが」
その言葉に紘紀は迷ったようだった。だが見えない場所で決着がつくことに対する不安と、そして幾ばくかの好奇心が勝ったのだろう。崇志がやることを見物すると決めたらしく、数歩後ろにしりぞいて見守る体制に入った。
崇志自身が持つ術力はというと、それなりのレベルにはある方であった。
これは自負だけではなく、師匠からのお墨付きももらっている。
少なくとも、ある程度の手順さえ踏めば、略式でもそれなりの力を行使することができた。
実際、現在の崇志の服装などは、いかにも拝み屋然とした形式を整えたそれではなく ―― 薄色のインナーの上からチェックのコットンシャツを羽織り、足にぴったりとしたジーンズにスニーカー履きといった軽装だ。若干長めにした癖のある髪は、生来から色素が薄いため脱色したような栗色をしている。これは術者の間ではそう珍しくない色だ。瞳は光の強い赤茶。明るい茶髪と相まって、どうしても軽薄な若造のように見られがちなのが悩みの種だったりする。
本当ならば、依頼人に安心感を与えるためにも、もう少しそれらしい格好を心掛けるべきかもしれない。だが髪を染めたりするのは、
穢れを忌む術者としては逆に避けたい事柄だったし、今どき着物などで出歩くのも羞恥心が邪魔をする。だいいち崇志に和装は似合わなさすぎた。
そんな訳で彼は、ごく現代の若者らしい装束で祓えの儀式に臨んでいた。
葉を落とした木の枝で、蔵から少し離れた地面に四角い呪陣を描いてゆく。内部に撒くのは、様々な香木の欠片や、色をつけたもち米だ。さらに陣の四隅には、割った竹に和紙を挟んだ
幣串を立てて結界とする。
手前には、やはり白木で作った、腰丈の祭壇を設置した。左右に
紙垂をつけた榊を置き、塩を盛った皿と御神酒を満たした
瓶子、香炉や呪符を並べる。
香炉に火を入れると、
馥郁とした芳香があたりに広がった。
その香気を胸一杯に吸い込んで、軽く両目を閉じる。両足を肩幅に広げ、全身から力を抜きさった。
そうして、
長く息を吐きながら、精神を統一してゆく。
胸の前で、音高く両手を打ち合わせた。
それだけで場の空気の色が変わる。
ピンと張りつめた空気が、あたり一帯を占めた。
「
高天原に
神留坐す
神漏岐神漏美の
命を
以ちて ―― 」
高く、低く。
神霊に捧げる
祝詞を奏上する。
薄く半眼にした目に、揺らめく影が映った。
蔵の前に立っていた影が、ゆらりと前へ動く。
ゆらり、ゆらりと。
香炉の煙に
誘われるように、少しずつ地面に描いた呪陣へと近づいてくる。
「
皇親 神伊邪那岐の
大神 筑紫の
日向の
橘の
小門の
阿波岐原に
禊祓ひ
給ふ
時に
生り
坐せる
祓戸の
大神等 ―― 」
揺れる影の姿が、幣串の間を抜け、呪陣に入った。
実体を持たず、直接に地を踏むわけではない影は、土に描いた呪陣を消すこともなく、ゆっくりと進んでくる。
影が呪陣の中央に向かうのを待ち受けて、崇志は呪符を手に取った。
祝詞を唱えたまま、人差し指と中指で挟んだ呪符を額へとかざす。
このまま陣を通じて呪符へと封じ込め、香炉の炎で焼き捨てれば影は滅びる。それで除霊は完遂だ。
慎重にタイミングをはかり ―― 今だ! と精神を集中した瞬間だった。
突如飛来したなにかが、勢い良く祭壇をなぎ倒していった。
呪具が投げ出され転がる音、酒のこぼれる音があたりに響きわたり、張りつめていた気が一気にかき乱される。
「な……」
完成直前に術を破られた反動で、崇志はひどい衝撃を感じた。こめかみが脈打つように痛み、ぐらりと姿勢が崩れる。
数度頭をふって目眩をやり過ごし、いったい何が起きたのかと倒された祭壇を見下ろした。
散乱した呪具の中に、見慣れない ―― あるいは逆に日常的に見慣れた ―― ものが転がっている。
それは、黒い革製のアタッシュケースだった。
誰かが出し抜けにそれを投げつけ、崇志の術を妨害したのである。
「誰だ……ッ!」
鞄が飛来したと思しき方向をふり返って、崇志は怒声を上げた。
いきなり仕事の邪魔をされたのだから、激昂するのは当然のことだ。怒りのあまり言葉もろくに出ないまま、鋭い目でそちらを睨みつける。
視線の先に立っていたのは……まだ鞄を投げつけたままの姿勢で息を切らしている、一人の青年だった。
残暑の厳しいこの時期に、きっちりとスーツを着込みネクタイをしめている。それだけならば普通の勤め人かなにかとも思えたが、首の後ろで結わえられた、長い黒髪が異彩を放っていた。荒い息を整えながら、手を上げて額を拭う。その手も額も、男にしては珍しいほどに白い。
「間に合いました、か」
そう呟いて、青年はようやくまっすぐに姿勢を正した。
年頃は、崇志よりいくつか上ぐらいだろうか。紘紀よりは若いだろう。大きく息を吐いて、鋭い眼光を受け止める。
「間に合った……だって?」
呟いた崇志に、顎をひいて肯定した。
それから離れた所で驚いたように立ち尽くしている、紘紀の方を見やった。
「失礼します。粕原家のご当主、紘紀さんでいらっしゃいますか」
場にそぐわない、穏やかな声で問いかける。
紘紀は言葉もなく、ただこくこくとうなずいた。青年はそれに応じて柔和な笑みを浮かべてみせる。
「秀英堂さんからのご紹介で参りました。骨董品を
商っております、日月堂と申します」
どうぞお見知り置きを、と会釈する。
ちなみに秀英堂とは、紘紀と共に災難に遭っている、
件の骨董商の屋号だ。
「曰くつきの品なども取り扱っておりますので、秀英堂さんから今回の件についてご相談されまして。ご連絡もしないままでしたが、とり急ぎうかがわせていただきました」
なんでも蔵の骨董に関わった途端、変事が起き始めたとか ――
と続ける。
崇志はたまらず数歩そちらへ歩みよった。
「あんた、いったい何のつもりだ! いまその原因を除霊しようとしてたんだぞ!!」
それを……と胸ぐらを掴もうとしたが、伸ばした手は空を切った。
一歩下がって避けた青年は、まっすぐな目で崇志を見返してくる。深く澄んだ、漆黒の眼差しが崇志を捕らえた。
「なにもかも除霊すれば、それで良いというものではないでしょう?」
「は……?」
崇志は思わず、ぽかんとした表情を浮かべていた。
お祓いなど迷信だ、と。そんなふうに言われたことなら何度もある。迷信だ、まやかしだと言って詐欺師呼ばわりされることなど、この生業では日常茶飯事だった。
しかし、こんな言葉は聞いたことがない。
拝み屋に『祓うな』とは、いったい何が言いたいのか。
「いきなり手荒な真似をしたことについては、お詫びいたします。申し訳ありませんでした。けれど変事にも曰くにも、なんらかの理由があるはずでしょう。なのに力ずくでただ祓ってしまうのは、いささか短慮と言えませんか」
「なんだって!」
考えなしだとのその言い草に、カッと頭に血が昇った。
「一般人が利いた風な口をきくな! このままでは怪我人が出るだけじゃすまなくなるんだぞ。なんの力もない素人は黙って見てろッ」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける崇志に、しかし青年は小さくため息をついた。かぶりを振って視線を上げる。
「……
術力がないからこそ、できることもあるんですよ」
そう言って、あとはもう取り合うことなく、静かな足取りで崇志の傍らをすり抜ける。
かちりと微かな音がして、青年の手元からなにかが落ちた。反射的に目をやると、翡翠の勾玉の連なった
腕釧が地面に転がっている。それに目を奪われた一瞬の間に、青年は地に描かれた呪陣へと足を踏み入れていた。
「やめろッ、なにするんだ!」
実体のない影と違い、直接土を踏みしめる青年の足で、陣を描く紋様はたちまち崩されていった。
妖を捕らえる呪陣は、あっという間にその効力を失ってゆく。
もしも青年が呪術者の手合いであったならば、結界がその出入りを固く拒んだだろう。だが何の力も持たない一般の人間が相手では、結界はまったく効力を発揮しない。たやすく内部に入り込んだ青年は、いくつかの文字と線を足で消し、呪陣を単なる落書きに
堕してしまった。
愕然とする崇志の前で、捕らえられていた影はふわりと浮き上がり、再び蔵の入口へと戻ってゆく。
折角の努力を台無しにされて、崇志はその場に膝を落としそうになった。無理矢理術を破られた衝撃もあり、全身から力が抜けるような心地がする。同時に目も眩むような怒りを感じてもいた。
今回のこれは、名を上げる絶好のチャンスだったのだ。それなのにこの青年は、なんの権利があって邪魔しようと言うのか。
拳を震わせる崇志をよそに、青年は影を追うように蔵へと歩みよっていた。
入口の前 ―― ちょうど影の正面で立ち止まり、じっとその足元を見つめている。
真剣なその横顔が、ふと下方へ移動した。服が汚れるのもいとわず膝をついた青年は、慎重に土の表面を観察しているようだった。白い指先が地面をなぞり ―― ぐっと力を入れて押し込まれる。
長年踏みしめられて固くなっているはずの地面は、青年の指をたやすく受け入れた。簡単に素手で掘り返していくその姿に、崇志は違和感を覚える。好奇心が怒りを上まわり、丸められた背中へと近づいていった。
やがて土の中から掘り出されたのは、円盤状の物体だった。素焼きの
土器を二つ合わせて、紙を細く
縒ったもので十文字に結びつけてある。つい最近に埋められたのは、まだ
紙縒が新しいことからも明らかだ。
「なんだこれ……」
泥だらけの手に載せられたそれに、崇志は半ば無意識に手を伸ばしていた。
が ―― 指はバチッという衝撃と共にはじかれてしまう。静電気のような音と衝撃に、爪先が鋭く痛んだ。
「 ――
蠱物の一種ですね」
ひどいことを、と青年は眉を寄せた。
「蠱物だって!?」
それは
呪いのひとつを現す言葉だ。
誰かが誰かに対し、積極的に災厄を運ぶための呪法である。そしてこれがこの場所に埋められていた以上、標的は蔵に出入りする人物 ―― 間違いなく紘紀だろう。
「なんだってそんなものが、こんな所に」
混乱する崇志の前で、青年は紙縒を丁寧に
解いていった。術者である崇志は触れることもできないが、
常人である青年には何の障害もないようだ。
紙縒がほどけ、二つに分かれた土器の間には、一匹の虫が入っていた。黒い、墨で染めたかのような、人差し指ほどの芋虫だ。土器の内側には、朱色の絵の具でただ一文字、『呪』としたためられている。
「……
蟲を使った呪法は幾つかありますが、そのほとんどは陰惨なもの。ひとつの甕に多くの蟲を入れて共食いさせ、生き残った一匹の生命力と、死んでいった蟲たちの苦しみや憎しみの念を利用するのが一般的です」
―― 可哀想に。
青年はそう呟いて、そっと芋虫に触れた。気味の悪い黒い蟲は、モゾモゾと手のひらの上で蠢いている。それが大量の虫との共食いの果てに残された一匹かと思うと、崇志は背筋が粟立つような感覚を覚えた。生理的な嫌悪感と、呪術にたずさわる者としての感覚に訴えかけてくる、深い怨嗟の念。そして籠められた呪力の強さに身震いする。
しかし青年は、そんなものなどまるで感じていないようだった。
優しい仕草で蠢く芋虫を撫で、穏やかに語りかける。
「 ―― もう良いんですよ。あなたを縛っていた
呪は解けました。もう意に染まぬ呪いなど、為さなくて良いんです」
土に汚れた白い指の背で、芋虫の身体を丁寧に慰撫する。
芋虫は大きく数度、頭部を振った。なにかを訴えるようなその仕草に、青年は穏やかな眼差しを向ける。
「……そうですね。人を呪わば穴二つ。あなたを苦しめた術者に呪いを返すのも良いでしょう。けれどむこうも備えをしているかもしれません。返り討ちにあうことを思えば……もうそんな相手など忘れてしまって、自由になられた方が良いのでは?」
微笑みはどこまでも優しいそれだった。芋虫のために汚れた指は、嫌悪の欠片も見せず、その身体に触れている。
やがて……
崇志は見間違いかと、目を数度しばたたいた。動きを止めた芋虫の背中に、光の筋が現れたのだ。縦に一本生じたそれは、少しずつ長さと幅を増し、中から白い輝きをこぼしてゆく。
青年が、嬉しそうに口元をほころばせた。
芋虫の背中に生じた割れ目から、眩い白光と共になにかが姿を現してくる。
「ああ……」
崇志は我知らず感嘆のため息を洩らしていた。
それは、美しい輝きをまとった、純白の蝶だった。
鱗粉のように光の粒をこぼしながら、染みひとつない
翅翼を大きく広げてゆく。
少しずつ皺を伸ばし、ゆるやかに開閉する羽は、大人の手のひらほどもあろうか。黒く穢れた芋虫の姿からは想像もつかない、清らかな美しい羽化だ。
やがて、青年の手のひらから飛び立った蝶は、彼のまわりを巡るようにひらりひらりと宙を舞う。それを眺める青年は、心からのものだろう、温かな笑みを浮かべていた。
しばらくそうして飛んでいた蝶は、ほどなく満足したのか、青年の肩へと再びその羽を休める。
優しい目でそれを見守っていた青年は、ややあって顔をあげた。その視線が向けられたのは、茫然と立ち尽くしていた依頼人 ―― 紘紀の方だった。
いや、違う。
正確には紘紀のもっと向こう。彼を通り越した、母屋の縁側だった。
その視線を追った崇志は、いつの間にか姿を現していた人影に、はっと息を呑む。
まったく気配を感じさせなかったその男は、白い着物の上から黒い羽織をまとい、長い黒髪を背中に流していた。首からは木製の大きな数珠をかけ、両腕の肘から先を藍染めの
手甲で覆っている。年は四十代半ばと言うところだろうか。崇志とは裏腹に、怪しげな雰囲気を漂わせた『いかにも』な拝み屋の出で立ちだ。
「あんたは……」
崇志が口を開きかけるのを遮るように、青年が軽く手を上げて制した。
「あなたが、この術を為した術者の方ですね」
「 ―― そのようだな」
錆びたような声で、男が応えた。
「まさか『返しの風』も吹かせずに、呪を破られるとは思わなんだ」
「『返す』他にも、方法はあります。ですが……」
一度言葉を切った青年は、肩口の蝶を庇うように、そっと手をかざして包み込んだ。
「蟲を使う呪法 ――
蟲毒は、多くの命とその苦しみ、憎しみを糧として成り立つもの。あまり褒められる術ではないと存じます」
生き物を道具として扱うあなたは、いつかその報いを受ける覚悟をお持ちになるべきでしょう、と。
青年は悲しげな瞳でそう続けた。
男はそんな青年をまじまじと見つめる。
「一般人に言われる筋合いはない、と言いたいところだが……ただの人間にしては、貴様いささか詳しすぎるな。何者だ」
「それは今は、どうでも良いことでしょう。問題なのは、現在あなたがこの家にいらっしゃることです」
すっと男が目を細めた。
「なにが言いたい」
「あなたを雇われたのは、この家にお住まいの方ですね」
その指摘に言葉を失ったのは、男ばかりではなかった。崇志も紘紀も、愕然として声が出せない。
立ち尽くす二人をよそに、青年は言葉を続ける。
「いくら広い家だからと言って、完全に人目を避けて、あの蠱物を蔵の前に埋めるのは難しいことです。なによりあなたはいま、母屋の中から出ていらした。協力する者が家の中にいるのは、疑いようがありません」
「…………」
沈黙で返す男の背後で、障子に影が映った。背の曲がった小柄なその人影に、紘紀がはっと息を呑む。
「ま、まさか……」
お
祖母様が、と。
小さく呟く紘紀に、青年は大きく息を吐いた。
「家人の方が紘紀さん個人を狙われるのならば、呪いをわざわざ蔵に仕掛ける必要はありません。どうやら問題は蔵の中身を処分するという、その行為そのものにあるようですね」
だから骨董商の秀英堂にも呪いが降りかかったのだ。
「 ―― あなた方は、呪術など使われるよりも先に、もっとよく話し合われるべきでしょう」
身内に対して呪いをかけるぐらいならば、まずは言葉で意見を交わせと。
そう言って、青年は一同に対し失礼しますと頭を下げた。そうしてきびすを返し、壊れた祭壇へと歩みよってゆく。散乱した呪具に埋もれていたアタッシュケースを取り上げ、軽く汚れを払った。地面に落としたままだった腕釧も拾い、かちりと音をたてて左手首にはめ込む。
そのまま門へと向かった青年を、崇志はしばし呆然と見送っていた。
やがて彼が開いていた門をくぐっていってから、慌ててあとを追い走り出す。
ゆっくりと歩いていた青年の背は、まだすぐそこにあった。
「ま、待ってくれ!」
声をかけると、青年は立ち止まってふり返った。その肩にはいまだ純白の蝶が止まったまま、ゆったりと羽を開閉している。
透けるような白い肌と、黒曜石にも似た双眸、闇を思わせる漆黒の髪とも相まって、それはまるで一種の装飾のように見えた。
崇志はごくりと唾を飲み込んで、それでも掠れる声で問いかけた。
「あ、あんたはいったい……何者なんだ?」
つい先刻、同業者の男が投げかけたのと同じ問いを唇にのせる。
青年はちょっと困惑したように、軽く首をかしげて見せた。そうして右手を持ちあげ、内ポケットから紙片を一枚取り出す。
「私はただの、骨董商です。曰く付きの品なども手がけておりますので、なにかありましたらご連絡いただければ、うかがいます」
言いながら差し出してきたのは、ごくありきたりな名刺だった。
店名と連絡先、そして店主の肩書きの下に刷り込まれたその名前 ――
呪術者にとってはひどく意味深いその字面に、驚いて顔をあげたときにはもう、青年は会釈して背を向けるところだった。
◆ ◇ ◆
数日ののち、崇志は術者仲間からひとつの噂を聞き、それが根拠のない風説などではないことを強く力説する次第となる。
曰く、このところ不思議な品を取り扱う、一軒の骨董品店が名を知られ始めているという。そこの主は、かつての大陰陽師の名を名乗り、その持つ知識は深くそして詳細。
なによりもかの店主が人外のモノに寄せる心は、どこまでも温かく、優しいそれであるのだと ――
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