刻 迷 路ときのまよいじ  骨董品店 日月堂 第七話 外伝
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 屋敷が燃えていた。
 彼にとって、愛する者達と共に過ごしてきた思い出深い屋敷が。
 狩衣を身に着け、腰にまで届こうという長い黒髪を振り乱した男は、屋敷の中心部に位置する最も広い部屋でひとり立ち尽くしていた。パチパチと木のはぜる音、目や喉を刺す煙がじょじょにその部屋にも迫ってくる。
 四十六というその年にしては異様なほど若く、いやおさなく見えるその顔は、しかし今は悲しげに歪められている。うつむいた顔にかかる髪の陰から、静かなつぶやきが洩れた。
「忠行様……そんなにもこの私が……晴明はるあきが……邪魔だったのですか……?」
 たっぷりとした袖の中、握りしめられた拳は血の気を失って白い。
 男のまわりをぐるりと取り囲むように、複数の影が現われた。その数は十二。人の姿によく似てはいるが、角や牙を持ちあわせている鬼神。鳥や蛇や虫、魚といった様々な生き物を混合したような得体の知れぬあやかし。痩せこけ背骨の曲がった仔猿から毛皮を剥ぎ、代わりに曲がった鉤爪を与えたかのような雑鬼。尾が幾本にも分かれた白狐など、ありとあらゆる異形の生き物達。
 ついに、その部屋にも火の手は伸びてきた。磨きぬかれた床板をなめるかのように、炎が進んでくる。
 そして、炎を導くかのような鬼神の姿もまた、室内へと現れた。それは男の傍らにいる者達に勝るとも劣らぬ程の力をその内に秘め、恐ろしげな姿の中にも美しさを兼ねそろえた、見事な鬼であった。
 自らを守ろうとする異形達の動きでそれに気が付いた男は、物憂げに顔を巡らせて鬼神を見た。虹彩と瞳孔の境さえ定かではない、射干玉ぬばたまのごとき黒瞳。見つめられた鬼神は、たじろぎその歩みを止める。
「……忠行様の式神か。私を呪殺せよと……命じられたのか?」
 おびえる訳ではなく、さりとて激する訳でも命乞いをする訳でもなく、彼はただそう問いかけていた。己の師匠が自分へと放った式神に対して。
 敬愛する師が、己に対して送り込んできた呪詛に対して……


*  *  *


 後に広く名を知られる陰陽師となる、安倍童子あべのどうじは、延喜二十一年(西暦921年)大膳大夫 益材ますきの子としてこの世に生を受けた。
 その出生は俗に畜生腹とも呼ばれる双児の兄弟だったが、兄弟同士の仲はよく、二人は共にすくすくと育っていった。が、しかし彼らには一つおかしな点があった。それは、幼き頃より人ならぬ者と接触があるらしいことである。
 二人で遊んでいるはずの部屋から何やら楽しげな大勢の声が聞こえてくる。怪しく思い中に踏みこんでみても、室内にいるのは二人だけ。あるいはまわりに人魂が飛んでいたとか、そこには何もいないのに楽しげに宙と話していたとか。果ては無気味な鬼が昼寝するそばに添い臥していたなどという話までが、まことしやかに使用人達の間へと広まってゆく。
 そのような出来事が幾年も続いた結果、ついに益材はふたりをある著名な術者へと弟子入りさせることにした。都の陰陽寮でも高い地位にある、賀茂家の陰陽師の元である。  時にふたり、十四の年であった。


 数年後、彼らは青年となっていた。
 既に幼名を改め、兄が清明きよあき、弟は晴明はるあきと名乗っている。共に陰陽生として寮に籍を置いている二人は、入寮して間もなく見鬼(けんき。生れながらにして鬼や幽霊を見る才能がある人間)として陰陽頭 賀茂忠行かものただゆきに才を認められていた。その重用されようは師直々に陰陽学、天文学を手ほどきされるという具合である。
 しかし ―― このところ晴明の方はいささか様子がおかしかった。何やら勉強にも身が入らず、時には講義をすっぽかしさえする始末。
 その日も朝から、彼の姿は見あたらなかった。どちらかというと陰陽学より身を入れている天文学の講義にさえも、まったく顔を出そうとしない。
 いいかげん弟の様子が気になっていた清明は、あちこちと晴明を探しまわった。自分の足で歩きまわる他にも式神を飛ばし、占卜を行なってみる。
 そうやってようやく見つけた晴明は、都の中でもかなりもの寂しい、ろくに人家とてないあたりにやってきていた。もとは裕福な貴族の別邸ででもあったのか、朽ちかけた塀に囲まれた、荒れ放題の庭の中。少し小高くなったあたりの木の下に腰を下ろしている。
「晴明!」
 塀の破れた横に馬をつないできた清明は、そう呼びかけながらそちらに歩み寄っていった。それに応えて、ほとんど変わりのない顔がふり返る。
「兄上……どうしてここが?」
 問いかける声も清明のものとそっくりだ。
「占ってみて、な。横、構わぬか?」
「ええ」
 承諾を得て清明は腰を下ろした。そして晴明の方を見る。
 彼のまわりには様々な異形のものが集まってきていた。そのほとんどが、雑鬼と呼ばれるたいした力もない仔鬼達だった。が、その数はちょっと無視することができないほどである。子猿程度の大きさの鬼達は、晴明の膝や肩に乗ったり腕にまとわりついたりと、いかにも楽しそうにたわむれている。
「また式神を呼びだしていたのか」
 清明はたしなめるように口を開いた。
「式神を己の制御下から離さぬ為には、鬼達を扱うのに細心の注意を払い、確たる目的がない時には常に封印しておく事が必要だ。忠行様にそう教えられたのを、忘れた訳ではあるまい? 陰陽師の制御下から離れた式神は、即座に元の主へとむかってくるのだぞ」
 言い聞かせてくる清明に、晴明は首を左右にふった。
「彼らは私を襲ったりなどしませぬよ。私はただ彼らと話をしようと思っただけなのですから。それに皆もそうしたいと言ってくれたし……」
 膝の上にいる仔鬼が、キッ? と無邪気に小首をかしげる。晴明は微笑むと仔鬼の頭を撫でた。仔鬼は喉を鳴らし、嬉しそうにその手を掴む。もちろん鉤爪で傷つけるような真似はしない。
「話……ねぇ」
 清明は呆れたようにため息をついた。
「鬼ごときと何を話すって言うんだ」
「鬼に関することをですよ。彼らの好む真言、嫌う真言。どんな梵字を書けば彼らが近付けぬか、また彼らを呼べるか。……いろいろと教えられることはあります」
「そのようなものは忠行様から教えを受ければ良いことではないか」
 その言葉に晴明は視線を伏せた。
「……忠行様はまともに教えて下さいませぬよ。役に……立ちませぬから」
「役に立たぬ? どういう意味だ」
 ようやく話が核心に触れてきたことを感じて、清明は軽く身を乗り出した。続く晴明の言葉を待つ。しかし、晴明はそれ以上を口にはしなかった。ただただ黙って手の中の雑鬼を撫でている。
 二人の間には沈黙が下りた。
 ……こうなってしまうと滅多なことでは口を割らない。残念なことに、清明はこれまでの長い付き合いで弟のそんな部分を知り抜いていた。だから彼は幾度か問いかけはしたものの、あまり返事を期待はしてはいなかった。予想通り、しばらくそのまま時が過ぎる。
 やがて、清明は諦めたように口を開いた。
「……とにかく、講義にくらいはきちんと出席するんだな。いくら鬼達が教えてくれると言ったところで、忠行様は納得すまい。他の陰陽生達もお前に悪い印象を持ち始めているしな。……どうせならその式神ももっと強い鬼にしてみたらどうだ? そんなとるに足らない雑鬼ばかりを相手にしているから、周囲にも軽く見られるんだ」
 長い髪を手で払って立ち上がる。長髪には霊力が宿ると信じられているため、勝手に切ることは許されぬのだ。身をこごめて弟の肩を二三度軽く叩く。
 しかし、それでも晴明が返事しないのを見て取ると、彼は哀しげにかぶりを振ってその場を立ち去っていった。何か悩んでいることがあるのなら、いつでも相談に乗るからと言い残して……
 兄の乗る馬が内裏へと戻っていく音を聞きながら、残された晴明は先程清明が見せたものと同じ、深い哀しみの表情を浮かべていた。視線を巡らせ、見えるはずもない兄の姿を塀越しに見おくる。
「兄上……あなたは何も判ってらっしゃらない……」
 晴明は既にその場にいない清明にむかって語りかけていた。
 けして聞かれてはならぬことを、しかし自分独りの胸に留めておくことは辛すぎて。
「あなたは誤解している。私は……本当は式神など一人として使役していないのですよ。あなたが式神と呼ぶ異形達は、みな己の意志でここに集まってきたものたち。彼らはすべて私の友人となる為にやって来てくれたのです。そんな彼らがどうして私の制御を離れるというのですか。彼らを縛り、制御することなど、初めからしてはいないというのに……」
 陰陽道とは、中国より伝わった陰陽五行説を元にこの国で発達した、吉凶禍福を占う技である。だが、その他にも忘れてはならないのが『蠱道こどう』という呪術をも含むことであった。これは陰陽師が式神と呼ばれる使役霊(主として鬼神であったと言われる)を操り、占いや病落とし、時には特定の人間を憑き物持ちにしたり呪殺したりしたものである。今昔物語集巻二十四第十六には『式神ハ古ヨリ仕フ事ハ安ク候フナリ』とある。つまり、式神を扱う事は陰陽師にとって造作もない事であり、これを行なえてこそ一人前の陰陽師として認められたと言うことだ。
 しかし、晴明はこう続けた。
「私は何の力も持ちはしない。そう、鬼を使役する事はおろか占卜を行なう事も、吉凶を判じる事さえも出来ない。私が鬼逹の姿を目にすることができるのは、ただ彼らの方がすすんで姿を見せてくれるからなのです。私は……私は、この数年間どんなに知識を得、修行を重ねようとも、何の呪力も持つことのできなかった、ただの人間に過ぎない……
 そして、ね、兄上。忠行様は私をうとんじていらっしゃるのですよ。私に陰陽師としての素質がまるでないと、既に気付いていらっしゃるあの方は。私があなたの……紛れもなく絶大な資質を秘めている愛弟子あなたの出世を妨げるのではないかと、そう考えておられるのですよ……」
 双児として、全く同じ資質を受け継いだはずの清明と晴明。その兄だけを出世への道に乗せる事は不自然だった。どうしても周囲に忠行が公平ではないと考えられてしまう。ことに晴明は清明と共に忠行から教えを受けた者であるし、まだろくに陰陽道を学ばぬうちから鬼と戯れていた男だ。故に周囲のほとんどの者は、二人が互角の力を、あるいは晴明の方がより強い呪力を持っているものとばかり思っている。
 そしてまた、清明のみを好遇したとき、晴明がそれに対する不満を兄にぶつけるのではないかと、忠行はそれを恐れているのだ。
 兄と違って力のない自分に対する腑甲斐なさ。敬愛する師匠に判ってもらえぬもどかしさ。うとんじられるくらいならば、いっそ顔を合わせないほうが良いのではないかという思い。そういったものがこの所の晴明を屈託させていたのだ。
 晴明は深くため息をついて肩を落とす。
 と、それまでずっと手の中に抱かれていた雑鬼が、身体を伸びあがらせて顔をのぞきこんできた。
“哀シム、イケナイ”
 無邪気な声でそう言う。続いてまわりを囲む他の雑鬼達も賛同するように語りかけてきた。
“暗イ顔、オカシイ”
“笑ッタ顔ガイイ”
“笑ッテ”
“ミンナ、晴明ガ大好キダヨ”
 ―― 雑鬼とは、世間に漂う様々な『気』や『念』が凝った結果生まれるものだ。ある意味では肉体を持たなかった魂が、半ば実体化したものと言いかえても良い。そのような雑鬼は恨みや哀しみ、憎しみといった怨念から生じるものが多く、大抵はあまり良い性質を持ってはいない。しかしいま晴明のまわりに集まっている者達には、そういった邪気というものがまるで感じられなかった。皆がギョロリと大きく出ていたり、一つや三つだったりする目を細めて晴明にすり寄ってくる。
 晴明はそんな雑鬼達を愛しそうな表情で見やった。沈んでいた面もちに淡い笑みを浮かべる。
「私も……お前達が好きだよ。……そうだな。何も気にすることはないな。私は出世など考えたこともないし、したいとも思わない。私はただ、お前達がいてくれればそれで良いんだ。陰陽師として他に怪しまれることなく、異形のお前達と接してゆけるのなら、それで……」
 その為ならばたとえ落ちこぼれと誰にそしられようと知ったことではない。自分が何も不満を見せずにいれば、忠行様もいずれきっと判って下さるだろう。
 やがて晴明は立ち上がると都の方へ、陰陽寮の方へと歩き始めた。雑鬼達も人目につかぬよう、隠形(姿を見えなくする術)を使いながらついてゆく。
 ……そう、少なくともこの時点において、晴明に野心など存在しなかったのだ。ほんの髪の毛一筋たりとも。そして、たとえまわりが何と言おうとも、このさき彼が生涯を閉じるその瞬間までもまた、彼の内に野心と呼べるようなものは見られなかったのである……


 時は、停滞することなく流れてゆく。
 帝の位は朱雀天皇から村上天皇へと譲位され、年号も天慶へと改められた。政治の世界ではいろいろとありもしたが中央ではおおむね平和な時代である。
 だがいつの世でも政治に不満を持つやからは後を絶たない。恐れ多くも帝の崩御を狙うような者達は。
 天慶の九年、即位して間もない時の帝が突然病に倒れられた。原因は一切不明。高熱にうなされる帝は全身に醜い吹き出物を生じ、いっこうに治癒の兆しを見せなかった。命すらも危ぶまれる危険な病状に、宮廷はついに陰陽寮へと命を下す。至急帝の病を治癒させるべく祈祷を行なえ、と。要請を受けた陰陽寮は早速準備にとりかかった。必要な人員を揃え、呪具を用意し、参内して檀を築く。
 その呪法を行なう者の中に、晴明が加わっていたのは運命の神の悪戯であったのだろうか。
 既に兄と異なりろくな力も持たぬと、清明にはもちろん陰陽寮中にも知れわたりつつあった彼が、その日内裏に足を踏み入れることになったのは。
 本来であればきざはしに足を載せることすら許されぬ身分の彼らだったが、今回ばかりは特別帝の寝所まで招き入れられていた。
 臥所ふしどへ横たわる帝を前に、陰陽師達は懸命に祈祷を続けている。帝と彼らの間には大きな檀が築かれており、忠行やその息子である賀茂保憲かものやすのり、そして安倍清明などが一心に真言を唱えていた。もちろん晴明も隅のほうに控えてはいた。何の役にも立たないということは判り切っていたのだが。
 なにしろ彼にはまったく陰陽師としての資質がなかった。本当に、かえって珍しいくらいになにひとつも。だから彼がいくら真言を唱え梵字を書き、正確な手順を踏んで呪法を行なおうとも、何の成果も得ることは出来ないのだった。
 それでも、役に立たぬからといって黙って座している訳にはいかない。それは宮廷側の不況を買うことであり、ゆくゆくは兄や師の立場を悪くすることでもあるのだから。
 いっぽう清明のほうは、呪法を続けながらもなにか、手応えのおかしさとでも言うべきものを覚え始めていた。どうもこの帝の病、ただならぬものを感じる。
『まさか……』
 恐ろしい予感に突き当たった清明は、とっさに真言を他のものに切り変えていた。息災・安全を願う愛染明王馬陰蔵法から怨敵・魔人の調伏を願う大威徳明王調伏護摩へと。
 呪を変えた清明に忠行らは真言を中断してぎょっと目を見開いた。急に静けさを取り戻した室内に、よく通る清明の声だけが朗々と響きわたる。
 と、それまで辛そうに荒い息をついていた帝が、びくんと身体をのけぞらせた。朦朧として半ば閉じられていた瞳が大きく見開かれる。
「ぐ……ぁあ……ッ!」
 帝は呷くと両手で己が胸をかきむしった。いかにも苦しげに激しく身をよじる。空気を求め開かれた口の中から、ぞろりと舌がはみ出した。
 いや、それは舌ではなかった。無気味な黒緑色をしたその塊は、みるみるその大きさを増したかと思うと、帝の口から勢い良く吐き出された。そのまま手近にあった檀を体当たりで崩し、天井近くへと舞い上がる。
 それは巨大な四足獣であった。とは言えこのような生き物が自然に存在する訳はない。全体的にどこか歪み、ねじくれた体躯。太く節くれだった足には物を掴むことも可能であろう鉤爪のついた五本の指。大きく裂けた口元からは、涎と鋭い牙が出ている。三つあるその目には、わずかとは言え知性の色さえもうかがえた。そもそも人間の口から現れ出で、宙を飛ぶような獣などいるはずがないではないか。
「き、鬼獣!?」
「誰ぞの式神か!」
「さては帝の御命を狙う呪詛か!!」
 おそらく何者かが帝を崩御させるべく、呪いをかけたのだろう。
 清明の真言によってあらわになった式神の姿に、陰陽師や帝の身辺につめていた者達は色めきたった。ある者は腰の剣を抜き、ある者は術を使うべく、印を結んで身構える。
 それにしてもいち早く呪詛を見抜き、また何の事前準備もなく真言のみで呪いの本体である式神を引きずり出すとは、安倍清明の呪力はそら恐ろしいものがあった。とても一介の陰陽師見習いとは思われない。、兄の術の冴えを目にして、晴明は今さらながら背筋に寒気のようなものを覚えた。だから、その兄が鬼獣に対して印を結ぶのを見たとき、彼はとっさに叫んでいた。
「や、止めろッ!」
 悲痛なその声が発せられたのは 鬼獣が帝へ襲いかかるのとほぼ同時であった。故にその制止が誰にむけられたものなのかを悟ったのは、ただ清明当人だけだった。今にも呪を唱えようとしていた清明は、反射的に声を呑み込む。その隙に晴明は床を蹴って鬼獣と帝との間に割りこんでいた。ゆったりとしたほうの袖をひるがえし、両手を広げ帝の前に立ちはだかる。  そして、射干玉のごとき深い色を湛える瞳がまっこうから鬼獣の瞳を貫いたその瞬間、呪詛を運ぶ式神は凍りついたかのようにその動きを止めたのだった。
「もう……お止め。それはお前の意志ではないんだろう? もとのところにお戻り」
 晴明は優しい口調で鬼獣に語りかけた。相手がその腕を軽く一閃させれば、たやすく引き裂かれてしまうであろう位置で、恐れ気もなく。
 賀茂忠行、賀茂保憲、安倍清明。これだけの力ある陰陽師が揃っているいま、このままではこの鬼獣は間違いなく殺される。帝の御病気を平癒させるためにも、まずそれは避けられなかった。彼らが帝の御命を狙う者の式神ごときに、情けをかけるはずもないのだから。
 だが、晴明にはそれを黙って見ていることなど出来はしなかった。物心ついた頃より見鬼として鬼や人ならぬ者と馴れ親しんできた晴明にとって、彼ら異形の者はむしろ、人間や帝などよりもずっと身近で愛しい者であった。それに……陰陽師達はたいてい式神をその呪力で無理矢理に支配している。つまり式神達はほとんどが、好きでその主に使われている訳でも、その命令を拒否する権限もないのである。
 そんな式神を……鬼獣を、殺されたくなどなかった。何の力も持たない自分ではあるが、出来ることならば助けたかった。
 こんなことの為にお前が命を落とすことはない。
 はっきりと言葉には出されぬ想いを、果たして式神は感じ取ったのだろうか。
 醜悪とさえ言える鬼獣の顔から、晴明は目をそらそうともしない。
「さあ、お帰り」
 重ねて言う目の前で、鬼獣はワナワナと震え始めた。そして、さながらぎりぎりまで引き絞られていた矢が放たれたかのように、すさまじい勢いで外へと飛び出していった。行きがけの駄賃にすだれが二、三枚吹っ飛ぶ。慌てて後を追った者達を尻目に、鬼獣は一目散に飛んでいった。後に残された者は、ただただ呆然とその姿を見送るしかない。
 ややあって、忠行がぽつりとつぶやいた。
「式を……返しおった……」
「……ええ。あの勢いでは、呪詛を行なった者はただではすまないでしょう」
 清明もややあっけにとられながら同意する。人を呪わば穴二つ。呪詛に放った式神がそれを阻止された以上、行き場をなくした呪いは放った本人その人へと還るものである。しかも当初よりもずっと威力を増して。おそらく呪詛を行なった相手の術者は、生きていられまい。
 しかしどうして何の術も使えぬ晴明に対して式神が止まったのか……
 毒気を抜かれた状態で半ば放心していた一同の中、最初に具体的な行動を起こしたのは意外にも帝その人であった。既に呪詛の産物である熱も吹き出物もひき、平常通りの顔色に戻ってきた帝は、夜具の上に肘を突くと、その身体を起こされた。周囲の者が慌てて横たわらせようとするのを、手を振って退ける。
「そなた。よくぞ私にかけられた呪詛を破ってくれたな」
 まだ帝に背をむけたまま立ち尽くしていた晴明は、突然そう御声をかけられ我に返った。一瞬信じられぬものを見るように帝を振り返り、それからはっと無礼に気付いて平伏する。
「も、もったいのうございます。が、この度私めは何の術も行なってはおりませぬ故、そのような御言葉は……」
 どうか他の者達へ、と続けようとした言葉を帝はさえぎった。我に返ってみれば目の前にいるのはこの都の最高権力者。ガチガチに緊張し、かつあせっている晴明を、帝は目を細めて見やった。
「何を言うか。たった今そなたは見事に私に憑いておった鬼を祓ってくれたではないか」
「あ、あれはひとえに兄達の力にございます。私は全く何も……」
 焦りと緊張でうまく言葉の出てこない晴明を、帝は好ましく思ったようである。己の立てた手柄を必要以上に奏上する訳でもなく、兄や仲間に花を持たせようと言うその心意気、誠に良いではないか。
 ことによると帝は、式神を引きずり出した清明の声を、晴明のそれと誤っているのかもしれない。何しろこの兄弟の声は、下手をすると師匠でさえも聞き分けられぬほどそっくりなのである。まして初めて晴明を見た、しかも病にうなされていた帝になど、にわかに区別がつくはずもない。
「謙遜せずとも良い。そなたは身を持ってあの鬼から私を守ってくれたではないか。さあ、私に恩人の名を教えてはくれぬか?」
 今上その人にそこまでおっしゃられては、よもや自分がかばったのはその鬼の方だったとは言いだせない。晴明は忠行や他の陰陽師達の目を気にしながら口を開いた。
「私は……大膳大夫安倍益材が息子、陰陽頭賀茂忠行が門下生、安倍晴明にございます」
「門下生? そなたは陰陽師ではないのか」
「は、はぁ……なにぶん未熟者にございますれば……」
 内心冷汗を流しながら答える晴明に、だが帝は遠慮のない言葉を浴びせた。
「そなたが未熟者と? 何を言うか。もし、忠行殿。そなたの弟子ははこのようなことを言うておるぞ。そなたはどうしてこの者を陰陽師として認めてやらぬのだ。このように優秀な者をいつまでも門下に置いておくのは、惜しいことだとは思わぬのか」
 まるで手柄を横取りするかのような晴明に、苦虫を噛みつぶすような顔をしていた忠行は、にわかに矛先をむけられて思わずうろたえた。
「そ、そうは申されましても……その、つ、つまり……」
 まさかここでこれほど晴明を評価している帝の顔をつぶす訳にも行かない。とっさにうまい言い訳が見つからずに忠行はしどろもどろになる。
「えぇと……そ、そう、陰陽寮に所属する陰陽師は六人までと決められておりますれば……」
 なんとかひねり出された忠行の言葉に帝は残念そうに眉をひそめた。
「そうであったか。それでは仕方がないのぅ」
 いくら帝と言えど、こと陰陽寮にはそうそう口出しができない。陰陽道に関しては陰陽師にしか判らぬ秘伝や禁忌といったものが数多く存在する。故に陰陽寮は一種閉鎖的な場所となっていた。事情を知らぬ者がいらぬ口出しをして、取り返しのつかぬことになっては大変だからである。
 帝には申し訳ないがようやく安心できた。
 晴明は顔を伏せたままでほっと肩の力を抜いていた。何やらあのままでは帝がとんでもないことを言いだしそうな、そんな予感がしていたのだ。
 だが、晴明は甘かった。安心するのにはまだ早すぎたのである。
 しばらく諦めきれぬように思案していた帝は、ややあってぽんと手を打った。
「ならば、そなたは我に直接仕えればよい。陰陽寮に居さえしなければ、そなたが見習いであろうと陰陽師であろうと、何の気兼ねもいらぬではないか」
 どうだ名案であろう、と言わんばかりの無邪気な言葉。
 その持つ意味が忠行の心に染みこんだその時、彼の心の中にそれまでくすぶっていた晴明に対する疎ましさが、憎しみへと姿を変えた。何の術も使わず、呪力も持たず、ただ偶然鬼を追い払うことができただけのお前がすべての手柄を横取りし、それだけではあきたらず、帝の御寵愛までも受けてしまうだと? 本来ならば帝のその御言葉は自分とその弟子達が賜わるべきであったものを!
 ……おそらくは、帝に悪気などはひとかけらも存在しなかったのであろう。帝はただ、自分の気に入った存在を側に置きたかっただけだった。そして、それを口にした。その言葉が破局を引き起こす最初の引き金になるとは夢にも思わずに。
 結局帝は数々の反対をも ―― もちろんその中には、晴明自身からのものも含まれていた ―― 退けて自分の意思を通してしまわれた。権力にものを言わせて安倍晴明に陰陽師の称号を与えさせ、帝直属の術者として周囲に認めさせてしまったのである。しかも、土御門大路に立派な屋敷を建てさせて晴明に与える始末。これでは陰陽頭である忠行などよりも ―― 現実的な地位はともかくとして ―― よほど厚遇されていることになる。
 晴明は当然ながら、幾度も帝を思い止どまらせようとした。兄にも相談を持ちかけ、何とか帝をお止めする手立てはないものかと思案した。しかし、すべての努力は徒労に終った。むしろあくまで帝付きとなることを辞退しようとするその謙虚さを、ますます気に入られてしまう。
 たったひとつの救いと言えば、兄が協力を申し出てくれたことだった。周囲が邪推するような兄弟間でのいさかいなどはまるで起こらず、清明は常に晴明の味方であり続けたのだ。彼は自分が力を貸せる時にはいくらでもその呪力を貸そうと約してくれた。何か問題があった時には忠行様にとりなしもしようと。ここに至ってようやく彼も、師匠が弟にただならぬ悪意を抱いていることに気が付いたのだ。
 そんな兄の協力や己になついてくれる異形の者達 ―― 後には帝にとり憑いていたあの鬼獣も加わった ―― の妖力により、晴明は何とか帝付きの陰陽師として責務を果たしていった。本当に危うい場面 ―― 肉体的にももちろんだが、帝に力のないことががばれそうになったことなど ―― も幾度となくあったが、それでもいつも異形の誰かが力を貸してくれた。
 もしかしたら、晴明には何らかの異形を惹きつける『魅力』とでも言うべき力があったのかもしれない。
 やがて時がたつにつれて、晴明はじょじょにその状況に慣れていった。帝は根本的には悪い方ではないし、内裏に出入りする人間とも面識ができてきた。兄との仲は結果的に一時よりずっと親密になったし、忠行様も思ったほど直接的な悪意を見せてくる訳ではない。
 元来人のよい晴明は年が過ぎ応和、康保と年号が変わる頃には、もうすっかり宮廷陰陽師としての生活を日常のものとして感じるようになっていた。自分がその地位にふさわしいと考えるようになった訳ではない。しかしふさわしくないならないなりに、この地位にいる事が自分の日常なのだと思いだしていた。雑鬼や鬼獣、妖怪、そういった異形の者達とこの先ずっと暮していけるのだと信じ始めていた。
 それは、まるで打ち砕かれるのを待つかのような希望の育みかたであった。
 そして康保五年(西暦967年)。ついに時は来た。
 直接のきっかけはやはり帝の言い出した言葉であった。十数年が過ぎても帝が晴明をお気に入りなのにはいっこう変わりがなく、むしろ帝は人柄もよく知識もあり ―― 知識だけは当の鬼達から教えを受けているぶん、人並以上に持ちあわせているのである ―― わけへだてのない性格で人望も集めていた晴明を、ますます近くに置いて頼りにしていた。
 そんな帝がある日言ったのである。
「のう、晴明。そなたもそろそろ陰陽寮に戻ってみたいとは思わぬか? 近くかの寮の天文博士(門下生に天文学を教える役職。定員は一名のみ。陰陽道では星の運行を見る事も重視された)が野に下るので代替わりの必要があると聞く。そなたなら充分に勤められると思うが」
 と。
 無論晴明はそのような役職につく気などさらさらなかった。だいいち天文博士は何年も前からとうに次代は兄清明と内定していたのだ。こればかりはいくら帝の言葉といえど聞く訳にゆかない。
 普段帝に対してあまり強くは言わぬ晴明も、今回は断固拒否を続けた。帝も晴明の謙虚さを気に入っている身としては、そう無理強いも出来ない。
 しかし、それを信じられぬ者も世の中には存在した。陰陽頭賀茂忠行である。
 またしても晴明に、またしてもあやつめにしてやられてしまう。あの身の程知らずはいつも私のかわいい愛弟子、他に比類なき呪力を持つ清明の出世を阻もうとする。
 弟はそんな考えなど持ってはいませぬと、いくら清明が訴えても耳を貸そうとはしなかった。これまで何年もの間積もりに積もってきた憎悪の念が、ここに来てついに溢れ出したのである。
 晴明と清明は双児の兄弟。外見だけならば、親が見ても区別できぬほどに似かよっている。いかな帝とても見分けをつける事など出来はすまい。そう考えた忠行の心は、既に狂気に足を踏み入れていたのかもしれない。

 ―― そして、土御門大路にある屋敷は炎に包まれたのだった。


*  *  *


 呪詛の気配に気付いて清明が駆け付けた頃には、既に屋敷のほとんどが炎の中に呑み込まれていた。清明は青ざめた顔で一瞬立ち尽くす。が、すぐに我に返ると、己の使役する式神達に消化を命じ屋敷内へと飛びこんていった。自分のまわりには小結界(目に見えない念の壁)を張って火を退けつつ、弟の姿を探す。身のまわり全ての世話を異形に任せていた晴明の屋敷に、使用人はいない。逃げまわる人の姿さえ見られぬ屋敷の中を、清明はひとり進んでいった。
「晴明! 晴明ッ!」
 忠行には内密で幾度もこの屋敷を訪れていた清明だ。中の構造には通じている。弟の名を呼びながらまっすぐにその私室を目指していた清明は、しかし途中にある最も広い部屋に足を踏み入れた所で、はっと立ち止まった。
 既に火がまわり、もう長くは持たぬであろうその室内で、晴明は様々な異形の者に囲まれながら一人の鬼神と相対していた。
 忠行様の呪詛か!?
 とっさに印を結びかけた清明であったが、その鬼神の様子を見てとると。安堵の息をついて手をおろした。
 鬼神は、まるで魅せられたかのような表情で、己を眺める晴明を見返していた。
 そうだ。慌てたため失念していたが、これまでの経験から言って晴明に呪詛は効かないのである。呪詛を運ぶ者がどんな異形であろうとも、たとえそれが誰かの式神であろうとも、それが異形の者である限り、彼は傷付けられる事がないのだった。そう、仮にその式神が晴明を呪うために放たれた者であったとしてもだ。
 そのことが、これまで帝付きの陰陽師を続けてきた晴明が持つ唯一の、そして最大の強みであった。他の陰陽師がどんなに晴明や帝に呪詛をかけようとも、彼には式神にそれを止めさせることができたのだから。何故なのかなどということは判らない。ただ彼は、異形の者に好かれたのだ。もしかしたら彼らに恐怖を抱くことも卑しむこともせず、さりとてその妖力を利用しようという打算的な考えも持たない、ただ彼らをいとしむだけであった晴明を、異形達もまた愛したのかもしれない。
 晴明が命じたならば、いや、望みさえしたならば、それをかなえようとしない異形は存在しなかった。たとえそれがどんなことであろうとも。
 忠行は、ついに晴明のその稀有な、式神を使う者として誠に得難い資質に気付こうとはしなかったけれど。
「晴明!」
 清明はほうと肩から力を抜いて呼びかけた。
「この屋敷はもう駄目だ。外へ出よう。さあ、早く私の結界へ!」
 しかし……声に反応してふりむいた晴明は、悲しげな瞳で首をふった。
「……兄上……私は、逃げません……」
 炎のはぜる音にかき消されそうな、かすかな声が届く。意外な返答に清明は一瞬頭の中が真っ白になった。
「な、何を言って……死ぬ気か!?」
 思わず駆け寄ろうとした清明は、焼けた床板を踏み抜きそうになり、慌てて後ずさった。そんな兄の姿に、こんな状況でありながら晴明はうっすら笑みさえする。
「ここは危険です。兄上は早くお逃げ下さい」
 そう言う晴明のまわりは、もうほとんど炎によって囲まれていた。もしも晴明の足元にいる鬼達が結界を張っていなかったならば、とうの昔に彼は焼け死んでいただろう。事実炎の生み出す気流は防ぎきれず、あおられた長い黒髪のいくらかが結界からはみ出し、火をつけている。
「馬鹿なことを言うな! 私がお前を置いて逃げられるとでも思っているのかッ」
 怒声があたりに響きわたった。
 普段の落ち着いた清明からは予想もつかぬ見幕だ。
 しかし晴明は、視線を床に落とすともう一度ゆっくりかぶりを振った。
「私は……もう疲れました。もうこれ以上あの方に憎まれ続けるのはごめんです。ここで私がいなくなればすべて丸くおさまるでしょう? 私はもう……終わりにしたい……」
 ささやくような声で、しかしきっぱりと晴明は告げた。その表情には哀しみはあっても迷いはなくて……
 絶句した清明はぐっと拳を握りしめて晴明を見つめた。わななく唇を苦心してして動かす。
「お前は……お前はそれで良いのかッ? それではお前が、あまりにも……」
 そらすまいと覚悟していた視線を清明はどうしてもとどめておくことができなかった。横にそむけた瞳に映るのは燃えさかる炎の壁だけだ。
「……兄上。あなたは誤解をしていらっしゃる」
 そう言った晴明の声、いっそ朗らかとさえ言えた。はっと視線を戻した清明の前にあったのは、輝くような笑みだ。意に染まぬ立場から、ようやく解放される。そんな、希望に満ちた表情。
「私は私自身の為に、私にとって一番楽な道を選択するのですから。辛いことは全てあなたに押しつけて。それに……五行とは輪廻思想の上にあるもの。私は次の生へと行くだけなのですから……」
「晴明……」
「……もしかしたら、ここで潔く私が死んだなら……忠行様も少しは私を見直して下さるかもしれませんしね」
 晴明はふと視線を伏せると苦く笑った。誰よりも敬愛し、そして最後の最後まで憎まれ続けた師匠。たとえ誰から憎まれようと、呪われようと、あの人にだけは愛してもらいたかった。だから、それがかなわぬのならば、せめてこれ以上自分を憎まないでほしい。疎んじないでほしい。自分の存在そのものがあの方の憎しみをかきたてると言うのならば……
 晴明はゆっくりと身体の向きを変えると炎の中の鬼神にむきなおった。そして両手を軽く広げて無防備な姿をさらすと優しい声で促す。
「さぁ」
 足元の結界を張る鬼達にも語りかける。
「お前達も……私を解放しておくれ……」
 異形の者達はこれまで必ずと言って良いほど晴明の望みをかなえてきた。たとえそれが『どんな』ものであろうともだ。
 ごぉっと炎がその勢いを増した。橙色の光にさえぎられて、晴明の姿が清明の視界から消える。
 清明は動けなかった。
 弟を助けに走ることも、燃える屋敷の中から逃げ出すこともできずにいた。
 じょじょに気温を上げていく結界の中で彼はただ立ち尽くしていることしかできず。
「私を……独りにするつもり、なのか……?」
 放心したようにつぶやく。呆然と見開かれた射干玉の瞳には目の前の何をも映ってはいない。
 集中が薄れたために彼を包む結界はじょじょにその強度を落としていった。が、迫る炎の熱にも清明は気付かない。
 お前は私を置いていってしまうのか? 私にとってお前は、同時にこの世に生を受けた、魂の片割れとも言うべき存在であるのに。たとえどんなに立場が違ってしまった時でも、私はその思いを抱き続けていたというのに。
“私も……ですよ……兄上……”
 かすかに耳へと届いた言葉に、清明ははっと目を見張った。焦点を失っていた瞳が、一瞬にして正気を取り戻す。
「晴明!?」
 震える声で問いかけた。
 しかし聞こえたはずの声は、二度と繰り返されることはなく ――
 やがて、清明はうつむいてその瞳を閉じた。両脇に垂らされた腕が、ぐっと拳を握る。
 その頬を伝って落ちたのは、炎の熱で流れた汗であったのか、それとも……


*  *  *


 史実によれば、陰陽史上最も呪力に秀でていた陰陽師とされる安倍晴明あべのせいめいは、寛弘二年(西暦1005年)九月二十六日にその生涯を閉じたという。
 その術力の高さから、多くの文献に様々な逸話を残した彼だったが、しかし歴史上著名な人物のほとんどがそうであるように、その記述は信憑性が低く、複数の人間の説話を集合したものだという説が強かった。実際幾つもの情報が錯綜し、名前の読みや表記なども幾通りも存在する。享年もまた四十六とも八十五とも言われ、定かではなかった。
 それでも比較的信頼のおける記録をひもといてゆけば、生涯を通じて賀茂家の信頼が厚く、その後押しもあって陰陽師、天文博士、大膳大夫、權少屬、主計權助、左京權大夫、播磨守、穀倉院別當などを歴任したという。さらに後には忠行の子、保憲によって天文道を独占することを許され、ここに陰陽家安倍家が誕生することになった。この安倍家はやがて土御門つちみかど家と名前を変え、やはり勘解由小路かでのこうじ家と名乗るようになった賀茂家が後継者不足により断絶してからも、なお繁栄を続ける。しかし、1873年明治政府より禁止令が出され、陰陽道は歴史の表舞台からその姿を消した。
 土御門家の血筋はその流派を天社土御門神道と改め、数々の陰陽の技は神道や密教、あるいは種々の新興宗教に影響を与え、吸収されてしまったという。
 しかし ――


 実際には、表向きには明かされることのないまま、その血も技も、連綿と伝え続けられている。
 そして、始祖の代より千年の時を経たいま……


 



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