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 紅 玉 残 夢こうぎょくのゆめ  骨董品店 日月堂 第十話
 第 二 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2005/01/04 21:36)
神崎 真


 晴明は濡れた手でつかんでいたモノをもう一方の乾いた手のひらへと移し、空いた方の手を腰にこすりつけるようにして、水を吸い貼りつく手袋を外した。
「大丈夫ですか?」
 気遣うように問いかけつつ、手袋は近くの台へ置き、ポケットから取り出したハンカチで濡れそぼったそれの身体を拭き始める。
「…………」
 いやひどく晴明らしい行為だしそれは別に良いんだがしかしもうちょっと違う反応があるだろう普通というか何も疑問を持たないのかお前は。
 言いたいことは色々あるのだが、ひとまずすべて呑み込んで、和馬は無言でその様子を眺めていた。
 すなわち巨大な毛むくじゃらの蜘蛛を相手に、優しい声をかけつつハンカチで拭ってやっているという光景を。
 晴明の手のひらに余るほどの大きさがあるソレは、察するに生けられた花の影にでもしがみついていたのだろう。そのことに気づかず晴明が花を動かしたため、足を滑らせ花瓶の水に落ちたというわけだ。
 水音を耳にして視線を下ろし、水面でもがく巨大蜘蛛を見つけた場合、普通は嫌悪の声を上げて身を引くだろう。場合によってはそのまま溺死させるべく、上からなにかでつついて沈めるぐらいはするかもしれない。少なくとも手を突っ込んで拾い上げることはしないだろう。しかもそのうえわざわざ拭いてやるなどとは。
 黒光りする密生したその体毛は、濡れてもなお貼りつくことなく立ち上がっていた。晴明の指と遜色ない太さのある八本の脚が、ゆったりと広げられている。はじめは激しくもがいていたのだが、今はおとなしくなり、心なしか水気を吸い取る動きに合わせ順繰りに脚を伸ばしているようにすら見えた。
「蜘蛛や昆虫の類は濡れるのに弱いと聞いたことがあります。肺がありませんから、呼吸孔に水滴がつくと吐き出すのが難しくて、窒息してしまう場合もあるのだとか」
 これぐらいで大丈夫でしょうか、と四方からためつすがめつ確認している晴明に、和馬はさてどう返答したものかと悩んだ。少なくとも彼は昆虫の呼吸器官の構造など知らなかったし、そもそも蜘蛛と昆虫がどう違うのかも良く判っていなかった。
 それでもひとつ確かなことはあるので、それを説明しようと口を開きかけたところへ、前触れもなく第三者の声がかけられる。
「蜘蛛が、お好きで?」
 低く落ち着いた ―― しかしどこか陰気な響きを持つ声だった。
 顔を上げた二人の前に、いつの間に現れたのかひとりの男が立っていた。廊下に続く扉こそ開けたままだったものの、近づいてくる気配にまるで気づかなかったことに、和馬は密かに舌打ちする。
 それは痩せた、背の高い男だった。艶のある濡れたような黒髪をオールバックにまとめており、黒い古風なデザインのスーツを身につけている。不健康そうな印象を与える青白い肌に削げた薄い頬。切れ長の細い目が、どこか病的ともいえる暗い光を宿して晴明を映していた。
 一昔前の怪奇小説に登場する吸血鬼か、偏執狂の殺人鬼あたりを俳優が演じたなら、こんな感じになるかもしれない。
挿絵2
 あまり親密になりたいとは誰も思わないだろう、そんな雰囲気の男に対し、しかし晴明は例によって気後れした様子も見せず、こくりとひとつうなずいてみせた。
「少なくとも嫌いではありません。嫌う理由がありませんから」
「ほぅ」
 その答えに男は興味をそそられたようだった。わざとらしい感嘆の声など上げてみせる。
「大抵の人間は嫌っているものですよ。理由など気味が悪いというだけで充分だとか」
「確かに、生理的に嫌悪を感じてしまう方もいらっしゃるようですね。でも私は、蜘蛛というものが不気味だとは思わないものですから」
 この青年が生理的になにかを忌避するという光景に、和馬は未だかつて出会ったことがなかった。どれほど醜悪な外見をしたものであろうとも、それが意志を持つ存在である限り、晴明は分け隔てなく接そうとする。それは努力してそうあろうとしているのではなく、まったく心底からの、無意識による行動らしい。
 時としてひどい危機におちいる結果ともなる、そんな行為の根底に存在するのが、心に刻まれた深い傷故にだと知っている為に、和馬などはあまり厳しいことも言えず、黙ってただ見守るしかできずにいるのだが。
 今も晴明の手つきは、触れたくないものを嫌々ながら持っているという様子ではない。開いてゆるく曲げられた指が太い脚の間から覗いており、手のひらで蜘蛛の丸々と太った腹部を支えている。取り落とすことのないよう、また握り潰してなどしまわぬよう、ごく自然な力加減がなされている。
「なるほど、なるほど」
 男は感じ入ったようにしきりとうなずいた。
 だがその瞳からは、まだ揶揄するかのような光が消えていない。
「それにしても勇気がおありだ。タランチュラの毒はひと噛みで人間を昇天させることも可能だと言われているのに」
 タランチュラ。
 それはもっとも広く一般に知られた、毒蜘蛛の名だった。怪奇小説、あるいはホラー映画など様々な物語の題材となり、その名高さはアメリカ大陸産の黒後家蜘蛛に勝るとも劣らない。
 世界でも屈指の毒蜘蛛の名に、しかし晴明はなおも動じなかった。
「彼女は毒蜘蛛のタランチュラではありませんよ」
 あっさりと言い切る。
 男の眉が片方つり上がった。
「何故そう断言できる? まさか日本にタランチュラなどいるはずがないと、そうおっしゃるつもりで?」
「いいえ、この国にもタランチュラは多く輸入されておりますから、見かけても不思議はありません。ただ、タランチュラと呼ばれる蜘蛛には大きく分けて二種類があって、一方は毒を持ちますが、もう一方はほとんど無毒なんです。彼女はオオツチグモ科の、おそらくトリクイグモあたりの一種でしょう。人を殺すほどの毒は持っていません。腹部の毛でかぶれる場合もありますが、手袋をしてますから大丈夫です」
 もっとも有毒種の方、コモリグモ科のリコサ・タランチュラも、実際にはそれほど強い毒ではないそうなのですが。
 人当たりの良い笑みを浮かべながら、そんなふうに続ける。
 晴明が口を閉じた時には、男の顔色が変わっていた。
「素晴らしい!」
 それまで身にまとっていた陰気な雰囲気が吹き飛び、大げさなほどの身振りで感嘆を表現する。
「まさしくその通り! その子は無害な鳥喰いバードイータですよ。ほんのちょっと見た目がたくましいからと言って、みな風評を鵜呑みにして見るのも嫌がるんです。ひどいでしょう?」
 大声で訴えながら、晴明の空いた方の手を取り、ぶんぶんと振りまわす。
「そうですね。……この蜘蛛はあなたの?」
 晴明の問いかけに、男はこくこくと首を上下させた。
「この見事な造形。特に美しく輝くつぶらな瞳ときたら、極上の紅鋼玉ルビーもダイヤも及びはしない。そしてその八本の脚が生み出す、素早くかつ滑らかな動き ―― ああ、こんなにも愛すべき存在だというのに!」
 うっとりと蜘蛛を眺めるその頬には血の気が昇り、青白い肌がほのかなピンク色に染まっていた。ほとんどイッてしまっている状態だ。
 しかしなおも晴明は動じない。
「蜘蛛の美しさを讃える方も多いと思いますよ。蜘蛛は古来より織姫に喩えられてきたわけですし、彼らの作る巣の見事さなどは、広く認められていたのではないでしょうか」
「そう! そうだとも。あの細く繊細な、それでいてどこまでも強靱な糸。そのきらめく様など、カイコのごときイモムシが吐くそれなど、足元にも及ばない素晴らしさだ」
 ……実際、朝霧の晴れた後になど、幾何学模様をえがく巣に水滴が散っている光景はとても美しく風情のあるものなのだが。しかしこの男が口にすると、単なるオタクのえこひいきという気がしてしまうのは何故だろう。
「本当に蜘蛛がお好きでいらっしゃるのですね」
 熱弁を振るう男に晴明が言う。男はようやく口を閉ざすと大きくうなずいた。
「おいで、松代まつよ
 晴明が持つ蜘蛛へと、そっと手を差し出す。
 それまでおとなしくうずくまっていた蜘蛛は、ポンと大きく跳ねて男の手へと移った。
「松代さんとおっしゃるのですか」
「うむ」
 蜘蛛に対しても敬称を忘れない晴明に、男は満足そうに答える。
「良く確認もせず危ない目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした」
 晴明が改めて蜘蛛に向かい、大真面目に頭を下げる。応じて松代は前部の脚を一本持ち上げた。なにが言いたいのかはよく判らないが、とりあえず怒ってはいないらしい。
「ところできみは誰で、どうしてこの屋敷にいるのかな? 水原の親族ではないようだが」
 ここにいたってようやく、男はそれを訊いてきた。
「…………伯爵よ」
 黙ってやりとりを見守っていた和馬が、頭痛をこらえるような仕草で呻いた。
「なんだね、秋月の」
「あれ、お二方とも、お知り合いなんですか」
 見比べるように視線を向けてくる晴明に、和馬は深々とため息をついた。
幸田伴道こうだともみち、その世界では蜘蛛伯爵とか呼ばれてる術者だよ」
「伯爵とおっしゃると、元華族でいらっしゃる?」
「母方の曾祖母だかがそうだったらしいが、私も詳しいことは知らない。伯爵と呼ばれるようになったのは、『らしい』からだそうだ」
「はあ」
 曖昧な返事は良く判っていない証拠である。
 要は伴道の変人ぶりに辟易とした他の術者達が、からかい混じりにつけた綽名なのだった。だが伴道自身はいたく気に入っているらしく、そう呼ばれるのをむしろ喜んでいるようだ。
 今も彼は是非伯爵と呼んでくれるよう、晴明に対して頼んでいる。
「では伯爵が、沙也香さん達以外に呼ばれたという術者なのですね」
「そういうことだろうな」
 うなずく和馬は心底嫌そうな顔をしている。
 その表情が不可解なのだろう。晴明は不思議そうな顔をしながらもなお問いを重ねる。
「どんなお力をお持ちなんですか?」
「って、お前……見りゃ判るだろうが」
「?」
 きょとんと見返してくる晴明は、まったく理解できていないようだ。
「……ソレが普通の蜘蛛に見えるのか」
 つきつけられた和馬の指先で、巨大蜘蛛 ―― 松代が前脚をリズミカルに揺らす。
「違うんですか」
「当たり前だ!」
 どうやら伴道を単なる蜘蛛好きだと思っているらしい晴明に、和馬は久々にどっと疲労を覚えた。いい加減この青年のハズシっぷりには慣れたつもりでいたが、まだまだ甘かったと見える。
「そいつは蜘蛛使いだ。そのでかいのだけじゃない。正真正銘の毒蜘蛛も含めて、何十匹も使い魔にしてるような奴だよ」
 顔をしかめつつ言い捨てる。
 本人を目の前にしてのその態度は、けして誉められたものではなかった。しかし和馬の反応も無理ないことだと言えるだろう。
 なにしろこの伯爵、和馬の説明通り数十、あるいは数百の蜘蛛を自在に操るのである。彼の命令でいっせいに姿を現す大群を一度でも目の当たりにすれば、誰もが似たような感情を抱くはずだ。すなわち同じ部屋にいるだけで寒気がする、と。
 ―― いや、ここにひとり例外がいた。
「毒蜘蛛とおっしゃると、やはりゴケグモやジョウゴグモあたりなのでしょうか」
「ああ、それとイトグモの仲間も何匹かね。うちの達は、自然界で暮らしているよりも強い毒性を持つものもいて、ことにカバキコマチグモの美和子は、本来なら噛まれてもせいぜい大きく腫れ上がる程度なんだが、彼女の場合 ―― 」
 喜々として語る伯爵の言葉に、晴明は時おり質問を挟みながら耳を傾けている。
 けしてお付き合いではない熱心なその様子に、伯爵の弁舌は留まるところを知らなかった。
 これは、長くなりそうだ。
 和馬は思わず嘆息し、視線を窓の外へと向ける。
 折しも彼の心境を反映したかのように、暗い空からぽつぽつと水滴が落ち始めていた。


◆  ◇  ◆


 確かにそこそこの味ではあったが、けして心躍るとは言い難かった夕食を終えた後、和馬はひとり目的もなく屋敷内をぶらついていた。
 晴明は中断された鑑定作業に戻っている。幸い伯爵が離れようとしないため、もうそばについている必要はなかった。伯爵は変人だし、親しくつきあいたいとはまったく思えない相手だったが、それでも有能な人物であることは確かだ。彼と一緒にいるならば、そう心配する必要もない……はずである。
 なんとなく別の意味で不安があるような気もしたりしたが、ひとまずそれは考えないことにする。
 それにしても、よもやあの二人の間であそこまで話が合うとは思わなかった。確かに晴明はたいていの相手に対して、嫌な顔ひとつ見せずに対応する。長話に対しても適度に相槌をうっては、それなりの会話を成立させるタイプだ。だが先刻からのやりとりを聞く限り、彼の方もまた充分に楽しんでいることが察せられた。
 ……そりゃまあ確かに、凪の触手がどんだけ器用かなんて、聞いてくれる相手は滅多にいねえだろうしなあ。
 ひとつ目巨大イモ虫など、その存在からして大声では口にできないわけなのだし、まして十メートルはある大百足の冬眠の習性だとか、脱皮するときの注意事項だとか言われた日には、聞かされるのが和馬であったとしても、さすがにちょっと反応に困る。
 蜘蛛使いくもオタクの相手は雑鬼使いおにオタクがぴったりってわけかね……
 似たもの同士の友人ができたと、素直に喜んでやるべきなのだろう、たぶん。
 二人が会話している間に入っていける自信は、まったくなかったが。
「……しかし案の定とはいえ、ろくでもない親戚が集まってたもんだ」
 長い廊下の行き止まりに突き当たって、和馬はふうとため息をついた。
 大きく取られた窓の外は、夜の闇と土砂降りの雨とがあいまって、まったくなにも見えなどしない。時おり青白い雷光がひらめく、そんな程度だ。
 ますますお化け屋敷じみてきたなと、そう思う。
 現在この屋敷にいるのは、持ち主である水原弘泰という老人、その身のまわりの世話をしている使用人が数名。それから弘泰老が急病 ―― と、彼らはあくまでそう言っていた ―― で倒れたことを知り、駆けつけてきた親戚の人間達だった。最初に居間に通された時もずいぶん大人数がいるなとは思ったのだが、どうやら近い親類はみな顔を出したらしい。
 ―― 老人の身を、心配したからではなかった。もちろん彼らはそんなことなど口にはしなかったが。しかし態度を見れば露骨すぎるほどに明らかだ。
 彼らが案じているのは、あくまで老人の持つ資産の行く先であるらしい。それはまだ弘泰老の意識すら戻らぬ内から、屋敷内の調度を処分しようとしている、孝臣の行動からも知れるだろう。
 実際、和馬達は伯爵の口からいろいろと聞かされていた。
 彼がこの屋敷にいるのは、孝臣と同じ娘婿の一人である松本幸一という男に雇われたからであった。その目的はというと、老人がしまい込んでいる指輪を探すためだそうだ。なんでもその指輪は昔、元華族の身で嫁いできた老人の祖母が遺したもので、黄金の台座にダイヤと大粒のルビーをはめ込んだ、今となっては値段すらつけようもない逸品なのだという。
 指輪と聞いてつい自分達の目的を思い出した和馬だったが、晴明がそれを否定した。いくらなんでもそこまで見事な品なら、そう気軽に取りに来いと言われるはずもないだろうと。
 幸一の妻であり老人にとっては末娘にあたる友美いわく、それは前々からお前に譲ると、祖父直々に約束してくれていたのだそうで。少し早いかもしれないが、それが必要になってきたので連絡を取ろうとしていた矢先、こんなことになってしまい困っているのだ、と。
 真偽のほどなど知ったことではないが、松本夫婦は兄と仕事上のつきあいがある。兄からよろしく頼むと言われては、断るわけにもいかないのでね。
 伯爵は肩などすくめながら、そう締めくくった。
 あの変人にも家族がいて、しかもそれなりに親密らしいという、そのことの方が和馬にはよほど意外だったりしたのだが。
 まあそういったわけで、友美と幸一の末娘夫婦とその娘もここまで足を運んでおり、それと長女である正美と孝臣の夫妻にその子供達。次女の和美は独身だったが、結婚を前提につきあっているという男が同行していた。結婚を前提と言えば聞こえは良いが、和美は既に四十半ば、男は十歳近く年下 ―― それでも三十過ぎだ ―― の、みるからに顔つきの良くないタイプである。
 なんというかもう、絵に描いたようだ。
「判りやすいっちゃあ、判りやすいが……」
 多少特殊とはいえ、そこは和馬もそれなりの家柄と資産を持つ旧家の一員である。異能を持つ風使い達の仲間意識は強いもので、親族間の不毛な争いなど存在しない……と、言いたいところだったが、現実にはなかなかそうもいかなかった。秋月家は一般にも大きく門戸を開き、優秀な人材を積極的に受け入れてきたこともあって、同じ門下に属する者の間でもかなり競争意識が強い。また秋月の血を引く者の中にも、まったく異能を持ち合わせない人間が存在しており、多少の力はあっても風使いと呼ばれるにはあまりに微弱なそれでしかない者をも含めれば、その数はむしろ実際の術者達よりも多いと言えた。主として内務や対外交渉などを担うそれらの人々は、経理や運営部分に関わるためか、派閥だの権力だのといったものへ意欲を見せる傾向がある。
 そしてそんな彼らを、ろくな能力も持たないくせにと寄生虫呼ばわりする風使いがいるかと思えば、その風使いをただ異能を持つだけで他には何もできない能なしだと蔑む者もいる。
 秋月家もまた、一枚岩ではけしてないのであった。
 故に和馬は、父親が危篤に陥るなりこうして集まってくる親族達の気持ちも、まったく理解できない訳ではないのである。共感できるかと言われれば、それはまた別の問題だったが。
 こういう状態を目の当たりにすると、和馬は己が傍流の出であることをしみじみと感謝したくなる。彼の家は分家の中でもさらに末端のほうに位置し、両親も兄妹もいとこ達も、全員普通のサラリーマンだったりするのだ。多少なりと勘が良いぐらいのところはあるかもしれないが、まあその程度である。そして幸いにもみな良い意味での一般人で、秋月家の権力争いだの資産がどうのだのといったことにはまるで興味がなかった。
「だってなあ……そりゃ金があるに越したことはないのは判るが、それにしたって限度ってもんがあるだろうに」
 人の命、しかも己の父親のそれと代えられるようなものではないと、そう感じるのはごく当たり前の感覚だと思うのだが。
 まるで、死んでいてくれた方が後腐れがなかったと、そんな意志さえ伝わってきそうな雰囲気だったのだ。さっきの夕食では。
 実際、騒ぎにしたくないからと病院に運ぶことをしなかった彼らである。呼ばれたのがたまたま凄腕の治療師である沙也香だったから良かったものの、そうでなければどうなっていたか知れたものではない。
「……となるとやっぱり、沙也香を呼んだのが誰なのか判んねえな」
 呟く。
 沙也香の存在はそれこそ知る人ぞ知るという類のもので、同じ世界に身を置く者達をのぞけば、ごく限られた人間にしか名を知られていないはずだった。そもそも心霊治療などというあやしげな治療法を、それも子供にしか見えない沙也香が施すというのだ。その種の異能によほどなじみがあるか、もしくはせっぱ詰まった人物でもない限り、たちの悪い心霊商法か新興宗教あたりだと判断し、むこうから避けて通るだろう。
 もっともあの親戚達であれば、あえて『まがいもの』に治療をさせ、取り返しのつかない事態を誘発させるぐらいのことはやりかねなかったが ―― よもや沙也香がそんな思惑に乗せられるはずもない。
 すると晴明が言った通り、老人当人の知り合いだったと考えるのが自然だろうか。
 だがそう考えたとしても、疑問が残る。意識不明の重態である老人が、自身で連絡を取れるはずがないのだから。やはりそこには誰か実際に沙也香を呼んだ人間がいるはずなのだが。
「……あの」
 突然かけられた声に、和馬は思わず息を呑んだ。びくっとその肩が跳ね上がる。
「うわッ、あ?」
 慌てて振り返った先では、若い女性が驚いたように立ち尽くしていた。
「えっと、その……」
 口元を両手で押さえた彼女は、しばらく見開いた目で和馬を見上げていた。が、ややあってから小さく頭を下げてくる。
「すみません、びっくりさせてしまいまして」
「あ、いや。こっちがぼっとしていただけで」
 どうやら大仰な反応に恐縮させてしまったらしい。
 さっき伯爵に気がつかなかったことといい、今といい、どうも気がゆるんでいるようだった。和馬は改めて己を叱責しつつ、彼女の方へと意識を向ける。
「それで、なにか」
 用事があって声をかけてきたのだろうと、聞き返す。
「いえ、その、いま遠野さんのことをおっしゃっていたのが聞こえたもので」
「……そんなでかい声で言ってましたか」
 独り言が外に漏れていたと知って、和馬は顔を赤くした。
 大柄な図体の男がそんなふうに赤面するのは、相対する人間に親しみを覚えさせる効果がある。見上げるほどの巨体に気後れしていたらしい女性も、思わずというようにその表情をほころばせた。
「たまたまちょっと、聞こえただけですから」
 そんなふうに取りなしてくれる。
 あまりフォローになっていない気もしたが、それでも控えめすぎる態度でいられるよりはよほど良い。和馬は照れ隠しに頭をかいた。
「それで、遠野さんのことですけれど」
「はあ」
「来て下さるようお願いしたのは、私です」
「あなたが?」
 まじまじと見直す。
 そうして改めて見ると、彼女には見覚えがあった。
 確か最初に孝臣と話をしたとき、お茶を出してくれた女性だ。お手伝いの一人だろうと、あの時は特に気も止めずにいたのだが。
「水原のお爺さまから、主治医だとうかがっておりましたから」
 まさかあんなお嬢さんだとは思いませんでしたけど。
 そう言って複雑な表情を浮かべる。確かに医者だと信じて呼んだ相手が『あれ』では、困惑もするだろう。
「お爺さまというと、あなたもお孫さんなんですか」
 和馬の問いには否定が返された。
「私の祖父が水原のお爺さまと親しくさせていただいていて、それで私のことも」
 孫同然に可愛がってもらっているというわけだ。
 田島育子と名乗った彼女と、和馬はそのまましばらく立ち話を続けた。なんでも大学卒業後、思うように就職できずにいた彼女に弘泰老人が、身のまわりのことを手伝ってくれないかと持ちかけてきたらしい。頑固なせいで、なかなか使用人達が居着いてくれないからというのがその理由だったが ――
「ちゃんと人手が足りているというのは、来てすぐに判りました。水原のお爺さまは本当に良い人で、なのにそれを口に出すのを恥ずかしがられるんですよね」
 くすくすと笑いながら、そんなふうに言う。
 今年大学を卒業したばかりだと言うから二十二、三というところだろうか。失礼にならない程度の薄化粧を施したショートカットの彼女は、好ましい清潔感を漂わせていた。着ているものも動きやすげなニットとスカートで、和馬の趣味にあっている。
 少なくとも、この山の中でブランドもののスーツを着て、大振りなアクセサリーをぶら下げていた佳美 ―― 正美と孝臣の娘である ―― などよりもはるかに好感が持てる。
 こういう人物が普段そばにいるのなら、なるほどここの爺さんもそう寂しい人生を送っている訳ではなさそうだ。
 などと和馬は、当の老人が耳にしたなら余計なお世話だと言いそうなことを考えた。
 と、廊下の向こうで扉の開く音がして、二人は同時にそちらの方を振り返った。
「田島さん、ちょっと良いですか」
 顔をのぞかせた譲が、こちらに気がつき声をかけてくる。
「タオルをもう少しいただきたいのですが」
「あ、はい。すぐにお持ちします」
 反射的に動きかけた育子だったが、はたと気づいたように一瞬立ち止まり、和馬の方を見上げてきた。こちらの方を気にする必要はまったくないので、小さくうなずいてやる。ぺこりと会釈して小走りに駆けてゆく育子を見送ると、和馬は譲の方へと近づいていった。
「爺さんの具合はどんなだ?」
 開いたままの扉から中を覗くようにする。
「なにも問題はないわよ」
 室内から沙也香の声が返ってきた。
 寝台の枕元に置いた椅子に座り、上体をひねるようにして振り返っている。眠っている老人は沙也香が邪魔になって見えなかったが、彼女がそう言うのなら悪い状態ではないのだろう。
「年食って体力が落ちてるからアレだけど、それでも明日あたりには意識も戻るわ」
 動けるようになるには、もうちょっとかかるでしょうね。
「意識が戻る、か。そうしたら誰が刺したのかも判るはずだよな」
 親戚達はみな病気だと言い張っているが、老人が刺されているという事実は、手当てした沙也香がきっぱりと断言している。それが事故でない限り、必ず誰か加害者が存在しているはずであり、しかも通りすがりの第三者によるということは考えにくかった。
 老人の証言により明らかになるその人物は、はたしてそれを恐れていないのだろうか。
 老人の命が助かることは、既に沙也香が太鼓判を押していた。ならば犯人は、いずれその口から自身の名が語られることを予測できているはずだ。
 となると ――
「ご心配なく、秋月さん」
 譲が口を開いた。控えめな姿勢ながらもその口調には、静かな自信が含まれている。
「沙也香さまも水原さんも、私がお守りしますので」
 晴明とほとんど変わらぬだろう細身の譲は、ちょっと強い力でぶつかられようものなら、あっさりと吹き飛んでしまいかねない印象があった。はっきり言って、見るからに頼りない。
 だが、沙也香もそして和馬も、譲の発言を笑いなどしなかった。
 廊下の向こうから小走りの足音が近づいてくる。


◆  ◇  ◆


 最初の異変が起きたのは、既に時計の針が九時を回った頃合いだった。
 そろそろ人の家をうろつく時間でもないだろうと、割り当てられた客室に戻った和馬が、シャワーでも浴びるかと用意し始めていた時分である。
 豪勢にも部屋ごとに隣接された浴室を確認し、着替えを取り出そうとしていた彼は、突如真っ暗になった視界に、思わず数度目をしばたたいた。
 その横顔を青白い閃光が照らしだし、次の瞬間すさまじい雷鳴が大気を震わせる。
「……あ、停電か」
 一拍おいて状況を理解した。
 子供の頃はちょくちょく経験したものだが、大人になってからはとんと起きる頻度が減ったような気がする。そのせいかとっさに何が起きたか判らなかったのだ。
 そういえばひどい天気だったと改めて意識を向けると、窓の外では激しい雨風が吹き荒れていた。
 しばらく待ってみても、いっこうに電気はつこうとしない。慣れぬ建物内を明かりもなしに歩くのは不安が大きかったが、どうやらそうも言っていられないようだった。幸いだいたいの構造はさっき歩きまわって把握しているし、和馬には風霊という強い味方がいる。
 そっと部屋の扉を開け、廊下へと半身を出した。ざっと様子をうかがうと、廊下のむこうで空気が動いているのが感じられる。
「友美さんですか」
「え……っ、誰? どこにいるの!?」
 彼女は懸命にあたりをまさぐっているようだった。四方に伸ばされた手で空気がかきまわされている。
「廊下のずっとこっちです。ちょっと待っていて下さい、いまそっちに行きますんで」
 いかに印象の好ましくない相手とはいえ、女性をひとり放り出しておくわけにもいかなかった。この真っ暗闇の中で下手に動いて、階段を踏みはずしでもしては大事である。
 意識して足音を立てつつ近づいてゆく。
 ぶんと振られた手をつかみ止めると、息を呑む気配がした。
「秋月です。大丈夫ですか」
「え、ええ……」
 顔が見えないので不安なのだろう。揺れる声が闇のむこうから聞こえる。
「停電だなんて……明かりはまだつかないのかしら」
「どうですかね。もし電線がやられたんなら、朝までこのままってことも」
「そんな!」
 非難の声があげられる。
 別段和馬の責任ではないのだが。
「とにかく下におりましょうか。居間に行けば懐中電灯ぐらいあるんじゃないですか」
「し、下にって、無理よ」
「俺が先導します。夜目が効くんで大丈夫ですから」
 適当に誤魔化しつつ手を引いてやる。
 さすがの和馬も、星明かりひとつないこの状態では、なにも見えなどしなかった。だが空気の流れを読むことでだいたいの様子は掴むことができる。障害物の有無や廊下の延びる方向、階段の勾配が判りさえすれば、進むのはそう難しくなかった。
 幸い一階についたところで、懐中電灯を持った人々に行きあう。
「ああ、いま上を回ろうと思っていたところです」
 玄関で和馬達を迎えてくれたあの老人が、ほっとしたように言ってきた。
 和馬は友美の手を離すと、闇に慣れた目を光からかばう。
「他の人達は集まってるんですか?」
「一階にいらした方々は、居間に集まっておられます。あとは和美さまと河村さま、武史さまと ―― 遠野さまお二人に、安倍さまと幸田さまが」
「沙也香達が患者のそばを離れるこたないでしょう。晴明とはくしゃ……幸田も大丈夫だと思う」
 その他の一般人は迎えに行く必要があるかもしれない。
「手伝いますよ。明かり貸して下さい」
「いえ、お客さまにそのような」
 固辞しようとする手から、一本強引に借り受ける。こういうときは適材適所というものだ。
「ついでに沙也香達の所にも持ってい ―― 」
 言いかけた和馬の言葉を遮るようにして、屋敷内に甲高い叫び声が響きわたった。
 耳をつんざく金切り声に、一瞬全員が息を呑み棒立ちになる。

 その悲鳴は、その夜二番目の異変をみなに知らしめるものであった。


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