「…………」
どこで覚えたんだそんな振る舞い、などと呆れる和馬だったが、沙也香はいたくお気に召したらしい。
「下の名前はなんて言うの?」
「晴明と申します」
「ふうん、日月堂で安倍晴明だなんて、なかなか言うじゃない」
ビジネスネームだとでも思ったのか、鼻で笑う沙也香に、晴明はかすかに微笑んだだけですませた。
「先ほどうかがった所では、御主人の命に別状はないとのことでしたが」
「私が診たからよ。普通の通いの医者だったらそうは行かなかったでしょうね」
「突然のご病気というと、やはり卒中とか、どこか内臓の方が?」
「病気 ―― ?」
沙也香が馬鹿にするように語尾をはね上げた。
「違うわ。怪我よ怪我。お腹の真ん中を刺されてたの」
自分の鳩尾を人差し指でなぞってみせる。
つまり、
「ここの主人は襲われたの。刃物を持った、何者かにね」
予想外の言葉に息を呑んだ二人の耳に、背後から近づく足音が響く。
振り返ると使用人の老人が歩み寄って来ていた。
「どうぞこちらへ。ご家族の方から相談いたしたいことがあると」
奥へと促す老人に、和馬はややこしいことになりそうな予感を覚え始めていた。
◆ ◇ ◆
通されたのは客間というよりむしろリビングに近い、広い部屋だった。
扉をくぐった瞬間、室内にいた人間の目が集中し、和馬は一瞬足を緩める。が、後ろをついてきていた沙也香に背中を突かれ、室内へと入った。最後に入室した譲が扉を閉め、壁際に控える。
「ようこそいらっしゃいました。わざわざ御足労いただいたのに申し訳ありません」
ソファから立ち上がって出迎えたのは、五十前後とおぼしき恰幅の良い男性だった。にこやかに歩み寄り、和馬と晴明を見比べるようにする。応じて晴明の方が口を開いた。
「こちらこそ、大変な時にお邪魔してしまったようで」
頭を下げる仕草に、こちらを相手にするべきだと判断したのだろう。座るよう手で示しながら、その向かいに腰を下ろす。
和馬も晴明に並んで腰かけた。既に面通しのすんでいるらしい沙也香は、断りもせずさっさと離れた位置の椅子に陣取った。どうやら成り行きを見物しにきたようだ。室内には他に数名の人物がいた。茶を飲んだり本を読んだりとそれぞれくつろいでいたようだが、突然の客人に興味津々といった目を向けてきている。
礼を失しない程度にそれらの人間を観察しつつ、和馬は晴明と男性のやりとりに耳を傾けた。
どうやらこの相手は水原孝臣という名で、屋敷の主人である弘泰老人の娘婿にあたるらしい。義父が倒れたと聞いて慌てて駆けつけ、そのまま泊まり込んでいるのだという。
「なにぶん急なことで、お話の指輪とやらも、いったいどれのことを指しているのかすら判らないような次第でして」
「いえ、お気になさらないで下さい。不測の事態ですから、どなたの責任というわけでもありませんし。御命に関わらなかったのが幸いでした」
しばし社交辞令 ―― とは言え、晴明の方は心底からの本音だろうが ―― を交わし合い、それからようやく本題と思われることに話が移る。
「それでですね、お願いしたいことと言うのは」
「はい」
「義父は指輪をお譲りしたいと話していたようですが、それとは別に何点か引き取ってもらえたらと思いまして」
「どういった品物でしょうか」
「いえなに、どれとはっきり決まっているわけではないのですがね」
曖昧な言葉にどう返事したものか迷ったのか、晴明は無言でわずかに首を傾ける。逆に和馬は思わず眉をひそめていた。
「そもそもこんな広い屋敷にわずかな人間で引きこもっているから、突然の病気にも対応できず今度のようなことになるのですよ。ですから義父の容態が安定次第、ここを引き払って、町中のもっと便利の良い場所に移ってもらおうと思いましてね」
その準備として、屋敷内の家具調度を処分し始めようというのだ。
言葉だけを聞けば、親を思うが故の好意だと思えなくもないかもしれない。病に倒れた老人を気遣い、目の届く場所にいて欲しいと願う孝行心だと、そんな解釈もできるだろう。たとえ意識のない老人の意志をまったく無視したそれであれ、父親が知らぬうちに危篤状態に陥っていたという現実の前には、多少の強引さも無理ないことだといえる。
しかし ――
それが病によるものではなく、第三者の手によって加えられた暴力の結果となると、また話が異なってくる。
人里離れたこの屋敷に、物取り目的の泥棒や強盗がやってくるとは思えない。事故でなければ確実に、それは老人個人を狙ったものではないのか。これは和馬の偏見かもしれないが、もとは大会社の社長で偏屈ぶりを知られた老人となると、狙われる理由のひとつやふたつありそうな気がする。しかも老人が襲われたことを公にせず、表向きあくまで病気で押し通そうとしている息子らのやり方が気にくわない。そんな状況で、老人の財産のたとえ一部でも処分しようとするその神経など、和馬の良識にことごとく引っかかってくるものだった。
あたりの様子を窺うに、室内で話を聞いている他の面々も、特に否やはないらしい。
唯一の例外は茶を運んできた女性だったが、その彼女もちらりと孝臣の顔を見た後は、貼りついたような無表情で一礼し退出していった。
「そうしますと、ひとまずこちらでお引き受けできる物の見積もりを出して、それから御相談するということになりますか」
「そうしていただけると助かります」
「ただそれですと、数にもよりますが、ずいぶん時間がかかりますので、今すぐというわけには ―― 」
指輪ひとつ受け取って帰るつもりだったので、彼らは昼をだいぶまわった時刻に訪れていた。麓の町までの道のりを考えると、日暮れまでさほど余裕がない。日を改めて出直すことになるがと告げる晴明に、しかし孝臣は陽気な笑い声を上げる。
「なに、遠慮することはないから泊まっていって下さい。部屋は充分にありますし、食事もなかなか良い物が出ますよ」
本人は太っ腹なところを見せたつもりかもしれないが、はっきり言って相手の都合をまったく無視した言い草だった。こちらに明日以降の予定があったなら、いったいどうするつもりなのかと、そう言ってやりたい。だが、なにぶん商談しているのは晴明である。彼が諾と言えば、和馬に口を挟む権利はなかった。そして晴明はよほどのこと ―― そのほとんどは先約の取引なのだが ―― がない限り、大抵のことには応じるのだった。
「和馬さんはどうなさいますか。私でしたら、帰りは一人でも……」
「手伝う」
訊いてくるのにきっぱりと告げた。
幸い差し迫った仕事はなかったし、この状況で晴明一人を放り出していくのは不安が大きかった。確かに彼は骨董の扱いに長けていたし、その身も腕飾りに宿る異形達によって守られているため、大抵のことは無事に切り抜けられるはずである。だが、いかんせん彼らは人の言葉の裏を探るということにうとかった。晴明もそして付き従う異形達も、あまりに純粋すぎるのである。
海千山千の、しかもその胸中に悪意を秘めているかもしれない人間達の側に、放置しておくことなどできる相談ではなかった。
幸いというべきか、もともと遠出をした帰りに回り道して寄ったため、着替えなどの宿泊に必要なものは車に積んであった。どのみち今夜は麓のホテルに泊まるつもりだったし、手間と金が浮いた分ラッキーだったとも言える。が、それでも素直に喜ぶことができないのはやはり、孝臣の態度が気にくわないものだったからだろう。
「……和馬さん、退屈なんじゃありませんか?」
手始めにこの数部屋にある物をと指示されたあたりで、晴明はまず小物類を鑑定していた。手袋をはめた手で慎重に取り上げ、ざっと全体を眺めたのち、拡大鏡で細部を確認してゆく。気がついたことはメモに書き留め、手際よく次の品物へと向かう。だがなかなかに数が多かった。この部屋だけでも、花瓶に置き時計、燭台、灰皿、写真立てなどがある。しかも鑑定が必要なのはそれだけに留まらず、書き物机やクロゼットといった家具類や、壁に掛かった絵画等まで含めると、ちょっとやそっとでは終わりそうもない。。
最初はもの珍しさにあれこれ眺めていた和馬だったが、もともと骨董に興味がある訳でもなく、飽きるのにそう時間はかからなかった。
真鍮の燭台にたまった埃を筆で払い、刻まれた刻印を調べつつ問いかけてくる晴明に、和馬は出かけていた欠伸を慌ててかみ殺した。
「ん、いや。まあ、なんだ」
退屈なのは確かだが、そもそも残った理由が彼を一人にしておけないというものだったのだから、ここで席を外してしまうと意味がない。
言葉を濁す和馬に、話し相手になろうというのか、晴明は手を止めぬまま言葉を続けた。
「先ほどの遠野さんという方は、以前からのお知り合いなんですか?」
「あ? ああ。遠野沙也香っつったら、こっちの世界ではかなり有名でな」
「遠野という姓にはちょっと覚えがないんですが」
「ああ。別にどっかの一族の出とか、そんな話は訊いたことがない。っていうか、誰も出自なんざ知らないんじゃないか。なにしろ沙也香より先にこの世界に入ったやつなんざ、いるとしたらとっくにヨボヨボの年寄りだろうし」
「というと、もしかして見た目通りのお年ではないんですか」
「……本人の前では言うなよ? 訊いた話じゃ戦前からずっと変わってないとさ。ほんとか嘘か知らないが、少なくとも俺がはじめて会った十年前からあのままなのは確かだ」
門外漢が漠然と感じているよりも、異能力者達の世界は狭いものである。詐欺師や思いこみによるまがい物、実際に異能を持ち合わせてはいても、せいぜい手品に毛の生えた程度でしかない役立たずを除くと、その構成人数は格段に少なくなる。
さらに和馬のような血筋で受け継がれる能力を持ち、系統だった術を確立させた一門に属する人間までも除外すれば、残るのはほんのひと握りでしかなかった。故に彼らの多くは顔見知りであったり、そうでなくとも互いに噂を耳にしたことぐらいはあるのが普通である。そうして交流しあうことで、仕事の重複を避けたりなど、余計な軋轢を生じないようにしているのだ。
前述の通り和馬は秋月家の一門に属するため、そういった交流にはさほど縁がなかった。が、それでも彼らの存在を無視している訳ではない。たまたま同じものを追う羽目になったり、偶然顔を合わせて互いの異能を見とがめたりなどしていれば、自然と知り合いも増えてゆく。そうして必要な場合は力を借りたり貸したりするうちに、いつの間にかその世界の片隅でそこそこ名を知られていたりと、まあそんな具合だ。
そして沙也香は、そこそこどころではなくかなり著名な立場にあるらしかった。和馬もあまり詳しくは知らないが、それでも彼が今まで出会った術者達のほとんどが沙也香と面識を持ち、そして共通の認識を抱いていたのは事実である。
いわく、『触らぬ
神に祟りなし』。
「……女性に対して年齢の話をするのは失礼ですものね。気をつけます」
相変わらずどこかピントのはずれた事を言って納得する晴明に、和馬はあえてコメントしなかった。下手に余計なことを忠告した結果、かえって沙也香の逆鱗に触れてしまったのではかなわない。気をつけると言っているのだからそれで良いのだ、たぶん。
ちなみに彼女に付き従い、秘書かなにかのような振る舞いを見せている譲は、フルネームを遠野譲といい、沙也香とは親子関係にある。もちろん譲の方が息子で、血の繋がりはない ―― らしい。詳しいことはどちらもあえて語ろうとしないのだが、なんでも譲が幼い頃に事故死した両親が、沙也香の知人だったのだとかなんだとか。
「沙也香は腕のいい
心霊治療師だが、それだけに客を選ぶ。ここの親戚どもに頼まれて引き受けるとは思えないんだがな」
「どなたか、断ることのできない方からの紹介だったのでは? あるいは御本人とお知り合いだったとか」
「ああ、それはありそうだな」
偏屈爺さんと我がままお嬢様なら、さぞかし気が合いそうである。仲が良いのとはまた別の方向で。
「そう言えば沙也香さん、先ほどなにかおっしゃりかけてませんでしたか」
譲も遠野という姓だと知ったからか、下の名で呼ぶことにしたらしい。
「なにかってえと」
「欲の皮が、どうとか」
記憶をたどるように手を止めた晴明に、和馬も先刻の会話を反芻する。
「……俺向きの仕事じゃないだろうとか言ってたな」
「ええ。まさか骨董の鑑定についておっしゃっていた訳ではないでしょうし」
「だろうなぁ」
それは向き不向き以前の問題だろう。端的に言って和馬では不可能だ。
「御主人の治療に関しても分野が違いますし、和馬さんに不向きではあっても不可能ではない仕事が存在していて、しかも和馬さん『まで』来たのかという言い方をされていた訳ですから、つまり……」
「俺達や沙也香達以外にも、誰か術者が来てるってことになるわけか」
「おそらくは」
なるほど、言われてみればその通りだ。
「ああいう言い方をするってことは、沙也香の知り合いなんだろうが、さて……」
和馬と沙也香とでは顔の広さにずいぶんと差がある。沙也香の知っている術者でも、和馬は知らないという人物の方がはるかに多いだろう。それでも一応顔見知りを何人か思い浮かべつつ、その仕事とやらを想像してみようとしたが、さすがに手がかりが少なすぎた。
「駄目だ、思いつかん」
「気になるなら、沙也香さんに直接うかがって来られてはいかがです」
その方が暇つぶしにもなるのではないか。
「そうだなあ……」
魅力的な考えではあったので、つい思案してしまう。このまま同じ部屋に居続けても、晴明の邪魔にこそなれ、役立つことなどなにもないような気がする。いやしかしそれではせっかく残った理由というものが。
などとぐるぐる考え始めた和馬をよそに、燭台を戻した晴明は、今度は花瓶の方へと注意を向けていた。
「これも見積もった方が良いんでしょうか」
控えめに呟くのは、その花瓶が使用中 ―― つまり実際に花が生けられているからだろう。素人目に見てもなかなか見事な青磁である。
「一応見ておきますか」
和馬の返事がないのでひとりうなずくと、花を痛めぬようそっと垂れ下がっている部分を手で脇へ寄せた。
と ――
ぽちゃり
なにか小さなものが水に落ちる音がした。
数度まばたきした晴明が、首を伸ばして花瓶の中をのぞき込む。
そしてうわずった声を上げた。
はっと和馬がそちらを見ると、晴明が手袋をはめたままの腕を花瓶の中へ突っ込むところだった。いつになく性急なその仕草に、和馬はあっけにとられてしまう。
「晴明?」
いったい何を見つけたのか。
思わず数歩踏み出した和馬の前で、晴明は花瓶から引き抜いた手を胸元へと引き寄せた。そうして壊れ物でも扱うかのように、そっとその指を開く。
「…………」
安堵したようにほっと息をつく晴明とは裏腹に、その手のひらで蠢くものを目にして、和馬は心底嫌そうな唸り声を上げた。
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