―― その瞬間、彼は己の視界が真紅に染め上げられたかのような錯覚を覚えた。
実際には、左手首とその周辺。そして小柄を持つ右手程度が、その色の洗礼を受けたに過ぎなかったのだけれど。
深々と切り裂かれ、鮮血を溢れさせる左手首は、どくりどくりと熱を持って脈打っている。
小柄を握りしめたままの右手を力なく地に放り出すと、彼は低く雲のたれ込める曇天をふり仰いだ。肩から落ちる長い黒髪が乱れ、血に濡れた肌へと貼りつく。
力なく投げ出されている全身からは、徐々に生気が失われていく。折れてねじ曲がった片足も、もはや彼にはなんらの苦痛も感じさせない。
やがて、
ぽつり、と。彼の顎から、透明な滴が流れ落ちた。
その後を追うように、暗い空から次々と雨の雫が降り注ぎ始める。
みるみるうちに激しさを増す雨は、あたりを濡らし、彼の身体もまたずぶ濡れにしてゆく。だが容赦なく体温を奪ってゆく雨をも、彼は身じろぎひとつすることなく、ただ全身で受け止めていた。
何かを求めるかのように、天を仰いでいたその瞳が、力なく閉ざされる……
◆ ◇ ◆
史実によれば、かつて最もよく陰陽道を行った家は、二つ存在したのだという。
ひとつは、葛城山系修験道の開祖、
役小角に連なり、平安中期までは天文道を含めた陰陽道を独占していたという、
賀茂家。
そしていまひとつは、長きにわたる陰陽道の歴史の中でも最高の術力を誇っていたと称される男、
安倍晴明を祖とする安倍家。
両者はやがて、それぞれ
勘解由小路家、
土御門家と名を改め、陰陽道の二大宗家として繁栄を続けていった。ことに土御門家は、勘解由小路家が後継者不足により室町後期に断絶してからも、陰陽道を一手に支配し続けていた。
だが、やがて一八七三年、明治新政府により禁止令が出され、それにより陰陽道は歴史の表舞台から姿を消すこととなる。
土御門家はその流派を天社土御門神道と改め、数々の陰陽の
術は、神道や密教、あるいは様々な新興宗教へと影響を与え、吸収されてしまったのだという。
―― しかし、伝えられるものがすべて正しいのだなどと、誰が言えるだろうか。
暦を作り、星の動きを読み、吉凶禍福を占うだけが陰陽道ではない。呪詛、祓い、あるいは国家鎮護。その時々の権力者達にとって、その力は充分以上の脅威であると同時に、手放し、葬り去ってしまうには魅力的に過ぎるものであった。
そして、その葛藤につけ込めぬほど、彼らは愚鈍でも善良でもなかったのだ ――
かくして、公には決して伝えられることのない次元で、彼らはひっそりと息づき続けていた。
ひっそりと、しかしそれを知るものには大いなる影響力を、そして知らぬものには知るものから働きかけを及ぼせるだけの力を備えて……
◆ ◇ ◆
「いいか、ふたりとも」
美しい日本庭園に面した座敷の中で、一人の青年がそう口を開いた。
その言葉を聞いているのは、向かいに座す少年 ―― いや、
幼童達だ。
年の頃はまだやっと三つか四つと言うところか。共に小さな身体を水干に包み、ぴんと背筋を伸ばして行儀良く正座している。歳不相応なまでに生真面目な表情で青年を見返す二つの顔は、まったく見分けがつかないほどにそっくりだ。
「そもそも陰陽道とは、古代、中国より伝えられた陰陽五行説というものが、その発端となっている。この五行説ではこの世のすべてを木、火、土、金、水の五つの要素に分類することに始まり……」
未だ就学年齢にも達していない子供達には問題外なほど難解なその講義を、しかしその二人はきちんと理解しているようだった。時おりうなずきながら聞き続ける態度には、子供にありがちな飽きや不平不満さなど微塵も存在していない。
やがて数時間後、講義が終わると、二人は連れだって庭へと走り出た。
庭石の間をはねまわったり、落ちている松かさを拾ったりして遊んでいる様子は、世間一般の普通の子供達と何ら変わりないように見える。
やがて疲れたのか、庭木がちょうどいい具合に影を作っている場所へと、二人して座りこんだ。
「ね、ね、にいさま」
「なあに、
清明」
小さな両足を投げ出し息を弾ませた子供は、真っ赤な頬で双児の弟の方をふり返った。くるくると良く動く、大きな黒い目が、互いに互いの姿を映しだしている。
「さっきのね、孝秀おじさまのおはなし」
「うん」
「おもしろかったよね」
「うん!」
弟の言葉に、思い切りうなずきを返す。
「ぼくたちのまわりにあるものが、みーんな、五つにわけられるんだよね」
「そうそう。『もく』と、『か』と、『ど』と……」
ひとつひとつ指を立てながら数えていく。
「それから、『ごん』と」
「『すい』!」
全部の指が立って、声を揃えて歓声をあげる。
「きは『もく』だよね」
弟が、いま自分達の寄りかかっている木を叩いて言う。
「じめんは『ど』!」
「おいけは『すい』」
二人はそれぞれ目に映るものを、片っ端から教えられたばかりの五つに当てはめていった。
「いしころは『ど』」
「くさは、『もく』かなぁ」
「とうろうは?」
「いしでできてるから『ど』だよ」
「うん」
きゃっきゃとはしゃいでいる二人に、ふと強い風が吹きつけてきた。目と口に塵が入り込んで、二人はこれまでとは別の意味で声をあげる。
「いたいーー」
必死に目をこすり、ぺっぺと唾を吐く。
―― と。
ふと弟が、兄の方を見て首を傾げた。
「にいさま」
「なあに?」
「かぜってどれになるのかなあ」
弟の問いかけに、兄は真っ赤になった目をぱちぱちとしばたたかせた。それから、さっき通り過ぎていった風を探すかのように、きょろきょろとあたりを見まわす。
「うーん、どれなんだろう」
首を傾げて、懸命に考えているようだ。
「つめたいから『すい』かな」
「あったかいかぜもあるよ」
「じゃあ『か』?」
「かなぁ。でも、なんかへんなかんじする」
「そうかな?」
首をひねる弟の前でしばらく考えていたが、やがて兄はぱっと顔を輝かせる。
「わかった! 『もく』だ!」
ぱん、と手を叩く兄の姿に、今度は弟の方が顔をしかめた。
「そっちのほうが、もっとへんだよ。どうしてかぜが『もく』なの?」
「どうしてって……そうおもうんだもん。清明はおもわないの?」
兄も不思議そうに弟へ聞き返す。二人はしばらくじっと見つめあっていた。が、やがて弟の方が口を開いた。
「にいさまは、そうおもうんだ」
「うん」
こっくりとうなずく。
「じゃあ、ぼくもおもう!」
「ほんと?」
「うん!」
そうして良く似た双児は、手に手をとって笑いあった。
◆ ◇ ◆
「
臨」
独鈷印。
「
兵」
大金剛輪印。
「
闘」
外獅子印。
「
者、
皆、
陣、
列、
在、
前」
内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪放光印、宝瓶印。
高く澄んだ透明な声に合わせて、小さな指がよどみなく動いてゆく。
右手の人差し指と中指を立て、左手でそれを包み込む。気合いを込めて息を三度吹き込み、空を切る。
「 ―― よし」
傍らで見守っていた青年が、無表情にうなずいた。
「九字の法はもう完全に覚えたようだな、
晴明」
「はい、孝秀叔父上」
既に背中の中程まで伸びた髪を首の後ろで結んだ少年は、二十も年嵩の叔父を誇らしげに見上げた。
並の子供であれば、まだようやく平仮名が書けるようになったかどうか。そんな程度の年頃である。
「よくやったな」
たった一言だ。
しかしその言葉と、口元にたたえられたごくわずかな微笑み。それだけで少年はさも嬉しそうに目を輝かせるのだった。
「
清明はもう少しだな。印を結ぶのに、指の動きを訓練すると良い」
「はい、叔父上」
すぐ傍らで同じ顔の弟が、ごく素直にうなずきを返す。
◆ ◇ ◆
「兄さん」
小学校で給食を食べていると、清明が教室へと入ってきた。
二年生から三年生へ上がる時の組替えで別々のクラスになってしまって以来、この弟は暇さえあれば晴明のクラスにやってくるのだ。
「まだ食べてるの?」
珍しく周囲の人間が既に食べ終えているのにも関わらず、まだデザートのゼリーをすくっている兄に、清明は目を丸くしてみせる。
「う、ん」
ようやく最後の一口を呑み込んだ晴明は、班のみなを促して合掌した。
机の片付けは清明も手伝う。
「ゆうべ、あんまり眠れなくってさ。なかなか食べる気がしなかったんだ」
「ふーん。もしかして、またへんな夢見たの?」
「そう」
外で遊ぶべく、下駄箱で靴を履き替えながら、晴明はうなずいた。
「俺はもう大人で、それで、ちゃんと晴明って呼ばれてるんだけど、でもなんだかいつもとかんじが違うんだ。どこがどんなふうに違うのかは、起きると忘れちゃうんだけど」
「よく見るね、そんな夢。ほら、この間なんかその夢に、叔父上から教えていただく術とかが、前もって出てきたって言ってたよね」
「うん。ふしぎだよね。知らないことのはずなのに」
うなずいて考え込んでしまう。
だが弟は兄の悩みも知ることなく、明るい声を出してその腕を引っぱった。
「それよりさ、おもしろいもの見つけたんだ。兄さんにも教えてあげる」
そう言って、校舎をまわりこむようにして、体育館の裏手へと兄を連れてゆく。
「ほらほら、あれ」
立ち入り禁止となっている用具入れの扉を指差して、清明はさも秘密めかしてささやいた。
だがその指差す先を見て、晴明は首をかしげる。
「あそこがどうかした?」
兄の反応に、今度は清明の方がきょとんとした顔をする。
「ヘンなものがあるじゃない。ほら」
「どこ」
「だから、あそこ」
なにを当たり前のことを、というように再度指し示した。
「ドアにべったり貼りついてるじゃない。茶色くってぶよぶよした、人の顔みたいなのが」
懸命になって説明する弟に、晴明も必死に目を凝らして指の先を凝視する。
が ―― ややあって、晴明は不安そうな面持ちで弟をふり返った。
「……なんにも見えない、けど」
本当にあるの?
「……うん。兄さんには、見えないんだ」
そう言って二人の少年は、戸惑ったような風情で向き合い立ち尽くす ――
◆ ◇ ◆
「人殺し!!」
罵声と共に、数珠が投げつけられた。
とっさに身をすくめた清明の眼前で、それは叔父の手によって払いのけられる。
「何のつもりですか」
低い声で、孝秀は数珠を投げた女性の方を静かににらみつけた。その傍らでは、つい先月五年生に進級したばかりの晴明と清明が、制服姿で呆然と立ち尽くしている。
叔父はけして声を荒げた訳ではなかったが、そこには底冷えのするような怒りの気配が漂っていた。
後ろでひっつめた髪を激しく乱しながら、女性はすさまじい目つきで二人の子供をにらみつけた。
「うちの子は死んだのに……どうしてその子達は無事なのよ!? 遠足のバスが崖から落ちて、みんなが死ぬか大怪我したってのに、どうしてその子達だけ掠り傷ひとつないのよッ!!」
それは悲嘆と怒りの絶叫だった。
「あんたらがやったんだろう!? 気に入らない奴がいるからって呪ったんだろう! お偉い
呪い師だかなんだか知らないけど、あんたらなんか、単なる化け物じゃないのッ!!」
叫び暴れる身体を、他の遺族達が数人がかりで押さえつける。
そうして彼らは、三人を見上げた。
「……帰って下さい。これ以上、母親を刺激しないで欲しいんです」
懇願の奥に秘められた、激しい拒絶。
学年が変わったばかりの、楽しい思い出となるはずの遠足が、一転して惨劇と変わったその日。運転手の急病によってバスごと崖下へ転落した中で、ただ二人奇跡的に無事だった双児達は、級友やその家族達から向けられる憎悪と悲しみを、まるで理解することができずにいた。
あるいはそれは、誰かを憎むことでしか己を保つことができない、大人達の身勝手な自己防衛本能であったかもしれない。
だがそれ以上に、彼らは本能的に悟っていたことを、当時の双児達は知らなかった。自分達が他の子供達とは異なる環境、異なる資質を持ち、そうであるが故の異端視を周囲から受けていたのだということに ――
「…………」
孝秀は憮然とした表情を隠そうともせず、清明の背に手をまわした。
葬儀が始まりもせぬうちに、弔問客をかき分け、その家を出てゆく。
手を繋いで不安げに見上げてくる晴明と清明。孝秀は優しく微笑んでみでた。
「お前は何も悪くなどない。お前はお前の力で、その身を守ったのだ。だからお前が責められる必要などは、どこにもないのだよ」
そう言って彼は、清明の頭をそっと撫でる。
◆ ◇ ◆
「まだ起きていらっしゃったのですか? 兄上」
襖を開けて言い放ったのは、眠たげな目をさかんにこすっている弟だった。
夜中の一時とは、いくらまもなく中学に上がる身とはいえ、少々きついものがある時間帯だ。まして彼らは毎朝、まだ日が昇る前には起き出して、朝の修行を始めなければならない身である。
「これを読み終えたら休むよ」
そう言いながら晴明が
繰っているのは、分厚い漢籍だった。しかも活字ではなく墨と筆で書かれた、いわゆる古文書という奴である。
「でも兄上、夕べもずいぶん遅くていらしたのに……」
「大丈夫だって。もう慣れたから。清明こそ、早く寝ないと」
小さくつけた読書灯の傍らで、晴明はにっこりと微笑む。
真夜中なのにも関わらず、あたりが急に明るくなったかのようなその笑顔に、清明は引き込まれるかのように、ただこっくりとうなずいていた。
◆ ◇ ◆
―― 何かが、狂い始めていた。
「清明様のことを聞いたか」
「ああ、なんでも先日初めての祓いで見事、邪鬼を調伏してみせられたとか」
「まだやっと十二となったばかりだというのに、さすがは孝俊様のご子息でいらっしゃる」
「しかし、晴明様の方は……」
「邪鬼の姿すらご覧になれなかったというのは、本当か?」
「……うむ」
「では、未だ満足に気も巡らせられぬという、あの噂も本当なのか」
「そうらしい。安倍家当主のご長男ともあろうお方が、あのようなことでは……」
―― 少しずつ、少しずつ。しかし、確実に。
「叔父上、こちらの書籍で少々判りかねるところがあるのですが、教えてはいただけませんか」
「……ずいぶん、難しいものを読んでいるのだな、晴明。先日教えた術は使えるようになったのか?」
「え、いえ、それは……その……」
「いいか、晴明。物事にはすべからく順序というものがある。まずはひとつのことを完全にこなせるようになってから、次の段階に進みなさい。判るな」
「……はい」
―― 歪んでゆく、現実は……
「すみません、どなたか弟がどこにいるか、ご存じありませんか」
「清明様ですか? それなら確か先ほど、孝秀様と離れの道場にお籠もりになられましたが。ご一緒ではなかったのですか」
「いえ……私は訊いておりませんが……」
―― いつしか……
「叔父上、私もお手伝いいたします!」
「来るな。お前は邪魔にしかならん」
―― 限界を超える。
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