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 鏡裏捕影かがみのうらかげをとらう  骨董品店 日月堂 第一話
 第四章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 全身が光で構成され、その姿は確固たるものではなかった。しかし鋭く長い、肉食の鳥が持つくちばしと爪とがやけにはっきりとしている、大きく左右に広げられた翼は、端から端まで10m近くもあるだろうか。
蠱毒こどく……長い間、閉じこめられひとつになっていた風霊達に、女性達の『念』が融合した……?」
 春彰の力無い声が、やはり呆然としている和馬の耳を通りすぎる。
 その意味するところが、数拍おいてようやく心に届いた。
「……あれが……風霊のなれの果てだってか……?」
 蠱毒とは禁断とされた呪法のひとつだ。甕や箱などの密閉された狭い容器に蛇、蝦蟇がま、ムカデといった毒のある生物を多数閉じこめ、共喰いをさせる。そして最後に生き残った一匹の力と喰い殺されたもの達の怨念を利用し、他者を呪い殺すという邪術だ。
 長きにわたり人麻呂鏡という閉鎖された場に封じられていた風霊達。喰い合いこそしないものの、むしろ個としての確かな自我を持たぬ彼らは、ほとんどひとつのものとなっていたのだろう。そこに殺された女性達や高村の気、すなわち恐怖、怒り、悲しみや恨みからなる強い怨念が注ぎ込まれ、融合した ―― 蠱毒の鬼獣。
 元々が人間をはるかに越えた力を持つ風霊の集団に、複数人の断末魔の念。その二つが合わさったなら、さぞや強大な呪いと化そう。
 まるで太陽を取りまく紅炎プロミネンスのような光をまといつかせたその姿。そんな場合ではないと知りつつも、和馬は目を奪われた。禍々しい恐ろしさと目を釘付けにする美しさが見事に調和している。
 血色の光が造りあげた身体の中、ひときわ濃い光が結晶した双眸が、ぎらりと和馬をねめつけた。そこに宿っているのはたがえようもない敵意。高村が和馬へとむけていた憎悪の念。
 むしろそれが緊張しきっていた和馬を解放するきっかけとなった。ぞくりと総毛立った和馬は、とっさに右腕を横に薙ぐ。応じて二人と怪鳥の間に壁のごとく風が吹き上がった。それと同時に怪鳥が翼を羽ばたかせる。
 軽いひと羽ばたきが、あっさりと風壁をうち破った。空気の塊としか言いようのない暴風が二人へと叩きつけられる。
 もしも風壁が稼いだ一瞬、いや半瞬程の間がなかったならば、和馬達はもろにその風を受けて吹っ飛ばされていただろう。比するまでもない圧倒的な力の差を感じ取った和馬は、迷わずそばを離れることを選んだ。春彰を抱えて地を蹴る。あらかじめ体勢ができていたおかげで、数mぐらい飛ばされても受け身が取れる。何度か転がって余分な勢いを逃がし、残りで中腰に立ち上がった。油断なく怪鳥に視線を向けながら、腕の中の春彰を横へと突き放す。
「『あれ』は俺が相手する。お前はとっとと逃げろ」
「……嫌です」
 一拍おいて予想通りの答えが返ってくる。
 こいつは……たまには素直に言うことを聞いたらどうなんだ。
 胸の内で毒づく。
「協力すると言ったのは高村から人麻呂鏡を取り戻すまでだ。もうお前がここにいる筋合いはないんだよ!」
 手加減無しで言い捨てた。顔を見もせず、肩に手をかけてぐいっと押しやる。
「行けよ。お前の護りにまわす余裕はないんだ。邪魔をするな」
「しかし……ッ」
「行けッつってんだ!!」
 まだためらう春彰を怒鳴りつける。春彰はぐっと唇を引き結んだ。怪鳥の方を一度見やる。そして思い詰めた表情をすると駐車場の出口へときびすを返した。二度と後ろを振りむかず、一気にその場を駆け去る。
 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、和馬は妙にほっとした気分でいた。まるで肩の荷が下りたかのような安堵感だ。
 これで少なくともあいつだけは生きのびられる。もともと彼はちょっとばかり毛色の変わった品物を手に入れようとしただけの骨董品屋であって、こんなややこしい事態に関わるべき人物ではなかったのだ。本人だってまさか、こんな命がけの状況になるとは思ってもいなかっただろう。首尾良く高村を引っぱり出せた時点で、何としてでも場を離れさせるべきだったのだ。
  ―― これは,秋月家の犯した罪の結果だ。こちらのそんな事情で、みすみす春彰を死なせてしまう訳にはいかない。
 注意深く怪鳥の隙を探っていた和馬は、そんなことを考えていてふと苦笑した。どうやら自分は、ずいぶんと彼のことが気に入ってしまっていたらしい。一般論的な『他人を巻き込んではならない』という義務感以上のものが自分の中にあった。まだ出会ってからほんの二日、というよりは一日半ぐらいしか経っていない、それもはじめの印象と来たらお世辞にも良いとは言えなかった相手だというのに。
 ……一度ゆっくり酒でも呑んでみたかったな。
 それはもう叶うこともなさそうだが。
 怪鳥が両翼を大きく広げた。そして緩慢とさえ見える動作で大きく前後に動かす。それだけで和馬は増した風圧に身を低くせざるを得なくなった。両腕を顔の前に交差させ、膝と腰を深く曲げる。風速1mで体感温度は1℃下がるという。ただでさえ冷たい真冬の大気が、一気に和馬の体温を奪っていった。既に痛みすら通り越して感覚を失いつつある指を掌へと握りこむ。
 大きく、深く、息を吸い、吐く。
 おそらく自分の力ではこいつに勝てない。風霊に力を借りる存在と、それそのものから形成された存在とでは、しょせん格が違った。
 だが、それでも戦う前から諦めるのは嫌だった。人麻呂鏡の封印が解かれるのを阻止できなかった以上、自分にはその結果を始末する責任がある。ましてこの様子では、一時退却すら許されそうにない。ならばこの場で正面からぶつかるしかないではないか。
 あれはもう、風霊じゃあない。人間の怨念によって歪められ変質した鬼獣だ。我々精霊使いが尊び、呪縛してまでも消滅から護ろうとした精霊達とは違う!
 くっと息を止めると、気合いと共に吐き出した。交差させていた腕を手刀の形にして左右に払う。
「……りゃァッ!」
 瞬間、吹きつける風が断ち切られた。渦巻く風の流れの中に、すっぱりと無風状態の切れ目が入る。和馬は迷わずその中へと飛び込んだ。怪鳥目がけてまっすぐに駆ける。
 少しでも距離を詰めていきながら、垂らした右手に風霊を集めていった。怪鳥までもう少しというところで、押しのけられていた風が左右から雪崩落ちてきた。それから身を庇いつつカマイタチを放つ。文句なしに本気の攻撃。殺す訳にはいかぬと手加減していた、高村相手のそれとは段違いの一撃だ。
 怪鳥は首を反らすと高々と叫び声を上げた。神経繊維を掻きむしるかのような、金属的な異音。応じて怪鳥を取り囲むように大気が噴き上がった。和馬の作るそれよりも数段強固な風の壁にカマイタチがつっこむ。
 吹き飛ばそうとする防護壁と断とうとする風の刃。数秒間の拮抗の後、勝利を収めたのは風壁の方であった。巨大なカマイタチは上へと弾かれ、バラバラになって消滅してしまう。
 膝をついて風をやり過ごしていた和馬は舌打ちして立ち上がった。また強さを増してゆく風の中、今度は物量作戦とばかりに複数のカマイタチを次々に放つ。が、それもむなしく消滅していくばかりだ。
「……そんな豆鉄砲じゃ、痛くもかゆくもありませんってのか」
 食いしばった顎の中、奥歯がこすれて音をたてた。悔しかった。和馬とて高村ほどではないにしろ、プライドはあるのだ。己の力に対する自信も。なのに自分が操る風は、怪鳥に対してまったくと言っていいほど通じていない。傷ひとつつけるどころか、そもそもその身体まで届きもしないのだ。
 それでも……それでも……!
 上下左右、四方八方、あらゆる方向からカマイタチを襲わせる。
 と、さすがに鬱陶しくなったのか、それとも気が向いたのか、怪鳥が再び羽ばたき始めた。しかも今度は上下に翼を動かす。ふわりと音もなく巨体が宙に浮いた。吹き上げる気流に乗って、あっという間に上空へと舞い上がる。
 和馬は絶句して怪鳥を目で追った。ただでさえまるで歯が立たぬというのに、空に上がられてしまうとは。
 何においても上と下とでは上の方が断然有利だ。ことに今の場合、上から吹き下ろす風と下から吹き上げる風、どちらがより力の消費が少ないか考えるまでもないではないか。
 怪鳥はいつまでも呆然としていさせるような真似はしなかった。見上げるような位置で金切り声を上げるや、カマイタチを放ってくる。反応の遅れた和馬はとっさに風の塊を作るしかできなかった。二つの風は和馬のすぐ近くで絡み合う。空気の抜けるような音をたてて四散したカマイタチは、それでもいくつかの名残を和馬に降り注いだ。剥き出しになっていた皮膚が数ヶ所ピッと裂ける。
 それをやり過ごすと、和馬は即座に動いた。アスファルトを蹴り走り出す。
 ひとところに留まっているのは自殺行為だった。怪鳥はまるでもてあそぶかのようにカマイタチを降らせてくる。次々と襲うそれらを和馬は必死に避け続けた。風を使い、足を使い、持てる力を総動員して防御に徹する。反撃する余裕などとてもありはしない。
 ……焦るな。殺されずにいれば……戦いを引き延ばせば、必ずチャンスは来る!
 体力と術力、両方の消費で膝が崩れそうになる。それを気力でこらえて身を守り続けた。
 二つ連続したカマイタチの最初のひとつを風壁で弾く。一撃であっけなく壁は壊れ、二つ目のカマイタチが和馬を両断しようと迫った。横っ飛びに身をかわし、バランスを崩して膝をつく。
 そこは駐車場の出口だった。視線をやれば暗い、どこまでも続いていそうな夜の道がある、発作的にそちらの方へと駆け出したくなった。むこうへ逃げれば。闇に紛れこんで逃げおおせられるかもしれない。そんな考えが脳裏をよぎる。
  ―― 無論、そんなはずもなかった。風を操る怪鳥にとって、闇は行動の妨げになどならない。和馬と同じように、そこに大気と風霊さえ存在すれば、あたりの様子を知ることなど造作もあるまい。怪鳥の目となり耳と化した大気から、身を隠しきれる確率など皆無に等しかった。
 ……それに、こんな場所に人麻呂鏡を放置して退散する訳にもいかないからな。
 ちらりと高村の遺体の方へ視線をやる。と、そこで和馬は愕然とした。
 そこには、さっき確かに逃がしたはずの、春彰がいたのだ。いつの間にか線路をまわりこんで、駅舎の方から戻ってきたようだ。高村の傍らに両膝を落としてかがみ込んでいる。どうやら人麻呂鏡を取り上げようとしているらしい。
体温がいっきに二三度低下した心地がした。
「な……ッ」
 何をしているんだお前はッ!!
 反射的に出かけた罵声をかろうじて呑み込んだ。
 同時に両腕を上げ、頭上にもう何度目になるかも判らぬ風壁を張る。それがカマイタチを道連れに消えるよりも早く、立ち上がって走り出した。駐車場から出ることはせず、かつ春彰に接近することもない方向を選んで。
 幸いなことに怪鳥はまだ春彰に気付いていないようだった。それとも最初から彼のことなど眼中にないのだろうか。まあ、確認する訳にいかない以上、今は怪鳥の注意を春彰に向けさせないようにするのが得策だ。
 ッたく、あの馬鹿は何を考えているんだ。俺が何のためにこの場を離れさせたか判っていないのか!?
 怒りと呆れの入り混じった感情が湧き上がった。下手に気にしては怪鳥を刺激しかねない。ちらりちらりと視界の端で様子をうかがう。春彰はなかなか立ち上がろうとしなかった。高村は相当な力で鏡を抱え込んでいるらしい。あの死に様からしてそれは予想できる。
 和馬なら、どうせ死人と指の一本や二本は折ってやるのだが、春彰の性格からいってまずそんなことはできまい。
 このさい人麻呂鏡を持ってでも何でもいい、早く避難してくれ!
 祈るような気持ちで思う。
 と、いきなり怪鳥が叫び声を上げた。ハッとしてそちらに意識を戻す。怪鳥はどこか苛ついたような目で和馬を見下ろしていた。身を包む紅い光が激しくざわめきうねっている。血色の瞳に射すくめられ、全身を濡らしていた汗が一瞬でひいた。
 怪鳥は、明らかに気分を害していた。眼下のその手でひねり潰すべき、気に食わない虫ケラ。それが意外なほど抵抗を見せるのだ。
 つい先刻生まれたばかりの自分の中、最も奥深い部分、本能、存在意義とでも言える『もの』が、そいつを殺せと命じてくる。なのにそれはどんなにカマイタチや風塊をぶつけても死のうとしなかった。身をかわし、壁を作り、いつまでたっても致命傷を負わない。
 怪鳥は意を決すると、今までよりもさらに高く舞い上がった。そして地上目がけて一気に急降下し始める。このまま風で攻撃を続けていてもらちがあかない。ならば直接この爪で引き裂いてやるまでだ。
 怪鳥は地面すれすれで大きく弧を描くと、真正面の方向から和馬目がけて突進してきた。
 これは、避けられない。
 和馬は一瞬の内に判断していた。自分の作れる風壁も風塊も、この怪鳥本体の前では児戯に等しいと。
 ならば……
 和馬は残る全ての力を解放した。全ての術力、気力、文字通り全精力を結集して風霊に呼びかける。
 どうせ避けられぬというのならば、真正面から受けてたってやる。肉を切らせて骨を断ってやろうじゃないか。
 足を肩幅に開いて腰を落とし、むかい合わせた両手を肩の高さに固定する。五指を限界まで力を込めて開いた。全身から気が陽炎のように立ち昇る。
 春彰が何か叫んでいるのが聞こえた。何を言っているのかまでは聞き取れない。
 これが最後だ。たとえこの激突で相手にダメージを与えることができようとできまいと、もう次の術を放つ余力は残らない。力尽きて意識を保つのがせいぜいだ。その時怪鳥が共に倒れていればよし。駄目ならあえなく殺されるまでだ。あとのことは秋月本家が何とかしてくれる。だからそうなった時には春彰、頼むから逃げのびてくれよ……
 鉤爪のついた足が眼前に迫る。和馬は両手に意識を集中した。高密度に凝集した風霊のエネルギーが、掌の間で光を放ち始める。今にも手の中から飛び出してゆきそうなそれを、強引に押さえ込んでコントロールした。それが刃の形を取り、ぎりぎりまで威力を高めた時、怪鳥へと撃ち放つべく両手を突き出す。手の中で白光がスパークした。
 刹那、両者の間に人影が飛び込んだ。
 細身の身体、男物か女物かさだかでない上質なシャツ、翡翠で作られた腕飾り、そして風になびく長い黒髪 ――
「は、春彰ぃッ!?」
 和馬は絶叫していた。
 とっさに放たれんとしていたカマイタチを押さえ込もうとする。
 しかし、今まで扱ったことのあるどれよりも強大なそれは、あえなく和馬の手から飛び出してしまった。
 時間の感覚に狂いが生じる。
 ほんのわずか、瞬きほどの間の出来事が、まるでスローモーションをかけたかのように引き伸ばされて感じられる。
 刃の先にあるのは、怪鳥ではなく春彰の肉体だった。こんなものを何の護りもない生身の身体が受けたなら、ナイフがバターを切るよりもなお、容易く両断されてしまう。
 喉の奥から咆哮が溢れ出た。両腕を引き寄せ、全力で拳を握りしめる。
 げ! 風よ、凪げ!!
 その瞬間、和馬の頭から怪鳥のことは消え去っていた。春彰を殺す訳には行かない。 ―― 殺したくない。ただその想いだけが意味を為している。それが通じなければ自分の命はないという、文字通り最後の手段を、何のためらいもなく必死に無力化させようとする。
 その甲斐あって、カマイタチの大部分が分解され、構成する風霊が周囲に拡散した。しかしそれでも完全には消滅せず、春彰へと突進する。
 春彰の腕飾りが輝いた。左手首にはめられた、あの翡翠製の勾玉が幾つも連ねられた物だ。お守りだと言っていたそれの中、数個の勾玉が内から眩い光を放つ。
 虹色の輝き。
 様々な色が入り混じったそれには、春彰を護ろうとする意思があった。大きく広がった光は、春彰を包み込むように球状の防護壁を形成する。
  ―― 結界けっかい? ―― 護符ごふか!?
 文章になる以前のひらめきが和馬の頭をよぎる。だがそれが何らかの感想をもたらすより早く、カマイタチはその光壁までも突き破っていた。壁が弾けて消える音が、和馬の意識を打ちのめす。
 そして ―― 和馬の努力と光壁とで大きく威力を削がれながらも、まだ充分に鋭さを残した風の刃は、両手を広げ怪鳥の方をむいた春彰の背中へ吸い込まれていった。
 悲鳴は、上がらなかった。
 一瞬おいて吹き出した大量の血が、身を強張らせている和馬の顔にまで飛んでくる。踊るかのように倒れ込んでくる肉体。和馬は両手を伸ばして春彰を受け止めた。時間の感覚が急速に回復する。
「は……る、あき……春彰ッ!!」
 消耗のためか衝撃のためか、身体から力が抜けた。ぐったりとした春彰の身体を支えきれず、地面に膝をつく。崩れ落ちた春彰を背後から抱き止める形になった。胸元にまわした手で身体を固定し、右手で傷口を探る。性急でいささか乱暴な動作に、春彰は呻き声を上げた。
「……だ……大丈……夫、ですから……ッ」
 切れ切れの声で訴える。無論、大丈夫でなどあるはずがなかった。どこか大きな血管をやったらしく、押さえる手に圧力を感じるほど血が溢れてきている。一刻でも早く止血し病院に担ぎ込まなければ、まず助からない。
 必死になって血止めを施しながら怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! なんであんなとこに飛び込んできたりしたんだッ!」
 耳元で遠慮なく喚かれる怒声。春彰は苦労して和馬の方を振りむいた。苦痛によってか、出血のためか、その息はひどく荒い。
「……いや、だったんです」
 掠れた声でささやく。
「何が!」
「あなた方が……死んでしまうのが……」
 絶句する和馬に微笑みかける。
 血の気を失って常よりもさらに白くなった頬に、鮮烈な血の赤とほつれ毛の黒が映えている。その一種凄惨な美しさとは裏腹に、微笑みは驚くほど温かいものだった。とても今にも命を失ってしまいそうな男の表情とは思えない。
「あなたも、彼も、どちらにも死んでほしくない、と。だから……」
 双方を双方から庇うため、飛び込んできたというのか。己が身を盾とするべく。
 その考え方に、和馬は目が眩むほどの怒りを覚えた。思わず殴りつけそうになるのを懸命に堪える。
「この、大間抜けが! 自己犠牲が美しいとでも思ってんのかッ。そういう馬鹿を、自己満足のナルシスト野郎って言うんだ!」
 代わりに口で罵倒した。
 自らの命をかえりみず他人を救う。謙譲の美徳と言えば聞こえはいいが、それも過ぎればただのはた迷惑だ。要は両方を救う努力や、自分の手を汚す罪悪感を持ちきれず、思考停止しているだけではないか。その上で自分は何て良いことをしたのだろうと、安易なヒロイズムに酔えるのだから始末が悪い。そんな自己満足で邪魔をされてはたまったものではなかった。
「別に……これが最良の方法だなどと……考えては、いません」
 和馬の怒りに、春彰は弱々しく目を伏せた。
「でも、駄目なんです。私は、弱いから……誰かが傷つくのを見るのが辛くて……自分がそうした方が、ずっと楽なんです。弱くて、愚かで……誰かを守れるような『力』ひとつ持たないから……だから……」
 せめて『力』があったなら。守りたいと思う者達を守り抜けるだけの『力』を持っていたならば、自分だってこんなことはしない。だが、自分には何の力も存在しない。和馬や高村のように風を操ることも、他のどんな術も行うことはできない。持っているのはただこの身体ひとつだけ。ならばそれを盾にする以外にどんな方法があるというのか。
 肉体の傷はいつか癒える。たとえ修復不可能な傷を負ったとしても、やがて痛みは感じなくなる。だが ―― 心の傷は。失いたくないと望んだ相手を、目の前で亡くした痛みは、けして癒えることはない。どれほどの時が過ぎようと、代わりの誰かを得ようとも、それはいつまでも痛み続ける。
 身勝手な行動だという自覚はあった。自分は自分の意志で、自分の為だけに行動しているのだと判っている。守ることができた相手を見て、自分自身が嬉しく思いたいが為の行為なのだと。
 良いことなどではない。褒められるようなことでもない。ただ、自分が双方共に傷ついてほしくないと思った。その為に飛び込んだ。ただそれだけなのだ。
 ……なぜそこまで。和馬は思う。
 自分達に対してどうして、そこまでの思いを抱くのだろう。出会ったばかり、生まれたばかりの、ろくに知りもしない相手達だ。なのにこいつは、どうしてそこまでの思い入れを抱くのだろう。
 喘ぐ春彰の呼吸が、じょじょに浅くなってきていた。触れた掌から体温の下がっていくのが感じられる。緩慢な仕草で前方に戻された瞳には、既に霞がかかりはじめていた。
「……もう……止めましょう?」
 吐息のような声でささやいた。その先にいるのは ―― 怪鳥だ。
 その時になってようやく、和馬はこれまで怪鳥のことをすっかり失念していたことに気が付いた。命を懸けたあの激突で春彰が負傷したあの瞬間から、つい今まで、自分は怪鳥のことを完全に、その存在までも無視しきっていたのだ。仮にも自分を殺そうとしていたそれの、すぐ目の前で。
 あまりに愚かで無謀な行為に、我ながら声も出なかった。いくら春彰の怪我に動転したからといって、そんな無思慮な行動をどうしてとったのか。
 今さらながらではあったが、自分達を守るべく身構えようとする。だが既に持てる力を使い尽くした和馬には、どうすることができるはずもなかった。足さえ満足に言うことを聞かず、腰を浮かせることすらおぼつかない。できるのはただ、歯噛みする思いで怪鳥を睨むだけだ。
 春彰には和馬のそんな様子も、もはや意識の外であるようだった。支える力を失った頭を和馬に預け、のけぞるように怪鳥を見つめる。
「あなた方は……『あなた』は、もう自由でしょう? 鏡から解放されて……新たな生命をうけて……もう、あなたの力を利用しようとする者はいません。自由に生きられるはずです。殺し合う必要など……ないでしょう……?」
 張りもなく、他者を説得するような力強さもない言葉。しかしそれは不思議と温かかった。聞く者の心に自然と浸透してゆくような、穏やかで優しい温かさ。
 何故か、怪鳥は春彰の言葉を無視しなかった。紅玉のような双眸をじっと春彰にあて、微動だにしない。
 ……どうしてこいつは攻撃を止めたんだろう。
 和馬の心にそんな疑問が湧いた。威力を可能な限り落とした和馬のカマイタチでさえ、春彰の身を守る結界らしき物を突き破ることができたのだ。あの勢いで飛来した怪鳥に、それが不可能なはずはない。むしろ和馬と同じく、あそこまで接近した状態で力を押さえる方が至難の技だろう。なぜあえてそれを行ったのだろうか。和馬のように春彰に対して何らかの好意を持っているというのならともかく、怪鳥にとっては何のメリットもない行動だというのに。
 怪鳥はしばらく春彰を見つめていたが、やがて頭を反らすと、一声高々と啼いた。金属がきしるような長い雄叫び。それはさながら悲鳴のような響きを持っていて……
 和馬は心臓をわし掴みにされたような心地がした。妄執とでも表現すべき強い、激しく荒れ狂う感情が伝わってくる。
 それは、怪鳥を造りあげた残留思念であった。
 高村に殺された女性達の、死を否定する想い。高村の力を渇望する干上がった心。風霊達の己を閉じこめた者に対する非難。そしてそれら全てを包括する、深い深い悲しみの念。
 怪鳥を怪鳥たらしめているもの。その本質。それがその思念だ。
 それは怪鳥に破壊を命じる。激情がもたらす苦しみを紛らわせる、八つ当たりともいえる手段として。
 高村が残した想いのままに和馬を殺めても、怪鳥はまだ収まらないだろう。その内に抱えられた念の命ずるまま、破壊と殺戮を開始してゆくだろう。
 ……いずれどこかの術者が、こいつを再び封じるか ―― 殺すまで。
 心の中でつぶやく。感じたのは哀れみ、だったかもしれない。平穏な生を送れぬことを運命づけられて生まれた存在に対する。もしも人麻呂鏡に注ぎ込まれた『気』がもっと別のものであったならば、この怪鳥もまた異なった存在として生まれてこられたであろうに。
 春彰は落としていた視線を怪鳥の方へ上げた。左手を伸ばす。血に染まった掌を上に、差し伸べるように。そして再び微笑した。温かくて、優しくて、慈しむような笑顔。
「『と』めましょう……」
 ゆっくりと、一言一言、確認するように言った。その右手には、人麻呂鏡がある。胸元に抱え込んで、怪鳥の姿を映しだしている。
「人麻呂鏡はひとまる鏡……『ひ』の『とまる』鏡。だから……」
 全てをとめればいい。
 人麻呂鏡を作り、利用した人間に対する『』も、女性達の『』も、高村の『』も、もう『』めてしまおう。
 そうして全ての『』をこの鏡の内へ ―― 『ひ』の『とまる』鏡の内へ『』めて、あなたは自由になればいい ――
 春彰の言葉に応じるように、人麻呂鏡はその手の中で光を放ちはじめた。美しい白光。それは風の精霊が持つ色だ。
 怪鳥が人麻呂鏡から抜け出したあと、封印の解けた鏡に吸い込まれつつあった風霊が、解放されたのだ。
 言霊が ―― 形を変える ――
 霊を留める鏡から、悲しみを留め、想いを止める鏡へと。
 風霊が抜けきった鏡の面に、再び怪鳥の姿が映し出される。様々な念と幾多の血とに染まった深紅の姿。鏡は彼から束縛する妄執を、負の念を吸い取ってゆく。
 怪鳥の姿がゆっくりと色を失っていった。
 それに伴って大きさもじょじょに小さくなってゆく。
 やがて、声もなく見守る和馬の前で、怪鳥は大きく変貌した。そこにいるのは、もはや怪鳥などと呼ぶのはふさわしくない存在。神々しいまでの美しさを持った精霊の化身だ。
 全体の大きさは半分以下に縮まっている。それでも翼長5mはあった。全身が美しく輝く白銀の羽毛に覆われている。瞳は空を映したかのように青い。見事な白鷺だった。荒れる心を静められ安定し、完全に実体化している。
 逆に鏡の方はドス黒く紅い色に染まっていた。邪念を吸収した鏡は、禍々しい燠火のような光を宿し、暗がりに浮かび上がっている。
 それを手の内に納め、春彰は満足そうに白鷺を眺めた。細められた瞳はどこまでも優しい。
「これであなたは、本当に自由ですよ……」
 つぶやく。白鷺はおずおずと春彰に頭を寄せた。差し出された手にその長く鋭い嘴を擦り寄せる。
「クウゥ……」
 甘えるようにのどを鳴らす白鷺を、春彰はそっと撫でた。そして押しやるように手に力を込める。その動きに顔を上げたのにさらに促した。
「行って、下さい。あなたはもう自由なのですから……人間に見とがめられない内に……誰にも邪魔されない内に、早く……」
 こんな見事な鳥を見て、世間が放っておくとは思えなかった。大きさも、美しさも、その瞳の青さすら人目を引いてやまない。捕獲しようとする人間は後を絶たぬであろうし、まして死体と一緒に見つかりでもしたら ――
 彼がただの人間に捕らえられるとは思えないが、それでも騒ぎにはなる。それはあまり有り難いことではなかった。白鷺自身にとっても ―― 秋月家にとっても。
 だから……
「……もう二度と……何にも囚われることなく、自由に……」
 白鷺は春彰の顔を覗き込んだ。青空色の瞳に春彰の微笑みが映る。
 やがて白鷺は一声鳴いた。ばさりと翼を広げ、大きく羽ばたきはじめる。ふわりと浮いた身体は、風に乗って上空へと舞い上がった。見上げる二人の上で、名残を惜しむかのように数度旋回する。
 そして、満天の星空の中、白鷺は美しい光の尾を引いて消えていった。


 白銀の光がその残像まで消える間、二人は無言で空を眺めていた。
「……夕べ、思いついたって言ってたのは、このことだったんだな」
「ええ……何も言霊を消さなく……ても……変化さ……え……」
 春彰の答えが途中で切れて消えた。はっと息を呑んで目を空から戻すと、春彰は両目を閉じていた。人麻呂鏡を押さえていた手が、力無く地に落ちている。
「は……春彰、春彰ッ!」
 和馬は顔色を変えた。何度も名前を呼びながら揺さぶる。しかし首がぐらぐらと揺れるだけで、反応は何も返ってこなかった。
 恐慌状態におちいりかけた和馬は、寸前に気が付いて春彰の口元に手をやった。と、かすかに、風使いである和馬でもなければ見過ごしてしまいそうなほど、かすかに息があった。身体をねじって胸に耳を当てると、やはり弱々しくはあるが鼓動もある。
 和馬は大きく安堵の息をついていた。春彰の身体にまわした腕に力を込める。
 だがここで安心している場合ではなかった。春彰の呼吸も、心臓の鼓動もごくごく弱いものだ。彼が危険な状態であるのに違いはない。
「病院に運ばないと……」
 ようやく思いついてその身体を抱き上げようとする。しかし進んで持ち上げられようとする意思のない肉体は重かった。先程までの戦いで体力を消耗した和馬は、自分ひとりが動くのでさえ気力を必要とする。細いとは言え男一人分の体重は、今の和馬にとっては重荷すぎた。
 さらによく考えてみると、和馬は病院の位置を知らなかった。昨日負った傷は病院に行かず、自分達で手当てしてしまっている。この街にいる理由を深く詮索されたくない和馬は、病院や警察の世話になど一切なる気はなかったのだ。とりあえず春彰をこの場に残してそこらの家に聞きに行こうにも、こんな状態で12月の寒風吹きすさぶ中に放置しようものなら、まず数分と保つまい。
 途方に暮れかけ、つい助けを求めて無人のあたりを見まわす。と、その視界に駅入口にある公衆電話が飛びこんできた。古びた、今時テレカも使えないようなピンクの電話が、和馬にとっては燦然と光り輝いて見える。
「き、救急車だ、救急車」
 抱え込んだ身体を半ば引きずるようにしてそちらにむかった。もうその頭には119番することしかない。何故こんな傷を負ったのか、どんな凶器が使われたのか、といったあたりをどう誤魔化すかなど、まるで考えていない。同じ駐車場内に転がっている死体についてもまた然り。今の和馬は、ひたすら春彰を救うことだけに集中していた。
 不思議な気配に気付くのが遅れたのは、その為もあったのだろう。
 ようやく電話までたどり着き、受話器を外していざ赤ボタンを、と指を伸ばしたところで、やっとそれを感知する。
 いつの間にか、周囲をおかしな空気が取りまいていた。殺気だとか敵意とかいう代物ではない。そんな明確な意志に裏打ちされた気配ではなかった。なにか複数の『もの』が、闇の中から息を潜めるようにして二人の様子をうかがっている。
 ……なんだ、これは。
 害意はないようだが、得体の知れないそれ。和馬は顔をしかめた。片腕で春彰を庇い、もう片手を手刀の形に構える。その動きに気配はわずかにたじろいだようだった。ここで風塊のひとつでもぶつけてやれば、逃げていってくれそうだ。しかしそんな技が使えるほどの余力は残っていない。
挿絵7 「……失せろ」
和馬は低い声で唸った。こいつらの正体や、どうして集まってきたのかなどは気にかかるところだが、今はそんなことにかかずらっている暇はない。
「こいつを死なせる訳にはいかねェんだ。とっとと失せろ!」
 恫喝してあたりの闇を睨む。するとどこかとまどうような空気が伝わってきた。ん? といぶかしむ和馬の前に、闇の一角から四つ足の生き物が現れる。
 和馬は最初それを犬だと思った。四本足だと言うことと、前に長く伸びたその顎のシルエットから。しかしそれは、犬にしてはいささか大きかった。セントバーナードやレトリバーといった大型犬種ならばともかく。
 さらによく見れば、それの全身は毛皮ではなく鋼色の硬そうで、かつしなやかそうな皮膚で覆われていた。ぼこぼこと瘤のように膨れ上がった筋肉が、美を通り越して醜怪さを見せている。地についた前足、いや腕には節くれ立ってはいるが人のものに酷似した指と、長く鋭い鉤爪。顎には親指ほどもあるズ太い牙がずらりと並び、三つある真円の目がうずくまる二人をまっすぐに見ている。
 四足獣はゆっくりと和馬の方に歩み寄ってきた。和馬が警戒の色を見せると、四足獣も足を止めて身構える。
「……離……セ」
 その口から言葉が漏れた。
「ソノママデハ……死ヌ……手当テヲ……早ク……」
 獣の喉で無理に綴る、掠れたしゃがれ声。しかしそれは確かに意味を為していた。人ならぬものが言語を操るという事実よりも、むしろその内容に和馬は驚いた。動きを止めてまじまじと眺める和馬に、獣はさらにそろそろと近付く。
「ハルア……キ……」
 いま腕の中で意識を失っている者を呼ぶ。自分を刺激しないよう、そっと顔を寄せてくるそいつに、和馬は腹を据えた。何が何だかよく判らないが、こいつから害意は感じられない。春彰の名を知っていることといい、敵ではないように思われる。直感ではあるが、それを信じることにした。
 獣は春彰の頬に鼻面を押しつけると、ぺろりと舐めた。血の気のない顔に自分の顔を擦り寄せる。
 その接触面から光の粒子がこぼれた。明るく温かな『気』が、四足獣から春彰へと注ぎ込まれてゆく。
 それが癒しの力を持つことは、はたから見る和馬にも理解できた。まるで紙のようだった春彰の顔色に、じょじょに血の気が戻ってくる。
 やがて、春彰は呻き声を発した。眉をひそめ、ゆっくりとその目が開かれる。獣が顔を離して覗きこんだ。まだ焦点の合わない視線がぼんやりとさまよう。
「ハ……ル、アキ……」
 獣が再び名を呼ぶ。春彰はぴくりと身を強張らせた。瞳がようやく傍らの異形の姿をとらえる。
「……ゆ、ら? 由良です、か……?」
 よく見えないらしい目を細めて問う。獣はもう一度春彰の顔を舐めた。春彰の身体がぐったりと弛緩する。
「申し訳ありません……和馬さんに姿をお見せしないよう、お願いしたのは私の方だったのに……」
 手を上げて獣の ―― 由良の頭に添える。由良は甘えるように喉の奥で唸った。その手に預けるよう、ぐりぐりと頭を押しつける。その様子はついさっき白鷺が見せたのとまるで同じだった。愛犬とその飼い主が愛情を確かめあっているかのような仕草。
 そんな一人と一匹を、和馬はしばし唖然として眺めていた。空白と化した頭で理解できたことといえば、この化け物と春彰とが非常に仲の良い知己の間柄であるらしいということだけだ。
「…………春彰」
 ややあってようやく、言葉をかけることができた。
「一体そいつは……何なんだ?」
 応じて春彰はしばし黙り込んだ。どう答えるべきか迷っているらしい。ちらりと視線を上げて、後ろめたげに和馬を見る。
「企業秘密、です」
「……『これ』が?」
 和馬は絶句した。
 昨夜、春彰が高村を素早く見つけられた理由。今晩の人出を押さえた手段。それがこの得体の知れない化け物の手を借りたが故だと言うのか。
 気が付いてみれば、あたりにいるのは由良だけではない。
 尾が二又に分かれた、ライオンほどもある猫。多数の触手を持つ、腐肉で作られたかのような一つ目の巨大芋虫。コウモリと仔猿を足したような、訳の判らない怪物もいれば、5mを超す大百足までいる。百にはだいぶ足りないが、百鬼夜行というものが実際に存在するのなら、間違いなくその中に加わっていそうな化け物共だ。
 それらが和馬を警戒しつつも、ぞろぞろと春彰に群がり、その傷をいやしにかかる。和馬の脳裏に浮かんだのは、昨夜の春彰の言葉。
「そいつらが、お前を受け入れてくれた友人なのか……?」
「……ええ」
 うなずく。そして左手を上げて腕飾りを見せた。たくさんの勾玉のうち、六つほどが脈打つように内から光を放っている。
「彼らも、です」
「彼ら?」
 聞き返した。その腕飾りがただの装飾品でないことは、さっき春彰がカマイタチを受けた時点で判っていた。春彰の危機に反応して小結界を作り出す、おそらくは護符の一種。何らかの術力が込められた呪物だと考えていたのだが。
「お判りになりませんか? この勾玉に宿っている方達のことが」
 言われて和馬は腕飾りを凝視した。手を伸ばして光る玉にかざしてみる。
 さほど強くはなかったが、何かのエネルギーが感じられた。腕飾りにかけられた術によるものかとも思ったが、それにしてはいまひとつまとまりがない。
「……残留思念……いや、というよりは低級霊か? だが邪気がない……」
 精霊と呼べるほど純粋でもなければ、強い存在でもなさそうだ。
「鬼、あるいは神となれるほどの力を持たなかった、魂や雑多な気の塊達ですよ」
 『鬼』という文字は、中国においては死者の霊魂を指している。古代日本においてもそれは同じであった。死んだ者の魂、あるいは強い残留思念がこごり、他者を守る神、あるいは戒める鬼となるという。
「彼らは実体を持っていらっしゃらないので、残ってもらったんです」
 春彰が説明する。どこに、と問う必要はなかった。異形の内の一体、巨大な灰色芋虫が光と化して消えたのだ。そして腕飾りの勾玉がまたひとつ光を宿す。続いて二本尾の猫が消え、大百足が消える。……最後に残ったのは最初に現れた四足獣、由良だけとなり、輝いている勾玉は十を数えた。ありとあらゆる色の入り混じったその輝きは、春彰の全身を包み込んでいる。それはゆっくりと明滅し、わずかづつではあるが着実に彼を回復へと向かわせていた。語る声も、小さいながらはっきりとしてきている。
「つまりその腕飾りは依代ってとこか」
「はい。そんなところですね」
 依代とは古来、神や神霊が宿る、または宿ったとされる物体である。主に年経た樹木や巨岩などが多く、幼い子供の場合は特に依童と呼ばれた。神道の祭礼で使われる御幣もこの一種である。
 神も鬼ももとは同じ、思念の凝ったものだと定義するならば、鬼と化す一歩手前の気の塊や、化け物 ―― 鬼獣である彼らの宿るそれは、まさに依代といえた。
 ……それにしても、あいつらのどこが『多少変わった知り合い』なんだ?
 そんな表現をしてしまう春彰に、額に手をあてて唸りたくなる。
 当の春彰は普通の感性を持つ人間なら、恐怖に逃げ出すか金縛りにあってしまいそうな由良を相手に、穏やかに微笑んでいる。和馬は深く嘆息した。
「……帰るか」
 疲れた声で提案する和馬に、春彰はうなずいた。
「そうですね。和馬さんも傷の手当てをしなければ」
 由良に寄りかかるようにして立ち上がる。まだ相当に危なっかしい足取りだが、由良の支えがあれば旅館ぐらいまでは何とかなりそうだった。片方の手には人麻呂鏡も忘れていない。
 春彰が身を離して、和馬もようやく立ち上がることができた。全身あちこちにある切り傷は、既に出血も止まり、服も傷口も一緒くたに固まってしまっている。
 ふたりはそれぞれにふらつきながら、ゆっくりと駐車場を出ていった。途中一度だけ、獣を伴う影が立ち止まる。しばらくの間ふりむいて佇んでいた影は、やがてもう一人と獣に促されるようにして歩き始めた。三つの影は間もなく夜の闇に呑みこまれて消えてゆく。
 後に残されたのは、寒々しい街灯の光に照らし出された、あちこちがめくれ上がったアスファルト。そしてそこに横たわる硬く冷たい塊だけであった。


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