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 鏡裏捕影かがみのうらかげをとらう  骨董品店 日月堂 第一話
 第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「彼女は私が見ます! あなたはあの人を……ッ」
 その叫びに背中を叩かれるように、和馬は走りだしていた。既にかなり遠くなり、闇に紛れかけてしまっている後ろ姿を全力で追いかける。 挿絵3
 畜生、やられた!
 胸の内で荒々しく毒づく。まんまとしてやられたという思いに、はらわたが煮えくり返る心地がした。
 失態だった。あれほど後がないと理解していたのにも関わらず、また新たな犠牲者を出してしまったのだ。それも目の前で。
「ったく、何で見つけられなかったんだ!?」
 逃げる高村を追いながら、和馬は歯噛みした。
 旅館で高村を探す風を放ってから数時間が経つ。和馬はその間ずっと、夕食も摂らず風霊の伝えてくる情報を受け止め続けていた。街中の道という道、建物の隙間という隙間、廃屋の中から民家の縁の下まで、およそ風の入り込める場所は全て探った。だが和馬の他に風を扱える者 ―― すなわち高村の存在を発見することはできなかったのだ。風使いの周囲では、近くにいる風霊が独特の動きをするため、すぐに感知できるはずなのに。
 ようやく高村の居場所を捉えられたのは、多数の風霊が大きな動きを見せ始めてから。つまりは七人目の被害者が襲われ始めてからのことだった。
 慌てて旅館を飛び出し現場へと急ぐ間、高村は執拗に被害者を嬲り続けた。
 幸いにもそう離れた場所ではなかったが、それでも車で5分はかかった。ようやくたどり着いた時は、おりしも身体の数ヶ所に傷を負った二十歳ほどの女が、首から血を溢れさせながら倒れ込むところだった。彼女をかばおうとしたのか、やはりあちこちに傷を作っている青年が突き飛ばしたのだが、間に合わなかったらしい。
「高村ァッ!」
 ハンドルを切るのとブレーキを踏むのと、運転席のドアを開けるのが同時だった。怒号のように名を叫びながら風を叩き付ける。鋭い真空の刃が鏡を抱えた高村に襲いかかった。
 ブレーキの音と大声に振り向いた高村は、とっさに地面に身体を投げ出した。カマイタチはその背をざっくりと裂いていく。だがそれはさほど深い傷ではなかった。一転して跳ね起きた高村は、相手を確認すると即座に逃走に移る。和馬もすぐさま後を追おうとした。が、その視界に倒れ伏した女性が映った。広がりつつある血溜まりの中、投げ出された手が弱々しく動いている。まだ息があるのだ。
 血止めをして病院に運べば助かるかも知れない。和馬は躊躇した。このまま高村を追ってこの場を離れるべきか、それとも留まって手当てをするべきか。一瞬立ち尽くした和馬に、傍らで身を起こした青年が叫んだ。
「和馬さん!」
 いきなり名を呼ばれる。
 ぎょっと視線を向けた先にいたのは、人麻呂神社で会ったあの青年、春彰であった。負傷した右腕を抱え込むようにして膝をついた彼は、立ち上がりながら和馬を促す。
「彼女は私が見ます! あなたはあの人を……」
「判った。頼む」
 即座に決断して和馬は走り出した。
「待ちやがれッ、高村!」
 和馬とてけして足が遅い方ではないのだが、スタートが遅れたせいもあって徐々に引き離されつつあった。高村の方は傷を負っているとはいえ、そのぶん死に物狂いともいえる。やたら体格の良い和馬と比べて、細身な高村の方が身が軽いこともあった。まともに競争してはとても追いつけそうにない。
「……っのぉッ、いけェ!」
 走りながら胸の前で手刀を交差させる。そして勢いをつけて左右に振り払った。その軌跡にそって生み出された二つの風の刃が、左下と右上から弧を描いて高村に迫る。
 高村は何とかそれをかわした。しかし大きくバランスを崩し、格段にスピードが落ちる。それをチャンスと距離を縮め、和馬は再びカマイタチを放った。狙いは高村の右腕。人麻呂鏡を持っている手首だ。
 もらった。
 口元に会心の笑みを浮かべた。その同じ口元が次の瞬間、驚愕に強張る。
「何ッ!?」
 高村の手元から巨大な風の塊が発生した。和馬がやるように風霊を集めた気配もなく、突然に。
 それは和馬の放ったカマイタチを、いともあっさりとはじき飛ばした。そのままその勢いを減じることなく、和馬目掛けて殺到する。
 風速数十mに及ぶ突風が襲った。こらえる間もあらばこそ、気が付いた時には宙に浮いている。185p82sの巨体が、傍らの塀にもろに叩き付けられた。受け身も何もあったものではない。あまりの衝撃に目の前が暗くなる。
「く……ぅっ」
 無理矢理目を開くと高村が走っていくのが見えた。後を追おうにも、目眩がひどくて立ち上がれない。後ろ姿はみるみる遠くなり、闇の中へと溶け込んでゆく。
 何故だ!?
 和馬は胸の内で叫んだ。
 どうして高村があれほどの『風』を扱える。あの男にあんな力はないはずだ。あれだけの力を出せるほど風霊を呼び集める力は!
 塀にもたれかかったまま激しくあえぐ。
 遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきていた。


 互いの傷の手当てが終わっても、二人はしばらく口をきかなかった。切った額に包帯を巻いた和馬は、黙然と畳に視線を落としている。ややあってようやく口を開いた時も、その声音は重く沈んでいた。
「あの女……助かりそうだったか……?」
 応じる春彰の声も、明るいものとはいえなかった。
「さぁ、どうだか……一応止血はしましたけど、なにぶん専門外ですから……」
 片方の膝を立てて抱え込む。その前腕には眩しいほど白い包帯がぎっちりと巻かれていた。はおっただけのシャツは所々汚れたり破れたりしており、胸元からも包帯が覗いている。
 ここは日吉旅館の和馬の部屋だった。あの後、救急車を呼びはしたものの、下手に関わり合いになって面倒なことになるのをおそれた春彰が、和馬を追ってきてそのまま部屋に転がり込んだのだ。
 修行中に誤って怪我をすることも多いので、和馬達はこと風による裂傷を治療するすべには通じていた。彼の傷も和馬が手当てし、深いが一週間もあればおおむね完治するだろうと診断していた。
 またも室内に沈黙が降りた。はぁ、と春彰が大きくため息をつく。
「いつまでも落ち込んでいたところで仕方ありませんね。……ちょっと着替えてきます」
 すっくと立ち上がった。手当てのために脱いだコートやネクタイなどを持って部屋を出ていく。
「え、着替えてくるって、おい!」
 驚いて呼び止めようとするが、既に襖は閉じた後だ。和馬はぽかんとした表情で襖を眺める。
「……あいつ、どこで何に着替えるつもりなんだ?」
 つぶやく。旅館の人間に浴衣でも借りるつもりなのだろうか。
 が、予想に反して十分ほどで戻ってきた春彰は、きっちりと洋服を着込んでいた。仕立てのよい濃紺のスラックスに真っ白なカッターシャツを着て、上からは後ろ身ごろが黒、前身ごろにペイズリー模様をあしらったウェストを絞った型のベスト。おまけにサファイアンブルーのネクタイまで締めている。スラックスと同じ色の上着は右手に掛けていた。
「お待たせ致しました」
 言って腰を下ろす春彰を、和馬は唖然として見た。
「お前……その服どうしたんだ」
「どう、とおっしゃいますと?」
 首をかしげた春彰はすぐにあぁ、と笑った。
「私もこの旅館に宿泊しているんですよ。一階の桔梗の間という部屋なんですが」
「……なるほど」
 言われてみれば当たり前な話だ。この旅館の存在は彼に教えてもらったのだから。地元の人間ではない春彰が、旅館の場所を問われて自分が利用しているところを教える。ごく自然な流れだ。
 ちなみにこの部屋は二階で藤の間という。
「下の土産物屋でお饅頭を買ってきました。お茶でも飲んで気分を変えましょう」
 ちゃぶ台に置かれていた湯呑みと急須で茶を淹れ始める。
「腹が減っては戦はできぬか?」
「ええ。貧すれば鈍するですよ」
 くすりと微笑んで玄米茶の入った湯呑みを差し出す。受け取った和馬は、まだ熱いそれを一気に飲み干した。食道から胃にかけて、冷えた身体が内から温まってくる。
「どうぞ」
 手際よくお代わりを注いで、蓋を開けた饅頭の箱も勧めてくる。礼を言ってもらおうとして、ふと箱を持つ手首に目を留めた。
「あれ? お前、腕輪どうしたんだ」
 さっき傷を診た時に気付いたのだが、彼は左の手首に装飾品を巻いていた。様々な大きさの翡翠でできた勾玉が、細い鎖を編んだものに幾つも下げられている。まるで古代の装身具を思わせるそれは、春彰が身動きするたびに触れ合って涼しげな音をたてていた。彼の ―― 自称する ―― 職業からして、実際にそうとう歴史のある物なのかもしれない。その飾りが見あたらなくなっている。
「ちゃんと着けていますよ。お守りのような物ですから。ほら」
 手を上げて袖のボタンを外してみせる。濃い緑色の石が袖口から覗いた。
「色が服と合わないかと思いまして」
 軽く肩をすくめて袖を戻す。確かに青系統でまとめられた今の服装に翡翠の緑色は少々合わないかもしれない。しかし……
「凝ってるな……」
 服など着れればよいという性質たちの和馬には、そうとしか言いようがなかった。応じて春彰は首を振る。
「身にまとう色というのは、これでけっこう奥が深いものなんですよ。古くはそれで身分を表したり、季節などによって色の重ね方に法則を作ったりもしていたんですから」
「ふぅん」
 気のない答えを返す。春彰は苦笑して、再び空になった湯呑みを茶で満たした。自分のぶんも淹れ直す。そして急須を置き、ピンと背筋を伸ばした。長い黒髪と同じ、深い闇の色をたたえた瞳がまっすぐに向けてこられる。
「だいぶ落ち着いてもきたようですし、そろそろ本題に入ると致しましょうか」
「本題だ?」
「ええ」
 和馬も畳に手をつき、くつろいでいた身体を起こす。春彰は落ち着いた動きで顎を引いた。
「私はあの鏡の正確な由来や、あなたが高村と呼んだあの方のことなどを、良く存じてはおりません。それにあなたのような特別な力の持ち合わせもございません。ですから、あなたが彼から鏡を取り戻すまでの間、我々二人で協力して事に当たらないかと提案いたしたいのです」
「はあ……?」
 いきなりの申し出のとんでもなさに、和馬は思わずあんぐりと口を開いた。
 い、いったいこいつは何を考えているのだ。
 あまりのことに呆然と春彰を凝視する。が、彼は平然としてその視線を受け止めた。
「 ―― お、お前なァ」
 しばらく沈黙が続いた後、耐えきれなくなった和馬が疲れたように口を開いた。
「人麻呂神社で先に喧嘩売ってきたのはどっちだと思ってるんだ?」
「喧嘩、ですか? そんなつもりはなかったのですが……あなたがそうおっしゃられるのなら、私の方なのでしょうね」
 答える口調に悪びれた響きはない。どうやら心底言葉通りに思っているようだ。和馬は内心呆れながらも続けた。
「お前は仮にもこの俺に ―― 秋月家に対して宣戦布告をしてきただろうが。鏡は自分の方がいただく、と」
「ええ」
 今度はっきりと肯定する。
「だったら!」
 思わず握り拳でちゃぶ台を叩いた。盛大な音がして湯呑みから茶がこぼれる。
「その舌の根も乾かねェうちに、力を貸して欲しいだと!? どのツラ下げてンなことが言えるんだ。ふざけるのも大概にしろっ!」
 ぜいぜいと息を切らせてねめつける。ただでさえ体格差がある上、腰を上げた和馬に覆い被さるようににらまれて、普通なら怯えるなり身をすくめるなりしそうなものだ。しかし春彰は平然とした表情で和馬を見返した。正反対に物静かな声音で応じる。
「ふざけているつもりはありません。 ―― 誓って。ただあの時とは、少々状況が変わって参りましたから」
 座り直すよう和馬に手で促す。
「私はあの段階でまず鏡の現在の持ち主 ―― 高村さんと話し合ってみるつもりでした。もちろんそれだけですんなり鏡を譲っていただけるとは思っておりませんでしたが。とりあえずは言葉を交わすことで、彼が鏡を求めた動機や、鏡がどういった品なのかを少しでも探れたらと考えていたのです」
 まあ彼は一応骨董品屋を名乗っているのだし、いきなり実力行使で奪い取ることは ―― 可能かどうかはともかくとして ―― するものではあるまい。まずは交渉から入るのは妥当な線だろう。
 相手がまともな人間ならば。
「正直、封印を解く手段というのが、ああいった方法だとは予想外でした。他人の命を不当に利用するなんて……」
 いったん言葉を切って瞑目する。
「それでも第三者である私が出てゆけば、手を止めるのではないかと割って入りました。その上で話し合いを始められれば、と。……ですが彼はためらいすらされませんでした」
 袖の上から包帯を巻いた右腕をさする。ぱっくりと口を開けていたその傷は、病院で正規の治療を受けていれば、まず十数針は縫われていただろう。春彰は和馬を見る目に力を込めた。確信に満ちた口調で告げる。
「あの鏡の封印は解け始めています。あの力は紛れもなく風霊のもの。本来の風使いのそれとは発動の仕方が違います。そうでしょう?」
 和馬も感じたことを、春彰も気付いていたようだ。
 高村の放つ風は強すぎた。あれだけの力を持ち合わせていたならば、初めから人麻呂鏡を求める必要などないほどに。そして技の前兆を感じさせぬ事実は、彼が周囲の風霊の力は借りていないことを示している。では、その力はどこから来たのか ―― 答えはひとつしかない。
「今の彼からひとりで鏡をいただくのは非常に困難です。私にとっても ―― 一流の風使いであるあなたにとっても。違いますか?」
 違わなかった。現に高村は和馬をあっさりと振りきって遁走してしまっている。たとえ和馬が油断していたにしてもだ。本当にあれが実力だったならば、彼は三流風使いなどと呼ばれることはなかっただろう。その能力だけなら文句なく一流に部類できる。
 だが春彰の言い様は少々癇にさわった。この言い方では、まるで風使い全てが高村ごときに翻弄されていると言わんばかりだ。
「……秋月家をなめるんじゃないぞ。高村みたいな小物の操る風なんざ、秋月の本当の大物にかかりゃァ、屁でもねぇんだ」
 凄味をきかせて唸る。
「それは頼もしい」
 春彰はくすりと笑った。
「分家筋で直系にはほど遠い遠縁とはいえ、秋月家当主の信頼厚く、風使いの中では一目も二目もおかれているという和馬さんならば、まさに大物中の大物。ますます力をお借りしたくなりました」
「な……? ど、どうして俺のことを……」
「お別れしてから少々調べさせていただきました。お名前さえ判っていれば、この世界は案外狭いですからね。あなたの技量、立場、そして人となり。大体のところは。 ―― 実を言うと、こうして協力を願えないかと考えたのも、それあってのことなのですよ」
 いきなり自分のことを指摘されて目を白黒させる和馬に、春彰は何でもないことのように言う。確かにこういった世間にほとんど知られることのない、呪術者達の世界は、門外漢が漠然と想像しているほど広いものではない。まして和馬のように実用に足る、強力かつ安定した能力を持つ人間は、その中でもさらに限られた存在だ。
 しかし、それらの情報を手に入れるのはかなり難しいはずなのだが。同じ世界に身を置く者ならばともかく、何の特殊能力も持たない一般の人間が、おいそれと入手できるような情報ではないのだ。
 もしやこいつ ―― どこかのまわし者か。
 そんな考えが頭をよぎった。
 精霊使いの他三家、佐倉か綿津見か立花のどこかが、秋月の弱みを嗅ぎつけて手の者を送り込んできたのかもしれない。
 だが和馬はその考えをすぐに打ち消した。この男はどう見ても精霊使いだとは思えない。たとえ他種の精霊であっても、いるかいないかぐらいの気配は察せられる。彼のまわりには地霊、水霊、火霊のいずれも集まってはいなかった。全身に宿る『気』の量も、術者のそれとは思えぬほど少ない。
 和馬は改めて春彰の全身を上から下まで眺めまわした。注意深く、どんな些細な反応も見逃さぬよう注視する。
「……いいか。もう一度訊くぞ」
 低い声で問いかけた。
「お前は何者だ? 何をどこまで知っている? 目的は? ……今度はマジで答えろよ」
「 ―― 判りました」
 春彰は視線を手元に落として頷いた。
「あなたならば、あるいは私の考えを理解して下さるかもしれませんし」
 呟く。
 再び上げられた目は、これからの言葉に偽りや後ろめたさなどないことを示し、まっこうから和馬のそれと合わせられた。思い返せば彼はいつも和馬の目を見て話していた。客観的にはどうであれ、少なくとも彼自身にとっては、なんら相手の目を避けねばならない事実はないというように。
「……まずは私が何者かというご質問ですが、これは既にお答えさせていただいた通りです」
「アンティークショップの店長、か?」
「はい」
 せせら笑うような和馬の問い返しに、素直に肯定する。
「確かに私はあまりにも若過ぎ、経験も能力も充分ではありません。ですが日月堂の前店主から直々に後を頼まれ、出資者オーナーもそれを快諾してしまったものですから……私もあの店がとても好きで、辞めるのはもちろん、他人にいいように変えられてしまうのも嫌だったので、だから……」
 照れくささと若干の困惑を感じさせる物言い。
「それじゃあ、何か。お前、本当に骨董品屋なのか? ただの」
「ええ」
 即答する。
「多少変わった知り合いやコネを持ってはいますし、店にもいわくつきといった品は多々ありますが、それでも私自身は霊感も特殊能力も持ち合わせていない、ありきたりの人間です」
 ありきたり。その言い様に和馬は内心で呆れた。たとえ彼がその言葉通り何の『力』も持っていない常人ただひとだとしても、はっきり言ってその形容はふさわしくない。見た目といい態度といい、物言いといい……どれひとつとってもそんじょそこらに転がっているような人間ではない。それをしれっとした顔で言ってしまえるあたり、こいつは図太いのかそれとも ――
「あの……?」
 春彰が不安そうに小首をかしげる。
「信じて、いただけないでしょうか?」
 おずおずと訊いてくるその表情には、邪気というものがまるでなくて……和馬はその言葉裏をいちいち勘繰るのが、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
 もしかしたらこいつは単にヌケているだけなのかもしれない。言葉遣いや物腰につい惑わされがちだが、その実は真っ正直で駆け引きのかの字も知らない素朴な人間なだけなのかも……
 和馬は大きく息をつくと肩を落とした。ついでに身を引いて元通りあぐらをかく。
「判った。信じる。信じてやるよ」
「ありがとうございます」
 半ば投げやりに言った和馬に春彰は破顔した。何の屈託もない、全開の笑みを惜し気なく見せる。深夜に皓々と明かりのつけられた室内が、さらに明るく暖かくなったような気がした。一瞬目が釘付けになる。
「ま、まだお前と協力するとまで言った訳じゃないからなッ」
 思わず見とれてしまった和馬は、照れ隠しに大声で吐き捨てた。顔面に血の気が昇っているのが自分でも判る。
「大体あの鏡は秋月家の所有物だ。他の誰にも渡せやしない。こっちから見ればお前も高村も同じ穴のむじなだ。人麻呂鏡を奪おうとする盗っ人って意味でな」
「そんな。私は高村さんとは違います」
 あの高村にまで『さん』付けをしてしまう春彰に呆れる。
「どう違うって言うんだ。高村はあの鏡を使ってより強い力を得ようとしてるし、お前はより多い金を得ようとしてるじゃないか」
「誤解です」
 春彰はゆっくりとかぶりを振った。
「私はそこまでお金に執着を持ってはいません。他人を殺害してまで金品を得ようとは思いませんし、あれを他人に売ろうとも考えてはいませんよ」
「じゃぁ……趣味か?」
 この青年が口にすると金に執着が薄いというのも、冗談や建前とは思えなくなるふしがある。となるとあれだろうか。いわゆる古美術収集マニアという奴。春彰はしばらく考え込んだ。
「半分は、そうかもしれません。私は今の、日月堂での仕事をとても楽しんでいますから」
 少々和馬の意図したのと異なった答えが返ってくる。
「日月堂はもともといろいろないわくつきの品々を収集、管理するために作られた店なのですよ。物品には一般に考えられているよりもずっと『念』や『霊』といったものが宿りやすい。ましてそれが古い時代の、現在よりもずっと不思議が人の生活に深く根ざしていた頃の品ならなおのことです。
 そんな品々に宿った『想い』が時として他者に大きな害を与えることがあるのは、和馬さんもよくご存じでしょう?」
 そんなことは改めて説明されるまでもない。
 工事中に石碑を壊したら事故にあっただの、持ち主に災いをもたらす宝石だの、血の涙を流す絵だの、そう言った類の話はこの世界では当たり前に耳にする。むしろ呪術者のメシの種とも言えるだろう。たまたま波長のあった人間や、そういった物の扱い方を知らない愚か者が、様々な不始末をしでかしては祟りだ霊障だと尻拭いを依頼してくるのだ。
 現実主義、科学崇拝の徹底した今の社会では、かつて確かに存在していた『不思議』を時代遅れの馬鹿らしい迷信だと蔑み、見下しきって一顧だにしない。そして自分達の身勝手な感覚でとんでもない馬鹿をやり、自業自得どころか他人にまで迷惑と被害を広げてゆく。
 和馬自身も長く風使いを続けてきて、そんな事柄はいやと言うほど目にしてきた。いま、現実に目の前にいる自分、風を操る者の存在さえも人は疑い、詐欺ではないかと胡散臭げな目で見ようとする。そのくせいざ風を操る様をまのあたりにすると、今度は一転して化け物扱いだ。
「今の時代、人はあまりにも『不思議』を知らなすぎます。その存在も、そして対処の仕方も。ですからそういったいわくのある品々を、いつ誰の手に渡るか知れない世間に放置しておく訳にはいかないと思うのです」
「ふ……ん」
 和馬は軽く鼻を鳴らした。腕を伸ばしてちゃぶ台に残っていた饅頭をつかむ。白餡を小麦の皮で包んだそれを頬張った。
「まぁ悪い考えじゃねぇな。だがその理論は、こっちにして見りゃ余計なお世話だ。俺達を何も知らない素人と一緒にするな。特に人麻呂鏡の扱いに関しては、秋月家こそが他の誰よりも心得てるさ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
 きっぱりと言い切る。
「では……どうして鏡の中に閉じこめられているもの ―― 風霊を解放しようとなさらないのです」
「……なんだと」
 和馬の声が途端に低くなった。それに気付いているかいないのか、春彰は構わず続ける。
「高村さんからうかがいました。あの鏡はもう数百年も封じられたまま忘れ去られていたと。本当にあなた方が鏡のことをご理解なさっておられるのならば、そんな真似がどうしてできるのですか。一日でも一刻でも、一秒でも早く、閉じこめられた風霊を自由にしてさしあげるべきなのに」
「それができたらとうにやってる!」
 和馬は吐き捨てた。
 何も知らない部外者に言われる筋合いはなかった。
「だができねぇからこそ、鏡自体が封印されたんだ。秋月家が好きで風霊を閉じこめてるとでも思うのか! 封印することで風霊の消滅を防ぐ以外、誰にもどうすることもできなかったんだ」
 お前に何が判る。
 そっぽを向いてやけ食いのように饅頭を詰め込む。春彰はそんな和馬に眉をひそめた。ちゃぶ台に手をついて腰を上げ、身を乗り出してくる。
「でも、せめて努力ぐらいはするべきでしょう」
 和馬はぎょっとして視線を戻した。
 その声。低く穏やかな、澄んだ響きを持つそれに宿っていたのは、非難よりもむしろ哀しみ。秋月家のいたらなさを責めるのではなく、不出来にただ心を痛めているとでもいうように。
 そんな春彰の様子に、和馬は己でも意外なほど狼狽してしまった。情けないことに、差し出た口をという怒りすら湧いてこない。
「ど、努力ならした。ちゃんと」
「その結果が鏡の封印?」
「永遠の……呪縛?」
「……ぁあ」
 歯切れ悪くうなずく。春彰はうつむいた。二三度小さく首を振る。
「それを結果にしてしまうのが間違っているんです」
「……じゃぁ、他にどうしろって言うんだ。お前にはもっといい手段があるとでも?」
 誰かのやったことを否定するだけなら、馬鹿にでもできることだ。それは駄目だ、間違っていると、ただそんな言葉を口にすればすむのだから。
 だが本当にそれが許されるのは、その誤ったと思われる事柄を変革できる代替案を持つ者だけだ。
「手段、とは少し違うと思います」
 春彰はそう言ってかすかに目を細めた。首を傾け、穏やかで静かな哀笑えみを浮かべる。
「ただ、大切なのは心だと思うのです」
「心?」
「はい」
 座り直す。
「精霊にも心があるでしょう? 確かに人間のそれとは大きく異なってはいますが、喜ぶこと怒ること、悲しむこと楽しむことや、誰かを好きになることだって、彼等は知っています。まして風霊ともなれば、その自由を求める心は精霊の中でも最も強い」
 精霊を良く理解している。むしろそのことに和馬は驚いた。
「その風霊を他でもないあなた方が封印している。好きこのんでではないくらい、私にも判ります。でも、だからと言ってそれで風霊達の気が晴れますか? それが一時的な措置だというのならばともかく、『現在いま』どうする手だても見つからぬからと、彼等を封印したまま解放しようという努力をすら怠っているあなた方を、封じられた風霊達はどんなふうに思っているでしょう」
 永の呪縛。数十年、数百年、いつ果てるとも知れぬ禁固刑。
 閉じこめられた鏡本体さえもが人目つかぬ社に封じられていては、もはやいつかは自由にとの希望を持つことすらできない。
「希望ひとつない生と一瞬の死。許されるならば、私は死を選びます」
 沈んだ口調。和馬は問うた。
「たとえ……無駄にしかならなくても、努力はし続けるべきだったと?」
「はい。それが彼らに対する、せめてもの誠意ではありませんか?」
 和馬は答えることができなくなった。
 秋月家のやって来たことが間違っていると思った訳ではない。自分は風使いの一員として、先達が人麻呂鏡を封印するまでの間にどれほど葛藤したか判っているから。判ってしまっているのだから。
 だが、それはあくまで風使いとしての、秋月家の立場に立った場合の考え方ではなかったか。彼のように第三者の視点から秋月家の処置を見た場合、それはどのように映るだろう。……逃げでしかないとどうして言えるだろうか。
「和馬さん」
 黙ってしまった和馬に春彰は呼びかけた。湯気を上げる湯呑みを、両手を温めるように持つ。
「確かに私が首を突っ込むのは、邪魔で余計なお世話なのかもしれません」
 誰も頼んでいないのに、勝手にしゃしゃりでてきて偉そうなことをほざく部外者。所詮そんな存在でしかないのかもしれない。
「けれど……私は彼らが ―― 精霊達が好きなんです」
「は……?」
 間の抜けた声が出た。場違いな台詞を聞いた気がして、目をぱちくりとさせる。
「馬鹿なことを、と思われるでしょう?」
 春彰は苦い表情を浮かべて湯呑みを置いた。
「人間とそうでない者達。どちらかを選べと言われたら、私は人でない者達の方を選んでしまうんです。別に人間が嫌いだという訳ではないのですが……」
「お前、それは問題がないか?」
 霊感なりなんなり、その類の力があって幽霊や精霊と否応なしに交流しなければならないというのならともかく、何の異能もない彼が好きこのんで人外のものと付き合わなくても良いではないか。確かに偏見を持たないのはおおいけっこうだが。
「人間は人間を好きになってこそ健全ってもんだろう」
「でも私を好きになってくれる人はいませんよ」
 さらりと返されて、和馬は危うくその意味をつかみ損ねるところだった。思わずまじまじと凝視する。
「家族を含めた親戚一同も、学校で一緒だった人達も、みな私のことを疎んじていました。本当の私を知った上で受け入れてくれたのは、弟を除けば人外のもの達だけです」
 いわくつきの品や人外のものを特に好む青年。確かに普通の感性を持つ人間は二の足を踏むだろう。そういう人間だから嫌われたのか、嫌われたからそうなったのか。どちらがきっかけは判らないが。
「……私は『彼ら』が好きです」
 もう一度春彰は繰り返した。その口調にもう暗さは感じられない。
「囚われている風霊達を何とかしてさしあげたいんです。解放するのがかなわないのならば、せめて心を交わしたい。でき得ることならその孤独を少しでも癒してさしあげたい。
 私はただ、彼らと友人になりたいんです ―― 」
 どこか遠くを見る目。うっとりさえした、夢を思い返すような。
 和馬は、自分が子供だった頃を思い出していた。
 厳しい修行を繰り返し、風の動きが読みとれるようになったとき、風霊と意思を疎通させられるようになったとき、自分はどんなにか嬉しかっただろう。風使いとして一歩を踏み出し、風霊を友として歩み始めたその時に、どれほどの喜びを味わっていただろう。
 こいつは子供だ。
 和馬はそう思った。素朴で、素直で、好きなものは好きと言ってしまえる馬鹿と紙一重の純粋さ。ひとりの人間として、成人男子として、どこか何かが欠けている気がする。だが、不快な印象は持てなかった。
 おそらくこいつにとって、好きとはイコール大切にすること。幸せにしてやること。そんな程度の認識しかないのだろう。単純で、だからこそ強く一途な思い。
 和馬はがりがりと頭を掻きむしった。しばらく訳の分からないことを唸りながら逡巡する。
やがて諦めて深々と嘆息した。
「……鏡を取り戻すまでだ」
 無愛想に言い捨てる。
 春彰がぱっと顔を輝かせた。
「いいか、それまでだからな。協力するのはあくまでこれ以上の人死にを出さないためだ。人麻呂鏡をお前に譲る気はこれっぽっちもないんだからな!」
「はいっ」
 元気良く答え、またも全開の笑顔を見せる春彰から、和馬はさりげなく視線を逸らせた。よく見ればその頬がわずかに赤くなっている。
 まぁなんだ、三人寄れば文殊の知恵、枯れ木も山のにぎわい。何かの役には立つだろう。胸中で呟いた台詞はだいぶ言い訳じみていた。
 二十六にもなったいい男が年下の、しかも同性の笑顔に魅了されて押し切られたなど、認められるはずがなかった。身に染みついた常識と自尊心と羞恥心が、断固として認めはしない。
 複雑な思いでふてくされている和馬の心も知らず、春彰は行儀良く正座してにこにこと微笑んでいた。


*  *  *


 人麻呂鏡と高村についての説明を一通り聞き終えると、春彰はしばらく沈思黙考した。
「……つまり彼は、秋月家内での自分の立場を、より強いものにしたかったのですね」
「ああ。そしてその為に強い力の源、人麻呂鏡を求めた」
「ですが、仮に彼が人麻呂鏡を完全に手に入れ、その力を利用できたとしても、根本的には何も変わらないのではありませんか? 所詮は借り物の力。彼自身の術力が増す訳ではないのですから。むしろ禁忌に手を出した愚か者として排斥されると目に見えているのに」
 至極正論を述べる。
「ンなこたァどうでもいいんだろ。ようは後先考えてねェ自己満足なんだろうからな。それにあいつはプライドの塊みたいな奴だ。今さら秋月に戻ることなんか考えてないんじゃないか? もし人麻呂鏡を完全に使いこなせるようになったら、独立しても充分にやって行けるだろうからな。『力』だけは」
「……私にはとても真似できませんね」
 春彰が小さくひとりごちる。その声は和馬の耳には届かなかった。和馬はあぐらの上に肘をついて顎を支えると、不機嫌そうに眉を寄せる。
「何にしても人麻呂鏡の封印が解け始めてるってのは痛いな」
 その脳裏に浮かぶのは、先刻カマイタチを造作なく吹き飛ばした高村の姿だ。いま存在する風使いの中でそんな真似ができるのは、現秋月家当主秋月伴典とものりを除けば片手の指も余るほどしか存在しないはずだった。ましてや探索に放った風霊達の目を欺くとなると……
 もう猶予はなかった。おそらくあと一人か二人の生け贄で封印は完全に解けてしまう。そうなったらこれまで人麻呂鏡に閉じこめられてきた風霊達が消滅するだけではない。また新たな風霊が、続々と鏡に取り込まれていってしまう。その力を絞り尽くされ、消滅させられるために。
「こう言ってはなんですが、今日襲われた方が首を切られただけですんだのは、僥倖でしたね。彼女の血潮は鏡に受ける暇もありませんでしたから」
「不幸中の幸いだったな」
 結果的に意味もなく襲われたあの女性にはいい迷惑だろうが、正直なところそうだ。とはいえ、事態が切迫しているという現状に、いっこう変わりはない。今晩は幸いにも封印を解かれずにすんだ。高村もあの傷では、少なくとも今晩これ以上のことはおこすまい。だが明日になれば彼はまたも女性を襲うだろう。時間制限などないぶん、状況は圧倒的にこちらが不利なのだ。
「せめてこれ以上、人麻呂鏡に『気』を与えないようできたらいいんだがな」
 そうすれば戦力的にも精神的にも、ぐっと楽になれるのだが。
「難しいですね、それは。『気』は心に通じ、心は精神体、すなわち『霊』に通じる。人麻呂鏡が『霊留ヒトまる』鏡である限り、かの鏡が気を取り入れることもまた、風霊を吸収するのと同様に必然です。解けかけた封印は気を取り入れるのを助長し、取り入れた気は封印を弱める手助けをする。 ―― イタチごっこですね」
「ちょ、ちょっと待て……おい!」
 和馬は泡を食ってずらずらとしゃべる春彰をとどめた。
「そりゃ一体、どういう意味だ!?」
「は?」
 いきなり並べ立てられた言葉の意味が分からず、くってかかる和馬に、春彰はきょとんとした表情になった。
「どういう、とおっしゃいますと?」
 おっとりと聞き返してくる。
「だから人麻呂鏡が……なんだって?」
 まるで判っていない様子に、春彰はしばらくまじまじと和馬を眺めた。ややあってから不審そうに口を開く。
「人麻呂鏡の名前の由来なんですけど、違うんですか?」
「名前だ?」
 何だってそんなものがいま問題になるんだ?
「……もしかして和馬さん、人麻呂鏡がなぜ『ひとまろ』と名付けられたか、御存知ないんですか」
「なんでって、んなもん作った人間が人麻呂って名前だったんじゃないのか」
「そうなんですか?」
 目を見張って驚いたように聞き返してくる。
「い、いや、知らねェけど……」
 口ごもる和馬に、春彰は深々と嘆息した。額に指をあてて二三度首を振る。
「お、おい」
 そんなに呆れるようなことを言ってしまったのだろうか。あまりな反応に少々焦る。
「 ―― つまりですね、和馬さん」
 手を下ろした春彰は説明を始めた。その口調と表情は、出来の悪い教え子に対しているかのような、あきれと穏やかな優しさが入り混じったものだ。
「人麻呂といえば、普通はまず飛鳥時代の歌人にして三十六歌仙の一人である『柿本人麻呂』を指すでしょう? ですが『柿』は古来『火樹かき』と呼ばれ、また赤い実を宿すことから、彼は『火』の属性を持つとされているんです。これは彼が続日本紀の中で『柿本朝臣佐留かきのもとのあそんさる』と呼ばれていることからも明らかです。すなわち『佐留』は『猿』に通じ、猿は水を司る竜蛇、風を司る鳥、地を司る獅子と共に、火を司るものとされておりますから」
 続日本紀なら和馬も目を通していた。そこには確かに柿本佐留の名は出てきたし、猿が火に属する生き物だというのもその通りだ。しかしその二つを結びつけるというのは、あまり聞いたことがない。しかし春彰は納得のいかなさそうな和馬を無視する。
「『もの』の名前というのはとても重要なんです。その存在の性質を大きく左右し、時として支配しさえする。にも関わらず何故、風の精霊を取り込む鏡に『人麻呂』の名が冠せられたのか……」
「っ!」
 ひらめいた考えに息を呑んだ。
言霊ことだまか!?」
 春彰は無言で顎を引いた。
 言霊とは読んで字の如く、言葉に宿る霊力のことだ。いったん口に出された言葉には、現実を動かす『力』が備わっているという思想に基づいている。どうか、と祈ることは誰でもするだろう。信じるとか信じないとかいったレベルとは別に、誰もが、無意識の内に。そう、全ての言葉は大なり小なり呪文となりうるのだ。
 また、名とはそのものの存在そのものを象徴する。呪術、ことに他者を呪う呪詛などにおいては、相手の名前を知ることがまずその一歩となる。
 現代、言葉は徐々にその重みを失い、名も単なる個体識別の道具でしかなくなってきている。たかが言葉、たかが名前。そのような代物にどんな力があろうか、と
 しかし ―― 単純だからこそ強き力がある。逆らえぬ法則がある。
 いにしえの、いまだ言葉が力を持った時代のそれで鏡は縛られている。
「言霊は意味をあからさまに出すと、効力が薄れる場合がままあります。そこでたいていは読みを変えたり別の漢字を当てはめたりして、元の意味を読みとりにくくするんです。たとえば徳の高い僧侶がひじりと呼ばれるのは『霊知ヒジり』の読みかえであるからですし、六つの瓢箪ひょうたんを縁起がよいとするのは六瓢が『無病ムビョウ』と読めるからです」
「……つまり『人麻呂』ってのも、何かに読みかえられるってことか」
挿絵4  春彰は胸元から薄い木の小箱を取り出した。中からメモ用紙ほどに切られた白い和紙を出し、ポケットに差していた筆ペンでさらさらと文字を書き込む。
「柿本人麻呂が神社等で祀られる場合、人丸と呼ばれることがしばしばあります」
 人麻呂と人丸と書き、さらにその隣へ平仮名でひとまると書く。
「人麻呂鏡は風霊を捕らえて離さぬ鏡。ならば『ひとまる』のとまるは『止まる』あるいは『留まる』でしょう。そしてそうくれば『ひ』にあたるのは……」
「『』か」
「ええ」
 霊留まる鏡と筆が動く。
 和馬はしばし無言で字面を眺めた。
 霊を留め置く鏡。それが人麻呂鏡の真の名だと彼は言う。
 それが真実だという保証はどこにもなかった。だいたい和馬は、そんなことなど一言も聞いていない。だが、馬鹿なことをと無視するには、その節は理路整然としすぎていた。反論の余地がない程度に。
 目の前にいるこの青年は、秋月家の人間ではない。人麻呂鏡についての知識など、二三を除けば、和馬から聞かされたことぐらいしか持ち合わせていないのだ。事実、彼は先刻和馬から教えられるまで、人麻呂鏡というその名前自体、知ってはいなかったのだ。
 それなのに ―― 春彰はほんの数分の間に、しかも話の片手間で、さらに言うならまるで周知の事実であるかのように、これだけの説を立ててしまったのだ。
 ……おそらく、この推論は正しい。和馬の直感はそう告げている。
 和馬は口を引き結ぶと視線を上げた。寄せられた眉の間に深い縦皺が入っている。
「言霊を無効にする方法はないのか?」
「難しいですね」
 春彰はメモを取り上げると、指の間でもてあそんだ。
「人麻呂鏡が制作されたのは、言霊が今よりもまだ、ずっと強い力を持っていた時代でしょう? 人麻呂鏡の制作者以外にも、言霊の知識を持つ人間は数多く存在していたはずです。それでも人麻呂鏡が霊留まる鏡であり続けたと言うことは、生半可なことで言霊の効力を消せない訳でしょう。それにいくら言霊は言葉に宿る力であって、使う者に術力は必要ないといえ、和馬さんは風使いで専門外ですし、私にいたってはそれこそただの人間。言霊を消すなんてそんな大それた真似などとてもとて……」
 も、を口にしないで、春彰はぴたりと動きを止めた。半眼になった目が手の中のメモへと落とされる。
「どうした?」
 和馬が声をかける。が、春彰は答えなかった。ますます目を細め、真剣な表情で考え込み始める。
「……発想の転換が必要かもしれませんね。そう、何も消してしまう必要はないんです。問題なのは人麻呂鏡が『ひ』を『とめる』鏡だという事実な訳で、つまるところ……」
 己の思考に没入してしまった春彰を、和馬はしばし取り残されたていで眺めていた。が、いつまでたっても浮上してこないのに業を煮やし、手を伸ばして揺さぶる。
「おい! 、何かいい方法でもあるのか?」
「え? あ、あぁ、失礼」
 ようやく反応があった。
「ちょっと思いつくことがありまして。うまくいくかどうか、私に可能なのかどうかも判りかねますが、考慮してみるだけの価値はありそうでして」
「どんな方法なんだ!?」
 勢い込む和馬に、春彰は困ったように両手をあげた。掌を和馬にむけ、なだめるように動かす。
「まだ具体的にまとまってはいませんから。そうぽんぽんと妙案は出せませんよ」
 人麻呂鏡の原理を ―― おそらくだが ―― 看破して見せただけでも驚嘆に値する。この上、風霊を解放する手だてまでもあっさりと見つけられては、むしろこちらの立つ瀬がない。相手は風使いたる秋月家が、数百年にわたり手を焼いてきた魔鏡なのだから。
「う……ん、そりゃまぁ、そうだろうが……」
 和馬は決まり悪げに頬を掻いた。どちらかというと考えを巡らせるのは苦手な性分だ。つい春彰に頭脳面を押しつけてしまったらしい。協力するのを承知した時にはとんだ足手まといだと思ったものだが、どうしてどうして。
 それにしても鏡や秋月家の情報といい、この尋常でない知識といい、一体どこから仕入れてやがるんだ?
 そんな和馬の思いも知らぬげに、春彰はあげた掌を上むけた。いわゆるお手上げの姿勢だ。
「どのみち人麻呂鏡本体が手元にない限り、どんな手も施しようがありませんしね。まずは高村さんから、人麻呂鏡を取り戻す算段からしなければ」
 それもそうだ。違いない。
「とりあえず、犯行現場をいかに素早くつきとめるか。その問題さえどうにかすれば、当面の被害は防げると思いますよ。彼はひたすら獲物とした女性をいたぶりますからね。その間に駆けつけられれば、女性を逃がすのは割合楽でしょう」
「……だ、な」
 同意する。取り押さえて鏡を取り戻すというのは困難だが、高村を少しでも足止めできれば、あとは女性の方が勝手に逃げてくれるだろう。
「しかしあいつは、なんで女ばかり狙ってやがるんだ?」
 そのあたりが判らなかった。全般的に言って気の量は女よりも男の方が多いのだ。当然女性ばかりを狙ってゆけば、それだけ犯行回数も増えてくる。となると邪魔が入る率が高くなるのもまた当然であり……こちらとしてはある意味好都合なのではあるのだが、やはり女が殺されるというのは腹が立つ。いや、別に男だったら良い訳でもないのだが……
「おそらく趣味でしょうね。残虐性を満たす。女性であれば抵抗されたところで高も知れていますし」
 驚いた。この青年の口からそんな皮肉げな台詞が出てくるとは。ついさっきまるで邪気のない、子供のように明るい笑顔を見せたその同じ顔で。
 だが、そこに高村を蔑む響きはなかった。言っている内容こそ軽蔑的だが、その口調はあくまで悲しげで、ただ事実と思うことを指摘しているだけらしい。
 和馬は先刻のことを思い返した。あのとき春彰は、和馬よりも先に高村と対峙していた。女性を襲う高村をまっこうから見、言葉を交わし ―― だから、
 おそらくは、それもまた事実なんだろうな……
 大きく肩を落とす。
 と、何かひっかかりを覚えた。なんだろう。思い出したことに違和感を覚える。しばらく考えて判った。
「お前、さっきどうやって高村を見つけたんだ」
 そう。この男はさっき、和馬よりも早く現場へとたどり着いていたのだ。この街全体に捜索の風を放っており、少なくとも高村が行動を起こした直後に位置を確認して駆けつけた和馬よりも、早く。
「えッ……と、その、それはですね……」
 ところが春彰は、和馬の問いに途端に口ごもった。どこか困ったようにぐしゃぐしゃと手の中のメモをいじくりまわす。
「企業秘密その2……っていうのは、駄目ですか?」
 上目遣いになってそんなことを言う。
「それに半分は偶然なんです。たまたま高村さんが行動されたのが、その時私がいた場所とそう離れていなかったものですから。彼が風を使い始める ―― すなわち人麻呂鏡の力を身を隠すこと以外にむけ始めるまで、為す術がないのは、私も同じですし」
「けど、もしかしたら、何かの考えの糸口になるかも知れないだろ。言ってみろよ」
 この自称何の特殊能力も持たない男が、一体どんな手段で高村を見つけだしたのか、大いに興味をそそられる。好奇心も手伝ってしつこく聞くが、春彰は頑として答えようとしなかった。しまいには謝り始めてしまう。
 頭まで下げられては、和馬としても無理に問いただすことはできない。まぁ、そこまで言うんなら、としぶしぶ退く。
「……二人で別行動とって、俺は風を使いながら街中を歩きまわる……駄目だな。偶然は二度も続きゃしねぇだろうし、たった二人じゃこの街は広すぎる。お互いの連絡手段もないし……」
 とっさの精神集中を妨げかねないので、和馬は携帯電話のたぐいは持ち歩かないことにしている。下手な場面でいきなり鳴られようものなら、冗談抜きで命が危ない稼業なのだ。
「結構古い街並みですからね。区画整理が行き届いていない分、道路が曲がりくねっているのは痛いです。見通しが利かない上に、思った方角へなかなかむかえなくて」
 二人してああだこうだと意見を出しあうが、どうもこれだという案が出てこない。
 たっぷり一時間は議論し続けただろうか。ふらりと正座していた春彰の上体が揺れた。バランスが崩れ倒れかけた身体を、畳に手をついて支える。よく見れば、その顔色は元来の白さを考慮に入れてもずいぶんと悪かった。
「おい、大丈夫か?」
 そう声をかけながら、相当な無理をさせていたことに、今さらながら思い至る。考えてみると彼はついさっき負傷したばかりなのだ。それもシャツが血に染まるほどの大怪我だ。いくら風の専門家の手で手当てされたとは言え、それで輸血や痛み止めといったアフターケアも無しに何時間も話し合いなど続けていれば、参ってしまうのも当たり前だ。これはいくら春彰が一言も言わなくても、気遣いひとつしなかった和馬に非がある。
「今日はこれぐらいにしとこう。疲れた頭で考えてても、時間と体力の無駄だ」
 話を打ち切るとさっさと立ち上がる。
「部屋まで送ろう」
 春彰のそばに行って立つのに手を貸した。
「いえ、そんな。大丈夫ですから」
「いいから、ほら」
 案の定春彰は遠慮してくる。もちろん耳など貸さなかった。
 廊下に出てみると、既にほとんどの明かりは消されていた。階段のあたりに遺されたわずかな電灯で、かろうじてあたりが見すかせる。腕時計に目を落とすととうに二時をまわっていた。健康な人間でも普通なら眠っている時間だ。そう思った途端、和馬の方にもどっと眠気と疲労が襲ってくる。
「それでは、お休みなさい」
 階下に降りて桔梗の間の前まで来たところで春彰は和馬を見上げた。
「ああ、おやすみ」
 いつ春彰がふらついても支えられるよう、背中にまわしていた手を戻す。と、長い髪の数本が腕時計に絡まった。別れて部屋に入ろうとしていた春彰が、頭を引っ張られて動きを止める。
「つッ?」
「悪い。ひっかかった」
 振りむいた春彰に謝って手首に手をやる。何とか痛い思いをさせずにほどこうとするが、片手ではうまくいかなかった。どうにか抜かずにはすんだものの、ようやく解放された頃には、さんざんひっぱられた髪はすっかり乱れてしまっていた。
「すまんな。頭ぐしゃぐしゃにしちまった」
「いいですよ。どうせあとは寝るだけなんですから」
 春彰は笑って、取れた髪を後ろに払った。ついでに髪を束ねていた紐をほどく。軽く頭を左右に振ると、黒髪は豊かに広がって背中を覆った。
  ―― これぞ正に闇色の髪、だな。
 そんな感想を覚える。美しい黒髪を表すには、昔から漆黒のとか烏の濡れ羽色とかいった形容詞が使われるが、彼のそれにはどちらもしっくりとこない。つややかな光沢がある訳ではないのだ。それは、浴びせられる全ての光を吸い込むかのような、つや消しの黒。そうでありながら髪質はあくまで柔らかく滑らかだ。それこそ光と相反する闇、そのものを紡いだかのように。
 白い頬にかかった数筋を、やはり白い指がかき上げる。
「では改めまして、お休みなさい」
 にこりとと微笑んで襖に手をかける。とっさに和馬は呼び止めていた。
「何か?」
 再度立ち止まらされても、いやな顔ひとつせずむき直る。和馬は笑って答えた。高村を見つけだす方法、思いついたぞ、と。
 本当ですか? と声を上げる春彰の前で、和馬はもう一度にんまりと笑った。


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