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 鏡裏捕影かがみのうらかげをとらう  骨董品店 日月堂 第一話
 第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 そこは山間の鄙びた田舎町だった。
 多くの山々に周囲を取り囲まれ、すり鉢状になった土地の底に、沈殿するように建物がかたまっている。それらの建物が持つ雰囲気からして、古びてくすんだ感じがした。温泉が出ているという話だったが、人気はほとんど感じられない。それでもかつてはそこそこの保養地だったらしい。時代が下るにつれて交通の発達に置き去りにされたというところか。
「……まぁ、居心地は悪くないがな」
 和馬はそう独りごちた。
 地形の加減からか、穏やかな風が絶えず渦を巻くように街中を流れている。彼にとってはなかなか好ましい環境だ。
 線路がひとつしかない、私鉄の駅前駐車場。和馬は止めた車に寄りかかってパンをぱくついていた。つい今し方、車でこの街に着いたばかりという風情だ。外部に開けた部分の少ないこのあたりは、道路も線路もほぼ同じ場所を平行に走っている。
 長い運転を終えて腹ごしらえにいそしみながら、彼 ―― 秋月和馬は昨夜の会話を思い起こしていた。


 深い山林に囲まれた中にある秋月あきづき本家の屋敷。平屋造りの日本家屋の一室で、和馬は当主と向き合っていた。
「『鏡』を奪還せよ」
 当主は低い口調で命じた。
「あれは決して世に出してはならん物だ」
 最近敷き替えたらしく、室内には青畳の良い香りが漂っている。その畳に正座していた和馬は、太い眉をわずかにひそめた。当主の声に潜められた何かがそうさせたのだ。嫌悪か、侮蔑か。そんな不快さを感じさせるものがそこにはあった。
挿絵1 「『鏡』とは、一体どのような物なんです」
 尋ねる。当主の表情がわずかに沈んだ。
「『人麻呂鏡ひとまろきょう』という。風使いたる我が秋月家の、汚点でも言うべき存在だ」
 苦々しく口にする。
 風使い。それは数百年来、秋月家一派が受け継いできた異能力の呼び名であった。
 古来より人間はあらゆる形で自然を神聖視してきた。世界を構成するものを様々に区分けし、それぞれにそれをつかさどる何らかの法則や意思が宿ると信じる。それは木火土金水といった五行思想であったり、地水火風といった四大元素の思想であったり、また風水や星宿、ホロスコープなど ―― 数え上げればきりがない。
 いにしえにおいて、五行思想に基づきあらゆる呪法や奇跡を行った陰陽師と呼ばれる呪術者達がいたように、四大元素を利用して術をなす者達も存在していた。精霊使いと呼ばれる集団だ。
 彼等はその名の通り、自然界に宿る『もの』を使役することができた。『精霊』と名付けられたそれらのものは、実際のところろくに自我も持たない自然界の気の塊に過ぎなかった。が、ともあれ精霊使い達はその存在を感じ取り、持つ属性や法則を学び、そして操った。やがて彼等は各々が得意とする属性ごとに系統だち、一派を形成し始める。
 そうして生まれたのが風霊使いの秋月家であり、また他の三家であった。すなわち地霊使いの佐倉、水霊使いの綿津見わたつみ、火霊使いの立花。
  ―― もっとも時代が下るにつれて、精霊使い達の力も徐々に衰えていった。佐倉家は今や生まれてくる子の殆どが異能を持ち合わせず、また綿津見家は純血にこだわり続けたため、子供が産まれにくくなり後継者不足だという。
 秋月家は違った。彼等は資質のある者には大きく門戸を開き、その身分の貴賤に関わらず受け入れた。血が濃くも閉鎖的にもなりすぎることなく、その能力を保ち続けた。
「……だが今回は、それが仇となったのかもしれん」
 そう語る当主は風使いを統べる長となって、既に三十年余を過ごしていた。しかし老境にさしかかりつつある痩せた身体は、とてもそれだけの長きにわたり、重い責任を担い続けてきた男のそれとは思えなかった。背こそ高いものの、向かいに座る和馬と比べるとあまりにも脆弱で頼りない。だが表情と瞳に宿る光がその印象を裏切っていた。きっちり撫でつけられた中から数本垂れ下がる白髪混じりの前髪の下、細く鋭い目が刃物のように和馬を見据えている。
 血筋を重視することなくその『能力』に重きを置いたことは、風使い達の中により強い力を求める傾向を生み出した。少しでも他人より強い技を身につけ、より高き立場へと昇りたい。そんな思想が引き起こす生存競争のごとき争いは、彼等の技術を向上させると同時に、互いを憎み、足を引っ張り合う醜い権力争いへと堕としてゆきもしたのだ。
「高村という男を知っているか?」
「ああ……知っています。何年か前に外部から弟子入りした者でしょう? 彼が、その鏡を」
「うむ」
 うなずく。
「彼はここしばらく、己の力の限界を感じて苦しんでいたらしい。人麻呂鏡は風使いにとっては絶大な力を誇る物でもある。高村はその封印を解き、力を我がものにしようとしているのだ……」


 和馬はひとつ息を吐くと、最後のパンを口の中に押し込んだ。もぐもぐと大雑把に咀嚼して呑み下す。
 事がおおっぴらにできない性質のものである以上、これは和馬一人で解決するしかなかった。それだけの信頼を当主から受けていることは誇らしい。だが……いささか面倒な仕事になりそうだった。
  ―― とりあえず、宿を探して行動の拠点を決めておくか。それから鏡が盗まれた現場を確認して……
 これからの行動予定を組み立てる。ぶつぶつと口の中で呟きながら思案していた和馬は、半ば無意識に空になったパンの袋を投げ捨てた。足元に落ちて単なるゴミとなるはずだったそれは、常に街に吹いているそよ風にさらわれる。さらにふと吹き抜けた一陣の風が袋を地面からすくい上げた。
「わっ!?」
 驚きの声が近くで上がって、和馬は我に返った。え? とそちらに顔を向ける。と、ビニール袋に顔を覆われた男性がひとり。今しがた和馬が捨てたばかりのそれだ。
「あぁっ、す、すんません!」
 和馬は慌てて車から身を離した。男性に駆け寄って視界を遮る異物を取り去る。黙っていれば彼が捨てたものだとは思われないだろうに、そんなことになどまるで気がまわっていない。百八十を越す大柄な体躯を折り曲げてぺこぺこと謝罪する。
 幸い相手の男はさほど気に障らずにいてくれたようだ。まだ若い、青年といった年頃だが、迷惑そうな顔も見せず鷹揚に首を振る。
「ゴミ箱でしたらあちらにあるようですよ」
 駐車場の片隅にある、自販機に並んだ網かごを指さす。和馬は恐縮して身を小さくした。体格の良い人間がそうして恥じ入っていると、なんだか妙に愛嬌を感じさせる。青年はくすりと微笑むと、会釈して立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと……」
 和馬はとっさに青年を呼び止めた。
「その、このあたりにホテルか旅館はありませんか」
 訊いてみる。さすがは田舎町と言うべきか。駅のまわりを見渡してみても、それらしい施設がまるで見あたらないのだ。周囲にあるのと言えば民家と雑貨屋ぐらい。本当にここは温泉町なのかと言いたくなる。もしかしたら別の場所にまとまっているのかもしれない。
「ホテルか旅館、ですか?」
 青年は少し考え込むと道の先を指さした。
「ここをまっすぐに行って、二本目の角を右に折れると、五軒目に日吉旅館と言うところがあります。おそらくそこが一番近いと思いますよ」
「どうも、ありがとうございます」
 礼を言ってもう一度頭を下げると、青年もいいえとまた笑う。そして今度こそ背を向けて歩いていった。
 しばらく後ろ姿を見送ってから、和馬は車のドアを開けた。乗り込んでキーをひねろうとしたところで手の中のゴミに気がつく。視線を上げればゴミ箱まで十mと少し。
 ぺろっと唇をなめて窓を下ろした。軽く目を細めて風の流れを読む。
「よっ」
 タイミングを計って投げられたゴミ屑は、風に乗ってゴミ箱の中に落ちていった。


*  *  *


 教えられた旅館はなかなかに感じの良い所だった。木造の二階建てで、部屋数は十もないだろう。全てが畳敷きの和室だ。どこか素朴な感じのする昔ながらの『旅館』で、和馬にとっては下手なホテルなどよりよっぽど好みに合った。温泉が出ているというのも本当で、小さいながらも露天の岩風呂が、盛大に白い湯気を上げている。もっともあまりはやっている様子はなく、埋まっている部屋は他に二つ程らしかったが。
 十二月の寒空のもと長距離ドライブしてきた和馬にとって、露天風呂はかなり魅力的な代物だった。熱いお湯に肩まで浸かって一杯といきたいところだ。その誘惑をぐっとこらえて再び外出する。今度は車を置いて徒歩だ。
 目的地はこれまで鏡が保管されていたというやしろだ。
 『人麻呂神社』
 そこはすり鉢状になった街のちょうど中央部だった。渦を巻いて街中を巡る風の流れが、あたりをぐるりと包み込んでいる。秋月家はもちろん、それを意図してこの場所に建てたのだろう。おおやけにできぬ物を封印する社を。
 道を訊いた宿の人間の口振りからして、どうやら地元ではそこを一般的な『人麻呂』の社だと思っているらしい。一般的な、すなわち歌人、柿本人麻呂が祀られた神社だ、と。
 実在の人物を死後神格化することは、古来よりそう珍しくはない。優れた人間にあやかるために、あるいは怨念を遺して死んだ者を鎮めるために、神の称号を贈り祭祀をとり行う。平安時代、政敵によって都を追われた大臣菅原道真が後者の典型として天満宮に祀られているのは有名だし、京都にも大陰陽師安倍晴明を祭神とする晴明神社がある。柿本人麻呂が祭られた場所は日本各地に点在していたし、それを思えばここが柿本人麻呂神社だと考えても、何ら不思議はなかった。
 だが、ここは違う。人麻呂とは柿本のことではないのだ。
 五段ほどの低い石段を登り、古ぼけた鳥居をくぐる。そこで足を止めた。
 思っていたよりもだいぶ狭い場所だった。街中にこんもりと小山のように盛り上がった雑木林の中。葉を落とした木立を透かして見れば、周囲の建物が目に入る。申し訳程度に下生えを払った十畳ほどの空間に、小さな社がぽつんとあった。形こそ立派な白木造りだが、大きさは高さ1m程度。民家の庭先にある、お稲荷さんと変わらないような代物だ。おそらく中に納められていたのは、人麻呂鏡だけなのだろう。秋月家の者が年に数度、様子を見に来るだけの、ほとんど忘れら去られた神社。
 社の前には先客がいた。黒いコートを着た若い男が、腰をかがめてしげしげと中を覗き込んでいる。何かを探しているような仕草だ。
「何やってんだい?」
 かける声には不機嫌さがにじみ出ていた。
 素人の好奇心は、和馬のような稼業にとって厄介なもののひとつだった。ろくな知識も身を守るすべも持たないくせに、なんだかんだと首を突っ込んできて事態を滅茶苦茶にしてしまうやから。それでいて何かあった時の責任は、すべて専門家に被せてしまおうとする卑怯者。下手に現場を荒らされでもしてはかなわない。
 元来太くてでかい和馬の声は、無愛想な分いっそう迫力を増していた。が、振り向いた男の顔を見て、少し表情を和らげる。
挿絵2 「あんたか」
「あぁ、先程の……」
 表戸の壊れた社を覗いていたのは、駅前で道を教えてくれたあの青年だった。こちらも和馬を見て口元をほころばせる。
「奇遇ですね。お参りですか?」
 軽く首をかしげるようにして話しかけてくる。
その横に並んで社を見下ろした。
「ま、そんなとこだ。ずいぶん傷んでるみたいだな……」
「そうですね」
 ぞんざいな ―― 謝罪する時ならともかく、そうそう丁寧な言葉遣いなどしてはいられない ―― 口調の和馬とは裏腹に、青年の方はあくまで礼儀正しい態度を崩さなかった。もっとも年上を立てているのか単に性分なのか、和馬の態度に不快感を感じている様子はない。
「ずいぶんと綺麗な切り口ですよね」
 しみじみと呟く。
「けっこう新しいもののようですし。誰がどうしてやったかは存じませんが、せっかくの社を勿体ない……」
 白木の切断面に指を這わせた。滑らかな手触り。男のものにしては白く細い指先にも、棘ひとつ立たなかった。切り落とされた破片の方は、足元で泥にまみれている。
 青年のつぶやきには答えず、和馬は無言で社を観察していた。何か手がかりらしきものが残っていないかと目を凝らす。
 戸は右上から左下へと斜めに断ち切られていた。勢い余った刃は社自体にも及んでいる。真横から見てもそれと判るほど、深々と左右の壁に食い込んでいた。まるで社そのものを両断しようとしたかのようだ。
 雑な切り方だな。
 和馬の口元に嘲笑が浮かぶ。
 得物は間違いなく風だった。大気の流れを操って真空の断層、カマイタチを作るのだ。不可視の刃は、手練れの者なら岩をも断ち割る。風使いがこなす技の中では、最も一般的かつ基本的なものだ。間合いを読み損ねたのか、それとも思うように風をコントロールできなかったのか。どちらにしても褒められたことではない。
 俺なら錠前だけを切断する。もちろん戸には傷ひとつつけずに。
 そんなことを考えていた和馬は、続く青年の言葉を聞いて驚愕した。
「中の鏡も盗まれてしまいましたね。封印されていた物を暴こうとは、怖いもの知らずな……」
 和馬はがばっと身体の向きを変えると、青年の胸ぐらを荒っぽく掴みよせた。険しい面持ちで20p近く下にあるその顔を睨みつける。
「お前! 何で知ってるんだ!?」
 今の発言はとうてい聞き流せるものではなかった。
 『鏡』と『封印』
 彼は二つのキーワードを共に口にした。
 ここに人麻呂鏡が封印されていたことは、秋月家の中でも限られた人間しか知らないトップシークレットだ。その存在自体が恥ずべきものであるが故に、社の管理も全て秋月家の人間が行い、たとえ地元の人間であろうとも、社の中を見たり関連する文献を手に入れるのは不可能なはずなのだ。
 高村がどこで人麻呂鏡に関する情報を知ったのかは不明だ。だが曲がりなりにも秋月家に身を置いていた高村ならばともかく、この見覚えも何もない青年の口から『鏡』のことが出るとなると……
「誰からそれを聞いたっ」
 まさかこの男、高村と関係が……?
 脅しつけるように詰め寄る和馬に、青年は動じた様子もなく視線を胸元に落とした。
「あの……ボタンが……」
 コートを掴む和馬の手にそっと掌を重ねる。その手には力などほとんど籠もっていなかった。だが眉をひそめることすらしない、あくまで穏やかな青年の物腰に、和馬は促されるまま手を離して一歩退いていた。糸の緩んだボタンがそれでも無事なのを確認して、青年はほっと息をつく。
「乱暴はいけませんよ」
 乱れた髪を後ろに払いながら和馬を見上げた。
 その仕草で、彼がずいぶんと長い髪をしていることに気がついた。今までは黒いコートの背に溶けこんでいたのだ。腰にかかるほどもある癖のない髪を、首の後ろでひとつに束ねている。見事な黒髪だ。柔らかくしなやかで、まるで光を吸い込むかのような射干玉ぬばたまの絹糸。見上げてくる眼もまた同じ色だ。瞳孔の区別すらつかぬ程の、闇色の瞳。そのせいか肌が際だって白く見えた。男にしては線が細く、背もそう高くはない。顔立ちも取り立てて目を引く容貌ではなかったが、全体的な雰囲気がどこか和馬を圧倒するものだった。物静かで穏やかな……だが底知れない深みを見る者に感じさせる。
「私は骨董品を商っております。鏡の件はその筋から情報を頂きまして」
「骨董だぁ?」
「はい。改めまして骨董品店アンティークショップ日月堂の店主を務めております、あべはるあきと申します」
 姿勢を正して丁寧に名乗る。
「はるあき? どんな字を書くんだ」
 訊き返す。あべはおそらく安部だろう。
「……季節の春に表彰状の彰です」
 答えにはわずかな間があったが、和馬は意識しなかった。胡散臭げな表情で青年 ―― 春彰を眺めまわす。
 ただの骨董屋ごときがどうしてそんな情報を手に入れられるというのか。
 胸の内で唸る。
 これは数百年もの歴史を持つ秋月家が、何代にも渡って隠蔽してきた事柄なのだ。精霊使いの他三家ですら知っているかどうか。それを単なる一般人がおいそれと知りなどできる訳がない。
 そもそも骨董品屋の主人という、その肩書きからして既に怪しいではないか。ひとつの店を持つのには、彼はあまりにも若すぎる。二十六の和馬よりも明らかに年下だ。確かに落ち着きや貫禄と言ったものは持ち合わせているようだったが、それだけで渡っていけるほど世の中甘くはない。開店休業状態の店かと考えるには身なりが良かった。何気なく着こなしているコートなど、服にはまるで興味がない和馬でも、相当に上等な物だと判る。いわゆるブランド品というやつだ。
  ―― ちなみに和馬の今日の服装は、ざっくりと編んだアイボリーのタートルネックセーターに、洗いざらしのジーンズ。上からは濃茶のダウンジャケットをはおっている。ジャケットの袖と襟はボア付きだ。長身に見合った肩幅と胸の厚さを持ち、筋肉質な体格をしている和馬にはラフな格好の方がよく似合う。
「情報源はどこなんだ」
 和馬の声が低くなった。なんなら力づくでも訊き出してくれるという、無言の圧力が込められている。応じて春彰が口を開いた。
「企業秘密です」
「 ―― おい」
 雰囲気に剣呑なものが混じった。春彰は臆することなく続ける。
「残念ですが、こちらにも事情というものがございますから」
 一瞬頭に血が昇った。しかし怒鳴る寸前で思いとどまる。慇懃無礼と捉えられかねない発言をしながら、しかし青年の表情は心底申し訳なさそうなのだ。
「すみません。ただ、信頼できる筋からとだけ申し上げておきます」
 そう言って頭を下げる。
 こうも下手に出られると、どうにも勝手が違った。一、二発ぶん殴ってやればと思っても、手を出すに出せない。これではまるでこちらが悪者のようではないか。
「 ―― っ」
 思わずぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。こういう人間を相手にするのは苦手だ。
「えぇいっ、そしたら……いったい何をどこまで知ってるんだ!」
 質問を変えた。これにまで答えなかったら、今度こそどうにかしてやる!
 『どうにか』を具体的に考えない決意だったが、幸いその必要は生じなかった。困ったように苦笑しながらも、春彰は答えを返した。
「あまり詳しいことは存じません。判っているのは、この社に鏡が封じられていたということ。その鏡の中にさらに『何か』が封じられているということ。そして……」
 一度言葉を切ってため息をつく。漆黒の瞳に濃い憂いの色が宿った。
「……鏡の封印が解かれることは、その『何か』の『死』を意味するということ」
「…………」
 和馬はひそかに唾を飲んだ。干上がった喉をそうして湿らせる。
 誤りはなかった。充分ではないが、間違ってもいない。どこからかは判らないが確実に情報が漏れている。
 緊張する和馬をよそに春彰は続けた。
「私が知っているのはそれだけです。誰が、何のためにここの封印を解いたのかも、それから……」
 そこで急に口調が変わった。沈んだ翳りのある声が、妙にいたずらっぽいものになる。
「あなたのことも、何も存じません」
「あ……」
 そう言われて初めて、和馬は自分が名乗ってすらいないと気がついた。これこそまさに無礼な振るまいというものだ。いかに事情が事情とはいえ、一方的に問いつめるばかりとは。
「あきづきかずま、だ。季節の秋に夜空の月。平和の和に馬って書く。和馬でいい。慣れてるから」
 慌てて自己紹介する。台詞がぶつ切りになるのは照れのせいだ。
「風霊使いの秋月ですか。ということは、鏡はそちら様の?」
「……まぁな」
 和馬は渋々頷いた。こいつは『秋月』の名まで知っているのだ。隠し事の下手な和馬が少々がとことり繕っても、どうせすぐに事情は知れる。
「奪われた鏡を取り返しにいらした訳ですね」
「ああ、そうだよ」
 答えにくいことをわざわざ確認してくる。仏頂面で応じる和馬に、春彰はさらに質問した。
「では無事取り戻すことができたなら、一体どうなさるおつもりなんですか?」
「はぁ?」
 予想外の問いに和馬は目をしばたたいた。彼の意図するところがよく判らない。
「どうって……」
「ですから、もう一度封印なさるとか、破壊してしまうとか……」
「あぁ」
 合点がいった。
「売らねぇからな」
 きっぱりと言い切る。
「それ相応の謝礼はお支払い致します。今度のようなことが起こらぬよう、当方で責任を持って保管もさせていただきます。ですから、どうか……」
「駄目だ」
 言いつのる春彰に首を振った。考慮の素振りすら見せぬ態度にはとりつくしまもない。
 まったく、何を考えているのだ。
 あれは秋月家の所有物だ。たとえどんなに忌まわしい、ひた隠しにしなければならぬ代物だとしても ―― 否、そうであるからこそなお ―― 他者の手に渡してしまうような真似はできない。そう、秋月家の誇りにかけても。
 大体だ、ことをあまり公にできないからこそ、この場所にも和馬がひとりでやって来たのだ。人麻呂鏡の封印を解くため高村がやり続けている所行を思えば、もっと多数の手を、それこそ精霊使いの他三家の力を借りてもおかしくはないぐらいだというのに。
 それほどまで注意を払って扱っている鏡を、言うに事欠いて売れだと? ふざけているにも程がある。あれはそこいらの俗物が考えているような『いわくつきの値打物』とは訳が違うのだ。
「あの鏡についての責任は秋月家にあるんだ。誰が何と言おうと他人の手に渡せねぇ。とっとと取り返してもう一度封印する」
「……そう、ですか」
 どんなに頼んだところで甲斐がないのを察したか、春彰は諦めたように肩を落とした。ほぅとため息をついて視線を足元に落とす。
「それでは仕方がありませんね」
「物分かりがいいな」
 案外あっさり引き下がったので、和馬は少し感心した。もう少しなんだかんだとごねられるとばかり思っていたのだ。やはり人間引き際が肝心、と胸の内でうなずく。春彰は顔を上げると残念そうに微笑んだ。
「あなたの意思はとても固そうですから。説得するのは断念します」
「……『説得する』のは?」
 妙に意味ありげな言いまわしに聞こえた。なにやら目の前の男が、とんでもないことを言い出しそうな予感がする。
 そして彼はその期待……もとい嫌な予感を裏切らなかった。
「そちらがお譲り下さらないとおっしゃられるのなら、いたしかたありません。こちらはこちらで探させていただきます。どうせ行方知れずの鏡なら、誰の手に渡ったとて、不思議はありませんものね」
 そんな台詞をさも残念そうな口調で口にする。
「お、お、お前……っ!」
「あなたが鏡を取り戻されるか、私が手に入れるか……それとも封印が解かれるのが先か……競争ですね」
 あまりと言えばあまりな物言いに、和馬はろくに言葉も出ない。春彰は言うだけ言うと、さっさときびすを返した。振り向きざまに軽く会釈して、古びて丹塗りも剥げた鳥居へと足を向ける。
 呼び止めることすらできず呆然と見送る和馬を置いて、黒髪の青年はゆっくりと歩み去っていった ――


*  *  *


 旅館に戻った和馬は、はっきり言おう。不機嫌だった。
 ムッと眉根を寄せたその仏頂面に、玄関先を掃除していた従業員が思わず脇へ逃げたほどである。無言のままに部屋へ戻り、荷物をひっかきまわして着替えを出す。そして人気のない露天風呂へと向かった。散々熱いお湯と冷水を被り、その後部屋で10本も煙草を消費したところで、ようやく落ち着きが戻ってきた。
 空になったマイルドセブンの箱を握りつぶしていると、部屋の外から控えめに声がかけられた。
「どうぞ」
 返事をして、最後の一本に火をつける。深々と煙を吸い込んだ。そろそろとふすまが開かれる。まだ若い女の従業員が、どこか怯えたような態度で顔を覗かせた。
「あ、あのぅ……頼まれた新聞、持ってきましたけどぉ……」
 おっかなびっくりといった感じだ。風呂上がりに手近な従業員を捕まえて、ここ十日分の新聞を持ってきてもらうように頼んでおいたのだが。
「ああ、ありがとう」
 出て行って受け取ると、和馬はにっと笑いかけて見せた。ちょっと意外なほど人好きのする笑顔だ。全体的に大作りでお世辞にも美形とは評せない顔立ちだが、そうやって笑うと妙に愛嬌がでてくる。
 その表情と礼の言葉を聞いて、相手はようやくほっとしたようだった。どうやら不機嫌そうな和馬がずいぶん怖かったらしい。なにしろ和馬は一見してプロレスラーを思わせるような、大柄でがっちりとした体格をしている。そこらの小娘にとっては、それだけでも充分脅威なところにもってきて、いかにも虫の居所が悪いと言わんばかりの態度。これでは怖がられるのも当たり前だ。
 反省しつつ、和馬はもう一度礼を言って娘を送り出した。その背中が廊下の角を曲がるのを見送ってから室内に戻る。新聞の束をちゃぶ台に置いて、どっかりとあぐらをかいた。
 目的の記事はすぐに見つかった。
『高校教師惨殺!! 変質者の仕業か?』
 白抜き文字に網までかけられた、派手な見出しが目に飛び込んでくる。
 今から一週間ほど前、この街で帰宅途中の女教師が殺された。死因は頸動脈切断による出血多量。使われた凶器は不明。何かひどく鋭利な刃物で全身を十数ヶ所にわたり切り刻まれていたという。その手口の残忍さ、また現場に遺された状況からして、逃げる被害者を嬲るように追いまわしている点など、警察では犯人を変質者と見て捜査を進めている ――
 記事を読み終えた和馬は、顔をしかめて鼻を鳴らした。変質者、ね。まぁ確かにヤツのやってることは正気の沙汰じゃないが、単純に人間を殺すことを楽しんでいるというのとは違っている。使われた凶器を知らず、そこのところを勘違いしている警察には、まず逮捕するのは無理だ。
 開いていた新聞を脇へどけて、次のを手に取る。
 『またも女性惨殺! 同一犯の仕業か』
 二日前と同じ手口で、二人目の被害者が出た。今度は買い物に出た若主婦だ。やはり全身メッタ切りで、あたりは一面血の海だったという。
 その三日後に最終電車で帰省してきた女子大生。連続した翌日には学校帰りの女子高生が、一緒にいた男子生徒もろとも殺された。そして一昨夜には、マスコミ取材中の女性アナウンサーがいつの間にか姿を消し、翌朝遺体で見つかった。
 わずか十日足らずで六人もの被害を出した連続殺人事件。警察の必死の捜査にもかかわらず、犯人の手がかりはまるで得られていない。
 話題の乏しい田舎町のこと。最初は事件をあおり立てていたマスコミも、最新の事件で恐れをなしたのか、街中で取材の人間はほとんど見られなかった。それどころか一般人すらろくに出歩いてはいない。たまに見かける相手は地元民ではない和馬に不審と恐れの目をむけ、警邏中の警官には何度も尋問を受ける始末。
 実を言うと、和馬の不機嫌の原因には、神社での一件の他に警察の無礼な振る舞いもあったのだ。まったく、人の職業が何であろうと、何の目的でこの街に来たのだろうと、滞在予定がいつまでだろうと、みんな俺の勝手だろうが! そもそもお前らが役立たずだからこそ、俺がここまで出むく羽目になったんじゃないか。
 最後の新聞を畳んで、大きなため息をつく。
 犯人はもちろん高村だった。
 他の誰でもない、秋月家の門人であったあの男が、罪もない人間達を次々に殺害しているのだ。
 人麻呂鏡の第二の封印を解くために。
 思い返してみれば、確かに高村という男にはどこか危ない一面があったように思われる。和馬は彼とは大したつきあいもなく、特に言葉を交わしたことすらなかったのだが、それでも彼のプライドが人一倍高かったことは知っている。
 もともと彼は風使いの一族 ―― すなわち秋月家とは何の関係も持っていなかった。家系的に少々霊感がありはしたらしいが、それもあくまで勘が良いという程度の一般人レベルでのこと。それにも関わらず自ら風を読むことに目覚め、風霊を操ることを覚えた高村は、故に強い自身と自負を抱いていたのだ。自分は他の者達とは異なっている。血筋に寄らぬ素養と、それを自ら開花させた才能を持ち、誰よりも強くなれる可能性を秘めているのだ、と。
 だが意気揚々と風使いの門に入った高村の前途は、さほど甘いものではなかった。長年にわたり優れた血を取り入れ、また努力を怠らなかった秋月家の血筋に、彼の資質は遠く及ばなかったのだ。しかも彼が負けたのは秋月の人間にだけではなかった。同じように己の身ひとつを武器に門下に入った者達の中にも、彼より優れた存在が幾人もいたのだ。
 所詮は井の中の蛙。どんなに努力したところで二流がせいぜい。高村が得ることができたのは、その程度の地位でしかなかった。
 実質の伴わぬ高い自尊心。自分は特別なのだという認識を、現実が否定する。そうなった時、はたして人というものはどうするだろうか。
 現実を認め、己の考えを改める。現実を拒み、目を逸らせ、自分の殻の内へと閉じこもる。あるいは……
 現実が自分を特別視しないというのならば、現実それそのものを変えてしまうのか。
 高村が選んだのはその三番目の方法だった。それも正当な努力といった穏便な手段でではなく、最悪のやり方によって。
 そのことを考えると、またぞろ和馬の中に不機嫌の虫が戻ってきた。大造りな口元がぐっと引き結ばれる。脳裏に神社であった男の言葉が蘇った。
「封じられた『何か』か……」
 ひとりごちる。
 どうしてあの男が『それ』を知っていたのか。
 結局のところ、和馬があの男に投げた質問は、ほぼ全てはぐらかされてしまった。どうして人麻呂鏡のことを知っていたのか。人麻呂鏡がどういった代物なのかを、どこまで正確に把握しているのか。そもそもやたらに思わせぶりで得体の知れないあの男は、一体どこの何者なのか。骨董品屋の主人? 冗談。あれがそれだけの男か!
 思わずフィルターを噛み潰す。短くなった煙草を灰皿に押しつけ、和馬は鼻を鳴らした。
 この世にある全ての物質には、それぞれ存在エネルギーとでも言うべき『力』が内在している。それは霊力と呼ばれるものであったり、精霊であったり……生命力であったりする。
 それらの『力』を思うように操るすべを持った人間というのが、いわゆる呪術者なのだ。大半の者は己の力のみを使う。俗に言う超能力者というのがこれを代表する。
 和馬達精霊使いや、様々な神祇官、陰陽師といった者達は、世界に宿る力を多く使った。大地や空、木々や巨石、水、風……自然界のあらゆるものに宿る力を。
 彼等は世界を敬い、そのわずかな力を借りるにも感謝の念を忘れなかった。真言や祝詞とは、もともとそういった自然を神格化したものに祈り、力を借りる許しを乞うための言葉なのだ。自然に対する畏敬の念が、そこには常に存在している。
 精霊とは支配し従わせるものではない。心を寄せ、必要な時にわずかな力を貸してもらうだけだ。それは精霊を、自然に宿る力を使う者の不文律。誰も犯すべからざる、最低限の心得。
 ……しかし、それを破る者はいつの時代にも存在した。己の力と大いなる自然のそれとを混同する者。敬いの心を忘れ、彼等を自分より一段下の被支配物だと考えるやから。
 人麻呂鏡を作成したのも、そんな愚か者共のひとりであった。
 より強大な、他者より優れた術を行使するにはどうしたらよいか。単純に考えれば、それにはより多くの精霊の力を借りることだ。だがどれだけの精霊を呼び集められるかというのは、個々の資質に左右され、鍛錬によって増すことはできてもおのずと限界があった。
 ならば……一度に呼び寄せられる数が限られているというのならば……幾度にも分けて呼べばよいではないか。
 そう、そいつは考えた。そしてそれを実行したのだ。
 人麻呂鏡はその為に作り出された。一度呼び寄せた精霊 ―― 風霊が散って逃げてしまわぬよう、閉じこめて留める封具として ――
 世界を畏れぬそのふるまいが露見した時には、既に遅かった。人麻呂鏡はその内に多くの風霊を抱え、もはや風霊を解放することも鏡自体を破壊することもできなくなっていたのだ。
 このように忌まわしい存在を、利用することなどもってのほかだった。かといって鏡をそのまま放置し続ければ、近づいてくる風霊を際限なく吸収し続けていってしまう。
 故に人麻呂鏡は封印されたのだ。
 せめてこれ以上の風霊を吸収してしまわぬように。吸収され、鏡の内に閉じこめられた風霊が、いずれまた現れるかも知れぬ不心得者に悪用されぬように。
 それは、決して事態を好転させるような処置ではなかったかもしれない。あくまでこれ以上ことが悪化せぬ為の、後ろむきで消極的なやり方。
 それでも、他にどうする手だても見つけられなかったのだ。
 かの鏡に科せられた封印は二つ。
 ひとつはこの街全体に流れ込む風を利用して為された。鏡を納めた社を守り、鏡本体が持ち出されることのないように。これは既に高村の手によって破られてしまっていた。幸い完全にではなかったが、それでも社は破壊され、人麻呂鏡は高村の手に落ちている。
 二つ目の、いまだ解かれていない封印は、鏡自体に施されていた。鏡に吸収されている風霊を、完全に閉じこめるものとして。
 いったん人麻呂鏡に取り込まれた風霊は、もう解放されることはなかった。その呪縛によって、完全に『力』を奪い尽くされ消滅するまで、鏡の中に留まり続ける。
 消滅か、永遠の呪縛か。
 当時の風使い達が選んだのは後者だった。自然とその子たる精霊への敬意と感謝を忘れぬ彼等にとって、他にどうしようもない状況だとはいえ、意図して精霊を消滅させることなどできなかったのだ。
 第二の封印を解かなければ、人麻呂鏡の中にいる精霊の『力』は引き出せない。だが高村自身にその封印をどうにかできる力はないだろう。別の、より大きな力を必要とするはずだ。ではそんな『力』はどこにある? 質問するのは愚かというものだ。彼の目の前にこそ、比類なきそれがあるではないか。
 風使い達が総力を結集してかけたとはいえ、所詮は人間ひとの手による封印だ。完全でなどありえない。300年もの長きにわたったそれは、じょじょに効力を弱めつつある。あと少し、ほんの少し負担がかかりさえすればそれでいい。人麻呂鏡内に封じられた『力』が封印の許容量を超えた時、邪魔な枷は吹き飛ばされ、そして鏡は本来の役目を取り戻す。
 高村がやるのは鏡に『力』を注ぎこむことだ。人麻呂鏡の封印が役に立たなくなるほど、大量に。
 だが高村自身が風霊を集めて鏡に吸収させることは、封印が邪魔をしてできない。弱まった封印の隙を縫って注ぐには、人の持つ純粋な生体エネルギー、いわゆる『気』と言うやつが一番むいている。
「……そこで自分のを使ってれば、まだ可愛げもあったんだがな」
 まぁ、どうせ使ったところで足りはしなかったろうが。
 呟く言葉に嘲る響きはない。ただ冷静に事実を指摘するだけだ。
 自身の持つ気ではなく、他者のそれを利用する。だが何の訓練もしていない一般人が体外に気を放出することなどできるはずもないし、そもそも高村に協力する理由が存在しない。そして協力を得られないのは、相手が他の精霊使いや呪術者でも同じことだ。
 それに人麻呂鏡を手に入れるのに他人の力を借りるなど、高村自身がよしとはするまい。それでは本当の意味で人麻呂鏡が高村のものになったとは言えないし、そもそも他人と力を合わせるようなことができるくらいなら、初めから人麻呂鏡など求めはすまい。
 結果として高村が始めたのは奪うことだった。一般の人間の体内から気 ―― 生命力を奪い取る。体内を巡る生命の源、血液に宿るそれを。
 女を殺し、搾り取った血を人麻呂鏡で受ける。逃げまわる被害者をもてあそぶようにしていたのも、死への恐怖や生への執着といった強い感情によって、体内の気を活性化させるのが目的だろう。それを繰り返してじょじょに封印に圧力をかけていく。考えつくことすらおぞましく、唾棄に値する所行だ。
「……不思議なのは、どうして女ばかり狙ってるのかだな。持ってる気の量からすれば、男の方が効率がいいだろうに」
 首を捻る。これまでの被害者の内、男はただのひとりだけだった。それも前例や遺体の状況からして、狙ったのではなく単に邪魔者としてついでに殺したようだ。
 が、和馬が考え込んでいたのも、しばらくのことだった。
 既に六人もの人間が殺され、その血を人麻呂鏡に浴びせられている。それだけの血を ―― 気を注がれては、最早いつ封印が解けてしまってもおかしくなかった。鏡を悪用されぬ為にも、風霊を消滅させてしまわぬ為にも、そして何よりこれ以上の犠牲者を出さぬ為に、一刻も早く行動する必要があった。
 幸いこの街を巡る風は、いまだ人麻呂鏡を街から出そうとしない。鏡自体の封印が解けない限り、それを所持する高村もまた、この街に閉じこめられているのだ。
 和馬は座布団から立ち上がり、庭に面した窓を大きく開け放った。空調の効いていた暖かい室内に、どっと冷たい外気が流れ込んでくる。
 しばらく目を細めて、その風の流れを楽しんだ。澄んだ空気が和馬を取り巻くように渦を巻く。そこに宿る幾多の風霊達が、彼を中心に戯れているのだ。ちゃぶ台に置かれた新聞がばさばさとあおられ、スチールの灰皿が中身を撒き散らしてひっくり返った。
 口元に柔らかな笑みを浮かべ佇んでいた和馬だったが、やがて室内の空気が完全に入れ替わったのを確認すると、膝を折って窓枠に腰掛けた。行儀悪く片足を窓に載せ、部屋の中を見やる。そして『彼等』に呼びかけた。
 風よ ――
 瞼を半ば下ろした。ゆっくりと息を吐き、意識を拡散させる。いくつもの姿なき存在がこちらに関心を向けてくるのを感じた。ごくごく希薄な、個々の区別すら曖昧なそれらの存在に、そっと心を添わせる。共に戯れるように、その間に気持ちをすべり込ませる。
 この街に、お前達を『利用』しようとする者がいる。探すのに力を貸してくれ ――
 声なき依頼。ごおっと風が一瞬渦を巻いた。
 視線を窓の外に動かす。それを追うように風の流れはほどけ、建物の外へと吹き抜けていった。見送る和馬の前髪が、その余韻でわずかに揺らめく。
 数陣の風は和馬の目となり耳となり、その願いを叶えるべく街中を縦横無尽に吹きわたっていった。


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