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 鏡裏捕影かがみのうらかげをとらう  骨董品店 日月堂 第一話
 序 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(1992/12/16 AM9:41)
神崎 真


 女が道を駆けていた。
 人気のない夜の道だ。
 時刻は既に夜の十二時近い。街中の繁華街あたりならまだ明るいネオンに照らし出され、喧噪ににぎわっている頃なのだろう。が、四方を山に囲まれた小さな田舎町ではそうもいかない。電柱に点々と申し訳程度につけられた街灯がかろうじて、もの寂しくあたりを照らし出している。
 彼女は何かに追われているようだった。
 上がった息で喉が笛のような音をたてる。高校を卒業してからというものろくに運動していない肉体が、運動不足に悲鳴をあげる。
 しかし膝が震え、身体が思うように動いてくれないのは、なにもその為だけではなかった。

 ひゅうっ

 耳元で風が鳴った。
 思わず息を呑んで足を止める。
 そこはたまたま街灯が投げかける光の輪の中であった。その薄明かりによって、これまで闇に沈んでいた姿が浮かび上がる。
 彼女のまとうコートは、ずたずたに切り裂かれていた。何か鋭い刃物で斬りつけられたかのようだ。裂け目からのぞく衣服も同様だ。ところどころに紅く血がにじんでいる。
 軽い音がして、彼女の耳元から黒いものが落ちた。破れた服に引っかかりながら、足元へと零れて広がる。それは断ち切られた彼女の黒髪だった。恐怖に引きつった悲鳴が洩れる。
 怖ろしかった。
 仕事後に友人宅で騒いだその帰り、突然にそれは起こった。掠れた口笛のような音が聞こえた気がして、ふと立ち止まった。視線を落としてみると、コートの胸元が切れている。あら? とぱっくり開いた切れ目に手をやった。手の甲に氷で撫でられたような冷たい感触。皮膚に紅い筋がはしった。見つめる前で紅線は見る間に玉を結び、真っ赤な血が溢れ始める。
 驚きに立ちすくむ彼女の全身を、次の瞬間、同じ現象が襲った。
  ―― なぜこんな目に遭わなければならないのか。どうしてこんな現象が起こりうるのか。
 彼女には判らない。彼女はカマイタチと呼ばれるものの存在を知らなかったし、仮に知っていたとしても、いまの状況はとうてい理解できなかっただろう。
 怯えた瞳が救いを求めて動かされる。
 と、
 その視界に人影が入った。
 スポットライトのような光のために細かい風貌は見てとれない。しかし人間には違いない。
 女は顔を輝かせた。助かった、という喜びの念がわき上がる。
 助けて下さい。彼女は叫びながら駆け寄ろうとした。その想いになんの根拠もないと言うことに気付かないままで。女を制止するように、相手が右手を挙げる。その手はそのまますっと横に振られた。
 水がぶちまけられるような音がした。
 生暖かい液体が彼女を濡らす。
 前に差し伸べていた手を目の前に持ってきた。紅い。かすかな湯気と共に濃密な血臭が立ち昇ってくる。
 気管と頸動脈が断ち切られていた。口を動かす。しかし喉の傷口から空気が漏れるだけで、悲鳴も助けを求める声も発せられはしない。
 身体から力が抜けていった。
 不思議と痛みはない。彼女の心を占めたのは苦痛ではなく、死に向かう事への恐怖だった。失われつつある命への渇望。彼女の生命力と未練の想いを溶かし込んだ血潮が、脈を打って流れ出してゆく。
 やがて女は完全に動きを止めた。それを確認したのか、人影が光の領域へと歩み寄ってくる。男だ。まだ若い。三十もいかないだろう。
 倒れ伏した彼女の ―― 否、彼女であった『もの』の傍らに膝をついた男は、のどを鳴らして笑った。喜悦と希望とをその内に秘めさせて。
 冷たくなってゆく死体の前でのそれは、紛れもなく醜く歪んだ狂気の産物でしかなかった。


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