硝子の瞳  骨董品店 日月堂 第八話 外伝
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/10/18 11:24)
神崎 真


 骨董品店アンティークショップ、日月堂。
 洋の東西を問わぬ書画骨董の類を扱うそこは、商売を同じくする他の店とは、いささか異なる事情を持つ店であった。
 その店内に並ぶ古く年経た品々の中には、いささか穏やかならぬいわれを持つようなものが、数多く存在していた。もちろんのこと、そのほとんどはあくまで単なる来歴に過ぎない。だがしかし、中には真実看過できぬ性質を宿す品物もまた、確かに実在しているのだった。たとえば持ち主に不幸をもたらす宝石、すすり泣く彫刻、一夜にして姿を変える絵画などなど……話を聞いただけでは眉唾としか思えぬような品々は、数少ないながらも現実そこに存在しているのである。
 そして、そういったいわくのある品々を、日月堂は自ら積極的に収集・所蔵していた。むろんどれもあやしげなまがい物などではなく、実際にその怪異を確認された品ばかりを厳選してだ。
 なぜならば、昼と夜の双方の空を飾る星の名を持つこの店は、そのためにこそ、存在しているものだったからである。


 ―― 安倍晴明あべはるあきという少年がそんな店を手伝うようになって、はや一年近くが過ぎようとしていた。
 この店に預けられた当初は、泣きもせず笑いもせず、この先どうなることかと危ぶまれた彼だったが、それでも最近ではかつてをうかがわせぬ穏やかな表情を浮かべるようになってきていた。背丈などもここ数ヶ月でずいぶんと伸び、落ち着いた物腰と相まって、実際の年齢よりもかなり大人びて見える。
 すっきり背筋を伸ばして立つ姿など、とても義務教育を終えて間もない年頃だとは思われなかった。
「ここ、ですね」
 住所の記された紙を頼りに目的地を捜していた彼は、そう呟いて歩む足を止めた。
 見上げた先にあるのは、立派な門構えを持つ日本家屋である。白塗りの土塀ぞいに歩んできた晴明は、掲げられた表札の名を確認すると、うなずいてメモをしまい込んだ。
 お前もそろそろこれぐらい覚えろ、と。
 つい数時間ほど前のこと。日月堂の店主はそう言って、彼をひとりで取引先へと送り出した。もっぱら掃除や在庫整理が主だった当初とは異なり、最近では彼も骨董の鑑定や買い取りの場に立ち会わされることが増えてきている。が、それでも一人で先方へ向かわされたのは初めてのことだ。
「……私などが赴いて、門前払いにならないと良いのですけれど」
 小さくため息をついて、彼は左手にはめた腕飾りを撫でた。その仕草は既に半ば習慣となっているものだったが、初仕事に緊張しているのか、常よりもずいぶんとぎこちない。
 と、その指の先でひときわ大きな勾玉がひとつ、柔らかな光を放って明滅した。
 銀鎖を編み込んだ中に大小幾つもの勾玉が下げられたそれは、さながら古代の巫女の装身具を思わせる品だ。そして事実、その品には不可思議な力が宿っている。正確には、不可思議な力を持つ『モノ』が。
「ああ 、そうですね。せっかく任せていただけたのですから、やれるだけのことはしませんとね」
 明滅する光に答えるように、晴明は手元を見下ろして微笑んだ。そうしてもう一度、今度は落ち着いた手つきで勾玉を撫でる。 
 そうして顔を上げた彼は、門扉に取り付けられた呼び鈴へと指を伸ばしたのだった。


◆  ◇  ◆


 通された応接室は、洋風の調度で整えられていた。
 昨今では古い日本家屋でも、すべて和式で統一されている家は珍しい。この建物もずいぶんと手が入れられているようだった。
 出されたお茶には形ばかり口をつけて、取引相手が現れるのを待つ。
 玄関からこの部屋まで、さほど長い距離を歩いたわけではない。だが、それでもこの家の雰囲気がどこかしら浮き足立っているのが感じられた。あらかじめ聞いていた事情からすれば、それなりに沈んだ気配があるのは当然だ。しかしそれだけとも思われない、落ち着かない空気が漂っている。
 ノックの音に我に返り、晴明はソファから立ち上がった。そうして現れた人物に頭を下げる。
「お初にお目にかかります。坂根さまの御紹介で参りました、日月堂の安倍と申します」
「ああ、話は聞いています」
 うなずいて座るよう勧めたのは、三十半ばほどの男性だった。晴明が再び腰を下ろすと、彼もその向かいのソファへと身を預ける。
「辰野さまでいらっしゃいますか」
「そうだ。あなたは ―― 店主ではないようだが」
 若すぎることに不審を抱いているのだろう。値踏みするような視線が上下した。
「店主とは親戚筋でして。その縁で手伝いをしております」
 そう告げると得心したようにうなずいた。
 しばらく家屋や庭園などを話題に当たり障りのない会話を交わし、それから本来の商談へと移る。
「なんでも、古い抱き人形とままごと道具一式というお話ですが」
「ええ。私の曾祖母がその父に買ってもらった品だそうで。それから代々うちの女の子が使ってきたものです」
「曾お祖母様のご幼少の頃となると、だいたい100年から120年は以前のものになりますでしょうか」
「そう、ですね。それぐらいにはなるでしょう」
 ともあれ、実物を見てもらった方が、と腰を浮かせる。
 無論晴明の方も否やはない。案内されるのに従い、長い廊下を渡り離れになっている棟へと足を踏み入れた。
 そちらの建物は、完全に洋風に改築されている。どうやら実際の暮らしはほとんどこちらで行っているらしく、そこここに生活感が漂っていた。
 事前に聞いていた話によれば、辰野の一家に子供は三人。小学校三年生になる長男と、同じく一年生の次男、そして今年幼稚園に上がったばかりの長女がいた。
 いたので、あるのだが ――
「こちらです」
 そう言って辰野が合板の扉を引き開けた。
 招き入れられた先は、いかにも子供部屋という雰囲気の室内だった。どうやら部屋の数には困っていないらしく、末の女児がひとりで使っていたらしい。六畳ほどの室内には草色の絨毯が敷かれ、可愛らしいキャラクターの模様がついた掛け布団やカーテンに飾られている。ベッドの枕元やタンスの上など、そこここにぬいぐるみが並んでいた。三番目に産まれた女の子は、両親にとても愛されていたようだ。
 小さな机の上に、幼稚園のカバンと畳まれた制服が並んでいる。
 だが ―― この部屋の持ち主がそれを使うことは、もう二度とないのだった。
 最初は風邪をこじらせたと、ただそれだけのことと考えていたのだそうだ。だが幼い命は実にあっけなく両親の元を旅立ってしまった。それからまだ一ヶ月と過ぎてはいない。それは悲しみが思い出となるには、あまりにも短い時間であった。
「…………」
 カバンの横に置かれている写真立てに、晴明はしばらく黙祷する。それから目的の物へと視線を向けた。
 それらは意外なほど無造作に床へ置かれていた。
 ミカン箱ほどの大きさの、小さな引き出しや開き戸のついた木製の小箱と、それにもたれかかるようにして座っている、西洋の抱き人形。人形は古風な意匠の桃色のドレスをまとっていたが、小箱の方は明らかに日本風の造りであった。桐とおぼしき細工の所々に、真鍮の飾り金具がついている。
 そっと引き出しを開けてみると、中には指先ほどの大きさの茶碗や皿小鉢が収められていた。
「とても丁寧な細工がされていますね」
 晴明はポケットからハンカチを取り出すと、その布越しに椀のひとつをつまみ上げた。目を近づけて上下左右から細部を確認する。五粒も米を入れればいっぱいになってしまうだろう小さな食器は、しかし本物の漆で塗られていた。外側は黒く、内側は赤く、蓋には細かい筆で花模様まで描き込まれている。爪楊枝の先のような箸も、上蓋を開けた中から出てきた膳も同様だった。皿や小鉢などは、土をこねて焼いた本物の陶磁でできている。造りが小さいだけで、どれも本物の食器と変わらない細工であった。いやむしろプラスチックや大量生産品が出まわっている昨今を思えば、本物よりもはるかに上等な代物である。
 ただ惜しむらくは、保存状態が良くなかった。良くないというより、はっきり悪い。
「だいぶ傷がついているようですね」
 ひとつひとつ丁寧に取り出し、そばにあった座卓の上へと並べてゆく。
 まず明らかに食器の数が足りなかった。あるものは四つあるかとおもえばあるものは二つしかない。箸など全部まとめても三本 ―― 一組半だけである。しまい方も乱暴なもので、あちらの引き出し、こちらの引き出しへと、手当たり次第放り込んでいるような状態だった。カチャカチャと互いにこすれあい、傷だらけになってしまっている。
 これではどんなに良い品でも台無しだ。
「子供が遊ぶものですから……」
 辰野が言葉を濁す。
 大人から見れば上等な品物でも、子供にとっては単なる遊び道具だ。場合によっては泥を盛ることや、他のことに気を取られ出しっぱなしでほかへ行ってしまうこともあっただろう。落としたり踏んだりといったことも日常茶飯事だったに違いない。
 ある意味それは、道具として本望な扱われ方だったかもしれないが。
 しかし正直なところ、売り物として引き取るにはいささか無理のある状態であった。
 が、ひとまずそれは口にせず、晴明は続けて抱き人形の方へと目を移す。こちらも慎重な手つきで取り上げ、各部を確認していった。
「二度焼きされた白磁の肌……典型的なビスクドールですけれど、ヘッドマークはありませんね。眼球の造りや胴体の材質からいって、70年代後半あたりの作でしょうか」
 まくり上げていたドレスを戻し、服装を整えてから元の場所へ座らせる。
「その、大変申し上げにくいことですが ―― 」
 言葉を選ぶように、視線を落として口を開く。
 こちら人形もまた、きわめて保存状態が悪かった。磁器の表面にはところどころ擦れたような傷があり、鼻の頭などかすかに欠けてしまっている。金の巻き毛はもつれきっており、ドレスにも幾度も修復したあとがある。
 品物としてはけして悪くないのだが、もはやアンティークとしての価値は無いに等しかった。
 得意先からの紹介であり、またそれとは関係なく、面と向かった相手の意向を否定するということに抵抗を覚える晴明は、ひとつひとつ言葉を選びながら丁重に結論を伝える。
 曰く、申し訳ないがこれらの品については、ほとんど商品価値を認められない、と。
「なにも高く買って欲しいというわけではないんだが」
「はあ、ですが……」
 食い下がる相手に、晴明は困惑したように眉を寄せる。
 修理してどうにかなるといった程度ではないのだ。はっきり言って、無料で引き取ったとしても、処分するだけ手間暇がかかるぐらいなのである。
 これが晴明個人での商談であれば、その程度の手間などどうでも良いのだが、かかってくる金銭が日月堂の ―― ひいては安倍家の懐から出るものである以上、彼としても気安く請け負うような発言はできかねた。
「では、一度店主とも相談のうえ、後日改めて伺わせていただくということでいかがでしょうか」
 確かに、店主の代理で訪れた若輩者の自分が一存で断りなどしては、相手の気分も悪くなるというものだろう。たとえ結論は変わりないにせよ、いったん店に戻り、店主を通じて改めて話し合ってもらった方が良いかもしれない。
「ああ、いや、しかし」
 晴明の発案に、辰野はなおも煮え切らない様子で言葉を返す。
「そうだ、店の方でも実物を見なければ判断がしにくいでしょう。一式預けるから、見積もりしてもらえないだろうか。もちろんゆっくりでかまわない」
 そこまで言われて、晴明はようやくなにかがおかしいと感じた。
 亡くした子供が使っていた玩具を、見るのが辛いから手放したいと、そう言って売りたがる人間は珍しくない。なじみの客が話を持ち込んできた時、店主が特にいぶかりもせず、二つ返事で請け合ったのはその為だ。実際、保存状態がいまひとつとはいえ、本来の品物自体は上等なものだし、破棄するのではなく誰かもっと大切にしてくれる人間に譲りたいと考えるのも、まあ自然な流れだと言えた。
 だが、辰野のこの言い様はいささか違和感を覚えるものだった。
 故人を思わせる品物を目の前に置いておきたくないと、そう考える気持ちは判る。しかしそれならそれで、処分するべきものは他にもっとあるはずだ。机に飾られた写真や衣服も、生前のままに整えられた室内も ―― むしろ、未だ忘れることなど思いもよらないのではないかと、そんなふうに感じさせるものだ。
 なのになぜ、この古びた遊び道具ばかりを、そういて処分しようとするのだろうか。
「あの、もしかして ―― 」
 なにかこれを手元に置いておきたくない理由でもあるのでは。
 問いかけようと口を開きかけたとき、なにかの弾みでかたりと人形が動いた。置いたときの角度がまずかったのだろう。木箱の傍らで、わずかにかしいでいる。
 とっさに手を伸ばした晴明の前で、辰野は過剰な反応を見せた。
 裏返った声をあげて数歩後ずさる。両手を顔前に掲げるようにしたその姿勢は、明らかに人形から遠ざかろうとするものだった。
「……辰野さま?」
 人形を抱き上げながら、晴明はいぶかしげに問い返した。両手で胸元へとひきよせたまま、辰野の方を振り返る。
「……ッ」
 足元の物をがたがたと蹴飛ばしながら、辰野は壁際まで後退した。
「どうかなさ ―― 」
「そ、そいつを近づけるなッ!」
 悲鳴のような声で叫ぶ。
 歩み寄ろうとしていた晴明は、きょとんとして立ち止まった。その腕の中で、人形の瞳が虚ろに光る。
「必要なら金も払う! 頼むからそいつを持っていってくれっ。あんたがたなら人形供養でもなんでも、つてはあるだろうッ?」
「え、ええ……それはございますけど……」
 もともと本家の家業が家業であるだけに、人形供養だの焚き上げだのといった儀式は、確かにお手のものではあるのだが。
 しかしなぜここでそれが出てくるのか、晴明はまだ判っていなかった。そして判らないことは素直に訊くのが彼の性分である。
「辰野さま、なにかこの人形を手放されたい理由がおありなのですか?」
 とりあえず、人形を忌避しているらしいと見て取って、そう問いかけてみる。
「そ、そんなことは」
 言葉を濁しながらも、辰野の目は人形を直視することを恐れ、不安定にあたりをさまよっている。どう見ても言葉通りとは思えなかった。
 晴明は無言で首をかしげ、辰野の言葉を待つ。
 まっすぐ向けられるその視線に耐えられなくなったのか、やがて辰野はぽつぽつととぎれがちに事情を語り始めた。


 最初に異変に気が付いたのは、辰野の妻だった。
 わが子を亡くした悲しみの癒えぬまま、おりおりに故人の部屋を訪れていた彼女は、室内の様子が変化していることにいち早く気が付いたのである。
 初めの頃はかすかに違和感を覚える程度で、なにがおかしいのかははっきりとせずにいたのだが、日を経るに従ってその原因が浮かび上がってきた。
 人形のいる場所が変わっているのだ。
 娘が生きていた頃はだいたいベッドの枕元に置かれていた人形が、ふと気が付いたときにはタンスの上に座っていた。その時は別になんとも思わずにいたのだが、ある日机を片付けようとしたとき、椅子に腰掛けているのを発見して、彼女はぎょっと息を呑んだ。それでもまだ誰かが動かしたのだろうと思い、元通りベッドの上に戻したのだが。
 翌日、今度は窓枠に乗っているのを発見して、彼女は家の者にひととおり問いただした。誰か故人の部屋に入り中の物に手を触れたのか、と。だが答えは全員、否であった。
 それ以降も、毎朝陽が昇るたびに人形の場所は変わっており、ときにはままごと道具までが、まるでついさっきまで誰かが遊んでいたかのように、中身が取り出され床に並べられているのである。
 誰かのいたずらではないかと部屋に鍵を掛けても、事態はまったく変わらなかった。
 余人の手など触れるはずのない密室の中で、やはり人形は動いているのである。


 時おりうなずきながら聞いていた晴明は、辰野が話し終えると静かな目を人形へと落とした。
 つと指を伸ばし、頬に掛かっているほつれ毛を丁寧にどけてやる。
 それから再び目を上げ辰野を見返した。
「 ―― それで、辰野さまはそれらを、どのようにお考えでいらっしゃるのですか」
「ど、どう、とは」
「ですから……供養を望まれるということは、つまりこのことには故人が……娘さんが関わっておられると、そのようにお考えなのでしょうか」
「…………」
 その問いかけに、辰野は複雑な表情で口をつぐんだ。
 無理もあるまい。世間一般の、ごく当たり前の感性を持つ人間が、人形がひとりでに動くだの死者の霊だの、そんな話題をなんのこだわりもなく口に出せるはずがないのだ。余人の目から見てどのように映るのかと、そう思えば、たやすく話題にできるような内容ではない。
 だが陰陽道の宗家に産まれ育ち、当たり前のようにそれらの実在を語り聞かされ、事実その目でも確認して生きてきた晴明にしてみれば、なぜ辰野が言葉を濁すのか、その方がむしろ理解しがたいことである。
 無論、世間一般においてそういった事柄が公には認知されていないと、そんな知識は彼も持ち合わせているのだが。
 答えをしばらく待ったが、いつまでも返されないそれに、晴明はさらに言葉を重ねた。
「もしもこの人形を動かしていらっしゃるのが娘さんであったなら、手放されるよりもむしろ手元に置いておかれた方がよろしいのではないでしょうか。その方が娘さんも寂しがられないでしょうし、奥様も ―― 」
「じょ、冗談じゃないッ!」
 悲鳴のような声が晴明の言葉を遮った。
「そんな気味が悪いものをなんで持っておかなきゃならないんだ! い、いいからさっさと持っていってくれ。金なら払うと言ってるだろうッ」
 そう言って人形をにらむ辰野の目は、血走ってぎらぎらと光っていた。
 理解できないものへ対する恐れと嫌悪が、晴明の腕の中にある人形へと向けられる。
「気味が悪いって……」
 死者とはいえ自身の娘に対し、何故そのような言葉が出てくるのか。
 まったく理解しがたい態度に言葉を失った晴明だったが、ふと急に己の腕の中へと視線を落とした。
「 ―― ?」
 その素振りに気を取られたのか、辰野もまたわめくのをやめ、彼の目の先を追う。
 そして引きつった声を漏らした。


 人形が、首をねじ曲げていた。


 横抱きにされ、晴明から見て右手の方向を見ていたはずのその顔が、いつの間にか正面にいる辰野の方を向いている。
 この種の人形は各部の関節が動くように作られているため、そういった体勢をとることに不自然はない。だがそれはもちろん、誰か扱う人間の手で、姿勢を整えられてこそである。だが晴明も、当然辰野も、そういった意味ではまったく人形に触れていなかった。ほんのついいましがた、わずか数秒目を離す前まで、確かにこの人形はまっすぐ前を向いていたのに。


 かたり


 かすかな物音がした。
 辰野がびくりと反応し、せわしなくあたりを見まわす。晴明は逆に、一心に人形を眺めていた。
「あ ―― 」
 その口からかすかな声が漏らされる。
 人形の腕が持ち上がっていた。桃色のドレスに包まれた左手が、ゆっくりと動き辰野の方へとさしのべられてゆく。指のひとつひとつまで丁寧に作りこまれた小さな手のひらが、何かを求めるように揺らいだ。
 辰野の口から、隠しようのない悲鳴が発せられた。後ずさり壁に背中をぶつけた辰野は、なおも懸命に遠ざかろうとし、壁沿いに移動してベッドやタンスの上にある物を払い落としていった。
 逃げる辰野を追うように、人形の首がじわりじわりと動く。硝子でできた青い瞳が、怯える辰野を映して虚ろに光った。
 晴明の腕の中で、人形の身体がかたかたと小刻みに震え始める。ドレスの裾や金髪の先が、風にあおられるかのように浮かび上がった。
「う、うわぁッ」
 体当たりするように肩をぶつけた辰野は、そこが扉だということに気がついて、手探りでノブをがちゃつかせた。ドアが開くと同時に廊下へところげ出る。
 そうして彼は後を振り返りもせず、母屋の方へといっさんに逃げだした。
 遠ざかるその足音を聞きながら、晴明は半ば呆然と、開いたままのドアを眺めていた。
「ええと……」
 どうしたものかと、しばし首をかしげて考え込む。
 あの興奮ぶりからして、しばらく落ち着いて話はできそうにない。それにもはや、どうあってもこの人形を手元に置いておきたくないと、心に決めてしまっているようにも思える。
 そう結論して、彼はいまだ振動している人形を見下ろした。
 ならばとりあえず、いまできることはというと……


◆  ◇  ◆


 骨董品店アンティークショップ日月堂の店主は、深々とため息をつくと激しく頭をかきむしった。いささか伸びすぎておさまりの悪くなっている頭髪が、そうすることでさらにいっそうぼさぼさになる。だが彼はそんなことになどまるで頓着していなかった。
 フィルターを噛みつぶしてしまった煙草を、見事な細工が施された青銅の灰皿 ―― ちなみに売り物だ ―― でもみ消し、新たな一本を取り出してくわえる。
「……で、だ」
 吸い込んだ煙を苛々と吐き出しつつ、ようやく彼は声を発した。
 言葉が向けられたのは、つい先ほど出先から戻ってきたばかりの、目下次期店主として教育中の少年である。
「つまりお前は、金までもらって『そいつ』を引き取ってきた訳か」
「はい」
 椅子にどっかりと腰を下ろした店主の正面で、晴明は素直にうなずいた。
 どことなく申し訳なさげなその態度は、おそらく売り物にならない商品を持ち帰ってきたあげく、不当な金銭まで受け取ってしまったのだという、その点から来るものなのだろう。
 少なくともいま彼の手の内で店主の方を見返してきている、その『モノ』を連れ帰った点に関しては、まったく罪悪感など感じていないだろうと断言できる。
 故に店主は激しい疲労を感じながらも、己の問題としている部分を、一から彼に説明してやらねばならなかった。
「だからな、その、そいつ」
 煙草を挟んだ手で指差すと、ガラス状の目玉が、ぎょろりと動いた。その不気味さに思わず指先が揺れたが、威厳にかけて何事もなかったかのように装う。
なぎさんとおっしゃられるそうです」
 晴明が生真面目に訂正した。
 そんなモノの名を気安く口にするなよと胸の内で突っ込みつつ、先を続ける。
「『そいつ』は結局、死んだ辰野家の娘じゃあなかった訳だな」
「ええ。まったく関係のない、ただ通りすがっただけの方だいうことで」
 どこをどう通りすがるんだ、ソレが。
 突っ込みはまたも心の中だけで終わる。
「なんでも綺麗なものや可愛らしいものがとてもお好きなのだとか。それであの人形やままごと道具が気に入られて、夜な夜な遊んでいらっしゃったのを、辰野さま達がご覧になって、てっきり娘さんの仕業ではないかと思いこんでしまわれたようです」
 もともと血縁であった方ならばともかく、まったく無関係な存在である凪さんを、あの家にそのまま置いておくのもどうかと思いましたので……と後を続ける。
 いやだから問題はそこじゃないだろうと、つっこみたいし、今後のためにもきっちり説明して理解させてやらねばならないということも明らかなのだが ―― しかし店主は既にそれらを行おうという気力を根こそぎ奪い去られていた。
 がっくり肩を落として脱力する店主を、『そいつ』は興味深げな目で眺めている。
 ちなみにその目玉はひとつしかなく、しかも丸い頭部の八割を占めようかという巨大な代物であったりした。
 いま晴明がその腕に抱いているのは、辰野家から持ち帰った抱き人形 ―― の『中身』である。
 人形が動き出したことで驚倒した辰野が席を立ってしまい、晴明はただひとり部屋に取り残されてしまった訳なのだが、そこで彼は人形との意志疎通を試みたのである。もしこれが店主であったならば、問答無用で封じるか場合によっては破壊するかのどちらかであっただろう。だがこの少年の場合、そういったわざ能力ちからも持ち合わせてなどいないし、よしんばそれが可能であったにしても、まずは話し合いから手をつけるというのが持って生まれた性分であった。
 その結果判明したのは、まずこの人形を動かしていたのが、故人である辰野の娘ではなかったという事実である。
 そもそも人形というものは『ヒトガタ』とも呼ばれ、古来においては中身のない人間だというように考えられていた。中身がない、すなわちそれは魂がないと同義であり、そしてその空虚な内側へと様々な厄災や罪穢れをより憑かせ、人の身代わりとして処分する、その為の道具として作られていたのである。
 それがどういう意味かというと、つまり人間に似せて作られたものは、欠けた虚ろを持つが故に、それだけで罪や穢れといった『何か』を引き寄せやすい性質を持っているということなのである。特に古く、年経た人形ほどその傾向は強い。
 そして製造されて百年以上を過ごしてきた辰野家の人形もまた、その虚ろな内部にいつしかあやかしと呼べる存在を宿していたのであった。
 通常そんなふうに引き寄せられるものは、己の肉体を持たない死霊であったり、あるいは様々な思念や感情のおりこごった末に生み出された、雑鬼、精霊の類であったりする。それらはたいていよろしからぬ性質を備えていて、持ち主に害を与えたり、そうでなくとも奇怪な現象を起こしては騒ぎになったりするものだ。
 そういった点で、今回の辰野の件も、彼ら陰陽の術に通じる人間にとっては、よくある典型的な例と言えなくもないのだが。
 しかし普通 ―― いや、人形に何かが取り憑くというその時点で、既に事態は『普通』とは言い難いのだが ―― そういった何かしらの『容れ物』を必要とする存在は、そもそも自身の肉体を持ち合わせていないものである。だからこそ、肉体の代わりとしての実体を求めて、取り憑きやすい人形といううつわに引き寄せられるのだが。
 しかし、いま晴明の腕の中で店主の方を眺めているそれは、しっかりと己の肉体を備えていた。
 大きさは人形とそう変わらない。抱き上げるのにちょうど良い、人間の赤子ほどのサイズである。だが店主は間違ってもそんなものを抱き上げたくなどなかった。
 なんとなればそれは、どこからどう見ても巨大な ―― イモ虫だったのである。
 全体のフォルムは揚羽の幼虫にも似た、頭部が太く膨らんだそれである。その膨らんだ頭の真ん中には、握り拳ほどもある黄色い一つ目がはまりこんでいた。口元のあたりからは長い触手が数本生えだし、宙を揺らめいている。全身ぶよぶよとした灰白色の皮膚で覆われており、少しでも傷つければ、どろりとした汁が流れ出してきそうだ。
 見たくない見たくない見たくない。
 思わず視線を逸らし呪文のように繰り返す。それほどその生き物は不気味な姿をしていた。はっきり言って、同じ部屋にいるだけでもいとわしい。かなうものなら今すぐにでも術具を取り出し、調伏してやりたいほどである。
 実際、そういった存在を目にすることは店主も初めてではなく、それこそ陰陽師として一線に立っていた頃には、どれほど不気味な見てくれをした相手であろうとも、眉一筋動かすことなく相対し、消滅させてきていたものだった。
 しかしである。
「あの……」
 店主の反応をうかがうように問いかけてくる少年の腕の中で、イモ虫もまた同じようにその首をかたむけてみせる。
 ガラス玉を思わせる巨大な眼球が、ぎょろりと動いて光を反射した。
 ちなみにそのイモ虫を、晴明は店主に正面を向けるようにして両手で抱えていた。そうして彼の反応を待ち受けているのである。
 二対の、いや一対とひとつの目が、上下に並んで店主のしかめ面を映し出している。
 店主はもう一度大きくため息をつくと、絞り出すように言葉を紡いだ。
「言っておくが、そいつが誰かに害を為すようであれば、俺は問答無用で消滅させるぞ」
「ですが」
「それから」
 言いかける少年を無視してさらに続ける。
「出したモンはちゃんと片付けとくよう ―― きっちりしつけておけ」
 そう告げた途端、ぱっとその表情が明るくなった。
「はいっ」
 元気良くうなずいて、そうして腕の中のイモ虫を見下ろす。
 その視線を受けて、イモ虫もまた晴明の方を見上げていた。巨大なその目が細められ、心なしか触手のざわめきが大きくなっている。
 良かったですね、などと語りかけている少年を眺めつつ、店主は火をつけたばかりの煙草を深々と吸い込んだ。
 ―― 犬猫拾ってきた小学生の親じゃあるまいに。
 その脳裏をよぎるのは、なんとも疲れ切った思考である。
 ―― なんだって俺がこんなこと言いきかせにゃならんのだ。
 吐き出した紫煙があたりの空気を濁らせる。


『うちの店にいらっしゃれば、綺麗なものや可愛らしいものが、もっとたくさんありますけれど』


 この少年は、その一言であやかしと話をつけてしまったというのである。
 辰野家で家人に恐れられながら、隠れてままごと遊びをするよりも、日月堂に来ればもっと色々な道具を見たり触ったりできるうえ、暇なときには自分も相手ができるがどうか、と。
 それがその場の方便などではなく、まったく嘘偽りのない、本気の言葉だというあたりが恐ろしい。
 そうしてあやかしは素直に人形から離れ、二度と辰野家には現れないと約束したそうなのだが、いかんせんそれで辰野家の人間がはいそうですかと納得するはずもなく。結果として彼は空になった人形とままごと道具と、ついでに処分料とを押しつけられ、大荷物になったからと料金先払いのタクシーまで手配されて帰ってきたのである。
 まあ確かにこちらは損をするどころか、交通費をまかなっても余裕でお釣りがくる金銭を受け取ったのだから、なにが悪かったと言うわけでもないのだが。
 しかしだ、もしもこのあやかしが、もっと強い力を持つ悪質な存在であったならば、あの程度の処分料では話にもならないところであった。下手をすれば少年はおろか、辰野家の人間の命さえ危ういことになったかもしれなかったのだ。
 仮にだ。相手が、陰陽の術を収めた店主であったならば、一喝でたやすく追い払うことのできる貧弱な浮遊霊一体であったとしても、なんの能力も持たない少年や辰野達にとっては、抵抗のすべすらも判らぬ致命的な脅威となったことだろう。それを思えば、いま少年の手の内でおとなしくしているこの雑鬼でさえも、その気になれば家人皆殺しを可能としていたはずなのだ。
 余人の目には見通すこと叶わぬ闇にその身を沈め、触手を伸ばしたならば。あるいは吸い込むだけで精神を蝕む、悪意と憎悪に満ちた瘴気しょうきをその身にまとったならば。
 そしてそれはむしろ、あるべき事態でもあったのだ。もしもあのまま辰野家に人形が存在し続けたならば、必ずや人形の怪異はエスカレートしてゆき、いずれ家人に影響が出たことだろう。それは想像ではなく、陰陽師としての知識と経験に基づく、確信であった。
 なぜならば ――


 持ち帰った荷物を片付けるべく、晴明がせわしなく店内を行き来していた。荷をほどき、中身を分類し、汚れた人形やままごと道具を手入れするべく細々とした道具を取り出してくる。
 どうせ処分するのだから放っておけばよいのに、それでも少しでも見た目を綺麗にしてやりたいらしい。
 そうして立ち働く晴明の背中に、あのイモ虫がべったりと貼りついていた。まるでおぶわれているかのようにしがみつき、肩越しに手元をのぞき込んでいる。晴明はそれを邪魔にするでもなく、時おり振り返っては小さく話しかけていたりした。
 その表情はどこからみても、異形の化け物に対して向けるようなものではなく。
 怖れるでなく、気味悪がるでなく、ごく自然に言葉をかけ、笑顔さえ向ける。まるで人間の幼児に対するかのように。
 あの化け物を相手にそんな真似をする人間など、彼の他にはまずいないだろう。
 姿を見せず人形の内にあれば、人は理解できぬ怪異にただ恐怖し、ああして姿を現せば、その不気味さに嫌悪の情を向けるだろう。
 それが当たり前の反応である。
 そしてああいったあやかしと呼ばれる存在は、向けられる感情に大きく影響を受けるものだった。彼らは恐怖を受ければ恐怖に、嫌悪を受ければ嫌悪に、たやすく染まる存在なのである。
 辰野が人形に向けた恐れと嫌悪に反応し、人形は動きを見せた。そして辰野へと向けられた目が、差し伸べられた腕が、さらなる恐怖を誘発し人形へと返された。その恐怖を受けた人形が、次に何をしようとしたのか、それは今となっては判らない。だがそれが辰野を害する方向に働いたであろう事は、たやすく想像できた。
 にもかかわらず、いまこうしてその妖 ―― なぎが、なんら邪気を感じさせぬ様子で晴明にまとわりついているのは。
 向けられる感情にたやすく染まるその存在が、むしろ微笑ましさすら感じさせるほどに無邪気な様子でおとなしくしている、その理由は。


 他でもない、この少年がかの存在に向けた、穏やかなその感情故になのだと。


「 ―― 判ってんのかね、こいつらは」
 呟く店主の声にはどこか苦いものが混じっていた。
 その視線の先には、案外器用に動く触手の先で椀を磨く凪と、それを見て感心したように声を上げている少年の姿がある。
 あきらかに異形の存在と共にありながら、それでいて微笑ましく温かく見えてしまうその光景。それが陰陽師としてこれまで培ってきた店主の価値観を、根底から揺るがしてしまう。
 自分がこれまでやってきたことは、いったいなんであったのか、と。
 異形を狩り、人間ひとを守り、危険に身を投じては幾度もこの手を汚してきた、あの過去はいったいなんであったのだろうかと。
 そして同時に思わずにはいられないことは。
 この少年がその思いを向けることのできる相手が、なぜ凪やあるいは彼の腕飾りに宿っている鬼獣 ―― 由良ゆらといった、異形達に限られてしまったのだろうかと、そういうことで ――


◆  ◇  ◆


 それはかの少年が、日月堂の店主として店を継ぐ数ヶ月前のこと。
 これからしばらくの後、店主は少年にすべてを譲り、誰にも行き先を告げぬままに姿を消した。時おり旅先から葉書などが送られてくることもあったが、そこにも彼の所在を知らせるような情報はほとんど書かれていなかった。
 そして少年が一人で店を切り盛りするようになってからは、その周囲にいっそうのこと異形の影が数多く見られるようになっていったのだが、しかしそれをそうと知る者は長い間だれ一人として存在しなかった。
 彼が人間の友を相手に、屈託のない微笑みを見せるようになるのには、まだ今しばらくの時と幾つかの出会いが必要だったのである ――




(2004/04/23 11:14)


O-bakeさまより80000HITでリクエストいただいておりました、『晴明くんを中心に、凪嬢など登場』です。


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