<<Back  List  Next>>
 かくれおに 第五章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 時間の感覚は間もなく失われた。
 しかとした光源がないせいか、時が過ぎても明るさはいっこうに変わらず、時間の経過を知る手がかりにはならなかった。校舎内にあるいくつもの時計も、それぞれに適当な時間を指している。一体どうなっているのか、腕時計のデジタル表示までも88:88で止まっていた。しかしぼんやりとした薄暗さは、目さえ慣れてしまえば充分に行動できるものだった。
 まずは職員室からトイレまで、一階にある部屋を残さずまわった。床も壁も、ひとつひとつの机の中までしらみつぶしにチェックして、何かおかしなものはないかと探してみる。
 残念ながら、手がかりと呼べるようなものは何も見つからなかった。むしろあるはずのものがない、ということばかりが目に付く。
 対称形という他は、元の学校とまるで変わらないように見えた校内だったが、机にもロッカー内にも、生徒の私物はいっさい存在しなかった。職員室の机も同じだ。上にはそれらしく教科書や参考書が置かれているが、引き出しの中はすべてカラ。下駄箱にある上履きは、どれもみな同じようなもので、名前も書かれていなければ、汚れても破れてもいない。念のため自分の下足入れと対応する場所を開けてみたが、やはり他と変わらなかった。今はいている上履きには、かかとにしっかりと2−3今岡と記名されているのに。
 極めつけは鏡だった。
 トイレのそれも、職員室の入口にかけられているものも、ただ灰色の空間を覗かせる硝子板と化している。なめらかなその表面は、どの角度から眺めてみても、俊己の顔ひとつ映そうとはしない。
 室内の鏡像を見せるもの、ひいては元の校舎に通じている鏡は、どうやらあの姿見だけらしい。まぁ確かに、置かれている場所も角度もまったく異なる鏡すべての像を集合させたりしては、とてもひとつの校舎を形作ることはできまい。この建物、即ち鏡像の基点は、あくまであの姿見だということだ。
 またこれは最初に確認ずみだが、俊己の力で再びあの中に入ることはできなかった。それによしんば入ることができたとしても、あの灰色の空間に出てしまうだけの可能性が高い。いちおう酸素が確保できたので、窓を開け確かめたところ、あの中でも呼吸は可能であったとはいえ、目的地も定められないまま外に出るのは無謀につきる。
 結局のところ一階の探索で得られたのは、ここはやはり尋常な空間ではないという、より一層の確信だけであった。しかし俊己は諦めることなく、階段を二階へと向かった。
 二階でも、それまでと特に変わった様子は発見できないようだった。続いて東棟の3階に昇る。2階建ての昇降棟を間にして、ここと西棟は4階建てだ。
 東西の棟は、ほとんどが普通教室で占められている。科目別に使う特別教室はさらに別棟にまとめられており、グラウンドの向こうにあるはずのそれは、この空間には存在していないらしい。
 廊下の端から順番に教室を調べてゆく。いいかげん面倒になってきてはいたが、それでも手は抜かなかった。机のひとつひとつ、ロッカー、教 卓、掃除用具入れ……
 幾つ目かの教室に入ろうとして、そこがいずみのクラスだということに気が付いた。いずみの、ということは行方不明になった彼のクラスメート、楠木奈々子のクラスでもある。
 あるいは何か見つかるかも。何の根拠もない期待だったが、この際やる気が出せるならなんでも良かった。疲れを振り払って、精力的に捜索を始める。
 ……その分、何の成果も上がらなかった時の落胆は大きかった。額に浮いた汗もそのままに、しばし脱力して立ち尽くす。
 そこからの作業は、ほとんど惰性のようなものだった。ただ機械的に教室を移動し、机を覗き、ロッカーを開く。移動し、覗き、開ける。そこに思考力はほとんどなかった。何も考えることなく、ただひたすらに身体を動かしているだけ。
 そうだったからこそ、本来ならすぐ判るはずの異常に、俊己は気付くのが遅れた。覗きこんだ机から顔を上げ、かがめていた上体を起こした時になって、初めてそれが鼻をつく。
 普段めったに嗅ぐことのない、けれど誰もが知っている臭いだった。ねっとりと甘く、それでいて吐瀉としゃを促す不快な異臭。
 それが何の放つ臭いだったのか、とっさには思い出せない。みなもとを求めて教室内を見まわす。そして、発見した。教卓の影にあって、入口からは見えなかったものを。
 黄昏時のような暗さの中、遠目では何か判らないそれを確認するために、机の間を抜けてゆく。
 最初に目に入ったのは、床の広範囲に広がった黒ずんだ粘液質のもの。続いてその中に散らばる幾つかの塊。
 何の心構えもなく、ひょいと軽い気持ちで見下ろした俊己は、それを後悔する余裕すらなかった。
 まだ本来持った赤さを残していながらも、既に鮮やかな色を失い凝固しつつある液体。その中に浮かぶ乱雑に引きちぎられ、散乱している塊の中には、それでも元の形状をしのばせるものが幾つか混じっていた。吸い寄せられたよう にそらすこともできない目が、嫌になるほど克明にすべてを観察する。
 最も原形をとどめているのは、宙に向かって指を開いた右の手首と、ぽつんとそれだけで血だまりに転がっている、ピンポン玉に似た眼球。白く濁ったその虹彩が、偶然にもまっすぐ俊己の方を見つめていた。横にあるゴミのようなものは、髪の毛の束だろう。二つに割れたスイカみたいな塊から、ぞろりと伸びて床に這っている。
 それは、断じて作り物などではなかった。
 偽物を死骸と間違える人間はいる。だが死骸を偽物と間違う人間はいない。間近に見たものならば、誰もが断言できる。それがかつて生きていたものの残骸なのだ、と。
 喉が嫌な音を立てて上下した。堪えようとする間もなく、胃の内容物が逆流してくる。
 とっさに後ろを向けただけで上出来だった。いかにそれが原因だったとはいえ、仮にも仏と呼ばれるべきものの上に汚物をまき散らすのは避けられたの だから。
 床に手足をついて、激しく嘔吐おうとする。目の端に生理的な涙がにじんだ。
「……ッ、ゲホッ」
 夕食を全て吐き戻した後も、しばらくは、咳き込みながら呻いていた。のろのろと上体を起こし、汚れた手をシャツにこすりつけて拭う。近くの机に手をついて立ち上がろうとしたが、意に反して小刻みに震える身体は、思うようには動いてくれなかった。力の入れ具合を誤ったのか、すべってバランスを崩す。けたたましい音と共に、周りの机を巻き込んでひっくり返った。
 中身のないからっぽの机が二度三度と床にはね返り、物音ひとつしなかった教室の空気を震わせる。それは、聞く者もないままに虚しく反響し、消えてゆく音だった。
 がらんどうの机、がらんどうの空間。
 明確な光も、明確な闇もなく、ただ漠然とした仮想現実の世界。そこに突然現れた無残な光景は、疲れ朦朧もうろうとしつつあった精神を衝撃と共に現実へと引き戻し、そしてさらなる非現実へと突き落とした。
 すえた胃液の臭いに入り混じり、今ならそれとはっきり判る血臭がまとわりつく。呼吸するたび肺の底に沈殿するように、重く、甘く。かすかな深味が幾度か嗅いだことのある自分のそれとわずかに違う。人知れぬ場所でじっくりと熟成されつつある、腐敗の臭い。過ぎれば悪臭にしかならぬはずのそれは、しかし度合いによってはえもいわれぬ独特な風合いをかもし出す。
「ぐ……ぅッ……」
 再び吐き気がこみ上げた。が、とうに吐くものは残っていない。背中を丸めて口を開いても、わずかに苦い液が喉を焼くだけだ。冷たい床にうずくまり、荒く息をつく。
 耳鳴りがした。冷や汗が身体を濡らし、手足の末端からしびれが這い上がってくる。体温が下がり、指先が冷たくなってきた。視野が狭窄きょうさくしてゆくのを 奇妙な冷静さが自覚する。望遠鏡を逆さに覗いたような、遠く小さな目の前の光景。転がった机が幾つかと、変わらず整然と並ぶ椅子の脚、机の脚、脚、脚、足。
(あし……?)
 しばらくは、何がおかしいのか判らなかった。ひどい違和感があるのに、それがどうしてなのか理解できない。何か、とんでもくおかしなことがあるはずなのに。
 床に手をついて身体を支え、低い位置を見ていた視線を少しづつ上げてゆく。すぐそこにある、ジーンズと上履きをはいた、二本の足にそって。
「…………」
 ゆっくりと見あげた俊己の視線を、『俊己』が『笑顔』で受け止めた。


*  *  *


 どうやら自分はこいつに喰われるらしい。
 その時考えたのは、そんなことだった。
 怖いとか、逃げなければとかいった常識的な考えは ―― 森口なのか楠木なのかは判らないが ―― 惨い死体を見たショックで頭からとんでいた。ただ、自分もあんなふうになるのだろうという予測はできた。
 無言で伸ばされる『俊己』の腕を、身じろぎもせず見つめる。別に身体がすくんでいたのではない。単にそれをよけるという発想が出てこなかったのだ。
 特に力まれた様子もない、よく見慣れた腕が、指を喉にからみつかせた。ゆっくりと顔が近づいてくる。首筋の産毛がくすぐられ、固いものが肌に触れた。尖ったそれは、じわじわと少しづつくいこんでくる。
 それでも彼は動かなかった。

 ばきり

 骨の折れる音があたりに響いた。乱暴に投げ出された身体が、再び騒がしく机をなぎ倒す。
「少しぐらいは抵抗したらどうだ」
 なじみの声が、しゃがんだままの頭上からかけられた。
 いったいどこから現れたのか。毛筋ほどの気配も感じさせぬまま出現した明は、無造作に『俊己』を殴りとばした腕を戻し、俊己を見下ろした。
「……無駄な労力は使わない主義なんだ」
 間髪入れずとはいかなかったが、それでも俊己は減らず口を返した。応じて明は目を細めて笑う。
「その調子なら、もう少し遅くても大丈夫だったな」
「自分の怠慢を棚に上げるんじゃねぇ」
 らしくもなく乱暴な口をきいて、手を貸される前に立ち上がった。まだふらついてはいるものの、自分の足で自分を支える。汚れた口元と『俊己』が触れた首筋を、袖でいっしょくたに拭った。明を見返した表情は、もう普段の冷静さを取り戻している。
「すまん」
 明も真面目な顔になって謝った。
「鏡が割れかけて、補修にまわってたんだ。空間のつながりまで壊れそうで、少し手間取った」
 軽く頭を下げる。『俊己』を相手にするのは明の役目だ。なのに鏡の前で待っているはずだった俊己は、こんな所まで引き込まれている。それは完全に明の失態だった。ここで責められるべきは俊己の無力さではなく、明の手落ちの方。
 もっとも俊己にしても、危険な場所をふらふらと歩きまわっていたという負い目があった。頭が冷えてみれば、変な意地から馬鹿な真似をしたと判る。
 そのことに関してそれ以上つっこむのはやめ、軽く肩をすくめるにとどめた。親指を立て、自分の背後を指し示す。
「どっちかは知らんが、ひとり見つけたぞ」
 無残な遺骸を視界に入れないよう気を付ける。明はうなずいて、ちらりとだけそちらに目を向けた。そこにあることには気付いていたらしい。
「こっちもか」
 眉を寄せてつぶやく。
「『こっち』も?」
 繰り返す。
 『も』という係助詞がどんな共通点を示しているのかは不明だが、『こっち』という表現を使うということは『あっち』、即ちもうひとりの遺体を明は目にしていることになる。
「西棟の2階で見つけた。そちらが先に消えた方だな」
 こちらがおとといさらわれた楠木奈々子。
「そうか……」
 まっすぐ1階を目指した俊己は、階段の上の方には注意を払っていなかった。もしも上へと向かっていたら、もう少し早くに発見されていたかもしれない。もっともとうに死んでいる者にとっては、早い遅いなどどうでもいいことだろうが。
「かくして人喰い鏡の犠牲者がまた二人、か」
 つい今しがた三人目になりかけた人間が言う台詞ではなかった。しかしそうして茶化しでもしていなければ、また平静を失ってしまいそうだった。どうしても震えが止まらない指先を、明に見えないよう背後へまわす。
「実際に喰われてるんではないんだけどな」
 明が言った。そしてようやく起き上がってきた『俊己』の方を見やる。
「もったいないことを」
 その声に込められていた何かが、傍らにいた俊己に息を呑ませ、またそれまで他者になどまるで頓着していなかった、鏡の鬼の動きをも止めさせた
 それは、けして荒げられた声でも、冷ややかにおさえられたものでもない。いつもよりわずかに低く、ごく穏やかな口調で紡がれた言葉。表情にも怒りや憤激の色はなく、むしろ口元には微笑みさえうかがえた。
 しかしその横で俊己は、無意識に後ずさろうとする足を叱咤していた。何故ならば、いま目の前にいる鏡の鬼よりも、そばに立つ相棒の方がよほど恐ろしく感じたからだ。
 正直を言うと、その恐怖を認めるのはたやすいことだった。明と『俊己』、どちらをより敵にまわしたくないと思うか問われれば、俊己は迷わず明と答える。それは彼という存在をよく知っていればこその、偽りない回答だ。さっきも考えていた通り、どんなものにもいいものと悪いものがある。そして明は、紛れもなく恐れいとうべき部類に属する存在だった。
  ―― もっともそれは、あくまで敵にまわせばの話である。
 彼は大切な友人で、よき相棒で、疑うまでもなく心強い味方だ。いまも明は『俊己』の手から彼を守ってくれている。だからこそ俊己は、意地でも明を恐れる訳にいかなかった。それは明に対する友情であり、その信頼に応えるためであり、何よりも俊己自身のプライドだった。
 自分を守ろうとしてくれているものを、自分とは異なる存在だからと恐怖する。そんな恥知らずな真似などしてたまるか。たとえその本性がどうであれ、彼のとる行動そのものは、自分にとってよきものなのだから。
 己の心に言い聞かせる。
 そう、たとえヒトとしての本能が、それを命じたとしても ――
 そんな俊己の葛藤をよそに、明は笑みをますます深くし、あからさまな嘲りの表情へと変えつつあった。曲げた人差し指で唇を撫でながら、まっすぐ立てずにいる『俊己』を落ち着いて観察している。
 明の手で殴りとばされた『俊己』は、やはり苦痛を覚えている様子はなかった。だが鈍い音がしたのは聞き違いでなく、定まらぬ足元につれてぐらぐらと左右に振れるその首は、完全に折れていた。常人なら即死の傷を負いながらもそいつは、視界が安定しないという以上の不自由は感じていないらしい。
 俊己とそっくりな顔に奇怪な笑みを貼りつけて、座らぬ首を揺らしながら歩む鏡の鬼。壊れた操り人形を思わせる己の似姿。俊己は耐えられず顔をそむけた。さいわいこちらを嫌悪することには、何のためらいを覚える必要もない。
 何度か唇を舌で湿す。声が震えたり裏返ったりしないだろうとどうにか確信できたところで、ようやくさっきの言葉の意味を問うた。
「もったいないってのは、どういうことだ」
「言葉通りさ」
 明は何でもないことのように答えた。目で背後の床を示す。
「よく見てみろ。バラバラに引き裂いてはあるけれど、欠損はない。彼女は『食べられてはいない』んだ」
「そんなもん、よく見られるかっ」
 何気ない仕草につい振り向きかけて、慌てて視線を前へと戻す。検死官でもあるまいし、あんな無残な死体を目の当たりにして、あれが左足でこれが腸で、などとのんびり勘定していられるものか。
 そうか? とばかりに軽く首をかしげた明だったが、互いの感性の違いは今に始まったことではない。深く気にしたふうもなく、先を続ける。
「森口鈴香も同じだった。つまりただ殺すためだけに殺されたらしい。だからもったいないって言うんだ」
 内容にそぐわない軽い話し方だったが、彼はふざけてなどいなかった。むしろその両目は、恐ろしいまでに輝いている。
 と、おもむろに足を上げ、無造作な動きで机を蹴った。
 ふっとんだ机は、『俊己』の腹へとめりこんだ。あと数歩で手が届くあたりまで近づいていた身体が、机ごと壁まで飛んで叩きつけられる。みたび散乱する机と椅子。いい加減、教室の一隅いちぐうに広い空間ができた。
「……食べもしないものを殺すなんて無駄な殺生だろ? 人の縄張りでそんな真似をされちゃたまらないし、ましてやそんな奴にお前を殺させるなんてもっての他だ」
 盛大な物音も惨状もきっぱりと無視し、なぁ、と何事もなかったかのように同意を求めてくる。俊己はしばらく返答に迷った。ぐりぐりとこめかみのあたりを揉みほぐす。
「……喰ってればいいのか、喰ってれば」
 ややあってからつぶやいた。
 いいのかそのやる気のない態度は、とか縄張りとは何だとか、言いたいことはたくさんあったが、とりあえず一番問題にするべきはそこだろう。
「まぁな」
 また明が真面目にうなずく。
「をい……」
「生き物が生きていくために、他者の命を必要とするのは当然だろ。こいつの捕食対象が人間だっていうのなら、それはそれで仕方ないさ。どんな生物であったとしても、生きていくこと、それ自体が許されない訳はないんだから」
 人間とても食物連鎖の一員。食事として毎日三食、他者の命を奪って生きている以上、いずれ自分も他者に喰われて命を上位捕食者に譲るのが道理というものだろう。人間だけがそのことわりからはずれていると考えるのは思い上がりだ。
「確かにそれは正論だがな、かと言って喰われる方が、むざむざやられてやる義務はないだろう」
 弱肉強食と言うならば、喰われる方には精一杯の抵抗をする権利がある。それで生きのびることができたなら、そいつこそが次なる強者だ。
 明も当然とうなずく。
「何も無抵抗で喰われろって言ってるんじゃない。ただ『食い殺す』というやり方は、数ある殺害方法の中で、もっとも自然かつ有意義な手段だってことだ」
 殺人それ自体が、それなりに忌むべきことであるのに違いはない。
 『それなりに』という部分が少々引っかかったが、これ以上つっこむと怖い答えを聞きそうな気がした。机に埋もれた『俊己』を見るふりで、視線をそらす。
「……要するにだ、あいつは言い伝えられてるような『喰人鬼』じゃなかったと、そう言いたいんだな」
 指差す。さすがに『それ』はもう動こうとしなかった。
「ああ」
 もっとも昨今の普通の高校生が、喰い殺すと言う言葉を文字通り『食べるために殺す』という意味で使うかどうか、いまひとつ怪しかったが。
「これでは『鬼』とも言いがたいしな」
 顎で指しながら言う。ぞんざいな仕草は、あからさまに相手を見下したものだった。こんな程度で鬼と称するなど、おこがましいにもほどがある。そんな感想がにじみ出ている。
「ずいぶんな言いようだな」
 別に『俊己』を弁護するいわれなどないのだが、その態度に反感を覚えた俊己は、少々抗弁を試みてみた。
「俺はこれこそまさしく『鬼』だと思うぞ」
 へぇ? というように明が眉を上げた。無言で先を促す。遠慮なく続けた。
「もともと鬼という言葉は『オン』という発音がなまって生まれたものだ。昔の人間は恐怖や災い、病気だのといった目では見ることのできない『隠れた』害あるものを、鬼と呼んだんだ。そうして名前をつけることで、実体のないそれらを明確化し、追い払うためにな。実際、今昔物語や宇治拾遺物語あたりで は、一つ目小僧やのっぺらぼうまで鬼と表現されてる」
 うんちくを並べ始める俊己を、明はおもしろそうに眺めていた。
「それに漢字の発祥地である中国では、死者 ―― 幽霊のことをクイと呼んでいる。つまりだ、化け物なんてのはどれもこれも『鬼』なのさ。ことにこいつは本来影でしかないはずの鏡像が、こうしてりっぱに実体化してるんだ。これをこそ鬼と呼ばなくてどうする。頭に角があって虎皮のふんどしをはいていてこそ鬼だなんてイメージは、しょせん仏教説話から生まれたかたよったものなんだよ」
 古来より鬼のやって来る方角をうしとら(北東)とし、鬼門と呼んで避けてきたものだ。この艮とは十二支に基づく表現で、もともとは丑寅うしとらと書く。故にそちらから来るという鬼に、いつしか牛の角と虎の皮のイメージが付与されたのだといわれている。
「……なるほど、なかなか興味深い説だな」
 明は深くうなずいた。俊己の言葉を吟味するようにしばらく沈黙する。俊己はどうだとばかりに胸を張った。
「牛の角と虎皮があったから、艮が鬼門になったとも考えられるんじゃないか?」
 明が問う。
 卵が先か鶏が先か。それは誰にも判らない、永遠のテーマであった。
「……さて、行くか」
 咳払いして促した俊己に、明はあえてつっこみを入れはしなかった。



 無残な遺体 ―― というより肉片の山 ―― は、そのままにしておくことにした。かわいそうではあるが、こんなものを持ち帰る訳にはいかないのだから仕方がない。大騒ぎになるのは目に見えていたし、どこで、どんな状況のもと発見したのか質問されても困ってしまう。
 こんな言い方をすると薄情に聞こえるかもしれない。しかし相手が生きているのならともかく、もう死体になってしまっているのだ。生者に対して何か良いことをするならば、たとえ本人の動機がどうであろうと、それはそれで生産性があってよいだろう。しかし既に死んでしまっている人間に何をしてやっても、所詮は本人の自己満足でしかないのだ。そして自己満足のために当の本人が面倒な立場におちいるのは、本末転倒というもの。
 俊己はマゾでもなければ、悲劇的な立場に陶酔する、困ったヒロイズムの持ち主でもない。彼が彼女達にしてやれるのは、冥福を祈って黙祷するぐらいのことだった。
 手を合わせる俊己を待っていた明と、ふたり肩を並べて廊下に出る。扉を静かに閉めながら、訊こうと思っていたことを思い出した。
「なぁ、明」
「ん?」
「ここは、いったいどこなんだ?」
 何もない窓の外を眺め、問いかける。
 のっぺりとした灰色に囲まれた、シンメトリーをなす校舎。
 鏡の中の空間。
 鏡の向こうの異世界。
 学校の鏡像、写し。
 幾多の者の心に存在する共通認識、仮想現実。
 そんなふうに言葉で表わすのは簡単だ。古人が漠然とした、形にならない闇雲な恐怖に鬼と名付け、揺れる感情を制御し恐れをやわらげたように。
 けれど、そのどれもがしっくりこなかった。どの言葉を当てはめてみても、俊己の心は納得しない。何かが、どこかが違う。自分の発想では、この『場』を構成することわりを解することはできない。理解できるよう説明してくれる相手がいるならば、それは明達をおいてほかはなかった。
「俺も入ってみるまで、確かなことは言えなかったんだけどな。たぶんここは……」
 明の声は、途中で不自然にとぎれた。しばらく待ってみたが続きを話そうとしない。窓の外から視線を戻す。
 明は耳を澄ましていた。ややあってから、俊己も気が付く。
 かすかな物音だった。
 二人が履いたそれと同じ、ゴム底の上履きが立てる足音。ここまで人気がなく、彼らの他には歩く者などいないはずの場所だったからこそ耳に止まった、普段からごく当たり前に聞き慣れたそれ。
 無言のままに、明が廊下の先を見る。ひきしめられた横顔には、わずかな緊張と、それ以上の好奇心。俊己も遅れてそちらを見た。『誰』がやって来るかの予想は、おおむねついていた。
 果たして ――
 薄暗がりの向こうから現れたのは、鏡文字のロゴが入ったJリーグのTシャツを着て、上からパーカーを羽織った少年の姿だった。


<<Back  List  Next>>


本を閉じる

Copyright (C) 2000 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.