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 かくれおに 第四章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 どれくらいになるだろうか、両手を表面に押し当てるようにして、明は熱心に鏡を調べ続けていた。その横では、同じようにしているいずみが、こちらは鼻までくっつけそうにして鏡の中をのぞき込んでいる。
 俊己は数歩下がった位置で、黙ってそれを見守っていた。腕組みして立つその姿が、二人の肩越しにぼんやりと黒く映り込んでいる。
 月の光が差し込むのには、まだ間があった。満月を過ぎるほどに出るのが遅くなる銀盤は、いまだその姿を校舎の向こうに隠している。デジタル時計のボタンを押して時刻を確認した俊己は、あらかじめ計算しておいた時間との差を口にした。
「あと七分だ。どうだ、何か手は見つかったか?」
「う〜ん、難しいっスねぇ」
 いずみが首から上だけ振り向いた。
「無理して鏡そのものを壊しちゃったらマズイですし」
「当たり前だ。明日騒ぎになるぞ」
 そんなことをさせない為にも、俊己はわざわざついてきたのだ。立入禁止措置のとられている場所に、深夜無断で侵入しているというそれだけでも、見つかれば充分問題になるというのに。このうえ校内の備品を破壊などしようものなら、後の始末にどれだけ手間がかかるか、考えたくもないではないか。
  ―― もちろん、それが誰の仕業なのか悟られないよう、工作するのは簡単だ。が、そうすると下手人は誰かという捜索が始まった時、関係ない第三者に嫌疑がかかりかねない。そんな冤罪を黙って見すごす訳にはいかないし、かと言ってそこで自分達が名のり出るのも論外だ。そうなると何らかの手段をもって、事態を丸く収める必要がある。まぁ、そこでうまく立ちまわれるだけの器量は持っているつもりだが、面倒なことには変わりなかった。
「安心しろ。その時には俺達だけで何とかするから」
 手も止めないで言ってくる明に、俊己は重々しくうなずいた。
「当然だ」
 そう答えながらも俊己は、いざとなったら自分が力を尽くしてしまうであろうことを自覚している。そしてそれを明も察しているあたり、腹立たしかった。
「だいたいだ、そもそも楠木がさらわれた場に、いずみもいたんだろう? すぐに助けることはできなかったのか?」
 お前なら、それぐらいできるだろう。
 俊己の言葉に、いずみは身体ごと振り向いた。苦笑いして肩をすくめる。
「ムチャ言わないで下さいよ。いくら俺だって、できることとできないことがありますって。鏡はすぐに元に戻っちゃったし、先生も駆けつけてきたし。悠長なことはしてられなかったんですから」
「ふぅん……」
 いささか言い訳じみていると思わないでもなかったが、一応は納得して引き下がる。再び時計に視線を落とした。
「あと三分だぞ」
「ああ」
 短いいらえ。明は二人のやりとりも気にすることなく、ひたすらに鏡を見ていた。と ―― いきなり顔が上げられる。彼は今まで見むきもしなかった俊己の方を振り返り、それから少し方向を修正した。
「妙だな」
 つぶやく。その声を聞いて、いずみも頭を動かした。明が見ているのと同じ ―― 階段と壁の境目あたりを見やる。そしてきょとんとした顔をした。
「あれ?」
 不思議そうに頬を掻く。
 ちなみにそこは、何の変哲もない壁と階段であった。少なくとも俊己の目には、そうとしか映らなかった。ため息をついて二人を振り返る。案の定、彼らの目はもっと遠い場所に焦点を合わせていた。
 何を見ているのかと問うよりも早く、明が口を開いた。
「行ってこい。今度はしくじるなよ」
「はいっ」
 元気よく答えて、いずみが動いた。踊り場を踏み切ってジャンプし、下りの階段の中ほどを蹴る。いっきに階下に達すると、次の一動作でその姿は完全に視界から消えた。
 見事な身のこなしに、さすがに感心して見送った。それからは無言で明を見る。説明を求める視線に、明はあっさりと答えた。
「どうやら人喰い鏡があるのは、ここだけじゃなかったらしいな」
 一昨夜、遠く離れた寮にいながら姿見の異変を察知した彼らは、どうやら同じものをまた別の場所に感じたらしい。
「お前は行かないのか?」
 彼らの持つ能力を知る俊己は、聞き返しもせず、続けて質問した。
 冗談のような話だが、明といずみは、まるでおとぎ話か小説にでも出てくるような異能力の持ち主だった。昨今はやりのファンタジーだとか、サイキックホラーとかいうやつだ。とあることから、俊己は学園内で唯一それを知ることとなった。そしてその類のことについては、素人があれこれ口を出した所で 何の役に立ちはしないとも、しっかりさとっていた。起きていることは起きているままに、専門家に任せてただ見ていた方が、よけいな手間をとらせずにすむというものである。
「俺はこっちから行く」
 明はいきなり姿見へと手を突っ込んだ。Jリーグロゴが入ったTシャツと上に羽織ったパーカーの長い袖ごと、二の腕のあたりまであっさり沈み込む。これには俊己も言葉を失った。まるで水の中に入れたように、腕のまわりに丸く波紋が広がっている。もっとも垂直に立ち上がるなめらかな水面など、自然には存在するはずもない。
 めったに見られない現象に、思わず近づいて観察してみた。鏡をのぞき込んでも、『中』に入っているはずの肘から先は見当たらない。映っているのは、切断された右腕を鏡に押しつけているように見える明と、手をついてその接触面をしげしげと眺めている俊己だけだ。
「お前はここで待ってろ」
「あ、あぁ。気を付けてな」
 鬼を引っ張り出すのではなく、自分から鏡の中に出向くとあっては、いくら俊己でも付き合いきれなかった。明から言い出してくれたのにありがたくうなずいて、見送りの言葉を口にする。応じて片手を上げた明は、ゆっくりと前に進み始めた。ずぶずぶと腕が鏡に沈んでゆき、肩が、踏み込んだ足が後へと続く。その様を俊己は何とも言えない表情で見つめていた。
 彼らがこうして異能を発揮するのを見るのは、初めてではなかった。が、それでもやはり、そうそう見慣れるものではないらしい。特に今回は場所が日常行き来している校舎の中なだけに、人体が鏡にめりこんでいくという姿は、いっそう異様なものを感じさせた。しかしこれも明にとっては、眉ひとつ動かさずできる程度のことなのだ。
 改めて、相棒がただ者ではないことを認識させられた気がした。
 半ばまでもぐりこんだところで、彼はもう一度こちらを振り向いた。
「じゃ、行ってくる」
 ぴったり半分になったその姿は、鏡に映った部分と合わせてちょうど一人分の形になっていた。ただしポーズは完全に左右対称で、両足とも床から浮いている。
「…………」
 さっさと行けと手を振りながら、思わずこめかみを押さえた。
(……シュールだ)
 それでも夜間の学校で目にするには、かなり不気味な光景なのだが……考えていたことが全て頭からふっとんでしまった。行方不明の生徒を見つけるべく、超自然の技を駆使しているという状況は、けして笑えるようなものではないはずなのだが。
 そんなことを考えていた俊己の手元で、時計のアラームが小さく鳴った。はっとしてセットした時間が来たことを確認する。その横顔に、二階の窓から柔らかな光が降り注いだ。よほど近付かなくては黒い影としか見て取れなかった鏡像が、淡い光を浴びて鮮明に浮かび上がる。
 鏡に近付いていた俊己は、思っていたより間近に現れた自分の姿に、思わず息を呑んだ。ばっと振り返った視線のすぐ先で、同じ造りの顔がこちらを凝視している。目を見開き、驚愕の表情を浮かべたその顔は、一瞬の動揺が去ってみれば少々間抜けなものがあった。
 いかに鏡の中から鬼が現れるという話を聞いているからといって、そう簡単に現れてはくれないことは、昨夜明達が確認ずみはないか。なのに一瞬とはいえ、ただの鏡像に脅 かされるとは。
 ちらりと視線だけを明の方に向ける。もうほとんど鏡に呑み込まれている彼は、どうやらこちらの動揺には気付かなかったらしい。ほっと胸をなで下ろす。そして鏡の中の自分に向け、照れ笑いした。

  ―― 鏡像は、笑わなかった。

 凍りついていたのはわずかの間だった。
「明!」
 鏡から距離をとるべく身を引きながら、専門家に向かって呼びかける。しかし既に四肢も顔も消え、もはや背中の一部と後頭部しかこちらに残されていない彼には、その声も届かなかったらしい。
 逃げようとする身体が、二本の腕にがっしりとつかみ止められる。俊己は自分の血の気が引く音を聞いた。
 『俊己』の上半身だけが、鏡の中から身を乗り出していた。力強い腕を俊己の肩にまわし、渾身の力で抱きしめてくる。息をかけられるほど近付いたその顔は、驚愕の表情のままだ。いや ―― 驚きに大きく見開いた両目はそのままに、口元だけが笑っている。さっきが浮かべた照れ隠しのものとはまるで違う。唇の両端が上に吊りあがっただけのそれは、おそろしくまがまがしい、歪みでしかなかった。間近で見つめてくる焦点が合わぬ瞳のおぞましさに、俊己はプライドもかなぐり捨てて悲鳴を上げた。
「冗談じゃないぞッ!」
 俊己がこの場に付き合ったのは、あくまで見届け役としてと、二人のやり過ぎによる周囲の被害を恐れてのことだ。こんなものを自分で相手するつもりなど、最初から持ち合わせていない。それは明といずみが担当するべきことだ。
 片手で『俊己』を引きはがそうとしながら、もう片手を振りまわす。その手は消えつつある明の背中に何とか届いた。手加減も何も考えず、思いっきりぶったたく。
 さすがにこれには気付いたらしい。ぐるりと首をまわして半面をこちらに出した明が、ぎょっとしたように目を見張る。首から上がずるりと戻ってきた。
「俊己!? どうして……」
「知るかッ。さっさと何とかしろ!」
 俊己の身体も鏡の中へと引き込まれつつあった。彼は背も高く力とてけして弱い方ではないのだが、俊己の腕力はそれをはるかに上まわっていた。必死の抵抗も、ほとんど役に立ってはいない。
「待て、いま……ッ」
 鏡から身体を引き抜こうとした明だったが、逆らう力は予想以上に強かった。これまでは無理に奥へ潜ろうとしていたのだ。いきなりその力を逆転させたところで、物事にも流れというものがある。舌打ちした明は、せめて腕一本でも自由にしようと力を込めた。途端、みしりと姿見全体がきしむ。明の周囲をとりまくように、蜘蛛の巣状のひびが広がった。
「くそっ」
 いかに『人喰い鏡』などと呼ばれてはいても、しょせん鏡は鏡。もろいものだった。『内』と『外』との狭間で下手に力を使うことは、姿見それ自体を破壊してしまいかねない。
 一瞬このまま壊してしまおうかとも思う。が、すぐにその考えは打ち消した。確かに鏡が壊れてしまったところで、明自身は困らない。『道』がひとつでないのは、さっき感じたことであきらかだ。この鏡が使えなくなったとしても、いずみを行かせたもうひとつの方を使えば、充分目的を果たすことはできるだろう。俊己の言う通り後の始末は面倒だろうが、時と場合という言葉ぐらい彼も承知している。今この状況で鏡の鬼を追い払うことと、後の諸雑務をはかりにかければ、どちらを選ぶかはわざわざ質問してみるまでもない。
 しかし……既に半身をとり込まれている俊己をそのままに鏡を割った場合、自分はともかく彼は無事にすむと思えなかった。下手をすれば、俊己の肉体までも砕いてしまう。
 とっさに力をセーブした明の前で、俊己の頭が鏡面に没した。明にむけて伸ばされた腕が、その後に続く。
「俊己!!」
 叫んだ明の瞳に、光が点った。振り注ぐ柔らかな月光とは、質をことにする輝き。熱を感じさせ、眩く目を射る激しさを持つもの。
「さ ―― せるかぁッ!」
 怒号と共に光が膨れ上がる。
 そしてそれは、瞬時にあたりの闇を打ち払い、全ての存在をその内へと呑み込んで爆発した。


*  *  *


 視界の端で鏡がひび割れるのを見ながら、俊己は死に物狂いで『俊己』にあらがっていた。とにかく自分ができることといえば、明がこちらに手を出せるようになるまで、なんとか持ちこたえてみせるぐらいしかない。さいわいこの『鬼』は、今のところ鏡に引きずり込もうとするだけだ。その先にどうしようと考えているのかは知らない ―― というかあまり考えたくない ―― が、当面いきなり喰いついてくるような真似はしなかった。
 もちろん、それでこちらに手加減をしてやるいわれはない訳で、そこは俊己も『オニ』の異名を持つ男だ。自分と同じ顔の真ん中に、ためらうこともなく肘鉄をぶち込む。さらに鳩尾みぞおちに膝蹴り。どちらも普通の人間が相手だったなら、洒落にならない力を込めている。
 しかし相手には、露ほども応えた様子はなかった。表情ひとつ変えぬままに、じわじわと俊己を引き込んでゆく。明が鏡から抜け出ようともがいているのは判っていたが、それが間に合いそうにないことも、頭の隅の方が冷静に判断した。
 抵抗虚しく、ついに顎が鏡に接した。口から鼻へと沈み込んで、とっさに呼吸を止める。せり上がってくる鏡面に、この状況で視界を閉ざす危険を理解しながらも目をつむってしまった。明が叫ぶ声を聞いた気がするが、それも定かではないまま、周囲から音が消える。そして……
 次の瞬間、あたりをすさまじい光が満たした。目を閉ざしていてもなお、目蓋を通して網膜に突き刺さってくる、圧倒的な輝き。圧力さえも感じさせる灼熱の奔流に、顔や手といった、むき出しの皮膚がちりちりと痛んだ。とっさに腕を上げ、顔面をかばう。
 その光に打ち払われるように、『俊己』が引きはがされた。全身にからみついていた腕がもぎ離され、耳ではなく、脳裏に直接響く悲鳴と共に、その気配が遠ざかっていくのを感じる。
  ―― 明?
 光のみなもとを見ようと、俊己は奇妙な浮遊感の中で身体をひねった。この光を放ったのが明であることは、疑う余地もない。後を追ってきたであろう姿を求め、目を開けようとする。しかし、わずかに上げた目蓋から差し込んだ閃光は、一瞬で俊己の瞳を灼いた。かざした腕もさして役に立っていない。目の奥に鈍い痛みを覚え慌てて顔を覆う。
 と、光はその発生と同じほど唐突に消滅した。まるでスイッチを切ったかのような急激な明るさの変化。そろそろと目を閉じたまま顔を上げる。周囲は暗闇に戻っているようだった。少なくとも、目蓋ごしに感じられるほどの明るさはない。そっと薄目を開けてみる。が、すぐに無駄なことだと悟った。
 視界は濃い紫の残像で塗りつぶされていた。あまりに強烈な輝きが、一時的に視力を奪ってしまったのだ。よほど明るさのある場所でない限り、しばらく何も見ることはできまい。そして、充分な光が存在しないことは、目を開く前から判っていた。
 俊己は内心でため息をつくと、ちらつく視界を再び閉ざした。それからおもむろに胸の前で腕を組む。
 肌にあたるねっとりとした重さのある質感。足下にもどこにも、体重を支えている物体が存在しないのにもかかわらず、落下感を覚えないこと。その他、目に頼らなくとも感じられる様々なことからしても、いま自分の置かれている場所が尋常な空間でないことは確かだった。鏡の内部だかなんだか知らないが、要は彼にとって未知の場所だ。無闇にひとりで動くことは、あまり得策ではない。
 たとえば、あたりを満たしているものが空気、それも酸素を含んだものであるのか。そんなことさえも自分には判らないのだ。とっさに呼吸を止めていたのが有益だったか、無駄だったのか、いまこの場で確かめてみたいとは思わない。
 少なくとも『俊己』の脅威は、ひとまず去っているらしかった。ならばいましばらくはこの場にとどまっていても、そう危険なことはあるまい。どうせろくに目も見えないこの状態では、明の方に見つけてもらうしかないのだから。
 そんな訳でその場に『たたずんで』いた俊己だったが、どうやら明が迎えに来てくれる気配はないようだった。それはあの鬼さえ追い払ってしまえば、あとは彼でもどうにかできるだろうということなのか、それとも他に何らかの事情があるからなのか。どちらにしても、待っているだけにはいかなくなりつつあった。
 ……さて、どうしたものか。
 息苦しさを感じながら、腕組みをほどいて掌を目の前に持ってくる。二三度まばたきをしてみると、視力はだいぶ回復してきていた。まだ完全に残像が消えているとはいえないが、それでもどうにかものは見える。
 さっそく周囲を見わたしてみた。
 予想通り、あたりはうす暗い。いや、暗いというのは正確ではないか。もう少し近い表現をするならば ―― あたりは一面灰色だった。
 くすんだ、明るくもなければ暗くもない、のっぺりとした灰色。どこまでも続くような、それでいて狭く閉ざされたような、何とも形容のしようがない空間だ。見わたすかぎり、何も存在していないように見える。上も下も、右も左もただひたすらに、灰色が広がっている。
 ここにきて、さすがの俊己も少々焦った。まさかこれほど何もないとは思わなかったのだ。せめてかすかな光のひとつやふたつ、見えてくれていてもいいではないか。
 急速に苦しくなってくる胸を押さえ、あたりに目を凝らす。何でもいい。わずかでも周囲と異なるものは見て取れないか。上を、下を、右を左をなめるように見まわす。
 俊己は思わずその場に膝をつきそうになった。
 上下左右、幾度も見わたして何の収穫も得られず、思わずうつむいた視界の隅 ―― 己の脇の下にそれはあった。何のことはない。背後わずか数センチの虚空に、姿見はただ静かに浮かんでいたのだ。
 そこには窓の外から校舎をのぞいているように、四角く切り取られた踊り場の光景が映っていた。つまり鏡の中から眺めると、こういうふうに見えるのだろう。裏側がどうなっているのか興味はわいたが、いかんせん息を止めているのも限界だった。
 鏡面から顔を出して ―― あるいは入れて ―― 大きく息を吐く。二三度あえぐように深呼吸して、ようやく落ち着いた。両腕を突っ込んで鏡面に手をつき、どっこらせっと全身を引き抜く。水から上がった時のように、いつもより強く感じられる重力と、軽い空気が心地よかった。足がつく床の存在も、ひどくありがたいものに思える。
「はぁぁ」
 両膝についた手で、へたりこみそうな身体を支えた。まったくひどい目にあったものだ。しばらくそうして息を整えつつ、あたりの様子をうかがってみる。どうやら状況は、鏡に引き込まれる前とさほど変わってはいないようだった。立入禁止の場所でかなり騒いでいた割には、誰かに聞きつけられた様子もなく、また新たな鬼が現れる気配もない。明の姿も見あたらなかった。
「……?」
 顔を上げて見まわすと、なんとなく違和感を覚えた。まだ目が回復しきっていないため、ほとんど真っ暗にしか見えない。が、見慣れたはずの校舎にどこか、妙になじまないものを感じる。
「気のせいか……」
 不審に思いながら、姿見の前を離れて踊り場を階段へと向かう。明かいずみが戻るまで、立ちっぱなしでいる必要もないだろう。とにかく腰を下ろして休憩したかった。違和感のもとなど、そうやってゆっくり考えてみればいい。
 しかし……『それ』に気が付いた時、俊己は自分が休憩どころではない状況に置かれていることを、否応なく思い知らされた。
 階段の向きが、逆になっている。
 踊り場から1階2階の廊下を見た場合、これまでは左側が2階に続く上りの階段、右側が1階への下り階段になっていた。ところが、今はそれが反対になっているのだ。つまり左が下り、右が上り、だ。二三段のぼって腰かけるつもりで歩いていた俊己は、危うく足を踏みはずしそうになり、たたらを踏んだ。愕然とした面もちで目の前の階段を見下ろす。
「な、に……?」
 しばし呆然と立ちすくんでいたが、はっと我に返ると後ろを振り向いた。さっき自分が後にしてきたばかりの姿見を、睨むようにして見る。
 闇に慣れない不自由な目にも、異常は充分に確認できた。
 踊り場の壁一面を占める、巨大な鏡。
 そのどこにも、前に立つ俊己の姿は映されていなかった。



 何度か道に迷いながらもどうにか昇降口までたどり着いて、俊己はうなりながら両腕を組んだ。見上げているのは、天井近くの壁に表示された校舎案内図である。丹念に図を眺め、ズボンの尻ポケットから生徒手帳をとり出す。
「なるほどねぇ」
 手帳に載せられた案内図と見比べて、ひとしきり感嘆の声を上げる。本来の案内図と『この』案内図は、見事な対称形を成していた。鏡に映った室内がどういうものになるのかは、立体で考えると訳が判らなくなりそうだったが、こうして平面図を並べてみるとはっきりする。いわゆる線対称というやつだ。平面図自体がまるまる裏返しになっているといってもいい。
「つまりここは、まさしく学園の鏡像といえる訳だ」
 ぱたりと音を立てて手帳を閉じ、結論する。
 鏡の内部に引き込まれた俊己は、出てくる場所を間違えてしまったのだ。
(迷子にしても、ちょっと始末が悪いな)
 実際、少しどころではないのだが。
 ここが本当にあの姿見の内部空間なのか、あるいは鏡を接点とした別の世界 ―― 異世界 ―― なのか、俊己には判断できないことだった。しかし普通の場所でないことは確かである。最初はそれこそ、ここにも自分達と同じように生活する人間達がいて、彼らから見れば自分こそが異世界からやって来た鬼と見えるのかもしれない、などとSFチックなことも考えてみたのだが、どうやらそういった事実はないらしい。
 窓の外へと視線を投げる。
 そこから見えるのは、中庭やグラウンドの風景ではなく、ただのっぺりとした一面の灰色だけであった。先刻まで漂わされていた、あの深みも厚みもあるようなないような、そんな空間。
 道々窓をのぞいた限りでは、校舎は四方をこの空間に取り囲まれているようだった。あるいはこのひと続きの建物だけが、その中に浮かんでいるというべきか。もっとも『外』から校舎そのものを見ることはできないらしく、確かに存在し位置的に目にできるはずの部分も、いっこうに見えはしなかった。あるのはただ、校舎の内側だけだ。
 何もない虚空にぽつんと存在する、鏡像のまなびや。そこに人間の気配はまったくなく、ただ形を写した内部空間だけが、がらんどうの空気を抱いてそこにある。
「仮想現実、か……」
 夕方、明が言っていた言葉を思い出す。
 まさにそんな感じだ。
 確かに現実。いかに非科学的であろうとも、これは厳然として目の前に実在している。
  ―― けれど、何かが違った。鏡像の校舎。鏡の向こう。そう説明すれば誰もがたやすく思い浮かべるであろうリアルさ、確かさを持ちながら、それでもここは違っていた。
 期待された怪異。幾人とない生徒達が作り上げてきた、虚構の共通認識。 それこそが七不思議の本質であったはずだ。ならばここもやはり、幻なのだろうか。幾多の心の内に共通して構築される、巨大な幻想。仮想現実。
「……まさかなぁ」
 あまりにおとぎ話めいた発想に、思わず苦笑してしまった。いくらなんでも空想がすぎるというものだ。確かに哲学だか心理学だかでは、民族意識だの集合的無意識だのといって、人間の心はみな奥底でつながっているのだとかいう考え方もあったはずだが、それを踏まえてみたところでうがちすぎに違いはない。いくら明達の異能いのうをも現実と認め、受け入れた俊己といえど、さすがにそこまで飛躍しようとは思わなかった。
「まぁ、いいさ。あとで明に訊こう」
 あっさりと考えを打ち切る。そもそもここがどういった場所なのか、結論を出せたところでどうなるものでもない。自力で脱出もできない以上、今できることといえば、さっき『外』で佇んでいた時とまったく変わらない。待つこと。ただそれだけなのだから。
 ロビーの隅に置かれたベンチへと、身を投げ出すようにして座る。深く腰かけ膝に腕をつき、背中を丸めた。長期戦に備えて楽な姿勢をとる。
 そうしてどれくらいぼんやりとしていたか。
 はたと気が付いてみれば、こんな非常識な状況下においてもあまり動じていない自分を発見する。己の図太さをかえりみて、俊己は思わず頭を抱えこんだ。とんでもないことに、『この程度の事態なら』許容できるぐらいには、慣れつつあるらしい。
 彼はかれこれ一年ほど前に明の秘密を知ってしまって以来、半ば巻き込まれるようにしては、何かと妙なことの多い学園生活をおくる羽目になっていた。明達にしてみれば、その能力や背景を知った上でなおそれまでと変わりなく接してくれることに、それなりの感謝と誠意を表わしているのだろう。その気持ちはありがたかったが、こうも頻繁にそういうことが起こると、いい加減勘弁してくれと言いたくなる。
 確かに最初の頃こそ疑う気持ちや好奇心、もの珍しさなどあったものだが、今では彼らの持つ能力や、常識では推し量れない不思議の存在を ―― もちろん場合によるが ―― 疑う気持ちはない。当然、不必要に面白がったり、恐怖したりしないことは言うまでもない。
「そういえば……彼女達は、どうだったんだろう」
 ふと思う。
 消えた二人、ことに初めにいなくなった森口鈴香という生徒は、本当にそういった不思議の存在を信じていたのだろうか。そして信じた上でなお、七不思議についての特集記事など書こうとしていたのか。
「もしそうだとしたら、けっこう度胸があるな」
 科学という既存の法則に従わぬもの。常識にとらわれた発想からは思いもつかぬことわりによって動く存在。そんなものに対してなんら対抗手段を ―― 俊己のそれは明といずみだが ―― 講じぬままに、自ら関わりを持とうというのだから。
 少なくとも原稿を読んだ限りでは、頭から否定しているようには思われなかった。そもそもこの種の問題に関しては、意見にきっぱりと別れができる傾向がある。ただ言葉の上でならともかく、いざそうではないかと思われる事態に直面した場合、おおむねは目の前で何があっても頑強にそれを認めようとしない者と、逆に枯れ尾花までもそうだと言って聞かない者とになる。そこには筋道だてられた思考などほとんどない。あるのはただ、理解しがたいものに対する恐れと反発、そして誰もが心の底に持っている、未知のものへの憧れのようなものだ。不思議のものにしろ、そうでないものにしろ、偽物もあれば本物もある。真偽やその善悪は、場合場合で違ってくるさ、と当たり前のことを当たり前のように考えている俊己のような存在は、むしろ珍しい方だった。
 はたして彼女達は、どんな考えを持っていたのだろう。前者か、後者か、それとも例外的な俊己と同じ考えか、はたまたもっと違ったそれか。
 何故だか無性にそれを聞いてみたかった。もしも二人が無事に見つかったならば、ぜひ。
「いや、だから……その前に俺が助けてもらえないことには、どうにもならないだろうが」
 その点をまったく案じていないあたりを自覚したところで、思考が元の位置に戻った。どうやら自分はよほど彼らを信じ、頼りにしているらしい。
 非常に、よろしくない事実だった。
「……さらわれたヒロインじゃあるまいし」
 思わずつぶやく。事態に手も足も出せぬまま、ただヒーローの助けを信じて待ち続けるお姫様。にっこり笑ってお礼さえ言えば、それで全てを許される役立たず。
 とんでもない想像ではあったが、奇妙にはまっているのも確かだった。自分の考えたことに、自分で情けなくなる。
 そう、男たるもの、いかに専門外のこととはいえ、黙って助けを待っているなどみっともないにもほどがあった。どうこう言い訳したところで、あの場に同席しようと決めたのは自分自身だ。危険は承知の上だったはず。多少予定外の事態になったところで、全てを相方に任せて座っているような真似など、情けがなさすぎるというものだ。
 ぐっと頭を上げて気合いを入れる。
 行方不明になった二人は、おそらくこの校舎に連れてこられたはずだ。まだ生きているかどうかは判らないが、探してみる価値はある。自分では助けることはできないにしても、居場所か手がかりぐらいは見つけてやろう。このまま足手まといの野次馬でなどいてたまるか!
 再び手帳をとり出して、さっき歩いたルートを確認する。そこを除いても、探すべき場所はいくらでもあった。
「よし」
 素早く簡単な手順を決め、手帳をしまう。そして彼は、勢いよく立ち上がった。


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