子供達が目を覚ましたのは、翌日の夕方も近い時刻になってからだった。
投与された麻酔薬のせいもあるのだろうが、それ以上に疲弊した心身に与えられた、温かい食事と柔らかな寝床が、その眠りを長く深いものにしたのだろう。
目を
擦りながらもぞつき始めた彼らへと、時おり用事に出ながらも可能な限り同じ部屋にい続けたリリが、優しく声をかける。
「ゆっくり眠れたかしら?」
途端、六人の子供はいっせいに跳ね起きた。
「あ、えっと……」
「ここって、きのうの ―― 」
きょろきょろと周囲を見まわすその仕草は、最初の頃に比べるとずいぶんと落ち着いたものになってきていた。
「気分はどう? 腕は痛くないかしら」
リリの問いに、子供達は互いの腕に貼られている白い絆創膏を見る。
しばし互いに目と目を見交わしていたが、やがてやや年かさと見える黒髪の少年が、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……もしかして、これ……取って、くれた……ですか?」
上目遣いでこそあったが、それでもまっすぐ顔を見て発せられた問いに、リリはあらと目を見開く。
そうして、いかにも嬉しいと言わんばかりに微笑んだ。
「ええ、そこに入ってたものは、全部取り出して壊したわ」
少年の表情が、ぱっと明るくなった。
「本当に!?」
子供達がどよめく。
一人が確かめるように絆創膏を指で押さえ、ぐりぐりと強く動かした。
「……ってー……ッッ」
「あったりまえだ! このバカ野郎!!」
悲鳴を上げた子供の手を、ニックが掴んで強引に引き剥がす。
とっさのことで荒っぽい扱いになってしまったが、それでもその子供はもう怖がることはなかった。
「ほんとだ! なくなってるぜッ」
仲間達へと振り返り、まくしたてるように告げる。
「やった……」
「……よかったあ」
子供達の何名かは抱き合って喜び、そして残りは表情を歪めたかと思うと、マットの上にうずくまったまま、ボロボロと涙をこぼし始める。
どうやら彼らは、自分達の体内に発信器が仕込まれているのを、知っていたらしい。
テーブルで書類整理をしていたリリは、椅子から立ち上がって子供達のいる方へと歩み寄っていった。
それからゆっくりとマットの端へ腰を落とし、上体をひねるようにして子供の一人を抱きしめる。
「よく頑張ったわね」
汚れた衣服や髪を気にすることもなく、胸のうちにしっかりと収め、頭や背を撫でてやる。
最初に口を開いたその年かさの少年は、しばらく腕の中で震えていた。が、やがて火がついたように泣き始める。
それを無言のまま許容するリリの傍らで、ニックもまたマットレスへあぐらをかき、他の子供達を撫でたり、膝に乗せて抱え込むようにした。
しばらくの間、室内には子供達の泣き声だけが響き渡っていて ――
§ § §
子供達が落ち着いたのを見計らって、リリが昨夜と同じように内線通話装置で指示を出した。
間もなく部下達が部屋を訪れ、温かい食事をテーブルへ並べてゆく。それと相前後するようにして、背後に銀狼の青年を従えた
人間女性 ―― シルバーとリュウも会議室へと戻って来た。
「あら、姉さま。作業とやらはもう良いの?」
リリの問いかけに、リュウが引いた椅子に腰を下ろしたシルバーは、腕から杖を外しつつうなずく。
「現状で行える部分は、目処をつけた」
例のごとく、感情の伺えない硬質な口調でそう告げる。
子供達の手術を見届けたあと、シルバーは情報収集などに取り急ぎ着手したいと言いだした。しかし持ち込んだ携帯用の端末だけでは、いささか処理能力が足りない、とも。
そこでリリは、普段はトッポの根城と化している、端末類が設置された一室へと彼女を案内したのだった。コンクリートがむき出しになった殺風景なその室内は、卓上も床も問わず、無秩序に置かれた機材が縦横無尽にケーブルで接続された、整然さとはほど遠い場所である。そこにある機材や回線とシルバーの端末を繋いで、好きに使ってくれと告げたのだ。
さっそく作業を開始した彼女に、リュウは当然のように付き添った。手術を終えたドクターはというと、診療開始時刻が迫っているからと、休憩もそこそこに白み始めた空の下を帰っていった。
そして運転手として駆り出されたトッポは、不在の間に占拠された
己が縄張りを見て、戻るなり唸り声を上げていた。が、どんな罵詈雑言も無視されているうちに、夜通し働いていた疲れに負けたらしい。しばらくすると壁に寄りかかる形で船を漕ぎ始めた。
なお昼近くに目を覚ましてからは、己が寝落ちする前と寸分変わらぬ姿勢で端末を操作し続けているシルバーの背中に、何やら思うところがあったのか。まだ不機嫌そうにしながらも、いくつもの素早く切り替わる画面や、淀みなく動くその手元を無言で観察していた。
二人分の食事や飲み物を運びがてら、時おり様子を確認しに行ったリリなどは、そんな状況を苦笑いしながら眺めていたりしたのだが。
「……先ほどドクターから、この子供達の遺伝子情報が届いた」
そこまでの解析をするには、さすがに診療所から動かすことのできない専用の機材が必要となってくる。そのためフェイは六人分の試料だけを採取し持ち帰っていた。それらをどうやら優先して検査してくれたらしい。
「……結果は?」
小声で短く訊いたリリに、シルバーはわずかに視線を伏せ、首を横に振った。
それはつまり、彼らがホーフェンゲインの市民権を持っていなかった事実を示している。すなわち帰る場所も、庇護してくれる大人も、身元を保証してくれる後ろ盾もないままに、この都市で生きる道を探すしかないということだ。
「難しい話は後にして、とりあえず食おうぜ?」
リュウと二人、さっさと料理を配膳していたニックが大声で言った。
子供達は、昨日とうって変わった態度で、素直にテーブルへと集まってくる。
「 ―― そう、だな。いただこう」
「ええ、貴方達もどうぞ」
リリが促すと、子供達は安心したように席へつき料理を食べ始めた。
「たくさんあるから、いっぱい食えよ!」
お玉を手に元気良く告げるニックに、まだ目蓋や鼻先が赤い子供らは、それでもつられたように小さな歯をむき出し、ようやく笑顔らしきものを見せたのだった。
§ § §
食事のあとで、大人はコーヒーを、子供にはジュースを飲ませながら、やっとまともに話を始めることができた。
とはいえ、子供達にもあまりはっきりとした状況は理解できていなかった。ただ拙い言葉で口々に語られる内容を繋ぎ合わせてみると、さほど予想から逸脱したものでもなかったのだが。
曰く、ホーフェンゲインで親も住む家もない
浮浪児として生活していた彼らは、ある日いきなり見知らぬ大人に声をかけられたのだという。
その大人は、彼らに住む場所と食べるものときれいな服をくれると言った。代わりに大きくなったら、仕事を手伝ってくれれば良い。それまではしっかり食べて運動もして、健康的に成長するように、と。
どう考えても胡散臭い話だったが、年端もゆかぬ子供達にはひどく魅力的に聞こえたそうだ。実際、商業の盛んなホーフェンゲインでは、一部の成功した金持ち達がイメージ戦略の一環や税金対策、そして未来の優秀な人材を前もって確保するため、そういった施設に私財を投じているという例も存在している。
まんまと話に乗った彼らは、本当に小綺麗な建物へと連れてゆかれた。空調の効いた部屋で、約束通り日に三度の食事と、華美でこそないがきちんと洗濯された、破れてもいない衣服を与えられる。施設内の掃除などはある程度させられたものの、それ以外の時間は自由にしていて良く。危険だからと高い塀の外に出ることこそ許されなかったが、代わりに様々な遊具のある広い中庭で、与えられたボールなどを使ってみなで遊ぶのは、とても楽しい毎日だったという。
そんな日々が続き、一ヶ月か二ヶ月か……もしかしたら半年ぐらいは経った頃だろうか。仲間の一人が、突然いなくなった。
ときどき行われる、健康診断というものを受けたすぐ後で。大人に話を聞いたところ、彼は病気になっていたから、こことは違う場所で治療を受けることになったのだと説明された。
それからも、気がつくと仲間が減っていたり、あるいはまた同じように連れてこられた子供が増えていたりもした。
その頃になると、何かがおかしいと言い出す者も現れてきた。しかし雨風に晒される路上で腹を空かし、盗みを働いたりゴミのようなものをあさりながら、時に大人に殴られ、薄い
襤褸にくるまって過ごしていたあの頃を思えば、その生活が天国にも等しいものであるのは確かだった。もう一度あの頃に戻れと言われるぐらいならば、少しぐらいの違和感からは目を背けることしかできず。
そうして、漠然とした不安を抱きながらも日々過ごしていた彼らに、やがて転機が訪れる。
いつもは子供達以外、決まった顔触れの世話人がやってくるだけだったのに、その日は違った。早く寝るようにと、わずかな常夜灯だけ残して明かりを消された建物に、見たことのない人物が現れたのだ。
彼らが眠るのは、寝台が8つずつ置かれた大部屋だった。それが廊下沿いにいくつも並んでいる。そんな部屋を、その人物はひとつひとつ回ってきたらしい。
口元に立てた人差し指を当て、『ナイショのお話をするよ?』と告げた相手は、とても不思議な空気をまとっていた。
薄暗いこともあって、髪や目は白っぽい色なのだろうな、ぐらいしか判らなかった。他に印象に残ったのは、とても整った顔立ちをしていたというだけ。
あとで他の部屋のみなと話し合っても、男だったと言う子もいれば女の人だったと主張する者もおり、歳をとった大人だった、いやまだ十七、八ぐらいだったと、印象がばらばらで全くまとまらない。
中には耳が尖っていたような気がする、もしかしたら
獣人種だったかもしれないという意見まで出たぐらいだった。
そんな年齢も性別も種族も不明な人物は、高くもなければ低くもない声で、彼らにこう語りかけた。
『ボクはニュクリテス』
『キミ達に、良いことを教えてあげる』
『ここはね、牧場なんだ』
『飼われているのは、キミ達』
『このままここで暮らしていれば、キミ達はみんな、【お肉】にされてしまうんだよ?』
と ――
§ § §
話が進むにつれて、ニックとリリの表情がだんだん険しいものに変じていった。
そして【お肉】という単語を耳にした瞬間、二人は何かをこらえるように固く目を閉じうつむき、あるいは天を仰いだ。
「 ―――― ッ」
食いしばられた顎から、奥歯の軋む鈍い音が漏れる。
この二人には、その言葉が暗喩しているものが何であるのか、説明されるまでもなく理解できたのだ。何故なら、同じように【肉】にされてしまった家族が、かつて存在したのだから。
込み上がる激情をかろうじて噛み潰した彼らは、子供達を怯えさせぬよう、懸命に平静を装う。
「その、ニュクリテスという人は、どうしてそんなことを教えてくれたのかしら」
「……気まぐれだって、そう、言ってました」
「あたしには、こうきしん、っていってたよ」
「どういうことってきいたら、ぼくらは知らなくていいって」
子供達が口々に話す。
「……よくわかんねえな。愉快犯ってやつか?」
気を抜くと眉間にできる皺を指で伸ばしながら、ニックが低い声で呟く。
気紛れや好奇心で、
幼子の生死に関わる内容へと踏み込み、しかもふざけた物言いで茶化しすらする。そんな行為を笑って流せるほど、彼らは悟っても老成してもいなかった。もし目の前にその人物が存在したならば、なにはともあれまず一発は殴ってやりたいところである。
「ぼく達も、よくわかんなかったけど……でも、あのままあそこにいたら、いつか殺されるんだなって、そう思ったんです」
年かさの、黒髪に褐色の肌をした少年が告げる。どうやらこの子供が、この六人の中で一番大人びており、リーダー格にあるようだ。それでも歳はまだせいぜい十を過ぎたかどうかという程度。その年齢の浮浪児にしては受け答えがしっかりしているあたり、元々はちゃんとした家庭で生まれ育ったのかもしれない。
発信機を摘出したあとの、二の腕に貼られた絆創膏をいじりながらうつむく。
そこに埋め込まれていたものを、彼らは『迷子札』だと教えられていたらしい。もし悪い人に
拐われたりして建物から出てしまっても、それがあればすぐに迎えに行ってあげるから、安心するように、と。
しかし自分達がいわば『家畜』なのだと聞かされれば、それが逃亡を阻止するための何かであることは、彼らにも想像できたのだろう。
少年は、ごそごそとズボンのポケットを探った。
取り出されたのは、薄汚れた紙切れだ。四つ折りにされた状態から、さらにポケットの中でもみくちゃにされたようで。もはや読めなくなる寸前の状態になっている。
「その人が、もし逃げたいならあげるって」
おずおずと差し出されたそれを、リリが受け取る。広げた紙面を、横から首を伸ばしたニックも覗き込んだ。
「これは……」
一読した二人が、訝しげに目を細くする。
それからシルバーへと手渡した。彼女もリュウと二人で目を落とす。
「 ―― 逃走経路と決行日時、そして密航すべきコンテナの指定か」
「ずいぶん用意周到よね」
「つーか、時間とコンテナまで書いてるって、これぜってー裏で手ェ回してんだろ」
「…………私が気になるのは、むしろこの、最後の部分なんですが」
リュウが指し示したのは、機械で
印刷された文面の中に、そこだけ走り書きで付け足された一行であった。
普通に読めば、それは広く知られたある古い歌の、一節を思い起こさせる文言だ。
旧世界で作られたというその歌は、連続する災害や大規模な事故、戦争などで大陸中が混乱に陥り、そして懸命に復興してゆく中で、忘れられることなく
口遊まれ続けてきた。
『希望の光を見つけよう( Look for the silver lining )』というその曲名と歌詞が、辛く厳しい時代にあって、
人間種・
獣人種を問わず、多くの者達の心を強く支えてくれたのだろう。
だからこそ、危険を押してでも行動を起こさなければ、遠からず生命を落とすに違いない子供達の、背中を押すかのように。あるいは励ましとも取れる言い回しを、書いている途中で何らかの邪魔が入ったのか。それとも単に『希望を』というように、一部省略しただけなのかもしれない。そう考えるのが妥当だろう。
しかし……
最後の単語が抜けているその一文を、字面のままに読み解けば ―― それはこういう意味とも受け取れる。
『 ――
シルバーを探せ』
今回の件に彼女が関わったのは、偶然の上にも偶然が重なった結果である。
子供達を見つけたのがニックとリリであり、伸ばしたその手を彼らが受け入れ、さらにはこの二人がシルバーと再会し、旧交を温めたあとでの出来事であった。
それらもろもろの条件が揃った結果、
銀の呼び名を使用する彼女が、現在この場に同席している。
そう思えばやはり、単なる偶然の一致と捉えるのが妥当なはずだ。
だが……紙面に記された内容は、かなり綿密なものである。
果たしてどうやってそれを成し遂げたのか。当の施設とされている建物はもちろんのこと、周辺地区一帯の構造や、人々の動きなどを入念に調べあげたその上で、組み立てられた計画だった。一例を挙げれば、指定された逃走経路は、単純に見ただけではかなりの遠回りになっている。しかしその途中、巨大な変電所の真下を通る下水内で、一定時間の待機を命じているのだ。子供達に埋め込まれた発信機が、すべて同じように狂っていたのはその為だろう。
その一点だけを鑑みても、この脱走計画 ―― というより脱走教唆と表現するべきか ―― が、細かい部分まで計算され尽くしたものであるのが垣間見える。
ならばわざわざ付け足されたこの一文もまた、何かしらの意味を持っているのではないか。
「…………」
無言になっている一同から、何かしら否定的な空気を感じ取ったのか。
少年はどこか焦ったように口を開く。
「あ、あの……ちゃんと、みんなで逃げようって、言ったんです。ぼく達だけじゃなくて、あそこにいた、全員で。でも、ほかのやつらは、ここにいたいって……お腹いっぱい食べられて、暑くも寒くもなくて、天国みたいなとこなのに、逃げるなんてバカじゃないかって……」
少年とその他の子供らは、自分達だけが逃げたことに罪悪感を覚えているようだった。故に大人達が不穏な気配を漂わせ始めたことで、非難されていると感じたのだろう。必死に弁明しようとする。
その様子に気がついて、彼らはこの件についての話をいったん打ち切ることにした。
四つ折りの紙片はシルバーがそのまま懐に収め、リリとニックが子供達へと向き直る。
「貴方達に怒っている訳じゃないのよ。むしろ貴方達は、とても良い判断をしたと思うわ」
「そーだぞっ。おまえらはすげえ! よくまあちゃんと、書いてあった通り失敗せず逃げれたなっ」
えらかったぞ! と、ニックが小さな頭を順にぐりぐりと撫でてゆく。
まったく裏の感じられないその笑顔に、子供達はほっとしたようだった。
「……お前」
シルバーが、褐色の肌の子供へと不意に声をかけた。
びくりと肩を跳ね上げた少年は、恐る恐るといった風情でシルバーの方を振り返る。
「名は?」
「え、えっと……」
戸惑うように口ごもる少年へと、言葉を続ける。
「お前の市民権は、死亡扱いで3年前に失効していた。だから、今はなんと名乗っているかと訊いている。それともこう訊くべきか。お前は、なんと呼ばれたい?」
「え……なんでぼくの、こと……」
「昨夜ドクター・フェイ……この街の医者が、お前達の手術をするついでに遺伝子情報を採取し、解析した。その結果を、ホーフェンゲインの住民記録と照らし合わせただけだ」
お前以外の五名は、該当する記録自体が存在しなかったが、と。
シルバーは当たり前のように告げるものの、少年を含めた子供達は混乱しているようだった。そもそも他都市の住民記録など、その権限を持たない一市民が、勝手に閲覧できるはずもない。リュウもニックもリリも、その点については今さら突っ込みなどしないが、当然ながら極めて高度な技術の賜物かつ、完全なる違法行為である。
「テ、テジュン、です」
「そうか。私は、セルヴィエラ=アシュレイダという」
「せ、せる、ら……」
「 ―― シルバーで構わん」
発音しにくい名に舌をもつれさせる相手と、略称の使用を許可するシルバー。もはや初対面時には恒例となっているやり取りだ。
しかし彼女の名乗りを聞いた子供達は、一様にその表情を明るいものに変える。
「シルバー?」
「しるばーだって」
「見つけた?」
「みつかったんだ!」
互いに顔を寄せ、小さな声で確かめあっては、握りこぶしを作る。
どうやら彼らは、あの紙片の一文を書かれていたそのままに受け取っていたらしい。
それなりに有名とはいえ古い歌など、路上で生活していた子供が知っているとは思えない。それ以前にそもそも、文字の読み書き自体ができているかも怪しいものだ。おそらくは黒髪の少年 ―― テジュンが内容を読み上げ、他の子供達はそれを聞いただけなのだろう。
彼らは目を輝かせて、シルバーの方を注視した。そこには喜びと期待の光が満ちている。
「……死亡を取り消す意志は、ない。そういうことだな」
「はい。もう、帰る場所は……ないから」
ためらいがちにテジュンはうなずく。
どうやらシルバーが調べた失効済の市民権に記された姓名と、彼の名乗ったそれは異なっているようだった。
シルバーはそのことに関しては、特に思うこともないようで。口唇を指でなぞりながら、しばし思案する。
「ならば、事前準備が必要だ。2、3日……いや、36時間もらえるか」
「えっと……どゆこと?」
首を傾げるニックに説明する。
「この街で里親を探すにしろ、養護施設へ入れるにせよ、市民権の取得は必須となる。しかし他の五名はともかくこのテジュンは、このまま手続きを行えば、遺伝子情報を登録する時点で確実に引っかかる」
「そうなの?」
「ああ。多重登録や犯罪者の身元詐称を防ぐため、過去の記録との照合が行われるからな。それは死者や行方不明者も含まれる。特にホーフェンゲインは、ここから最も近い都市だ。確実にデータ共有されているだろう」
犯罪を犯した者が死亡を偽装し、新たに別人として生きようと考えるのは、よくある話だ。しかしそう単純にいくものではない。仮に困窮した者などから金で市民権を買い上げたとしても、カード型の市民証に登録された遺伝子情報が持ち主と一致しなければ、いくら整形などで外見を取り繕ってもすぐにボロが出る。公的手続きの窓口や携帯端末の生体認証設定など、日常の様々な場面で市民証と遺伝子情報の提示は求められる。そこでエラーが発生すれば、即座に当局に通報がゆき、詳しい調査がなされるのだ。
その結果、不正行為が発覚した場合は当然のこと、市民権剥奪の上で相応の刑罰が下される。
路上で浮浪児として生活する分には、遺伝子情報を必要とする場面などなかったのだろう。しかし改めて市民権を得ようとするならば、これは大きな壁となってくる。
「……それって、なんとかできるの?」
いくらシルバーが優秀なハッカーだとしても、ものには限度というものがある。
他都市の情報を一部覗き見するぐらいならばともかく、改竄をするとなると、難易度が跳ね上がるだろうことは門外漢でも想像できる。ましてテジュンの遺伝子情報が保存されているのは、一箇所だけとは限らない。市民権が失効する前に利用していた様々な施設や ―― それこそ彼が収容されていた『牧場』。そこを運営していた組織にさえ、記録が残っているはずだ。何しろ彼らは『そのため』に、集められていたのだから。
どこにどれだけ存在するかも定かではない、それらすべてのデータを消去するなど、3日どころか何年あっても足りないのではないか。
懸念する彼女へと、シルバーは表情をぴくりとも動かさぬまま、うなずいてみせる。
「問題ない」
短く答え、椅子を引いて立ち上がる。
突然の動きに、リリとニックは中途半端な中腰となった。リュウだけが続いて席を立ち、杖を装着するシルバーの背後へと控える。
「ペントハウスの機材を使う。車を出してくれるか」
「え、ええ。構わないけど……」
「ここで使った端末も、回収したい」
「じゃあ、トッポを呼ぶわ。そのまま運転もさせるから」
「頼む」
リリが内線をかけている間に、シルバーは一度、子供達の方へと視線を向けた。
瞳孔と虹彩の境目も判らぬほど、ひたすら黒く深い闇色の瞳で、テジュンを見やる。
「心配するな。悪いようにはしない」
「あ、あの、今さらだけど……その、なんで、ここまで……」
食事と睡眠をしっかりととり、ようやくそこまで頭が回るようになったのか。
まったくの赤の他人。初対面でしかない彼らが、どうして自分達にそこまで手間暇を掛けてくれるのかと、改めて疑問に思ったらしい。
その問いに、シルバーはふと視線を下げた。
睫毛が頬へとわずかな影を落とす。
「 ―― “Pay it forward.” 」
「え?」
「受けた恩は、返すものだ。返す相手がもういなければ、次の誰かにな」
どこか固い声で告げると、テーブルを離れた。そうして背を向け廊下に続く扉へと歩む。
リュウと通話を終えたリリもその後に続き、ニックだけが会議室へ残った。
部屋を出た三人は、その場でトッポがやって来るのを待つ。
「そういう言い方をするのね」
いい言葉だわ、と。
リリが口内で小さく、『ペイ・フォワード』と繰り返した。
その傍らで、シルバーが再び例の紙片を取り出している。緻密な計画に隅々まで目を通しながら、眉間に小さく皺を寄せた。
「ニュクリテス、か」
「……どなたか、心当たりでも?」
「いや ―― ただニュクリテスとは、古い西洋の言葉で〈蝙蝠〉を意味する単語だ」
「コウモリって……確か黒くて羽の生えた、でも鳥じゃなくてネズミみたいな形をしてる生き物よね。そんな規格の獣人種は、聞いたことがないけど……」
「私も覚えがない。単にたまたまそう名付けられただけなのか、これもまた何かを暗示した偽名なのか ―― この一文と言い、どうも思わせぶりだと感じるのは考え過ぎだろうか」
「…………」
沈黙して立ち尽くす三人の元へと、階下から駆け上がってきたトッポが近づいてくる ――
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