その日のヴァン=タープは、特に寝坊することもなく目覚ましを止め、時間通りにベッドから這い出すことができた。欠伸を噛み殺しながらばりばりと茶褐色の頭髪をかきむしり、洗面所へと向かう。
寝間着のままで顔を洗って歯を磨き、それからキッチンへ向かうと、すでに
義娘が一人で食事を始めていた。
獅子種のヴァンは、男やもめである。そろそろ四十に手が届く彼は、同じ年頃だった子持ちの虎種女性と恋に落ち、そのまま結婚までこぎつけた。しかし幸せな時間は短く、最愛の嫁はまだ幼い少女を残して、二年ほど前に病で他界していた。
診療所へ連れて行った時には、もう手遅れだったらしい。ドクター・フェイが深く頭を下げながら、せめてもと苦痛緩和の処置を施してくれた。そのおかげで彼女は、最期の最期まで苦しむことなく、ベッドの上で穏やかに笑っていることができた。ドクターには感謝こそすれ、恨む気持ちなど欠片もない。
ただ ―― まだ幼かった
義娘には、あまりにも早い別れだったのだろう。そしてまだろくに馴染みのないヴァンと二人で暮らしていくことにも、戸惑いが大きかったようだ。
それまでは母 ―― ヴァンにとっては妻 ―― が間に入ることで、ぎこちないながらもなんとかやっていたのだが、そんな彼女がいなくなったことで、彼らの関係はどうにも噛み合わなくなってしまった。
幸い、アパートの大家が面倒見の良い性格だったことと、ヴァンの収入が獣人種としてはそれなりに多かったことで、衣食住に関する不自由はさせていない……と、思う。いま彼女が食べているのも、大家が作り置いてくれた朝食を、自動調理機で温め直したものだ。
まだ八つの娘は、ヴァンが起きていようといまいと、毎朝そうやって一人で食べている。昼用の弁当も、夕食も、だいたい同じような感じだ。
―― 大家さんにまた、食費もろもろ渡しとかねえとなあ。
己も皿を自動調理機へと突っ込みながら、内心でため息を吐く。
「あー……その、最近、どうだ? 学校とか、勉強とか」
昨夜は予定外のトラブルがあり、帰宅した頃には彼女もとっくに寝てしまっていた。そういうことは特に珍しくもなく、全く言葉を交わさないどころか、顔さえ見られない日もしばしばだ。
これではいけないと、判ってはいる。嫁の娘は自分の娘に等しいと思っているし、関係の改善を試みたいのは山々で。
今朝もなんとか歩み寄れないものかと、そんなことを口にしてみたのだが。
彼女とよく似たわずかに緑の交じる
黄褐色の瞳をちらりと動かした娘は、口の中のものを飲み込むと、無言で皿を持って流しへと向かった。
そうして足元に置いていた通学鞄を肩へかけ、ヴァンに背を向ける。
「…………いって、きます」
「お、おう! 気をつけてな!」
母親が口を酸っぱくしていたからだろう。行きと帰りの挨拶だけは、それでもしてくれるのが幸いか。
返した言葉の途中で閉じてしまった扉を前に、ヴァンはいったいどうしたものかと、がっくり肩を落としたのだった。
§ § §
警備会社の事務室の扉を開けると、中を見る前に口を開いた。
「はよーッス」
そうすると室内からは、口々に答えが返ってくる。
それはどれも聞き慣れた声ばかりで。自宅よりもこの職場の方が、よほど居心地が良いと感じてしまうほどだ。
それが悪いのだと理解はしつつも、出勤してきたヴァンへと親しげに笑いかけたり、コーヒーを勧めてくる気心の知れた同僚達とのやりとりは、難しいことを考えずにすむのがとても気楽なのだからしょうがない。
「お、なんか変わったモンがあるな。何だこりゃ?」
ゴツくてむさい男どもがたむろする中、広く取られたミーティングスペースの中央。複数の図面を余裕を持って広げられる大きなテーブルの上に、いくつもの箱が置かれていた。厚紙製の平たいそれらは、既に蓋が開けられており、中身が見えている。
近づいて覗きこんだヴァンは、見慣れない物体に片方の眉を上げた。
なにやら赤黒い、それこそ固まりかけた血液を思わせるような、楕円形の物体がずらりと並んでいたのだ。別の箱には、同じような形状で薄い黄色のものも収まっている。そちらの方は表面が、細かい粉末で覆われていた。
「差し入れっすよ、ジグさんから」
口をもぐもぐさせながら、半分になった赤黒い物体を掲げて見せる若いのに、どうやら食べ物らしいと理解した。よく見ればその断面は白く、ほのかに甘い匂いもしている。菓子の一種なのだろう。
見た目は少々奇抜だったが、みな美味しそうに食べていた。
「けっこうイケるぞ」
「なんかこう、食べでがあるっつーか」
「腹に溜まりそうで、良い」
そんな感想に好奇心を覚え、ヴァンもひとつを手にとってみた。
思い切ってかぶりつくと、もっちりした弾力が歯を押し返し、続いて控えめな甘さが舌に広がる。想像以上にボリュームがあって、とりあえず噛み切った口の中は、その菓子でいっぱいになっていた。
顎を動かすと、もっちゃもっちゃという感触がする。
その粘り気と食べごたえは、以前どこだったかで口にした、『
お餅』とやらに近い気がした。しかしほとんど味がなく飲み込みにくかったそれとは異なり、周りをコーティングしている赤黒いペースト状のものが、いい感じの甘さと咀嚼のしやすさをもたらしている。
「こっちのやつは、白いとこが半分つぶつぶになってて、食感が面白いな」
「黄色い方は、甘いのが中に入ってるぜ。ちょっと粉っぽいけど、これはこれでクセになるかも」
「あ、この箱、塩味って書いてある」
「マジか!? くれ!」
それぞれに食べ比べながら、ワイワイと言い合っている。
身体を使う職業なせいか、この業界には意外と甘党が多い。中でもこういった腹持ちの良い差し入れは、特に好まれる傾向にあった。しかも甘いものが苦手な者向けに、しょっぱい系まで用意されているときた。
―― さすが、よく判ってる。
朝飯を食べたばかりだが、そこはそれ、これはこれ。自分も出遅れまいと2つ目に手を伸ばしながら、ヴァンはうんうんとうなずいていた。
数日前、
人間種の救出という、ちょっと変わった依頼で久々に組むこととなったニシキヘビ種の大男は、口数こそ少なかったが、そういうところに意外と気の回る男だった。
第一世代で、かつてはいろいろとありもしたらしいが、今は周囲と特に問題を起こすこともなく、この街でうまくやっている方だと思う。
その時、かちゃりという音がして、社長室の扉が開かれた。
こんな朝っぱらから来客かと視線をやれば、ちょうど
件の人物が出てきたところだった。ドアの枠に頭をぶつけぬよう、わずかに背を丸めながら出てきた
禿頭の男は、ニシキヘビの獣人ジグだ。本名はもっと長いのだが、面倒なのでこの職場ではみなそう呼んでいる。
「珍しいな。こんな時間にいるなんて」
夜間勤務を主とする彼は、この時間帯にはとっくに家へ帰り、睡眠をとっているのが常である。今日は仕事を終えてもまだ残っていたのか、それともわざわざ再び足を運んできたのか。
ヴァンが声をかけると、ジグは社長室内部へ綺麗な姿勢で頭を下げてから扉を閉め、こちらへ向かってきた。
そういうところできっちりしているあたりが、元・首輪付きだったが故なのだろう。少なくとも同僚達のほとんどは、あの社長に対し、あそこまで馬鹿丁寧な態度を取りはしない。
「 ―― 少し遅くなったが、改めて世話になった礼を伝えに来た」
「世話ってーと?」
「ああ。シルバーの……うちの
大家の件で」
ジグが口にした名称に、夢中で菓子を
貪っていた連中のうち、何人かが動きを止めた。
それは確か、先日の救出業務で対象となった、
人間種の名だったはずだ。ドクターからの依頼をまとめた書類にはそう記載されていたし、ジグも自身が住むアパートの大家で、己の保証人なのだと説明していた。
下手に重傷を負われたりあるいは殺されでもすれば、己の住居や市民権の存続が危うくなるのだ、と。普段は必要なことしか口にしないこの男が、いつになく力説していたのを思い出す。
しかし、前触れもなく
人間の名を、それも無造作な呼び捨てで聞かされた方は、たまったものではなかった。
中には菓子を喉に詰まらせたのか、唸りながら胸を叩いている者もいる。
「……お前な、いくらなんでも
人間を呼び捨てんのはヤベえだろ」
いちおう、形ばかりは声を潜めつつ、ヴァンはジグへと忠告した。たとえここには同僚と事務員しかいないとはいえ、どこでどう話が巡り巡るか知れたものではない。
人間種相手に告げ口をするようなもの好きもいないとは思うが、何事にも万が一というものがある。
しかしジグは、真面目くさった表情のまま、ヴァンを見返してくる。
「別に、普段からこう呼んでいるが」
「は?」
「正式にはセルヴィエラという名だが、長くて言いにくいからな。お前達だって、俺をいちいちジグラァトとは呼ばないだろう」
「って、呼び捨てどころか
略称かよ! あ、いやいやいや、そういう問題じゃなくてだな? 相手は
人間なんだぞっ!?」
ヴァン渾身の突っ込みに、しかしジグは目をすがめる。
砂色の虹彩の中で、爬虫類の瞳孔が針のように細くなった。
「シルバー、だ」
「え」
「彼女はうちの大家で、俺の保証人で……リュウの、あの銀髪の男の家族の、シルバーだ。いつまでも
人間人間と呼ぶな。それともお前は、誰かから
獣人種と呼ばれ続けても構わないのか」
押し殺したような低い声には、はっきりとした不快感が滲んでいた。
この男が、こんなふうに判りやすく感情を見せるのは、滅多にないことだ。
そういえばジグは、あの晩あの
人間女性に対して、ずいぶんぞんざいと言うか、不作法とも言える態度を取っていなかったか。幸いにも向こうがそれを咎めてくることはなく、極限状態で気にかける余裕もなかったのだろうと思っていたのだが。
改めて回想するヴァンをよそに、同僚達はどこか険悪な雰囲気をまとい始める。
まるで
人間を擁護するかのようなその発言が、気に食わなかったらしい。若い連中などは特に、あからさまに顔をしかめてジグの方を睨みつけている。
―― ともあれこれは、何かフォローを入れた方が良いかもしれない。
ただでさえ寡黙で何を考えているのか判りづらく、しかも夜間警備が主体で限られた相手としかシフトの合わないジグは、実績を重ねた古株である割に、親しくしている同僚が少ないのだ。
さて、どう仲裁したものかと考え始めたヴァンだったが、当人が口を開くほうが早かった。
「その菓子は、『
牡丹餅』という。幸運を象徴する、縁起物だそうだ」
唐突な言葉に虚をつかれたのか。重くなりかけていた空気がふと軽くなる。
「……ドクターからの依頼だったとはいえ、助けてもらったことに変わりはない。こちらからも礼をしたいが、無作法にならないのはどの程度かと訊かれたから、消えものが良いだろうとアドバイスしておいた」
その結果がそれだ、と。
みなが手にしている菓子を指し示す。
そう説明されて、何人かがごくりと音を立てて口の中身を飲み込んだ。他の者も恐る恐るといった風情で齧りかけ、あるいは掴んだばかりのそれへと視線を落としている。
「旨いだろう?」
ふ、と。
ジグの口角がわずかに上がる。
どこか得意げなそれは、してやったりといった表情に似ていた。
「……ちなみに、一般居住区から取り寄せた贈答用の品だ。くれぐれも残して腐らせたりするな」
もったいないから、と。
妙に意味ありげな口調が気になって、ヴァンは事務机に置いてある端末へと向かった。普段は仕事に使用するそれを
電脳回線へ繋ぎ、紙箱に書かれている店名と商品名を検索する。
「…………はぁっ!?」
思わず声が出た。
画面を凝視し、そうしてテーブルを振り返り、置かれている紙箱のサイズと数を確認する。
「ちょ、おま……これ……っ」
ヴァンの声が震えているのを訝しんだのだろう。数名が近寄ってきて画面を覗き込み、そのまま硬直する。
そんな彼らへと、言葉が続けられた。
「……『本来ならば、直接出向いて頭を下げるべき所だが、それではかえって迷惑になるだろう。
言伝てと物品で済ます非礼を詫びておいてくれ』とのことだ」
ぎ、ぎ、ぎ、と。
油が切れた機械のように振り返るヴァンらに、ジグは口元を覆って横を向いた。どうやら吹き出しそうになったのをこらえたらしい。
それから軽く咳払いをして、一拍を置く。
「あとは、そうだな。『何か力になれることがあれば、できるだけの助力はする』とも言っていた。―― 付け加えておくが、建前なしの言葉通りだ。なにしろ先日、俺が元飼い主に連れ戻されそうになった所を、わざわざ保証人名義を書き換えてまで阻止してくれた恩人だからな」
「え、連れもど……って、はぁぁあッ!?」
一体いつの間にそんなことが、というかもう、告げられた情報の量とインパクトがありすぎて、にわかには脳内で処理しきれない。
混乱している一同をよそに、ジグはテーブルへ近づくと、己も菓子 ―― ボタモチとやら言う、食い物とはとても思えぬ値がついたそれに手を伸ばした。そうして、何のためらいもなく口へと運ぶ ――
§ § §
「ただー、いまー……」
半ば惰性で言いながら玄関の扉を開けると、子供部屋から明かりが漏れていた。
どうやら娘がまだ起きているようだ。
今日は朝っぱらから多大な衝撃を受けたせいか、今ひとつ仕事に集中できず、ミスを連発してしまった。その後始末で、ただでさえ苦手な書類仕事が増えた結果、予定よりも帰宅が遅くなってしまったのだが。それでも娘に会えそうなのは正直に嬉しかった。
……たとえ、会話がうまく成り立たずとも、顔を合わせるだけでも少しは進歩がある……と、信じたい。
「お、宿題やってんのか?」
戸口からのぞき込むと、机に向かった娘がペンを手にノートを広げていた。
うちの子は真面目だなあと、己が同じぐらいの年齢だった頃を思い返して感心する。第二世代の彼は、首輪付きでこそなかったが、市民権を得たのは成人を過ぎてからであった。当然、学校には通ったことがない。ただ両親が警備用に作成されていたため、その種のことに関しては幼い頃から教えられていた。いわば英才教育の現場叩き上げである。逆に言えば、仕事に関係しないことに関しては、なんというかあまり言及してもらいたくなかったりする。
毎日決まった時間に学校へ通い、同じ年頃の
人間連中に囲まれて、言われた課題をこなしては帰宅する。それだけで充分に娘は頑張っていると思う。
同じ学校には
獣人種の子供も何人かおり、登下校などは待ち合わせて一緒に
行っているらしい。それでも虐められてはいないか、うまくやれているかと心配は尽きない。
「…………」
娘は視線だけをちらりと向けてきたが、すぐにまた手元へと戻してしまった。
いつもならそこですごすごと退散してしまうヴァンだったが、ふと彼女のノート脇に置かれているものに目が止まった。それは小さな紙の袋で、表面になにやら印刷されている。その模様と色合いに、どこか見覚えがあったのだ。
部屋へ踏み込んだヴァンに、娘は再び顔を上げた。まるで警戒するように、上目遣いで身を退き気味にしている。そのことに内心でへこみながらも、ヴァンは紙袋へ手を伸ばした。
「 ―― ダメッ!」
慌てたように止めてくる彼女の手をかいくぐり、小さなそれを手中に収めた。
「返して!」
娘が飛び降りるように椅子から立ち、片手でヴァンの服を掴んで精一杯の背伸びをしてくる。
つま先立ちでぷるぷる震えるその姿がとても愛らしくて、ヴァンは思わずその頭を撫でていた。そうしながら、もう一方の手の中身を確認する。
どうやら焼き菓子が入っているようだ。個別包装された菓子のひとつなのだろう。変わった
書体で『煎餅』と書かれている。娘にとっては手のひらサイズだろうが、ヴァンにとっては指先でつまめる小ささだ。ひっくり返して裏を見ると、目に入ったのはやはり、つい今朝がた見たばかりの特徴ある菓子店のロゴ ――
「…………これ、どうしたんだ? ティー」
こんな高級菓子を、たったひとつとはいえ、どうして娘が持っているのか。しばらく考えてもどうしても理解ができず、ヴァンは直接訊くことにした。
途端にびくりと身を震わせて服を離した彼女に、慌てて見下ろすと、怯えたような表情をしている。とっさにその場で膝をついて、視線の高さを合わせた。
「怒ってないぞ。怒ってないから、な?」
そうして焼き菓子の袋を、そっと差し出す。
娘 ―― 虎種の少女であるティーは、言葉の真偽を探るように、じっとヴァンの目を覗き込んできた。
こんなふうにまっすぐ視線を合わせてくれるのは、どれぐらいぶりだろう。思わずそんなことに感動を覚えつつ、嘘ではないと示すべくにかっと笑ってみせる。
それでようやく安心したのか、娘は両手で大事そうに焼き菓子を受け取った。
「……あの、ね」
「うん」
「もらったの」
「誰に?」
少し大げさなぐらいに首を傾けてみせれば、彼女はしばしもじもじとしたのち、口を開いた。
「…………シルバー、さん」
この時点で表情を変えなかった己を、ヴァンはものすごく褒めてやりたいと心底から思った。
全身全霊でもって笑顔を保ちながら、問いを重ねる。
「その人は、どういう人なんだ?」
「……ルディのとこの、大家さん」
今度は知っている名前が出てきて、少しほっとした。
確か、ティーと同じ学校に通っている友達だったはずだ。馬種の男の子だっただろうか。そういえば最近は何回か、その子のところへ遊びに行ってくると言って、出かけることがあった。もしかしてボーイフレンドだろうか。いやまだ早いだろう。けれど余計な口出しは……などとひそかに気を揉んでいたのは記憶に新しい。
と、そこで『大家』という共通する肩書きに気がついて、これはもう間違いがないと確信できた。
「あー……その、シ、シルバー……さんってのは、もしかして髪が長くて、黒くて、目も黒くて」
ぱちぱちと
瞬きするティーへと、最終確認を取る。
「それで、えっと、片足が悪い……女の……ヒト、か?」
一瞬、不愉快そうにしていたジグの様子が脳裏をよぎり、
人間種という単語をとっさに言い換える。
途端、ティーが驚いたように目を丸くした。
「おとーさん! シルバーさんのこと、知ってるの!?」
お父さん。
その単語がヴァンの
胸を撃ち抜いた。
そう呼ばれたのは、嫁が生きていた時、以来ではなかろうか。
ばくばくする心臓をこっそり押さえているヴァンへと、娘はさらに続ける。
「今日はね、帰りにみんなでシルバーさんちに行ったの。すごかったの! アパートのてっぺんで、広くて、窓とかもおっきくて」
こーんな、と。小さな身体で両手を広げてみせる。
両目を輝かせながらするその仕草が、もう可愛すぎて悶絶しそうになる。
「な、なにをしに、行ったんだ?」
かろうじてそう口にすると、きょとんとしたように首を傾げられた。
「遊びに行ったよ? あと、勉強もちょっと、教えてもらった」
当たり前のように告げられて、あれ、おれの感覚の方がおかしいのか? と己を顧みてしまう。
ほら、これ、と見せられたノートには、ティーのまだまだ拙い文字の合間に、すっきりと整った読みやすい、明らかに高い教育を受けただろう大人の筆跡が混じっていた。
「シルバーさんね、おとーさんと違って、頭いいんだよ! みんながどの教科のこときいても、ちゃんと教えてくれるし。わからなくても、怒らないで、わかるまで説明してくれるの」
なんだかさり気なくダメージを与えられた気もするが、娘の笑顔がとても眩しいので、気にしないことにしたい。
「……最初は、ちょっと……こわかったけど。でも、やさしいヒトだって、わかったから」
優しいという表現に、なんだかものすごく違和感を持ってしまう。
ヴァンが見た彼女は、まるで男のような言葉遣いをし、半グレどもを容赦なく気絶させ、修羅場直後とは思えぬ落ち着いた態度でジグと会話していた。頼もしいとか、格好良いとか、そういう感想ならまだ判らなくもないが、優しいという表現はどうもしっくりとこない。
けれど、
―― あの時は、近くに子供がいた。あんな小さな身体で大量に吸い込めば、最悪生命に関わる可能性もある。
不意に、脳裏に蘇る声があった。
あの、帰りの車の中で。護身用のガスを、なぜもっと早く使わなかったと、ジグに詰め寄られた時の答えだ。仮にも保証人に対して何という態度をとるのかと驚く己をよそに、二人はごく当たり前に会話を続けていた。
低く、平静な ―― 獣人種の半グレ連中に誘拐され、暴行を受ける寸前だったとはとても思えぬ、その声音。結果、運転していたジグはらしくもなくハンドル操作を誤り、己は盛大に肝を冷やす羽目となったのだが、まあそれはさておき。
一瞬で、屈強な獣人種を複数名昏倒させ、離れた場所にいた味方にさえ影響を与えた、劇物に近いだろう薬品。護身用のそれを、己の身を守るために使わなかったのは、近くに子供や病人がいたからだと彼女は口にしていた。
確かに、もしもあんなガスを、例えばこのティーなどが吸い込んでいたらと想像すると、それだけで背筋に冷たいものを感じずにはいられない。
けれど、あの女性が拐われたのは、ドクターの診療所でだという。つまり周囲にいたのは、全員が獣人種だったはずなのに ――
「それでね、シルバーさんが作ったっていうゲームも、おもしろかった! きれいな絵がいっぱい出てきて、それがいろいろに動いて……」
楽しげに、彼女のことを手放しで褒めまくっている娘の姿に、ちょっとばかり複雑なものを抱いたりもするのだが。
「あー、あのな、ティー」
「……なに」
せっかくの楽しかった話を遮られたのが不満だったのか。ティーの表情が、またいつものようにどこか一線を引いたようなものに戻ってしまう。
そんな彼女へと、ヴァンは恐る恐る言ってみた。
「お父さん、な。この間、お仕事でその人を助けたりとか……したんだ、ぞ?」
「え……」
「ほ、ほら。お父さんの仕事は、いろんな人や場所を守る、警備員だって教えたろ」
「う、うん」
「それでな、ちょっと前に、その……シルバーさんって人が、危ない目にあって……」
「あぶないって!? だいじょうぶだったのっ?」
「お、おう。大丈夫だったから、今日も遊びに行けたんだろ。お父さんと会社のみんなで、ちゃーんと助け出したから」
「どうやって? どうやって??」
身を乗り出したティーの手が、再びヴァンの服を握りしめていた。
正直、今夜だけで数ヶ月 ―― いや数年分の会話を、娘としている気がする。
そのきっかけとなったのは、紛れもなくあの
人間……いや、
女性のおかげで。
同僚の新たな面も見せてくれたあたり、あの女性についてはもう少し調べるなり、あるいは一度、娘が世話になっている旨、挨拶に行くべきなのかもしれない。
というか、ここまで娘を懐かせる、その手腕を是非とも伝授していただきたいのが、最大優先事項かもしれない。
ともあれヴァンは、予期せず降って湧いた娘との共通の話題に感謝を捧げつつ、久方ぶりの親子の対話をしみじみと噛みしめるのであった。
……なお、この時にシルバーが行った、警備会社の面々に対する謝礼であるが。
露天商のクムティや、協力をしてくれた【
Katze】の常連達、果ては診療所及びそこを訪れていた患者達へも、それぞれに考えた内容で行われたものの、ドクターを介して関わってきた裏組織にまでは、行き届いていなかった。
そのことがまた、ちょっとした悶着を起こす一因となったりするのだが。
それは、後日の話である……
(2022/08/07 16:20)
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