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 ぬえの集う街でVIII  ―― The past cannot be changed.
 第六章 事後処理と追いついてきた過去
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 毛布を羽織らせたシルバーを、ジグは警備会社が所有する車へと先導した。
 いつもの杖がないこともあり、最初は抱えあげて運ぶつもりでいたのだが。しかしリュウが離れようとしないため、それは断念せざるを得なかった。
 果たして支えになっているのか、どうなのか。寄り添うようにもすがりついているようにも見える形で、リュウはシルバーの肩へとその腕を回し、歩調を合わせている。
 やっと後部座席へ乗り込むと、二人は並んで背もたれへと身を預けた。
 どうやら多少は緊張を解くことができたようだ。
 負傷しているアヒムは、既に別の車で診療所へと搬送されている。ジグは運転席へとまわり、シートの位置とミラーの角度を、己の体格に合わせて調整した。そうしてエンジンをかけようとしたところで、助手席のドアが開けられる。
 断りもなく乗り込んできたのは、警備会社の同僚 ―― 獅子種のヴァンだった。
 さっさとシートベルトをかけた彼は、何をやってると言わんばかりに顎で発車をせっついてくる。
 ゆるさが先に立ちがちではあるが、仕事はきちんとこなす男だ。なにかしら思うところがあっての行動なのだろう。そう判断しつつも、ジグは第三者の存在を歓迎できなかった。
 余計なことは言うな、と。ひとまず視線で牽制しておいて、車をスタートさせる。

 車内には、しばし駆動音だけが響く沈黙が続いた。
 時おりバックミラーで様子を確認してみるが、二人とも言葉ひとつかわさぬまま、ただ肩が触れ合う距離で座っているだけだ。

 ―― いや、違うか。

 シルバーの太ももの上で、両者の手が重なり合っていた。先ほどまでと同じように、リュウの右手をシルバーの両手が包み込んでいる。
 隙間から見えるリュウの手は、力任せの慣れない殴打でいためたのだろう。関節部のあたりから赤く腫れ始めていた。場合によっては突き指をしているかもしれない。後でドクターに診てもらわなければなるまい。とりあえず救急キットから湿布を、と。助手席のヴァンにダッシュボードを開けろと要求しかけて、しかしジグは別の傷にも気がついてしまった。
 それは、白くこそあるがけして華奢とは言い難い、リュウの手指にあるのではなく。薄く黄みがかった象牙色の ―― 強気で男性的なその言動からは意外だと感じられるほど、ほっそりとした女性らしい、彼女の。
 右手の甲から指の関節にかけて、点々と。何箇所も赤い血が滲み出し、わずかに服や毛布を汚してさえいる。

 ぎり、と。

 ハンドルを握る手に力がこもったのを自覚した。
 たとえ今日は勤務日でなかったとはいえ、シルバーはれっきとした己の護衛対象だった。その彼女を、むざむざと連れ去られ、暴行されそうになり、そしてわずかとはいえ傷を負わさせた。その事実がジグの自尊心を激しく刺激する。
 そして、それ以上に腹立たしいのは、

「……さっきの煙が、護身用のガスか」

 努めて平静を装い、引き結んでいた口唇を開いた。
 声に応じて、ミラー越しに黒い目が向けられる。リュウの方は、うつむいたままで動こうとしない。

「 ―― ああ、そうだ。効果範囲と持続時間は限られているが、人間はもちろん獣人種でも昏倒させられる、強力なものだ」

 言いながら、彼女は重ねていた手の一方を持ち上げ、見えやすい高さに掲げてみせる。
 右手の中指に嵌められた、幅広の指輪が鏡に映った。銀色の金属に、四角くカットされた黒い石が埋め込まれている、印台指輪シグネットリングと呼ばれる意匠だ。男物に近い無骨な品であったが、それでもジグであれば、小指の先に押し込むのがやっとかもしれない。そんな、ちっぽけな指輪である。
 彼女の爪ほどの大きさがある石の表面には、大きな亀裂が入っており、所々は白く削れて、欠け落ちてしまっている部分もあった。
 血を滲ませるいくつもの裂傷は、その指輪を中心として散在している。

 ここ最近、仕事の関係で外出することが増えた彼女は、ジグに護衛を依頼した他にも、身を守るための手段を講じるようになっていた。そのうちのひとつがこの指輪である。
 護衛の仕事をする上で必要だろうと渡された資料によると、一見貴金属に見えるリング内部に、液体状になるまで高密度に圧縮された、催眠薬が充填されているとのことだった。そして黒い石に偽装したボタンを押すと、それが一瞬でガスと化し、周囲へ散布される仕組みになっているのだと。
 本来であれば、逆の手の指で操作する仕様だったはずだが ―― 長時間手首を縛られていたため、安全装置を兼ねて硬めに設定されているボタンを、うまく押し込めなかったのだろう。
 そして手ごと床へと叩きつけた結果、勢いが余ったと。

「…………」

 ジグは表情を変えぬよう、一拍を置いて呼吸を整えた。
 基本的な肉体能力も低ければ、普通に走って逃げることさえできぬ彼女にとって、その指輪は切り札と言える存在だったろう。仕様書を見せられたジグもまた、シルバーがまったくの丸腰でないことを歓迎し、いざという時の頼りとして計算に入れていた。

 それなのに……

「何故それを、もっと早く、使わなかった」

 ゆっくりと。
 できるだけ声に怒気が篭もらぬよう、一言一言を区切りながら口にした。
 それでも漏れ出るものはあったようで、隣に座っている同僚が小さく肩を跳ね上げた。どうせ、人間種ヒューマンの、しかも己の保証人に対してなんという口の聞き方をしているのかと、そんなふうに考えているのだろう。

 ―― 知ったことか。

 この、どこまでも不器用で、そして優しい規格外の人間ヒューマン女性について、手早く説明などできないことは、作戦実行前の打ち合わせでも明らかだった。ならばここでは、他にもっと優先するべき事柄がある。それに比べれば、己が他からどう思われようと、些細な問題に過ぎなかった。

「それを使っていれば、あんな連中に攫われなど、しなかったはずだ」

 ジグが言いたかったのは、ただその一点に尽きた。
 もしも診療所であの半グレ共に絡まれたその場で、催眠ガスを散布していれば。
 そうすれば彼女はこんな目に合うこともなく、ひいてはドクターが頭部を殴られることも、アヒムを巻き込むことも、常連やその伝手を頼っての大騒動に発展する事態にも陥らなかったのだ。
 たとえどれほど優れた道具を所持していたとしても、適切な時に適切な使い方をできなければ、宝の持ち腐れである。そしてシルバーは、まもられる存在としての心得をしっかりわきまえていると、ジグは常々評価していた。必要な際は護衛プロの指示に従い、勝手な判断や無謀な行動でこちらの仕事を邪魔しない、とても護りやすい人物なのだと。

 そんな ―― 一種の信頼とでも呼べるべきものを、裏切られたと感じた。

 ある意味それは、ジグの一方的な、エゴとも言える感情だ。
 獣人種が人間種に抱くべき想いでも、被保証者が保証人に、被雇用者が雇用主に持って良いものでもないかもしれない。
 それでも、

 ジグの言葉に、後部座席にいるシルバーは、わずかに首を傾げている。
 ゆっくりと一度、まばたきをする。その仕草は、何を言われているのか理解できていない時のそれだ。

「……拉致されたのは、診療所でだった」

 ややあって、そんな言葉が発せられた。
 そこに怒気や不愉快さはやはりなく、ただただ疑問の響きだけが存在している。
 この聡明な彼女が、どうしてこんなにも簡単なことを理解できないのだろう。苛立ちについ、瞳孔を針のように細めてしまう。

「だから?」
「こんな強力な薬物を、体調を崩している者が集まる場所で、撒き散らす訳には行かないだろう」

 一瞬、ハンドル操作を誤りそうになった。
 いや、半分ぐらいは誤っていただろう。助手席の方から、うぉっ!? という小さな叫びが聞こえてくる。
 跳ね上がった鼓動を懸命に落ち着かせながら、ジグは無言で進路を立て直した。ちゃんと表情を取り繕えていたかまでは、判らない。
 それほどに、告げられた言葉が予想外すぎたのだ。

「……特にあの時は、近くに子供がいた。あんな小さな身体で大量に吸い込めば、最悪生命に関わる可能性もある」

 後部座席にも不自然な揺れは伝わったはずだったが、シルバーはいっさい動じることなく、淡々と先を続けている。

 ―― 確かに。

 ガスが散布された、あの瞬間。命令に応じて息を止めていただろうリュウが立ち上がれなくなり、離れた位置で残り香を感じた程度のジグでさえ、軽く目眩を覚えたのだ。実際、突入した味方の中でも、風下にいた何人かは、巻き添えを食らってしまっていた。
 護衛や暴力のプロである屈強な獣人種達でも、一瞬で影響を受けるほどの強力な薬物だ。まだ身体のできあがっていない子供や、体調を崩して診療所を訪れた者達にとっては、劇薬ともなりかねない代物なのだろう。

 だがそれは、脆弱な人間種ヒューマンである人質の存在を考慮し、獣人種に対応した催涙弾などの使用を断念した、救出部隊と ―― 庇護すべき対象を守ろうとする強者達と ―― 同じ思考形態だ。

 キメラ居住区の有力者でもあるドクター・フェイからの依頼は、人質を可能な限り早く、できるだけ無傷で、助け出してくれというものだった。全員が幾度となく世話になり、これからも世話をかけるだろう医者からの頼みだ。誰も断ろうとはしなかった。それでも救出対象が人間種ヒューマンということで、一同の士気はけして高くなく。みなジグの立てた作戦に渋々うなずき、玩具に毛が生えた程度の炸裂弾のみでの突入を、仕方なくといったていで了承したのである。
 それが、他でもない『仕事』であり、『任務』であったからだ。

 けれど、

 シルバーが攫われた時点で診療所にいたという面々は、彼女にとって面識すらない者がほとんどだったはずだ。
 たまたま同じ時間、同じ場所に居合わせただけの、赤の他人。しかも全員が獣人種キメラである。それにそもそもシルバーは、こと荒事に関しては無条件で守られるべき立場に置かれるはずの、ずぶの素人で、足の不自由な、女性だ。
 それなのに彼女は、疑問すら感じることなく当然の判断として、あの場でのガスの散布を行わなかった。周囲にいる者達を、少しでも傷つけぬために。
 その行為が己の身にどれほどの危険を招くか、想像できなかった訳でもないだろうに。

「車に押し込まれてからは、下手に使えば大事故に繋がりかねなかった。車を降りて倉庫へ入ってからも、相手の数が多すぎてな。捕らえられたその時点で、アヒムを巻き込む未来を想定シミュレートするのはほぼ不可能だったが……とは言え、迷惑をかけてしまった」

 あの指輪は、あくまで最後の手段としての、一回使い切りだ。
 もしも一度の使用で全員を無力化できなければ、残った相手を逆上させるだけである。故に使い所が難しく、結果としてこういう事態まで発展する結果となってしまったのだと。
 あとでアヒムに、礼と謝罪しなければ。
 恐らく、初めて他人を殴ったのだろう。傷ついたリュウの右手へと再度、手のひらを重ねながら。彼女は独り言のようにそんなことを呟いている。

 助手席にいる獅子種の同僚は、そんな彼女をいつの間にか肩越しに盗み見ていた。オレンジ色の双眸に浮かんでいるのは、まるで珍獣でも眺めているかのような光だ。
 不躾なその目線に、後部座席の二人は気づいていない。

 まあ、シルバーに対する印象が少しでもましな方向に変化したのなら、それはそれでいいだろう。

 そんなふうに思いながら、ジグは改めて安全を心がけ、運転に意識を集中させたのであった。


§   §   §


 ―― まだ人通りの少ない、日暮れ前の時間帯。
 安酒を呑ませる店が建ち並ぶ通りの道端で、クムティは商売道具を広げ始めていた。
 そこは、数日前まで店を開いていた繁華街とは遠く離れた、全くの別方向にある飲み屋通りの一角で。行き交う人々の生活水準はだいぶ落ちているし、当然、装飾品などに興味を持つほどの余裕もあまりないようだ。
 せっかく支払った場所代、それにでき始めていた顔なじみや得意客を失うのは正直惜しかった。しかし流れ者の彼にとって、なんと言っても身の安全が第一である。
 売れ行きは少しばかり物足りなかったが、下手に目立ってまた厄介な輩に目をつけられるのも不味まずい。しばらくはこの程度で満足しておくしかないだろう。
 内心でため息をこぼしながら、派手な柄を織り込んだ敷物を石畳にべる。トランクを乗せて蓋を開ければ、内側は黒い布張りになっていて、留め付けてある耳飾りや首飾りなどをそのまま客へと披露できるようにしてあった。
 トランクの下半分側には、黒い布とクッションで何列もの隙間スリットを作って、さまざまな細工を凝らした指輪を挿し込んである。クッションの下に入れていた陳列用の板も数枚取り出し、折りたたみ式の脚を起こして脇へと立てた。そこにも同じようにアクセサリーを取り付けてある。さらにその手前には、腕輪やブローチ、髪飾りなどをバランスに気を遣いつつ配置していった。
 あとは彫り込みを入れたガラス瓶にかんざしを数本立てて、それから調整用の工具や部品パーツ類を、客の目が届かない、それでもすぐ取り出せる場所へと準備しておけば ――
 と、段取りを確認していた彼の手元に、ふと影が差した。誰かがそばへと近付いてきたようだ。

「あ、いらっしゃいま ―― ッ」

 反射的に笑みを浮かべて顔を上げた商売人の彼は、しかし営業文句セールストークを口にするよりも早く、凍りついていた。
 見上げた先に立っていたのは、白と黒と茶がまだらになった髪を短く刈り込んだ、作業着姿の若者であった。頭や顔、両腕など、あちらこちらが包帯やら絆創膏だらけなのは、先日受けていた暴力のせいだろう。
 それでも、多少ぎこちなくはあるものの、動き回ることはできているようだ。その点ではクムティも、素直に良かったと感じたのは事実だったが。

 しかし、

 何故この若者、【Katze】の常連であり、あの人間ヒューマン女性を庇って袋叩きに遭ったアヒムが、こんな場所にいるのか。

 あの人間ヒューマン女性に、特殊な出生と別名 ―― すなわち大きな声では言えない過去 ―― を握られていると知って、クムティは即座に縁切りを選択したのだ。
 金を受け取ったからには仕方なく、彼女を拘束している縄に切れ目を入れ、あの倉庫へとジグら関係者を案内もした。しかしそのあとは、夜が明ける前にさっさとねぐらを引き払い、まったく別の場所にある安アパートへと居を移した。所場ショバを変える際だって、誰にも断りは入れなかったし、そもそもこの飲み屋通りは以前に店を広げていた繁華街と、【Katze】を挟んでほぼ真反対に位置している。突き止めるにはそれなりの時間と労力を必要とするはずなのに。
 特別敵対もしなかったのだから、よもやこんなにもすぐ手を回してくるとは思っていなかった。
 内心で冷や汗を流しているクムティの焦燥を、知ってか知らずか。アヒムはどこかきまり悪げに、絆創膏に覆われた頬など掻いている。
 そうして、もう片方の手で抱えていた、大ぶりの封筒を差し出してきた。

「その、これ ―― オーナーから、あんたに渡してくれって、頼まれたんだ」
「お、オーナーって……あの、黒髪の……ヒト、ですよね?」

 周囲の耳をはばかり、『人間ヒューマン』という単語をうやむやにして問い返した。
 すると、ん、という軽い肯定が返される。

「なんか、お礼だって言ってたけど」

 それは、ノートが入るほどの、素っ気ない事務用封筒だった。厚さはかなり、ある。
 なかなか手を伸ばさないクムティに、焦れたのか。アヒムは両膝を曲げてその場でしゃがみこんだ。視線の高さを同じにして、真正面から押し付けてくる。
 そこまでされてなお拒否すれば、いかに人通りが少ないとは言え、悪目立ちしてしまうだろう。
 仕方なく受け取ると、かなりの持ち重りがした。とっさに手元へ視線を落としたところ、軽く折り返しただけだった口の部分から、みっちりと詰まった紙の束が覗いている。
 試しに数枚、つまんで引き出してみた。

 それは、とても鮮明で高画質な、印刷物ハードコピーだった。

 初めて目にする精緻な装飾模様のサンプルパターンや、旧世界でも大昔と呼ばれただろう時代の豪奢な装飾品の写真などが、詳細な解説付きで紙面を埋めている。
 それは、クムティの創作意欲を強烈に刺激した。急いで残りも取り出そうとして、つい手元が狂う。
 ぶちまけるような形で敷物の上に広げてしまったのは、数十枚 ―― いや、百枚以上はある、色鮮やかな画像資料の数々だった。
 どれもこれも、新しいアクセサリー作りの参考になりそうで。クムティはもう、眺めているだけで心が浮き立ってくるのを感じた。指先が疼くとでも言うか、次々と湧き上がってくるアイディアを、すぐにでも形にしてみたくて、居ても立ってもいられなくなる。

 ―― とにかくまずは、メモ!!

 思いつきインスピレーションが失われぬうちに書き留めようと、とっさにトランクへと手を伸ばした。そうしてスケッチブックと筆記具を手にしたところで、ようやく傍らにいるアヒムのことを思い出す。

 彼は、あっちゃー、などと言いながら、散らばった資料を集めてくれていた。
 慌てて己も、汚損や紛失をしないうちに戻さなければと、まとめて揃え直す作業を優先する。しばらくは、カサカサという紙の触れ合う音が続いた。

「……その、オレ……ほとんど気ぃ失ってたから、よく、判んねえんだけど」

 やがて、アヒムは視線を手元に落としたままで、ためらいがちに口を開いた。

「なんか、あんたのおかげで助かったんだって、オーナーが言ってた。んで、本当なら顔見て直接お礼言うのが筋だけど、あんた店に来なくなったし。こっちから行って迷惑になると余計に悪いから、伝言ですまないって」

 そこまで言って、彼はようやく顔を上げる。
 紙を拾うために丸めていた背が伸ばされ、琥珀色の猫目が真っ直ぐにクムティへと向けられた。

「『ありがとう。助かった。何かあれば、できるだけのことはする。いつでも連絡をくれ』」

 その言葉遣いも声の抑揚も、明らかに彼自身のそれではなかった。おそらくは一言一句そのまま、あの人間ヒューマン女性が口にしたものをなぞっているのだろう。
 そうして彼は、深々と頭を下げる。
 その仕草もまた、同様であるのだろうか。
 まだら模様の短い髪に、癖ひとつない漆黒の長髪が重なって見える気がして ――

 反応を返せないクムティへと、アヒムはそのままの姿勢でさらに続けた。

「オレからも、お礼言わせてくれ。オレだけじゃ、オーナーのこと全然守れなかった。本当に、本当にありがとう!」

 その言葉に ―― 興味深い資料を前にして高揚していた気持ちが、すっと冷めてゆくのを感じた。
 半ば無意識のまま、腰が低い商売人の振る舞いを保ちつつ、口を開く。

「その……オレが何をやったのかって、あの……オーナーさん、は……」

 具体的な内容には触れず、言質を取られぬよう気を遣って。ただやんわりと水を向けてみる。
 もしこの若者が、余計なことまで知っていたならば。
 頭の中の冷静な部分が、感情から切り離された形で思考を巡らせる。

 けれど、

「え、隙見て助けを呼びに行ってくれたって」
「それ、だけッスか」
「他に何か?」

 心底不思議そうに呟きつつ、首を傾げて記憶を探っている。その態度からして、本当に何を訊かれているのか判っていないらしい。

 ―― つまり、

 クムティは考える。
 あの人間ヒューマン女性は、クムティが種族名を偽っていたことも、そして〈ムカシトカゲ〉という規格の特殊性についても、他言はしていないのだろう。
 同じように、〈千里眼ヴィルーパークシャ〉の名に関わる事柄も、また ――

 そうだ。
 もしそれらを、事前に聞かされていたならば。
 こんな、過去に一時期だけやんちゃをしていたという程度の若者が、己とこんなふうに平静な会話をしていられる訳がないだろう。
 まして現在は、至極まっとうな感性と倫理観を持っているらしい彼だ。知れば抱くだろう、嫌悪か、恐怖か、あるいは ―― 哀れみかもしれない感情を、ここまで見事に隠しきれるとは思えない。

 前触れもなく現れた縁を切ったはずの相手に、どうやら己は自覚していた以上の動揺をしていたらしい。

 そもそも ――
 あの人間ヒューマン女性 ―― シルバーとやらは、何故それらの情報を把握していたのだろう。
 クムティは改めて疑問に思う。

 〈ムカシトカゲ〉という規格についてだけであれば、まだ理解できなくもなかった。それはけしておおっぴらに公開されている内容でこそなかったが、ある種の立場にいる存在にとっては、それなりに必要とされる知識であるのだから。
 そしてあの、一種独特な雰囲気をまとう女性が、その『ある種』に属しているとしても、クムティはなんら意外には思わない。むしろさもありなんと、深く納得するだろう。

 問題は、〈千里眼ヴィルーパークシャ〉の方だ。

 かつて ――
 このレンブルグからはるかに離れた、遠い彼方の一都市で。
 自治政府の諜報員として製造、使役されていたクムティの、暗号名コードネーム
 数年前、その都市は急な政変クーデターに見舞われ、政治的権力は別の派閥へと一気に移行した。それまで権力を握っていた支配階級の人間ヒューマン達は次々と処刑されるか、あるいは更迭され、上層部は事実上の解体。人員がほぼ丸ごと入れ替わった結果 ―― 新たな為政者となった存在は、諜報というものの重要性も、〈ムカシトカゲ〉の特殊能力についても、まったく理解せずにいた。
 単純な戦闘能力自体はけして高くない諜報員達を、彼らは役立たずだと断じ ―― 適当に放逐、すなわち切り捨てたのだ。
 獣人種などろくな機密も知らぬだろうと、殺す価値すら見出みいださなかったその一点については、感謝していなくもない。
 おかげで物理的な『自由』を得たクムティらは、ばらばらに別れ、都市から都市へと流れ歩くことで、わずかに残るしがらみをもきれいさっぱり消し去った。
 もともと手先が器用だったクムティは、人当たりの良い露天売りの顔を駆使し、適当な都市で市民権を獲得。それで当時とは、完全に決別したつもりでいたのだが。

 しかしあの女性は、そんな過去を当たり前のように暴いてみせた。
 そうして諜報員としての〈千里眼〉へ依頼をし……そして今もまた、行方をくらまそうとした己を、たったの数日で見つけてアヒムを送り込んできた。
 その調査能力を思うと、背筋が粟立つような、底知れぬ畏怖を感じてしまう。
 もともと情報を扱うために生み出され、訓練されたクムティ達である。それだけに情報が持つ価値の大きさも、それを得るためにどれほどの手間暇や技術が必要なのかも、それなりに理解しているつもりだった。
 あの人間ヒューマンの『目』を振り切るには、所場を変えるなど生ぬるい。もはや他都市へ移動するより他ないのか。そう考えかけて、これまで他都市で行ってきたことを既に知られている事実に思い至り、どこにも逃げ場などないのだと実感する。

 ただ ―― 思うことは、他にも存在した。

「えっと、その……なんか聞かれたくないこととか、あったのか?」

 黙って考え込んでしまったクムティへと、三毛猫種の若者が、どこか気遣うような口調で問いかけてくる。

「こう言うと、アレかもしんねえけど……オーナーはそういうの、むやみに言いふらしたりとかはしねえから。安心していいと思うぜ」

 そう言って、彼はがりがりと頭を掻いてみせる。

「なんかオレも、やっぱ昔のこととか、いろいろバレてたっぽいんだよな」

 でもずっと、知らんぷりしててくれたみてえ、と。
 半グレ共の暴言を耳にすれば、彼が以前はあの連中の仲間 ―― それもかなり立場の低い存在 ―― であっただろうというのは、事情を知らなかったクムティにもあらかた察せられた。
 そんな相手と身近に接し、元は犯罪者であったことを知っていてもなお、あの女性はそれを一切匂わせることなく、ごく普通に交流を続けていたのか。
 照れたようにまだらの頭髪をかき回す彼の表情は、どこかさっぱりとしていて。

 クムティは、両手に持った封筒を、改めて見下ろす。

 彼を通じて彼女が届けてきたのは、金銭でもなにかしらの手紙でもなく。ただ、装飾品を作るために役立ちそうな、様々な資料だ。

 それは、諜報員である〈ムカシトカゲ〉の〈千里眼ヴィルーパークシャ〉に対しての、『依頼報酬』だとは思えなかった。
 これは露天売りの、自身の手で美しいものを作ることに情熱を傾ける、一介の職人に対する『お礼』なのだ、と。
 そんなふうに受け取ってしまうのは、希望的観測が過ぎるだろうか。

 いや、それとも……彼女にとっては、〈千里眼〉もアクセサリー職人も、同じなのかもしれない。
 どちらも同じ、獣人種キメラの ―― 〈トカゲ〉と自称する〈ムカシトカゲ〉の、クムティという存在。
 それ以上でも、それ以下でもないのだとしたら。

 資料を持つ手に、わずかに力がこもった。

「その……クムティ、だったよな? あの、オーナーはさ、態度はなんつうか偉そうなとこあるし、実際ものすごい人でもあるんだけど……だけど、さ……」
「 ―― ええ、判ってますって」

 口の端が、わずかに上がるのを感じる。
 それは意識して装った、商売人としての外面を整えるための、演技ではなかった。

「また今度、お店にうかがいますんで。あの店のカレー、めちゃ美味いッスし」

 そう口にして笑ってみせると、アヒムの表情が、ぱっと明るいものに変化する。

「だよな! 美味いよなあれ!!」

 道端でしゃがみこんだまま力説し始めた彼が、実はけっこうな頻度でカレーを注文していることも、まだ店に通い始めて間がないクムティはきっちり把握していた。

 ―― とりあえず、

 消しきれない過去を暴かれてしまったのならば。
 そろそろ向き合ってみるのも、また、一興かもしれない。
 そんなことを考えながら、クムティは訳ありの過去などほとんど感じさせないほがらかな若者を相手に、しばし様々なカレーの味付けについて、熱く談義を交わすこととなったのである。


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