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 ぬえの集う街でVIII  ―― The past cannot be changed.
 第五章 救出作戦
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ―― 複数の人質がいる状況下で、相手を制圧するというのは、これでなかなかに難しいものだ。

 装備の確認をしながら、ジグはそんなことを改めて考えていた。
 相手は半グレの集団だ。時に何をしてくるか読みきれないのが厄介とは言え、こちらはほとんどが戦闘のプロである。真正面から相手をすれば、苦労する要素などほとんどなかった。
 問題は救出するべき対象が複数存在していて、しかもそのうちの一人は、最良でも自力で走ることができないという現状だ。
 それでも人質が頑健な獣人種であったならば、制圧目標が油断しているところへ催涙弾か閃光弾でも放り込めば、簡単に片がつく。多少巻き込む結果となろうとも、すぐに手当てを行えば問題はない。それは囚われている者自身も、己の生命には代えられないと納得してくれるはずだ。
 しかし今回人質となっている中には、人間ヒューマンがいる。
 獣人種と比べて、はるかに脆弱な肉体しか持たない人間種。かつ女性だ。屈強な獣人種の、それも大男さえ無力化するほどの強さに調整した装備を使用した場合、あまりにも影響が強すぎる。下手をすれば、その場でショック死させてしまう可能性すらあった。
 いつもであれば、そんなことなど気にも止めなかったかもしれない。同じ集合住宅に住む、常連仲間の若者を救うためならば、人間種ヒューマンの一人ぐらい危険に晒したところでどうだというのか。特別な感慨もなく、そう切り捨てて終わっただろう。
 事実、協力を求めた警備会社の同僚達のほとんどは、最初の一発でさっさと無力化してしまえと、口を揃えて提案してきたのだから。
 それらを翻意させるのには、ずいぶんと苦労させられた。いかにもそれらしい言葉を尽くし、彼女がここで生命を落とせば、自分の住む家と、そして市民権の存続さえもが怪しくなるのだ、と。そう力説することでようやく、しぶしぶながらも納得してもらうことができたのだ。
 そうして用意したのは、花火に毛が生えた程度の爆発物。火を点けた数秒後に、細い紐で繋がれた無数の筒型の炸薬が、連鎖的に破裂して派手な音と少しばかりの煙を撒き散らす。ただの虚仮威こけおどし程度にしかならない代物である。

 ―― それでも、烏合の衆が相手であれば、注意を逸らすぐらいはできるはずだ。

 あとはそのわずかな隙を逃すことなく、要救助者を奪還するか、全ての敵を無力化すれば良い。
 やるべきことを再度認識し終えると同時に、装備のチェックも終了した。どちらも何も、問題はない。
 むしろ問題となるのは……

 ジグは無言で傍らにいる存在を見下ろした。

「…………」

 ジグのすぐ隣で真っ青な顔をして立ち尽くしているのは、銀灰色の髪に左右色違いの珍しい瞳を持った、銀狼種の青年だった。
 アヒムなどと比べればそれなりに恵まれた体格こそしているが、それでも荒事になどまったく縁のない生活をしてきたのだろう。その全身が小刻みに震えているのは、あまり視力のよくないジグにもはっきりと見て取れた。
 その様子を見るだに、本当に連れてきて良かったのかと、未だに迷いを消しきれない

 昼過ぎのこと。
 前触れもなくアパートの寝室へと飛び込んできた彼の勢いに、夜勤明けで眠り込んでいたジグは、とっさに手加減抜きの攻撃をしそうになったほどである。いくら建物全体の管理を任されている立場にあるとは言え、マスターコードなど使うより先に、インターホンを鳴らすなりドアを叩くなり、とるべき手段があるだろう。寝起きの頭を振りながらそう苦言を呈そうとしたジグに対し、リュウは聞く耳も持たず、いっきに理由をまくしたてた。
 かなり混乱し、理解しにくいそれではあったが、緊急を要する状況であることは把握できた。
 身なりを整えるのと並行して、己の勤務先へと連絡を入れ、当面集められる人員と装備を確認する。依頼主はドクター・フェイだと最初に断れば、社長もくだくだしくは言わなかった。
 それからまずは【Katze】へと顔を出せば、既にスイが先頭となって、情報収集を行う体勢を整え始めていた。そこでいくつかの打合せを行った後、診療所へと向かう。
 これほど怒気をあらわにしたドクターを見るのは、いつぐらいぶりだろうか。
 ついそんなことを考えてしまう光景に気圧されつつも、さらに情報交換を行った結果、なかなか洒落にならない事態が起きているのだと改めて認識する。
 ドクター・フェイが立て続けに連絡をとっている相手は、キメラ居住区内に存在する複数の裏組織、その幹部達であった。
 半グレ連中が行った暴挙を端的に説明し、情報あるいは人材か装備を寄越せと、いっそ高飛車なまでの口調で要求している。その合間にさらりと、己が頭部を強打されたことと、傷の具合如何いかんによっては今後の治療活動に差し障りが生じる可能性もある、などという内容を織り込んでいくのだから恐ろしい。あの言葉によって、もし仮にこの作戦が失敗し、半グレ共を取り逃がす結果となったにせよ ―― 彼らが無事逃げおおせられる未来は、皆無になったと確信できた。
 では情報が集まるのを待つ間に、自分は実務的な準備を整えよう。
 そう思って診療所を出ようとしたジグへと、銀狼の青年 ―― リュウが追いすがってきたのだ。
 自分もどうか、あの人のところへ同行させてほしい、と。

 はっきり言って、邪魔でしかなかった。

 戦闘訓練を受けたこともなければ、連携が取れる訳でもない。そんな人物を作戦行動に加えるなど、検討する価値すらない愚の骨頂な行いである。
 適材適所という言葉がある。いまリュウが取るべき行動は、シルバーが無事に戻ってきた際にすぐ心身を休められるよう、食事や寝室を整えておくことだろう。そうしてその時が来たならば、全力で世話を焼けば良い。それ以外の選択肢など、ないはずだった。

 けれど ――

 つい先日、ちょっとした行き違いから、シルバーの所在が数時間ほど不明となる事態が生じた。
 正確には、連絡が取れないと判明してから彼女の無事が確認されるまで、わずか一時間ほどしか経ってはいなかった。
 しかしその短い間に、この青年は恐慌状態に陥りかけていたという。シルバーを探して車を走らせていたジグは、その光景を直接見ることこそなかったが。それでも話を聞くだにひどい状態だったらしい。
 その後は、あれほど外出することに意義を見いださずにいた彼が嘘のように、休日のたび時間を取っては、地図を手にあちこちと歩き回るようになった。途中で知人と顔を合わせた際には、さまざまな質問をし、疑問の解消に努めているらしい。ジグも実際に何度か遭遇し、そうしている理由を聞いてもいた。

 ―― 同じ過ちを繰り返すまいと、為される努力は報われるべきだ。

 一度そう思ってしまったら、もう無下に追い返すことなどできなくなっていた。
 くれぐれも無理はするな。あくまで自分の身の安全を最優先し、できるだけ他の連中の後ろにいろ。お前の出番はシルバーが救出されてからだ。
 口が酸っぱくなるほどに言い聞かせて、勤務先にある中でも一番性能が良い、軽量かつ頑丈な防弾防刃装備を着用させた。下手に味方を攻撃されては困るから、武器は持たせていない。前に出すつもりもないのだから、防具だけで充分だろう。
 むしろたったそれだけの装備でさえ、似合っていないにもほどがあった。周囲から訝しげな目を何度も向けられているのが、当たり前すぎる。

 薄暗い倉庫街で、物音を立てぬようにしながら目標物を取り囲んでいるのは、ジグの同僚である警備員が5名と、あとはどこからともなく派遣されてきた、服装も装備もばらばらな獣人種が6名ほどだ。
 ドクター・フェイの依頼で来られた方々ですね、と。
 倉庫街の入り口近くで接触してきた彼らは、おそらくこの界隈を縄張りテリトリーとする、裏組織の構成員なのだろう。その風体こそそこらのチンピラと大差はなかったが、しかしきびきびとした動きは規律が取れていて、かなりの戦闘能力を備えた集団なのだと、詳しく尋ねずとも察せられる。

「……おい、本当に大丈夫なのか? そいつも、それからあいつらもさあ」

 小声で問いかけてきたのは、茶褐色の髪をあちこち跳ねさせた、ジグよりもわずかに年上の同僚だった。獅子種の彼 ―― ヴァン=タープは、腕力にも体格にも優れており、事務所内でもジグと一二を争うと言われている、優秀な人材だ。
 ただジグに言わせれば、いささか行動が力任せに寄っているのと、本当に必要な時以外はほとんど気を抜いているあたりが玉に瑕である。もっとも若い者達などは、そういった『ゆるい』部分が親しみやすいのだと、なにかあった場合は彼を頼りにすることが多いのだが。
 今もヴァンは、作戦行動直前とは思えぬ軽い仕草で親指を立て、リュウと周囲にいる構成員達を指し示している。
 普段は敵対することの方が多いだろう裏組織との、ろくに打ち合せもしないままの共闘。
 そのうえに、どう見ても戦闘には向いていない足手まといの同行だ。物申したくなるのは当然である。それでもあえてこの男が訊きに来たのは、そのゆるい態度でもって、空気を険悪化させないことを狙っているのだろう。

「リュウは俺が見ておく。人質を救出したあとに、付き添う者が必要だからな」
「そりゃあ、まあ……人間種ヒューマンの女なんか、いくらドクターの依頼だからって、おれらで面倒見るのはゴメンだけどよ」

 彼はぼやきながら、頑丈な合成皮革の手袋グローブを嵌めた手で、わしわしと己の頭髪をかき混ぜる。
 いろいろと誤解が生じているようだが、この場ではそれを正す余裕も時間もなかった。

「組の連中に関しては、気にするなとしか言えんな。それこそドクターの手配りした相手だ。彼らを疑うことは、ドクターを信じないと言うのと同じだぞ」
「う……た、確かに。そう、なるんだ……よな?」

 語尾が微妙に疑問形となっていたが、それでも得心は行ったようだ。
 ちらちらとこちらへ注意を向けていた他の同僚達も、視線を目標物の方へと戻す。
 するとちょうど、様子見に出ていた二人が戻ってきたところだった。ジグの同僚と組織の構成員と、双方から一名ずつを出して、目標となる倉庫の内部を探りに向かわせたのだ。

「おい、少しばかりマズイぞ」
「急いだほうが良さそうだ」

 どちらがどちらに向けるともなく口を開く。

「あいつら、人間ヒューマンの女を玩具おもちゃにするつもりだ。つい今しがた、引きずり出された」
「…………っ」

 一瞬、視界が赤く染まったかと思えるほどの激情が、ジグの中に沸き起こった。
 しかし傍らでリュウが引きつったように喉を鳴らしたのを聞いて、己が逆上してどうするのかと反省する。そうして意識して息を吐き、無理やり気持ちを落ち着かせた。

「人数と配置は」
「ざっと見て男が9人と女が3人。死角にもう何人かいるかもしれんが、多くても2、3といったところだろう」
「見える位置にいる奴らは、全員が倉庫の中央近くで人間ヒューマンを取り囲んでいる。もうひとりいるという三毛猫の男は、姿を確認できなかった」
「全員かなり酔っているようだが、少なくとも1人はナイフを所持しているのが見えたな」

 代わる代わる、必要な事項を報告してくる。
 どうやら一刻の猶予も残されていないようだったが、手遅れという訳でもなかったようだ。それにその人数であれば、力押しで充分に行けるとジグは判断した。

「 ―― プランA。打ち合わせ通りに行くぞ!」

 言いながら炸薬の束を鷲掴みにし、一歩を踏み出す。
 身を低くして走り出すと、背後に同僚達も続くのが判った。足音はほとんど聞こえてこないが、そこは慣れ親しんだ気配だ。組織の構成員達の方は、ほぼ存在を感じられない。リュウの立てる乱れた足音と息遣いだけが耳をついたが、倉庫内の連中はそれを気にするような状態ではないらしいから、問題ない。
 発火機能が内蔵された炸薬の先端を親指で折り、地を蹴る勢いを上乗せして、思い切り前方へと滑らせる。
 半ば開いた鉄扉の間へと吸い込まれるように消えたそれは、一瞬の間をおいて、立て続けに破裂音を響かせ始めた。突然の音と煙に狼狽したのだろう。複数の男女の悲鳴が上がる。
 それを耳にしつつ、ジグは腰からワイヤー式の電撃銃テイザーガンを引き抜き、倉庫の中へと突進していったのだった。


§   §   §


 抵抗は拍子抜けするほどに弱かった。
 倉庫内にはこちらとほぼ同数の男女がたむろしていたが、みな自分達よりも少数の弱者に対して、一方的に暴力をふるった経験しかなかったのだろう。
 ろくに身構えることすらできないまま、ほとんどの者が数秒で拘束されるか無力化された。
 誤算だったのは、シルバーを抑え込んでいた者が複数名おり、突入後もまだ密着したままの状態でいたことだ。

 さらにもうひとつの誤算は、

 あれほど身の安全を最優先しろと言い含めておいたリュウが、前後の見境もないまま真っ直ぐ突っ込んでいったことである。

「待 ―― っ!」

 とっさに伸ばした制止の腕は、ぎりぎりで空を掴んだ。
 シルバーにのしかかるような体勢でいた男が、持っていたナイフをリュウへ向け、立ち上がろうとする。
 いくら防護服を着ていようとも、手首から先や顔面はむき出しのままなのだ。しかし止めようとするジグよりも早く、リュウはシルバーの元へと脇目も振らず、愚直なまでにまっこうから駆けていった。
 そうして ―― 振り上げられたその拳が、男の顔面へとまともに叩き込まれる。
 全身全霊を込めた一撃だったのだろう。
 中腰の不安定な姿勢になっていた男は、ひとたまりもなく上体を持っていかれた。折れた歯が数本飛び、落下した頭が鈍い音を立てて床へと激突する。1mほども滑った先で、男は白目をむき痙攣するだけの存在となり果てた。

 少し離れた位置で別のひとりを縛り上げていたヴァンが、小さく口笛を吹くのが聞こえた。

 ジグもまた、この温厚な青年がこれだけの真似をしてのけるとは、予想だにしていなかった。一瞬あっけにとられ、動きを止めてしまう。
 そのわずかな遅れが、致命的な事態を生んだ。
 シルバーの両腕を後ろから掴み上げていた男が、その身体を引き寄せるようにして盾とし、ナイフを引き抜いたのだ。

「てっ、てめえら! この人間ヒューマンを助けに来やがったのか!? なら ―― 」

 ブラウスが切り裂かれ、露わになっているその白い胸元へと、鈍く光る刃が突きつけられる。
 同僚達の反応は、正直に言って鈍かった。いかにドクターからの依頼とは言え、人間種ヒューマンを救出するという任務それ自体に、そもそもの士気が低かったのだ。
 途中、人質に獣人種のアヒムが加わったという情報が入ってようやく、真剣に動き始めたほどである。
 構成員達など、言わずもがなだろう。
 ちらりと様子をうかがえば、彼らも困惑したような表情で、一応は動きを止めている。
 男の行動に焦りを抱いているのは、ジグ自身と、あの一発で精魂を使い果たしたように肩を大きく上下させているリュウの、二人だけであった。

 しかしそんなどこか白けた空気を、力強い言葉が鋭く引き裂く。

「息を止めろ!」

 絶対的な、逆らうことなど思いも及ばない、その声音。

 たった一言を口にしたのは、刃を向けられている当の本人 ―― シルバーだった。
 胴体を抱え込むために解放されたその両腕の、手首をいましめていたロープが引き千切られる。彼女の細腕でそんな真似などできるはずがない。よく見ればその切り口は、あらかじめ半ば以上、刃物で切断されていた形跡があった。
 そうして自由になった腕のうち右の方を、シルバーは躊躇いなく振り下ろした。
 右手の甲が、コンクリートの床へと叩きつけられる。
 次の瞬間、彼女を中心として白い煙が爆発的に広がった。またたく間に半径数メートルを覆い隠したそれは、しかしものの数秒で色を薄くし、鉄扉の間から吹き込む夜風によって、吹き散らされてしまう。

 再び姿を表した者達の体勢は、数秒前と大きく変化していた。

 床に両膝と片手をつき、もう一方の手をこめかみに当てて頭を振っているリュウと、左手で己の口と鼻を塞いでいるシルバー。そしてナイフを持った手をだらりと下ろし、力なく俯いている獣人種の男。近くにはさらに二人ほど、半グレ共の男と女が倒れていて ――

 シルバーがわずらわしげに上半身を揺すると、ナイフを突きつけていた男は、抵抗する素振りもなく振り払われた。受け身すらとらず、棒のように床へとぶっ倒れる。その意識は完全に奪われていた。それは残りの二人も同様で、ぴくりとも動かないまま無防備に転がっている。

 指示に従い即座に息を止めていたジグは、念のため顔の下半分を袖で覆いながら、彼女たちの元へと歩み寄っていった。
 それでもかすかな刺激臭を感じたところで、一瞬だが平衡感覚に狂いが生じる。
 目眩にも似たそれをやり過ごしながら、想像していた以上の効果にただ驚き呆れる他ない。
 先程の白煙は、即効性の催眠ガスだと事前に説明を受けていた。かなり強力なものと聞かされてはいたが、屈強な獣人種を数秒で無力化するだけに留まらず、効果を発揮したあとはすぐに分解するよう調整されているらしい。まったくもって、とんでもない。
 わずかな残滓を吸い込んでしまったのだろう。風下の方にいた同僚達と構成員の何名かが、頭を抱えてふらついていたり、ひどい者だと崩れ落ちるようにうずくまったり、あるいは壁に手をついて身体を支えていた。
 至近距離にいたリュウもまた、いくらか吸ってしまったのだろう。慣れていなければ、息を止めようとする際に、まずは思い切り吸い込んでしまう傾向にある。シルバーの命令には無条件で従ったであろうリュウであっても、反射的な行動までは抑えられなかったらしい。
 まだ立ち上がることもできないようで、手と足で這うようにして、必死にシルバーの元までにじり寄ってゆく。

「……サー、ラっ」

 伸ばされた指先が、細かく震えている。
 シルバーは無言でその手を取ると、両手のひらで包み込むようにした。

「サーラ……ッ!!」

 まるでそれしか言葉を知らぬかのように。
 リュウはひたすらに彼女の名を ―― 彼だけに許されたそれを、幾度も繰り返す。
 己の右手を包む両手の上から、さらにもう一方の手のひらを重ね、そうしてその額をシルバーの肩へと押し付けるようにする。

 抱擁では、ない。

 触れているのは、ただ互いの両手と、あとは額と肩口だけだ。
 それでも ――

 小刻みに震える丸められた背中を、漆黒の眼差しが穏やかに見下ろしていた。

「……ああ、大丈夫だ」

 重なり合った手に、力を込めているのが判る。

「ブラウスが一枚、駄目になっただけで……間に合っている。私自身に、問題はない」

 落ち着いた静かな口調で、彼女はそんなふうに語りかける。

「サーラっ、サー、ッ……」
「大丈夫だ……大丈夫。落ち着け。ゆっくり息をしろ」

 名を呼びすぎて咳き込むリュウへと、冷静に言い聞かせる。
 そうして彼女は、ふとその顔を上げた。
 闇色の ―― 瞳孔の判別すら難しいその瞳が、ジグの方へとまっすぐ向けられる。
 あまりにもいつもと変わらないその姿に、ジグは何故か強烈な違和感を覚えた。
 しかしその感覚を掘り下げるよりも早く、シルバーが視線を外し、倉庫の隅へ積まれている大きな木箱を指し示す。
 紡がれる言葉はやはり、普段と同じ、低く落ち着いたそれで。

「あの向こうで、アヒムが意識を失っている。私を庇ってかなり暴力を振るわれた。早く診療所に運んでやってくれ。……頼む」

 ほとんど表情が動いていないその横顔から、それでも強い心配を読み取れる程度には、ジグも彼女に慣れてきている。

「あ、ああ……あんたも、すぐに診てもらわないと」
「いや、私は大事ない。軽い打ち身と擦り傷ができた程度だ。アヒムには感謝している。礼とは別に、治療費はすべて私が持とう」

 その言葉が嘘偽りなく、額面通りのものなのだと、ジグには理解できる。
 だからこそジグも、情報収集などのバックアップに回った【Katze】の常連達も、一切の躊躇なく彼女を助けようとしたのだから。
 しかし ―― 通常、拉致された上に複数名から性的暴行を受ける寸前だった女性が、こんなにも平然としていられるだろうか。
 もっと恐怖に怯え、錯乱さえしているのが当たり前だ。それなのに彼女は、逆にアヒムやリュウのことを気遣いすらしている。
 さらに彼女は、別の人物についてを口に上らせた。

「露天商の男と、行き合わなかったか」
「……ああ、会った」

 疑問はひとまず脇へと置き、質問に答える。
 短期間に【Katze】を複数回利用し、常連の一歩手前といった立ち位置にある若者の存在は、ジグも当然、記憶していた。それは客同士の交流からというよりも、己のテリトリーや警護対象に接近する新たな存在を、常に警戒し気にかけておくという、一種の職業病のような習慣からきている。
 それに、トカゲ種と名乗ったあの若者に、わずかばかり引っかかりを覚えもしたのだ。

 ―― わざとらしいほどに隙だらけすぎる、その立ち振る舞い。そして額の装飾からして、恐らくは……

 要人警護用の規格として叩き込まれた知識に基づく疑惑を、内心で確信へと変える。
 しかしそれは表に出さぬまま、シルバーが知りたがるであろう内容だけを口にした。

「俺達も、なんとかこの倉庫街までは突き止めたんだが、そこから先で行き詰まっていてな。虱潰しらみつぶしにするしかないかと話し合っているところへ、あの男が助けを求めてきたんだ」

 そもそもその露天商の彼が、問題の半グレ連中の仲間に連れて行かれたという証言が、ルイーザ経由で繁華街からもたらされていたのである。記者仲間や情報屋に連絡をとったディックの方からは、非常識な走り方をするワゴン車の内部に、黒髪の人間ヒューマン女性と三毛猫種の若者が押し込まれていたという目撃情報が提供され、さらにゴウマによって、使われなくなっている古くなった倉庫の一角が、彼らのたまり場となっているとの噂も得られていた。
 そして露天商の彼 ―― クムティもまた、ジグのことを見覚えていたのだろう。あるいは、一度見たら忘れられないだろう稀有な容姿をしたリュウの存在で、関係者だと気付いたのかもしれない。もしそうだったなら、彼を現場に連れてきたおかげで、余計な手間を取らずにすんだとも言えた。
 ともあれ、それらの要素が組み合わさった結果、両者は接触して即座に話が通じ、おかげでぎりぎり救助が間に合ったという経緯であった。

「そのあたりに ―― 」

 該当する倉庫まで、とんぼ返りの形で案内してくれた若者を探し、ジグが視線を巡らせる。
 しかし特徴的なあの目立つ風体は、どこにも見当たらなかった。
 彼と、開いたままで倉庫の床に放り出されていた、幅広のベルトがついた大きめのトランク。そして散らばっていたその中身と ―― 現在拘束されている最中の女達などが身に着けていた、商品である装飾品類。それらすべてがいつの間にか残らず消えていることを、ジグだけでなくその仲間や裏組織の構成員達も、まったく気づかずにいたのである ――


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